『 た べ も の 談 義 』


====生活の中で、なにげなく食べている”たべもの”について、書きつづりたいと思います。 ====

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 日本蕎麦(そば切り)

 2003年4月28日

長野県高遠町は、そば切りの発祥の地なのだそうだ。
この地にそばが植えられるようになったのは、住職が飢饉に喘ぐ村人を救おうとそばの実を持ち帰ったのが始まり。
お湯で溶いて食べるのが一般的だったのを、水でこねて延ばして細長く切るという「そば切り」のかたちで食べるようになったのは、高遠からと言われている。
高遠ソバは、焼き味噌と大根おろし、刻みねぎで食べるのが特徴だが、しばらく途絶えていた。
高遠町では、高遠そばを復活させようという動きがでて、地元の熱意と努力で、”高遠そば”という、”辛つゆ”のそばが甦った。
ところが、高遠で途絶えた”辛つゆ”のそばが、はるかかなたの”会津地方で食べ続けられてきた!!”。
高遠は、信玄の妻、諏訪氏の一族の高遠氏が支配していたが、高遠氏は信玄により滅ぼされ、その武田氏も信長により滅ぼされてしまう。
家康は旧武田の将兵を積極的に雇い入れる。 その中に、高遠氏、武田氏に仕えた保科氏がいた。
保科正光は、家康の東入りした際には、千葉県・下総の多古城(1万石)を与えられていたが、高遠を与えられ、戻ってくる。
正光は、秀忠の隠し子を嗣子として預かり、自分の後継とした。 それが、保科正之である。
正之は高遠藩3万石の譜代大名になったが、3代将軍になった家光は正之が自分の異母弟であることを知り、自分の補佐を命じ、山形藩20万石、さらに会津若松23万石の藩主に任命した。
このことが、会津地方の食文化に大きく影響することのなった。
保科氏は、その後、松平姓になったが、ご存じの通り、幕末の会津白虎隊で有名な会津若松城の落城まで続いた。
保科氏の山形そして会津若松の転封がこの地方へそばをもたらした。
高遠では忘れられた、”辛つゆ”のそばが会津に伝えられて、高遠そばという名で、食べられてきたというのである。
以上は、高遠のそばやで聞いてきた話であるが、会津若松に頻繁に行っていたが、大根おろしと刻みねぎでは食べた経験があるが、焼き味噌は記憶にない。
今でも、上記”辛つゆ”で食べているところが、あるのだろうか? 
ご存知の方は、教えてください。 ここに載せたいと思います。

貴方の投書をお待ちしています

大根おろしと刻みねぎというスタイルは、会津西街道の足利や三依、田島などで、よく見かける。
そういえば、大内宿では大根を箸代わりにして食べさせる店があるが、そのなごりなのだろうか?


 そば切り (2)

 2003年9月15日

そばは好きなので、各地でよく食べる。
そば切りという名をよく耳にしても、その意味を確認せず、過ごしてきた。
最近、木曽路11宿を踏破すべく、足繁く通っている。 信州はそばの産地としては日本一といわれるが、地味が悪いから”そば”くらいしかとれないのが主因と思っていた。
ところがそうではないようだ。
まず、そば切りであるが、そば切りはもりそばのことをいうのだという。 知らなかった。
先日入った寝覚の床の創業300年の越前屋では、壁紙にそば切りと蕎麦寿司がでていたが、そばの外郎みたいのものかと思っていたので、恥をかかないで済んだ。
”そば”は、もともとは、汁につけて食べたもので、最初はもりそばの1種類しかなかったという。
江戸時代の元禄年間に、汁をかけて食べる風習が生まれて、”ぶっかけ”と呼ばれた。 かけそばは、この”ぶっかけ”が語源である。
そば切りは、奈良の東大寺にはじまり、木曽路をえて、江戸に伝わっていったという。 
道理で、前述の”寿命そば”の越前屋や、町のくるまやなど、歴史のある老舗が多いはずである。
この2つの店もおいしいが、木曽福島駅から10分くらいで行ける日義村の水車屋のそばが一番好きだ。 創業は昭和43年と比較的新しいが、地元産の玄ソバと自家製粉にこだわり、打たれたそばは粒がこまかくまた、こしもあり大変良い。
特に、そば粉100%で打つ生粉打ちソバはなめらかな食感と抜群の風味である。
出雲そばは、5段の器に真っ黒い固めのソバが入っていて、器につゆを架けて食べるが、これがそば切りの原型なのだろうか?
前回の”辛つゆ”そばとの関連は分からないが、福井地方のそばの食べ方。
大根下ろしで食べるが、その中に、焼き味噌が入っているのか興味がある。
出雲ソバや越前ソバについて、おしえてください。 

貴方の投書をお待ちしています


 そば切り (3)

 2003年10月6日

先日、長野県塩尻市にある本山宿に行ってきた。
ここは、江戸時代の中山道の宿場の1つで、鉄道が通らなかったこともあってか、昔の面影が色濃く残っていた。
江戸時代の書物に、そば切りの発祥の地は、この本山宿であるという記載があるというのが根拠のようだ。
私は、冒頭のページで高遠がそば切りのルーツと紹介したが、信州を旅すると今回の本山同様に自分のところがルーツだと主張するところがまだまだでてきそうである。
江戸時代、信州の大名は、地元でとれたそば粉を将軍に献上したり、その他の大名や幕府要職者への贈答に使ったようであり 信州がそばの本場の名前が定着したのはその辺にあるのではないか?
また、信州の大名が全国各地に転封された際に蕎麦の実を持参しその地で普及させたことが全国に伝播したようである。
今回訪問した本山宿であるが、数年前まではそばを売る店はなかったというが、自宅ではそばを打ち食べていたという。
現在の店は、そうした人達が立ち上げた店であるが、地元の粉100%にこだわり、打ち上げたそばはなかなか美味であった。
薬味はわさびと大根おろしで、とうがらしなどの薬味は置いていなかった。 
最初、わさびを入れて食べたが、辛みが足りないので、七味を探したらないので、皿にある”大根おろし”に目が留まった。
私は天つゆにはおろしを入れるが、もりそばでは使わない。 皿に入っていたおろしの量もわずかなので、なにに使うのかと思っていた。
おろしをつゆに入れ、そばを食べたところ、かなり辛く味がよくなった。
高遠そばでも言っていた”辛つゆ”とは、このことなんだと分かった次第である。
少量でもからい大根だったのだと気づいたことだった。
つゆも甘味がないものだったが、味付けにはみそが使われていたのかも知れない。(もり800円)
そば粉を丸めてふかしたものに焼き味噌を載せたのは大変うまかった(2個150円)


 そば切り (4)

 2003年10月19日

前回、そば切りの発祥の地は、本山宿であると紹介した。
それに対し、もっと古くから木曽路にはそば切りがあったと主張するところを見つけた。
それは大桑村である。 大桑村には須原宿という木曽11宿の一つがあるが、そこにある”定勝寺”の古文書に根拠があるという。
天正2年(1574)の仏殿修理の際の記録に
『 「振舞ソハキリ金永」 という記述があり、金永なるものが「ソハキリ」を修理した大工に振舞った。』
とある。
「ソハキリ」 は、”そばきり(もりそば)”と思われるので、古文書の記載されている記述としては、須原が一番古いというのである。
もともとは、そばは自宅で打たれて特別なときだけ食べられていたと考えられるので不思議はないのだが、須原宿の建物が並ぶ通りには一軒も蕎麦屋はない。
国道まででると、結婚式も行える食べ物屋の隣に、「金永」という名の蕎麦屋が一軒あるだけである。
この店に、最初入ったときには店の名が変わっているなと思ったが、後日、上記の記述を見つけてなるほどと思った次第。
ただし、このお店はそんなに古いものではなさそうで、上記に記述にあやかってつけているように思えた。


 そば切り (5)

 2005年3月20日

 roshunante さんから以下のメールを頂戴した。 
 「そば切り」の歴史(参考) 
 天正 2年(1574年)  木曾街道勝原宿・定勝寺の古文書に、仏殿修復時に馳走として振る舞われたとの記述  
 慶長19年(1614年)  @ 贄川宿・尾張公の共をした、堀杏庵の「中山日記」の記述 
                 A 近江の国・多賀大社の社僧慈性が残した「慈性日記」江戸・常明寺にて食した記述  
 寛永20年(1643年)  「料理物語」の中で、そば切りの作り方を紹介  
 正保 2年(1645年)  俳諧書「毛吹草」による信濃の國の名物として「そば切り」を記述   
 寛文10年(1670年)  本山宿に、大名が宿泊の折りに献上した献立に記載  
 元禄10年(1684年)  東海道分間絵図・神奈川宿ほかに「そば切り有」の記載  
 宝永 3年(1706年)  「本朝文選」(後に、「風俗文選」)俳文集に、芭蕉の弟子・雲鈴が「そば切り・・・本山宿から」
という、例の話し。  
「そば切り」の記録に関しては、やはり、信州に多いが、他にも、島根県や高知県にも「そば切り」の記録がある。 
蕎麦が大量に栽培されたのは養老6年(722年)天正天皇の御代に、飢饉対策として栽培が奨励されたという記録が
「続日本記(ショクニホンギ)」にあり、今様な麺の形が出来たのは、おそらく、これ以降ではないかと思われる。 
 (備考1) 「常 明 寺」 江戸・常明寺に関しては、記録がなく、どこにあったかなど詳細は不明。
 (備考2) 「料理物語」わが国初の本格的料理書と言われるが、著者等は不明。

大変貴重な資料ありがとう御座いました。


木曽路のそば 

 2003年10月21日

木曽路のそばは全体的にうまい。
やはり伝統があるからかも知れない。
歴史的に古い蕎麦屋は、木曽福島町の”くるまや”と上松町寝覚の”越前屋”で、江戸時代から続く老舗。
伝統の味を伝えているのだろうが、味付けなどではもう1つしっくりしなかったのが、”寿命そば”の越前屋だった。 
アジには個人の好みもあるから問題というのではない。
それに対して、私はうまいとおもうのは日義村にある”そば街道旅籠そば水車屋”である。
昭和43年(1968)に、「健康と蕎麦」をテーマとしてお店を開かれ、以来三十余年ひたすら地元産の玄ソバと自家製粉にこだわり、そば打ちに心骨を注いできたというお店である。
基本は二八そばであるが、数限定で10割そばもある。
私はこの店が好きで、木曽駒高原にゴルフをしにいった帰りにはよく立ち寄ったものだった。
ざるそばは2枚重ねで1人前。それに、小さなそば饅頭とつけものがついている。 そばつゆにきざみねぎとわさびを入れて食べるというもの。 
変わっているのは、”はたごそば”
暖かい味噌汁にそばをつけて食べるものだが、具が10種類も入っていて、何が入っているかと面白い。 先日のは、サトイモの茎(ずいき)が入っていた。
また、味噌も4種類がブレンドされているとのことで、辛くもなくよい味をだしていた。 はたごそばは、この店の創作料理とのことである
その他、ぶっかけそばやにしんそばがあるが、そばメニュー以外はない。
あくまでも、そばにこだわっている店である。
本山宿のそば
前回訪れた本山宿のそばはうまかった。
もともと蕎麦屋をやっていた人たちではなく、自宅で打っていていた人が集まって始めたというのだから驚きである。
日本料理のように何年もの修業で技を会得するのと違い、そばの場合はそば粉と水。そして、打つひとの技量のトリオだろうから、ある意味では素人が進出できる分野なのかも知れない。
そばを打つ人のひたむきさが打った結果にでるような気がした。


ダッタンそばの秘密 

 2003年10月21日

ダッタンそばなるものが話題になっている。
ダッタンそばとはいかなるものか?。
ダッタンはモンゴル系の一部族の”タタール族”が語源らしい。
ダッタンそばは、中国雲南省や四川省の山岳地帯で古くから栽培されてきた。
ダッタンそばには、ポリフェノールの1種であるルチンヲ多く含むノデ、血管壁を柔軟にし、脳溢血を防ぐ効果がある。
即ち、ルチンには、血圧を下げる効果がありあるのだが、そばに対し、ダッタンは6倍から10倍も含まれているのだそうだ。
4年ぐらい前に日本にも入ってきたらしいが、健康食品として最近取り上げられるようになった。
日本ソバ粉に比べると、粘りけがないようで、繋ぎにうどん粉を多く使うという。
ソバ茶の他、パスタなどこれから日本人に合う料理を開拓して行きそうである。
国内でも栽培が始まったようなので目にする日が近いのではないか?
先日旭川で村興しに使っているとあった。


そばの味

 2003年12月1日

そば好きの人がそばの味についていろいろ語るが、その意味が分からない。
うまいものはうまいと感じるが、それが何故と問われると、はたと困ってしまうのである。
先日、信州の奈川(ながわ)に行った。 そして、そこで新ソバを食べた。
奈川村で産する蕎麦は、野麦峠の麓という地理特有の冷涼な気候と高冷地の地味により、良質なものができるといわれ、蕎麦通の間でも高い評価を得ている。 テレビの人気番組「どちらの料理ショー」の特選素材として紹介されたこともある。
村内には地元でとれた玄そばを使って手打ちそばを出す店が数軒ある。 また、ここでの変わった食べ方としては、”とうじそば”がある。
奈川名物”とうじそば”は、鉄鍋のつゆに椎茸、山菜、鳥、鴨肉を入れ、コンロで煮る。
小割したそばを投汁カゴにとり、鉄鍋のつゆで軽くゆがいて、お椀に移し、暖かいつゆをかけて食べるというものです。
しるに浸す(投じる)ことから”とうじそば”というようである。
つゆの旨みとほどよい温度がそば本来の味と香りを引き立たせるという。
先日、野麦街道を走るとき寄ってのが、”手打ち蕎麦の峠路”である。
新ソバが出たばかりだったので、ざるを頼んだ。
なかなかうまかったので、大盛りにすれば良かったと思ったが、その前におにぎりを食べていたので、目だけが要求したと思う。
新ソバが否かは小生には分からなかった。 新ソバ特有の香りといわれるのだが、臭覚が駄目なのか違いが分からないのだ。
食べた後に出されたソバ湯は真っ白でどろりとしていたが、新ソバの方が湯に溶けやすいのかと思った。
食べて美味ければよいと思っているが、出す方では違いが分かる方が張り合いがあるでしょうね!!


日野の蕎麦が日本一と蜀山人が絶賛

 2010年11月5日

先日、甲州道中の旅の途中、日野市の日野宿本陣に立ち寄ったところ、標記の表示を見付けた。
江戸時代の著名な狂歌師、戯作家だった蜀山人(大田直次郎)は、幕府の支配勘定方の役人でもある。  そうしたかれが仕事で日野宿を訪れ、脇本陣だった佐藤彦右衛門宅に三度逗留している。  三度目の訪問の出立の際のあわただしいところで、彼は主人の彦右衛門へ下記の狂歌を記した文書を手渡したというのがあった。 
 「 そばのこの から・天竺はいざしらず これ日のもとの日野の本郷 」 
蜀山人は文化六年(1809)三月二十八日の朝、日野本郷の名主、佐藤彦右衛門に急いでしたためた文章には、  「 ことし日野本郷に来りて、はじめて蕎麦の妙をしれり、しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく、素麺の滝のいと長く、 李白が髪の三千丈も、これにハすぎしと覚ゆ これなん小山田の関取ならねど、日野々日の下開山というべし 」 と記され、 その下に上記の狂歌が添えられていた。  蜀山人は日野の蕎麦を賞味し、はじめて蕎麦の醍醐味を実感してと感激している。  その蕎麦は信濃産の蕎麦粉を厳選し、玉川の水(玉のような美水)を加えて手打ちしたもので、 素麺の滝の糸のような細長さは李白の美髪も及ばないと絶賛している。 
蜀山人は 「 いかにして粉をひこ右衛門ふるいては 日野の手打ちもこまかなるそば 」 という狂歌も詠んでいるが、 この蕎麦は現在の更科蕎麦でないだろうか? 
調べてみると、更科蕎麦の原型は1750年頃には信濃に誕生していたが、 寛政元年(1789)に江戸麻布永坂町で、信州の織物行商人の清右衛門が麻布保科家に勧められて、  「 信州更科蕎麦処 布屋太兵衛 」 の看板を掲げて蕎麦屋を開店したとが始めとある。  また、信州には当時よりさらしなと名乗る蕎麦屋はあったというから、 それから二十年経た文化六年にはその製法や蕎麦粉は日野あたりにも伝えられてきていたのだろう。  更科が一般的になったのは明治以降というから、江戸時代には甲州道中の街道筋だけだったのかもしれない。  蜀山人は時代の先端の手打ちそばに触れたのだから、驚いたのもうなずける。  深大寺そばが有名になったのもこの甲州道中からの普及と関係があるのではないか?


 ラーメン

 2003年3月24日

2〜3年前からラーメンブームようだ。
ラーメンブームは、何年かおきに起きている。
 ラーメンなるものはもともと戦後生まれで、それほど歴史のあるたべものではない。 当時は、世の中が貧しかったこともあり、ラーメンを家族全員でお店に行って食べることは贅沢であり、そう度々行けるものではなかった。 その代わり、お袋がラーメン玉を買ってきて、湯に通し、ゆで卵や焼き海苔を添えて作ってくれた。 その日は、朝からうれしかったのを今でも覚えている。 幼いころ食べたのは、醤油味で、しなちく(めんま)、海苔、焼き豚そして、なぜか鳴門が入っていた。
昭和50年代に入って、札幌ラーメンのチエーン店が登場し、全国的なラーメンブームが起きた(第1次バブル時代)が、数年後にはブームが去った。 その当時、北海道に出張すると、札幌すすきの に寄り、バターらーめんや塩ラーメンを食べた。 ひぐまなどの有名店には列が出来、列ができる店はうまいのだろうと列の後に客が並ぶということも知った。
その後、博多ラーメン、鹿児島ラーメン、熊本など、とんこつ白湯スープがはやった。そして、ブームがさる。
次のブームはさっぱり系である。 喜多方ラーメンが一代ブームを起こす。 ご当地ラーメンの時代の到来である。 同じ系統として、白河、佐野などの縮め麺や青竹打ちの手打ち麺がもてはやされた。 その後、和歌山、尾道、飛弾高山、旭川などのご当地ラーメンが続く。 そして、第2次バブル時代が去った頃、食材のしらがねぎを売り物にしたラーメンが続く。 この頃、12チャンネルのチャンピオンシリーズで、ラーメン王選手権が放映され、麺だれの工夫に命を懸けてる人達がいることを知った。
今回のラーメンブームのきっかけは、ラーメン博物館での出店ではないだろうか。 ラーメン博物館は、地方で話題になったいるラーメン店を誘致し、食べさせた。 若い人達は、おいしさは地域ではなく、店固有の味にあることを知った、 そして、口コミで伝播していった。 そうした環境を捕らえ、腕に自信のある地方のラーメン店が東京に進出し、景気の悪さも幸いして安くてうまいラーメンは時代の花形(?)に躍り出たのである。 すなわち、店ブランドの時代の到来である。 一風堂を代表に今、東京にはぞくぞくと全国から強豪が集まっている。
しかし、98年から増え続けた全国の店数はこの1年横這い。 東京では減りつつあるという。 厳しい選択が始まったといえよう。
東京や横浜の厳しさに対し、地方ではこれからという感じもしないではない。
ラーメン不毛の地といわれた名古屋に、全国からラーメン店の進出が相次いでいる。 栄、名駅、大須などに、九州、北海道、東京といった各地の名店が出店。 深夜まで行列のたえない店もある。 名古屋人は濃い味を好むので、しゅうゆとんこつなど濃い味を特色とする名店の味が受け入れられたのではないかと地方紙は伝えているが、安ければよいと経営してきた地元ラーメン店の牙城を脅かすものか、興味のあるところである。
栃木県宇都宮市はぎょうざの町で、ラーメンを食べさせる店は数多い。 餃子は工夫している店があるが、ラーメンは今1つだった。 しかし、最近、うまい店が登場している。 ロマンチック村の近くの店は、開店前から列ができ、閉店まで客がとだえることがない。 また、旭川から進出した店も混んでいる。 東京で食べた若者が店を選び、口コミで伝わっているようである。 同じことが全国で起きているように感じる。 
なぜラーメンブームが起きたか。 私は、この不景気なご時世に、千円1枚で楽しめるささやかな贅沢としてラーメンが位置付けられたと見ている。 そして、料理人の立場からみると、日本料理と違い、ラーメンはシンプルなので、修業がなくても自分の味が出せる。 ラーメンは麺よりだしが重要だと思うが、その味も工夫次第で、これまでの定番の味を変えることができる。 今後も、色々な味の店が登場するだろうし、業界の地図も書き換えられゆくのだろう。 


「 うなぎ 」 について語る

かうんたぁ。