NHKで放映するブラたもりは江戸の歴史を知る上で大変意味のある番組である。
江戸の水道の話があり、おもしろかったので、
確認を兼ねて玉川上水の番所跡を訪れた。
その後、武蔵野の雑木林の思い出を求めて、
武者小路実篤の晩年の寓居にも行った。
また、げげげの女房で放映された調布市を訪れ、
妖怪キャラクターがある天神通りや布多天神社へも訪問した。
平成二十二年(2010) 五月のある日、四谷四丁目交叉点に始まり、新宿を訪問後、 調布市を数ヶ所訪れた。
「 昨秋から水木しげるを主人公にしたげげげの女房が放映され、
好評を博している。
彼が東京で居を構えたのは調布市であることはテレビを見るまでは知らなかった。
半世紀前の新宿以西の住宅地は杉並や中野までで、
その先は都下として田畑が残る中に住宅が点在していた。
国道20号を走ると到る所で雑木林が見ることができたものである。
水木先生の上京はそれより古いので、調布駅から少し離れただけで、
田舎の風景に変わったことは間違いない。
今日のように住宅地が八王子まで西に延びたのは、
都庁の新宿副都心への移転よるといってもよいだろう。 」
◎ 玉川上水水番所跡・高層ビル群(淀橋浄水場跡)
NHKで放映するブラたもりは、
江戸の歴史を知る上で大変意味のある番組であるが、
その中で、江戸の上水道の話があった。
新宿区四谷四丁目にある四谷区民会館の前には、
玉川上水水番所跡や四谷大木戸跡碑などの説明板があった。
欧州の先進国より良質の飲水が江戸町民に供給されていたことを知ることができた。
説明板「玉川上水水番所跡」
「 玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、
四谷大木戸から江戸市中へは石樋、木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。
水番所には水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、
ごみの除去を行い水質を保持していた。
江戸時代には、玉川上水が羽村よりここまでは掘割の中をきれいな水が流れていて、
堤には桜が植えられていた」
この先の新宿御苑は、江戸時代の高遠藩内藤家の下屋敷の跡である。
その脇を甲州街道が通っていたが、そこに誕生したのが内藤新宿という宿場で、
それが今日の新宿の原形である。
伊勢丹と追分交番があるあたりは、青梅街道と甲州街道の分岐点であることから、
「追分」という地名になっている。
「
五街道の江戸の入口の宿場である品川や板橋宿など他の宿場も同じだったが、
繁華街として大変盛況だったという。
それが今日の歌舞伎町に連なっていく。
それに対し、新宿西口は昭和三十年頃までは静かなところだった。
十二社池(じゅうにそういけ)という大きな池があり、
戦前まではそれを取り囲むように飲食店や料亭があり、
ボートで遊ぶ客の姿を店の中から眺めるという東京近郊の行楽地になっていたが、
敗戦後は少しづつ埋め立てられていった。 」
タモリさんは番組で四谷区民会館を訪れた後、十二社池の跡を追って、 その跡にたどりついたのはすごい。
「 明治維新後、江戸が東京市になると、水の汚れがひどくなり、 それに対応するため出来たのが淀橋浄水場だったが、 それは新宿西口の発展を阻害した。 移転計画が持ち上がり、東村山浄水場の完成とともに機能を縮小し、 東京オリンピックで選手村になり、その後は副都心の用地となった。 」
そうしてつくられた最初の高層ビルは京王プラザビルだったが、 その後、東京都庁など、次々に高層ビルが建っていく。
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◎ 桐朋学園・実篤公園
武蔵野の面影が残るところはないかと調べると、
調布市に武者小路実篤の晩年の寓居が残っていることが分かった。
ここに武蔵野の面影が残っているかは分からないが、
訪れてみようと新宿駅で京王線に乗る。 行き先は仙川駅である。
「
京王電鉄はその名の通り、東京と八王子を結ぶ鉄道会社として誕生し、
甲州街道と平行する路線の申請を行ったが、
電車を走らせるまでには時間がかかり、
実際に電車が走ったのは大正二年(1913)のことで、最初は笹塚〜調布間だった。
大正五年(1916)に新宿追分から八王子までが開通し、
その後、新宿〜八王子が複線化された。
なお、北側を走るJR中央本線は、
甲武鉄道が明治二十二年(1889)に新宿から八王子までを開通させている。 」
仙川駅を降りると南に向かう一方通行を歩き、桐朋学園前交叉点で右折し、
桐朋学園大の校舎に沿って歩くと、
校舎の門塀の角に実篤公園への案内標があった。
それに従い左折して進むと東部公民館と保育園があるが、
その先で右折して道なりに行く。
その先にも案内標があり、狭い道を進んでいくと、
実篤公園の管理棟がある公園入口に到着した。
窓口でいただいた「仙川の家 ご案内」
というパンフレットによると、
「 実篤公園は、
武者小路実篤が晩年の二十年を過ごした邸宅の敷地を公園としてもので、
実篤の死後、遺族から調布市に寄贈され、
昭和五十三年(1978)に実篤公園として公開した。 」 と、ある。
武者小路実篤は白樺派の中心人物で、
理想主義を掲げた新しき村の建設で有名である。
約五千平方メートルあるという敷地に踏み入れると、
下り坂の両脇に、シダやヤツデなどの下草の上に椿などの樹木が、
植えられており、この季節はまさに「緑のトンネル」という感じだった。
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◎ 武者小路実篤の晩年の寓居・記念館
左側に実篤が住んでいたという家があった。
邸宅の公開日だったので、中に入ることができ、
ボランティアから丁寧な説明を受けた。
「 実篤は、 水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、 昭和三十年、七十歳の時にこの地へ居をかまえ、最寄りの駅が仙川だったため、 仙川の家と呼びました。 この家で、長編小説の「一人の男」などを執筆し、 野菜や花など自然をモチーフにした数多くの書画の制作に励みました。 」
先生の作品や原稿の展示があった。
先生の使われた仕事部屋や応接室、客室や居室を見たが、
ガラスをふんだんに使っているなあという印象で、
ガラスを通して、緑がまぶしく目に入ってきた。
記念館に向かう途中には竹林があり、風に吹かれて、竹が音をたてていた。
その下には実篤の銅像、右手には八橋の架かった菖蒲園があった。
銅像の左側の池は下池で、中の島があるかなり大きなものである。
上の池には水源となる湧水があり、下の池には鯉が泳いていて、
野鳥も多くやってくるようで、
実篤は安子夫人と池に飼う鯉にえさをやり、
集まる野鳥に餌場を作ってやったという。
園内にはあづまやがあるので、ひと休みして自然に親しむひとときが過ごせる。
トンネルをくぐった先に武者小路実篤記念館がある。
「 記念館では、武者小路実篤と、交友のあった作家の著書や研究書、 実篤が主宰した雑誌 白樺 などの図書や雑誌を二万冊余り所蔵している。 」
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◎ 滝坂・馬宿跡・常性寺
実篤公園を出て、先程の桐朋学園大の実篤公園案内標まで戻った。
ここからは仙川駅には戻らず、甲州街道を歩き、つつじヶ丘駅に向かうことにした。
左折して進み、京王線の上を通ると、甲州街道が通る仙川二交差点に出た。
右手にはキューピーマヨネーズ仙川工場があるが、
ここは左折して滝坂を下る。
あまりに急な坂のため、荷を引く馬が滝のような汗をかくことから、
「滝坂」という名が付いたと、伝えられる坂である。
右手の少し高いところに見える茅葺屋根を銅板で囲ったような屋根の屋敷は、
江戸時代に「川口屋」という馬宿を営んでいた家である。
国道を下っていくと、
坂の途中の左側に「滝坂小学校発祥の地」と書かれた標柱が建っているが、
現在の小学校は、切りとおしの整地されたところに建っている。
「
滝坂は急坂の難所だったため、
江戸時代には頂上と坂下に休憩場所があったという。
坂の脇の切りとおしの道と比較すると傾斜の違いが分かる。
京王線や国道の工事等により、車が走れる傾斜に改良されたが、
今も急であることは変わりはない。 」
滝坂下交差点の手前の右手一帯は、
昭和三十年代に京王電鉄が 「つつじヶ丘」 と名付けて、
開発して、分譲したところである。
滝坂下交差点を過ぎたつつじヶ丘交差点の国道両脇には、
五階建て位のマンションが建ち並び、
一階は食品スパー、レンタルビデオなどの店舗が入っている。
京王つつじヶ丘駅へはここで左折する。
「
つつじヶ丘駅から調布駅までには柴崎、国領、布田駅の三つの駅がある。
江戸時代には国領から上石原にかけて、甲州街道の布田五宿があった。 」
調布駅の一つ手前の布田駅で降り、
国道側の布田駅前交差点に向うと交差点の角に、常性寺がある。
境内に入ると 「調布不動尊」と、
「成田山長楽寺」 と書かれた標板が掲げられている不動堂があり、
その奥に本堂があった。
「 常性寺は「布田のお不動さん」として信仰されている成田山系の真言宗の寺院で、 鎌倉時代の創建当時は多摩川沿いにあった。 慶長年間に現在の場所に移転、江戸時代に入り、 住職の祐仙法印が成田山新勝寺より成田不動尊を勧請した。 」
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◎ 一願地蔵堂・馬頭観音堂・布多天神参詣道
常性寺の境内はかなり広く、本堂の右側には地蔵堂と馬頭観音堂があった。
「 地蔵堂は一願地蔵堂といい、 一つだけ願いを叶えるという「一願地蔵尊」が安置されている。 」
右側の馬頭観音堂の「馬頭観音塔」は、小橋の馬頭観世音を祀るものである。
「教育委員会の説明板」
「 甲州街道の小橋付近にあった馬すて場に設置されていたが、
道路拡張のため、転々とし、ここ常性寺に移された。
この塔は、文政七年(1824)、調布市域および近隣の十九ヶ村のほか、
八王子の嶌(縞)買中などが協力して建立したものである。
彫られている観音は三つの頭をもち、それぞれの頭に馬の像をかぶり、
二本の手は合掌し、
四本それぞれ武器らしきものを持っていますが、摩滅してよく分からない。 」
江戸時代には布田駅前交差点のあたりから調布駅にかけて下布田宿があり、
家数は九十五軒、住民は四百二十九人、旅籠は三軒あったという。
布田駅前交差点を西に進むと左側の道の奥に蓮慶寺がある。
「 もとは真言宗の寺だったが、天文元年(1532)に、 小田原北条氏の重臣・中条出羽守が布田の領主となり、 寺を再建した際、日蓮宗に改宗した。 本堂は寛政五年(1793)の再建で正面五間、側面六間の書院造り風の建物である。 」
少し先には 「 右新宿 左り府中 甲州街道 」 と、
書かれた灯篭付きの道標が建っている。
少し歩くと、調布駅北口交差点に出た。
交差点の先、右側には西友、左側にはパルコがあり、この一帯が調布駅前通りで、
げげげの女房が足しげく通ったところだろう。
交叉点の一つ手前の右に入る道は布多天神への参詣道で、
入口にある街灯には、 「天神通り商店街」 を示すプレートがあり、
水木しげるの妖怪・鬼太郎が腰掛けていた。
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◎ 天神通り商店街・大正寺・布多天神社
商店街を歩いていくと、妖怪キャラクターが随所にあり、 調布駅方向から北に向かって、
「 目玉おやじを手に載せた鬼太郎 」 「 横たわるねずみ男 」
「 一反木綿に乗ったねこ娘 」 「 切り株に座るぬりかべ 」
「 頭に目玉おやじを乗せた鬼太郎 」 の順に並んでいる。
この通りが天神通り商店街である。
商店街を見ながら歩くと、国道20号と交差する交叉点にでた。
交叉点の右側には大正寺がある。
「 当地にあった栄法寺と町内にあった二寺が大正四年に合併し、
大正寺と改名したという寺である。
西側にある山門は寺の北側にあったものを今の位置に移築したという。 」
交叉点の左手一帯は電気通信大のキャンバスになっている。
布多天神社の拝殿は、その先の鳥居をくぐった先にあった。
社殿によると、大変古い神社であることが分かった。
社 伝
「 今から約二千年前の第十一代垂仁天皇の御創建といわれております。
文明九年(1477)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、
その時、御祭神の少彦名命(すくなひこなのみこと)に 菅原道真公を配祀されました。
江戸時代に甲州街道が開通し、布田五宿が作られましたが、
布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。 」
拝殿の奥にある本殿は覆屋の中にあるので見ることはできなかったが、
江戸中期の宝永三年(1706)の建立と推定されるもので、
桁行一間、梁間一間の一間社流造である。
境内の狛犬は、境内で開かれる市場の繁栄と商売繁盛を祈願して、
寛政八年(1796)に建立された市内で最も古い狛犬である。
「 墓場鬼太郎 第五巻 「 おかしな奴 」 という話の中では、
神社の奥の雑木林には鬼太郎が住んでいるとされていて、
げげげの女房に縁が深いところとなった。
また、この北東に流れる根川は水木しげる夫妻が自転車で散策していたところである。 」
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◎ 調布銀座
布多天神社から五百メートル歩くとスパーマルミチがあるが、 根川までは更に七百メートル以上ありそうなので、引き返した。
街道に戻る途中、天神通り商店街で今川焼きを買って食べた。
調布駅前交差点の先にはパルコと西友が向き合ってあり、
道には多くの人が歩いていた。
その先のバス停の名は調布銀座である。
「 商店街に銀座という名を付けたのは、全国で調布市が最初だったといわれる。 」
二百メートル程先のえの木駐車場の一角に「小島一里塚跡」の石碑があった。
小島一里塚は日本橋から六里目の一里塚である。
江戸時代、このあたりは上布田宿だったが当時の建物などは残っていなかったが、
この石碑を見て、ここに甲州街道が通っていたことや、
暑いときには一里塚にあった木陰で休憩した旅人だろうと空想することができた。
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