「 江戸時代、川向こうといえば、向島、本所、深川という地名で、
その位置関係が分かった。
また、昭和二十二年までは、江東区は深川区と城東区、墨田区は向島区と本所区に分かれていたので分かりやすかったが、
現在の江東区や墨田区という区名では江戸時代との地名との結び付きが希薄である。
本所松坂町が両国3丁目に変わったのも同様で、江戸の地名の大部分は、昭和に行われた住所表示の変更により歴史から抹殺されてしまった。
両国には江戸博物館や相撲茶屋があり、これまで数度訪れているが、
深川は知らないので、それを含め訪問しようという訳である。 」
平成二十一年(2009)四月二十四日。 深川・両国界隈を歩く。
◎ 清門前仲町
地下鉄東西線の門前仲町で下車し、旅が始まった。
「 門前仲町は、東京都江東区の地名で、
旧深川区にあたる深川地域内である。
深川が市街化はじめるのは、三代将軍家光の寛永年間からである。
長盛という法印が発願し、幕府の許可をえて、富岡八幡宮を建てたことによる。
富岡八幡宮は誕生早々から江戸庶民の関心をよび、
寛永二十年(1643)にはじめて祭礼をおこない、
その後、深川の祭礼は江戸民の楽しみのひとつになった。
門前には茶屋がならび、妓をかかえる色街になった。
五代将軍綱吉の時代になると、江戸と深川を結ぶ大橋や永代橋が架けられ、
深川は孤島ではなくなった。
貞享元年(1684)には江戸で初めて、富岡八幡宮で勧進相撲が行われた。
勧進とは、社寺への寄進のことで、
建立とか修理の費用のためにひろく大衆から銭をつのることをいう。
表向きは八幡宮の主催になり、寺社奉行の管轄であった。
大相撲にいまでも神事が加味されるのは勧進相撲の名残である。
富久という題の落語に出てくる富くじもそうであった。
幕府の許しをえて、社寺が行い、その利益で社寺の修復をするというものである。 利益は社寺側が三分の一ほどとった。
富岡八幡宮で、江戸時代にしきりに富を催したのは、
幕府の庇護が厚かったからで、
抽選の日には寺社奉行から役人が来て立ちあったという。 」
富岡八幡宮の西方に深川不動堂がある。
「 江戸時代の初め、歌舞伎役者の市川団十郎が、 不動明王が登場する演目を披露したところ、 成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子に高まり、 これを受けて、元禄十六年(1703)に、富岡八幡宮の別当・永代寺で、 成田不動の出開帳(秘仏特別公開)が行われた。 これが深川不動堂の始まりである。 出開帳は江戸時代に十二回行われたが、一回を除き、永代寺で行われた。 明治の廃仏毀釈で、永代寺は廃寺となり、深川公園となったが、 明治十四年(1881)に現在地に本堂が建立され、今日に至る。 現在の寺名は成田山東京別院深川不動堂である。 地名「門前仲町」は、永代寺の門前町、という意味である。 」
◎ 清澄庭園
最初に訪れたのは、清澄庭園である。
説明板「名勝 東京都 清澄庭園」
「 この庭園は、泉水、築山、枯山水を主体にした回遊式林泉庭園で、
江戸時代の大名庭園の造園手法を明治時代に引き継かれ、
近代的にして完成したものです。
この地の一部に江戸の豪商 紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと言われています。
享保年間(1716〜1736年)には、下総国関宿城主 久世大和守の下屋敷となり、
この頃に庭園の原形が形づくられました。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの地を含む3万坪(約10万平方メートル)を買い取り、
明治13年(1880年)4月に 「 深川親睦園 」 と命名し、
三菱社員の慰安や内外賓客を招き、招待の場として用いることとした。
岩崎弥太郎亡きあと、岩崎弥之助(弥太郎の弟)が庭園に手を加え、
隅田川の水を引いた大泉水とし、
全国から取り寄せた奇岩名石を配した造園工事が行われ、
明治24年、明治時代を代表する庭園が完成されました。
関東大震災ではこの地域は大被害を被りましたが、この庭園は救いの場となり、
被害時の避難場所として役割を果たし、多数の人命が助かりました。
岩崎久弥(弥太郎の嗣子)では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、
翌大正13年破損の少なかった庭園部分(深川親睦園時代の半分)を、
東京市に寄付しました。
東京市は大正記念館、深川図書館なども整備移築し、
昭和7年7月24日 「 清澄庭園 」として開園しました。 」
上記の説明板には、大正記念館も移築されたとあったが、
大正記念館は昭和二十年三月十日の東京大空襲により、ほぼ全焼してしまった。
現在の建物は、貞明皇后のご葬儀の「葬場殿」資材の下賜を受けて、
昭和二十六年(1951)に着手し、昭和二十八年(1953)に完成したものである。
近代風数寄屋造りで、平成元年に全面改修している。
この後、庭園の中を見て回ったが、
例えば、なつめ水鉢の御影石や、庭に敷き詰められた飛び石に、
この庭園の凄さが感じられた。
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涼亭(りょうてい)は、明治四十二年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたものである。
「 庭園の日本情緒を有している数寄屋造りの涼亭は、
震災・戦災と2度の災厄をまぬがれて、焼け残った唯一の建造物である。
現在の建物は、昭和六十年(1985)に全面改修されたが、
構造外見は往時の姿をとどめている。 」
中の島にはあずまやがあった。
池の中の石に亀達がのんびり甲羅干しをしていて、
平和な日和を感じた一時であった。
園内に 「古池や かわず飛びこむ 水の音」 の句碑があり、
「古池の句」碑由来」という説明板が建っていた。
説明板古池の句」碑由来」
「 当庭園より北北西四百メートル程の所に
深川芭蕉庵跡があります。
松尾芭蕉は、延宝八年(1680)から元禄七年(1694)まで、
門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞亨三年(1685)の春、詠まれています。
この碑は、昭和九年に,
基角堂九代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、
芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、
特に東京市長にお願いしてこの地に移したものです。
従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあると言うことではありません。
なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採茶庵跡がありますが、
芭蕉は、元禄二年(1689)、「奥の細道」の旅にここから出発しました。 」
清澄庭園は東京都の公園
9時から午後5時まで、年末年始を除き、開園
入園料は150円(65歳以上は70円)
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◎ 本誓寺・臨川寺
、続いて訪れたのは、清澄庭園の北にある当知山本誓寺である。
(江東区清澄3丁目4番)
寺の前には「村田春海」の墓の石柱が建っていた。
東京都が建てた説明板
「 江戸中期の国学者で歌人。 日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として生れ、父と兄と共に、賀茂真淵の門人で、著名な国学者だった。 」
本誓寺は、寺は新しく、特段見るものはない。
「 本誓寺は文亀元年(1501)に小田原に創建された寺で、
小田原城落城の際焼失した。
その後、江戸に移ったが火災などで転々とした後、、天和三年(1683)に当地に移った。
本誓寺は江戸に進出した伊勢商人の菩提寺になっていたようで、
村田家もその一軒であるが、
本居宣長の父や義兄の墓もここにあるようである。 」
小さなお堂には「迦楼羅立像」が祀られていた。
「 花崗岩で造られた石像で、丸彫りに近い浮彫で、横笛を吹き、甲冑を着けて立つ姿である。
朝鮮高麗時代の作と推定されるが、その渡来の時期などの来歴は不明である。 」
本誓寺の北の臨川寺に訪れた。
臨川寺は松尾芭蕉とゆかりがある寺院で、芭蕉由緒の碑が建っていた。
「 臨川寺は、承応二年(1653) 茨城県の鹿島根本寺の冷山和尚が、
江戸の小名木川の辺りに草庵を結んだことに始まる。
その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、
正徳三年(1713)に瑞甕山臨川寺の寺号を得た。
延宝八年(1680)に深川に移り住んだ芭蕉は、仏頂禅師と親交が厚く、
度々参禅に通ったと伝えられている。
芭蕉由緒の碑には、 美濃派の俳人神谷玄武が、芭蕉門人の各務支考により、
京都双林寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して、臨川寺に石碑を建て、
毎年三月に、墨直会を催したことが綴られている 。」
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◎ 霊巌寺・長専院不動寺
清澄庭園のバス停のところに戻ると、「深川芭蕉庵散歩」の案内図があった。
深川江戸資料館入口交叉点で、清澄通りを反対側に渡り、左側の小路を行くと、
左側に浄土宗の霊巌寺がある。
公園の周辺には寺院が多くあるが、境内の広さは一番である。
境内には、寛政の改革をなした松平定信の墓がある。
「 松平定信は、八代将軍徳川吉宗の孫・
田安宗武の子として生まれ、陸奥白川藩主となり、白河楽翁を号した。
天明七年(1787)に老中となると寛政の改革を断行し、
札差統制(旗本、御家人などの借金救済)、
七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行ったが、
庶民の中では評判が悪く、
「 白河の 清きに魚のすみかねて もとの濁りの 田沼こひしき 」
と詠われた。 」
この寺には、江戸六地蔵の一つである、銅造地蔵菩薩坐像が鎮座している。
「 江戸六地蔵は、京都の六地蔵に倣って造立されたものである。 江戸深川の地蔵坊正元が、宝永三年(1706)に発願、
江戸市中から広く寄進者を得て、江戸に入る六街道の入口に、
丈六(270cm)の地蔵菩薩坐像を設置したものである。
ここに安置されているのは第5番で、水戸街道に面して、
享保二年()1717)に建立された。 」
霊巌寺の道の反対側にあるのが長専院不動寺である。
「深川の出世不動」 として有名である。
「寺の由緒」
「 浄土宗の高僧、霊厳上人は、
江戸幕府より隅田川沿いの湿地を埋め立てて寺を建立する許可を得たが、
難工事を強いられていた。
ところが、近江国三井寺の不動堂住職、期妙の夢の中に、本尊の不動尊像が現れ、
「 手助けをしたいので、江戸に連れて行くように!! 」
というお告げがあったので、
霊巌寺の工事中、お堂を建てて安置したところ、工事は順調に進んだ。
後に不動尊像は不動寺に安置され、上人から出世不動と命名された。
関東大震災後、寺は長専院と合併し、今日に至っている。 」
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◎ 深川江戸資料館
霊巌寺の隣に、深川江戸資料館がある。
「 昭和六十一年(1986)に、江東区が 江戸時代の資料を収集、保存、および展示する資料館として開所し、 併せて、江東区役所白河出張所とした。 」
深川江戸資料館には、江戸時代の深川の町家の棟が実物大で、
路地、掘割ごと、いわば界隈ぐるみ構築され、再現されている。
吹き抜けの三階から見れば、屋根まで見えた。
階下に降りると、店先に立つことができ、
搗米屋とその土蔵、八百屋、船宿から軒割り長屋もあった。
「 軒割り長屋に住む大工や職人は、 四畳半〜六畳の畳の間に土間があるだけのスペースである。 土間に水屋と竈があるだけの空間で生活していたようなので、 箪笥などの調度品は置くところもなく、 布団を持っていない家も多かったのではないか? と思った。 」
火の見櫓もそびえていて、掘割には猪牙舟も浮かんでいる。
水茶屋も屋台も出ていて、すべて原寸大である。
一度訪れる価値がある施設である。
東京都江東区白河一丁目3−28
入館料 400円、9時30分〜17時(受付は16時30分まで
、第2、第4月曜日(祝日は翌日)、年末年始は休館)
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◎ 万年橋
深川江戸資料館を出て、清澄通りに戻り、右折して高橋の手前まで歩き、
左側の細い道を隅田川に向って、小名木川沿いに進む。
見えてくるのが曲線を描いた橋の萬年橋である。
「 小名木川は、徳川幕府が塩輸送のために作らせた運河で、 萬年橋は寛永年間(1630)に猟師町ができた時に架けられた、という。 」
左手に深川萬年橋南交叉点があるのが、この南北の通りは萬年橋通りで、
小名木川に架かる橋を渡ると、左側に休憩スポットがあり、
江戸時代の様子を描いた碑がある。
渡ってきた橋の手前の左側には、江戸時代の一時期、船番所があったようである。
説明板「川船番所跡」
「 川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、
川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
設置の年代は明らかではありませんが、
正保四年(1647) に深川番の任命が行われていることから、
この頃のことと考えられています。
江戸から小名木川を通り、利根川水系を結ぶ流通網は、
寛永年間(1624〜44) にはすでに整いつつあり、
関東各地から江戸に運ばれる品物はこの場所を通り、
神田・日本橋など、江戸中心部へ運ばれました。
こうしたことから、江戸の出入口としてこの地に置かれたことと思われます。
建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ五本ずつ装備されていました。
明暦三年(1657) の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、
寛文元年(1661) 中川口に移転しました。
以後、中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。 」
万年橋からの富士山の眺めがすばらしかったようで
、安藤広重は江戸百景で、葛飾北斎は富嶽三十六景で描いている。
下中写真は、芭蕉庵史跡展望公園にある 「北斎の富嶽三十六景」の標柱を写したものである。
万年橋から浜町方面を望むと近代的なビル群があり、船も現代のものである。
隅田川に架かる橋は清州橋である。
説明板「清州橋」には、
「 ここから前方に見える清州橋は、
ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
この場所からの眺めが一番美しいといわれています。 」 と、あった。
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◎ 芭蕉稲荷神社・蕉庵史跡展望公園
その先左に入る小路があり、
そこを進むと右側に赤い鳥居と芭蕉大明神の赤い幟がはためく芭蕉稲荷神社がある。
中に入って行くと、赤い社の隣に「芭蕉庵跡」の大きな石碑があった。
「 芭蕉は、延宝八年(1680) 三十七才の時、
深川六軒堀のこの場所に移り住み、奥の細道などの紀行文を書いた。
元禄七年(1694)に芭蕉庵を出て、大阪の門人度会園宅にて病死した。
その間、十四年間の芭蕉住まい跡である。 」
「深川芭蕉庵旧地の由来」 という説明板が建っていた。
説明板「深川芭蕉庵旧地の由来」
「 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、
深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、
「 古池や蛙飛びこむ水の音 」 等の名吟の数々を残し、
またここより全国の旅に出て有名な 「 奥の細道 」 等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり、
幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま、大正六年(1917)津波襲来のあと、
芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、
故飯田源次郎氏等、地元の人々の尽力により、ここに芭蕉稲荷を祀り、
同十年 東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
昭和二十年(1945)戦災のため当所が荒廃し、
地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年(1955)復旧に尽くした。
しかし、当所が狭隘であるので、常盤北方の地に旧跡を移転し、
江東区において芭蕉記念館を建設した。
昭和五十六年(1981)三月吉日 芭蕉遺蹟保存会 」
その先に進むと、「おできの神様 正木稲荷大明神」の旗が立ち、 正木稲荷神社があった。
石碑「正木稲荷由来」
「 江戸時代、江戸では多くの稲荷が祀られていた。
正木稲荷は天保には存在しており、江戸名所に書かれるように、有名な稲荷だった。
正木はおできの患部に張ると治る効果があったが、参詣者は蕎麦を断ち、
治療効果が現われると、蕎麦を供えてお礼したという。 」
正木稲荷神社の脇を進むと、突き当たりに江東区芭蕉庵史跡展望公園がある。
上って行くと、芭蕉の銅像と、
芭蕉没後に出版された書物を紹介した案内板が数多く建っていた。
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◎ 芭蕉記念館
川沿いに道をたどっていくと芭蕉記念館に出た。
「
芭蕉記念館には、松尾芭蕉や俳句に関する資料が展示されていた。
区の施設なので、句会や会合などに利用されている (100円、9時〜17時、月休) 」
芭蕉記念館先の隅田川に架かる吊り橋は新大橋である。
「 江戸時代には、
現在より下流の芭蕉記念館のあたりにあったようで、
道路脇にそれを示す「旧新大橋跡」の標柱が建っていた。
当時、両国橋が大橋と呼ばれていたので、
元禄時代に造られたこの橋は、新大橋と名づけられたとある。 」
近くに、「芭蕉そば」という看板を掲げた立ち食いそばの店があり、
昼時なのでサラリーマンで混んでいた。
そば屋の脇の道をいったあたりで、寛政十年に仇討が行われた。
猿子橋仇討旧跡(常磐1-12)がある聞いていたが、みつからなかった。
寛政十年(1798)十一月三日、
旧深川元町の旧猿子橋であった仇討は、
「 寛政この弓誉の鑑 」 と題して瓦版で、江戸中の評判になった。
崎山平内がだまし討ちにした渡辺彦作の妻子に討たれそうになったが、
まわりに取り押さえられ、平内は牢屋に入れられたが、十二日に死亡した。
その先にある深川神明宮は深川で最も古い神社である。
境内には深川七福神の一つ寿老神が、寿老神社に安置されている。
「深川の地名の由来」
摂津の深川八郎右衛門が、この付近を開拓し、村の鎮守の宮として、
慶長元年(1596) 伊勢皇大神宮の御分霊を祀って創建した。
徳川家康が訪れた際、村名を尋ねたが村の名前がなかったので、
「 深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよ 」 といわれたことによる。
先程の芭蕉記念館前まで戻り、北上する。
この道は赤穂浪士引揚道で、吉良上野介を討ちとった後、
引き上げた時使われた道である。
新大橋通りを横切ると、道は左にカーブするが、
二つ目の三叉路を右に入ると江島杉山神社(江東区千歳一丁目)がある。
説明板
「 鍼術の神様・杉山和一(1610〜94)が、
五代将軍綱吉からここ本所一つ目に約十五万二千平方メートルの土地を拝領し、
総録屋敷を建て、
その西側に弁財天の一社を建立したのが江島杉山神社の始まりです。
神奈川県藤沢市の江の島弁財天と杉山和一検校が祀られています。
(中略)
以前は江島弁天社と杉山神社とは別の神社で、昭和二十七年に一緒になり、
現在の名前になりました。 」
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この続きは 「 深川・両国界隈を歩く(続き) 」 をごらんください。