司馬遼太郎は 「 街道をゆく 三十六 神田界隈 」 の中で、
神田を取り上げているが、
話の中心は明治以降に設立された大学とそれに関係する人物に関するものが中心で、駿河台や神田小川町が中心である。
今や大学も郊外に移り、また、
古本屋や出版社も遼太郎がこの本を書いた時代とは違い、
落ち目になってしまっている。
今回の散歩は大学街を避けて、
江戸時代の遺産や物語が残る神田・本郷界隈を歩いたもので、なかなか面白かった。
平成十八年(2006)十一月二十三日、JR神田駅で降り、神田北口交差点に出て、 須田町交差点に向かって歩く。
◎ 昌平橋・湯島聖堂・神田神社石鳥居
須田町交差点は変則的だが、そのまま細い道を直進して進むと、
神田郵便局交差点に出る。
正面に中央線の高架が見え、昌平橋がある。
昌平橋を渡り、昌平橋交差点で左折して進むと、湯島聖堂に出る。
「 湯島聖堂は、徳川五代将軍綱吉が儒学の振興を図るため、
元禄三年(1690)に湯島の地に聖堂を建て、
上野忍岡の林家私邸にあった「廟殿」と、
林家の「家塾」をここに移したのが始まりである。
その後、およそ百年を経た寛政九年(1797に、幕府はここを幕府の直轄学校として、
昌平坂学問所、通称、昌平校を開設した。
明治維新で、聖堂と昌平校は政府の所管になり、
昌平校は「大学校」と名前を替えて存続したが、明治四年(1871)に廃校となり、
林羅山以来二百四十年、
学問所となってからは七十五年の朱子学の講座の歴史は閉じた。
江戸時代から第二次大戦までは国家を守る法の一つとして信奉されてきた儒教は、
五常(仁、義、礼、智、信)を旨とし、父子、君臣、夫婦、長幼、
朋友関係の序列とそれを敬うことを説いたが、
米国が日本を占領するとこの思想は危険として徹底的に禁止された。 」
大正十二年(1923)の関東大震災で、聖堂は焼失したが、 昭和十年(1935)に寛政時代の建物に模した鉄筋コンクリートの建物が造られたのが、 現在の建物である。
司馬遼太郎の 「 街道をゆく 三十六 神田界隈 」 の昌平坂の章には、
「 江戸の地形をいうと、本郷台が小さな起伏をくりかえしつつ南にのび、
湯島台にいたり、神田川に足もとを削られている。
江戸のむかしは、昌平橋(いまの架橋場所よりやや上流)ひとつが、
湯島と神田駿河台をむすんでいた・・・ 」 とある。
また、「 湯島台の昌平坂に入ってみた。
江戸時代からのこの坂は新旧二筋あって、こまかく云々する煩を避けるが、
いずれにしても昌平という名は、孔子が生まれた郷村の名をとったといわれている。 」 ともある。
更に、「 湯島の聖堂が江戸末期のある時期まで、
幕府の唯一の官学としてさかえたことはいうまでもない。
湯島台に聖堂があったればこそ、
神田川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商がさかえたのである。 」
とも述べている。
昌平坂の細い道を上り、「本郷通り」と呼ばれる旧中山道に出て、左折する。
道の反対側に 「神田神社」 と刻まれた大きな石鳥居が見えたので、
道を渡って神社に向かう。
石鳥居の左側に 「明神甘酒」 の赤い看板があるが、
江戸時代から続く茶店の天野屋で、
地下で甘酒の元になる「麹」が造られる、と聞いた。
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◎ 神田神社
鳥居をくぐった先にあるのは朱塗りの隨神門である。
この門は昭和五十一年に再建されたもので、檜木造である。
「 神田神社は「神田明神」と呼ばれる神社で、 江戸名所図会に 「 江戸総鎮守と称す。 」 とあり、 神田・日本橋・秋葉原・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など、 現在でも百八町の氏神になっている。 江戸時代には、「神田明神」と呼ばれたが、明治の神社統合令により、 周りの神社を合祀し、神田神社に名を替えた。 」
隨神門をくぐるとあるのが拝殿である。
拝殿は、関東大震災で燃失後、
昭和九年に鉄骨鉄筋コンクリート造り・総漆朱塗りの権現造として再建された。
コンクリート材でありながら、木造の質感を表現して、はなはだみごとである。
東京空襲にあっても焼けずに残った。
「神田神社の由来」
「 神田神社は、社伝によると、天平弐年(730) 創建という古社で、
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、
少彦名命(すくなひこなのみこと) と 平将門である。
創建時は、皇居の辺り、現在の千代田区大手町(武蔵国豊島郡江戸柴崎)にあったが、
天慶の乱(939〜940) に敗れた平将門公の首が付近に葬られると、
天変地異の怪異が続き、付近の住民は窮した。
時宗の真教上人が、将門公の祟りを鎮め、延慶弐年(1309)、将門公を祭神として、
合祀した。
江戸の領域が拡大したため、区画整理が行われ、元和弐年(1616)、
江戸城の表鬼門にあたる現在地 (千代田区外神田) に、移転された。
江戸幕府から、江戸総鎮守に相応しい壮麗な桃山風の社殿が寄進され、
幕府から自領を与えられた。
また、祭礼の山車は、江戸城に入り、将軍をはじめ、
大奥の女性に至るまでが上覧した。
しかし、大正十二年の関東大震災により、社殿をはじめ、
社宝は、ことごとく燃失してしまった。
現在の建物は、昭和九年に、鉄骨鉄筋コンクリート造り、総漆朱塗り権現造で、
再建されたものだが、
平成七年に塗り替えが行われ、社殿の他、全ての建物が美しくなり、
江戸総鎮守としての面目を一新した。 」
(補足)
@ 最初に神社(鎮守)があった柴崎村は、多少の田畑をもちつつ、
漁もしていたところだったが、家康が江戸城の大拡張を始めたとき、
村は他に移され、その一帯が江戸城の大手となり、当然ながら、
神社は移さることとなった。
A 最初に移転した先は駿河台だったが、、元和二年(1616)に現在地の千代田区外神田に移されることになった。
B 境内は一万坪で、幕府みずからが壮麗な桃山風の社殿を造営した。
司馬遼太郎の 「 街道をゆく 三十六 神田界隈 」 には、
「 京都八坂神社が官幣大社だったのに、 神田明神が府社にすぎなかったのは、延喜式による式内社でなかったこともあるが、 徳川氏のうけすぎたということもあり、 さらに、祭神が朝敵の平将門だったということで、 明治の世に適いにくかったのかもしれない。 」
と書き、残念がっている。
面白いのは、拝殿の右の道を少し行ったところにあった 「銭形平次と子分の八五郎の記念碑」 である。
説明板「銭形平次碑」
「 銭形平次は、野村胡堂の創作による架空の人物である。
銭形平次の住居は、明神下の元の台所ということになっている。
此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、
縁りの明神下を見下ろす地に建立された。
石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、
その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。
明神下 という気分(きっぷ)のいい地名は、江戸時代でも俗称だったようで、
正式には 神田明神下御台所町 と 神田明神下御手代屋敷 という長い名前の町で、
江戸城の御料理人が住んでいた町だった。 」
神田神社の境内には、末広稲荷や祖霊社なども祀られており、 浮世絵系の日本画家・水野年方の顕彰碑や国学発祥の碑があり、 新しいところでは、千社札納札愛好者による碑 「納札梁」 があった。
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◎ 籠祖神社・本郷三丁目
神田神社の拝殿の裏側には、籠祖神社がある。
籠祖神社御縁起
「 猿田彦大神は天孫ににぎの尊降臨の時、
日向の高千穂の峰に御先導申し上げた神で、
営業の方向や土地の方位等に霊験あらたかな神として崇められて居ます。
塩土翁神は竹工の神塩の神、又船の神として。
古事記に、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣針を失い、お困りの時、
時無間勝間の小舟を作り与え、海神の宮に渡り給えと、教えられた神で、
古くから崇め祀られて居ります。
籠祖神社は、古く寛政七年卯年五月、
亀井組(現小伝馬町)の籠職人及びつづら職の人々の祖神として、
神田明神境内に鎮座されたのが始まりで、
商売繁盛招福開運の御利益を願い、
祖神講を設けて今日迄百六拾六年の絶ゆる事なく
毎年十一月五日に盛大な御祭祀を致して居ります。
昭和三十六年十一月吉日 籠工高祖神講 」
神田祭に使用される氏子の神輿が、籠祖神社の裏側の小屋に保管されていた。
神田明神の祭は江戸三大祭りの一つである。
神田祭は、夏を告げる祭りとして、現在でも盛大に行われている。
司馬遼太郎の 「 街道をゆく 三十六 神田界隈 」 では、
「 神田明神の祭は、京の祇園祭、大阪の天神祭と並んで三大祭といわれるが、 威勢のよさでは比類がない。 」
と書き、古今亭志ん生の落語「祇園祭」を取り上げ、 江戸っ子と京の番頭のやりとりのおかしみを書いている。
本郷通りに戻り、坂を上ると左側は湯島聖堂の敷地が続き、
その一角に小さな御茶水公園があった。
その先の交差点を越えると、東京医科歯科大学と付属病院のビルが並ぶ。
「 このあたりは、江戸時代、桜の馬場があったところで、 明治八年〜昭和七年までは、 東京女子高等師範学校( 現在の御茶ノ水女子大学 )があったところである。 」
建物群を見ながら進むと、壱岐坂上交差点に出た。
交差点の左側が「壱岐坂」で、下っていくと水道橋で、東京ドームにでる。
交差点を横断して直進すると、本郷三丁目の交差点に出た。
神田駅からここまでの距離は二キロ程。
江戸時代の中山道ではこのあたりまでは商家もあり、
江戸の香りもしたようである。
交差点の左側のビル一階に、化粧品雑貨などを売っている KANEYASU がある。
享保年間にここに移り住んだ兼康祐悦の子孫が営んでいる店である。
説明板「かねやす」
「 兼康祐悦という口中医師(歯科医が、乳香散という歯磨粉を売り出した。
大変評判になり、客が多数集まり、祭のように賑わった。
享保15年(1730)大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は、
三丁目から江戸城にかけての家は、塗屋・土蔵造りを奨励し、
屋根は茅葺きを禁じて、瓦で葺くことを許した。
江戸の町並は本郷までは瓦葺が続き、
それから先の中仙(中山)道は、板や茅葺きの家が続いた。
その境の大きな土蔵のある 「かねやす」 は、目だっていた。
「 本郷も かねやすまでは 江戸の内 」
と、古川柳に歌われた由縁であろう。
芝神明前の兼康との間に、元祖争いが起きた。
時の町奉行は、本郷は仮名で、芝は漢字で、と粋な判決を行った。
それ以来、本郷は仮名で 「かねやす」 と書くようになった。
昭和61年3月 文京区教育委員会 」
交差点の右側にある和菓子屋の藤村も江戸時代の創業と古い。
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◎ 麟祥院・湯島天満宮
本郷三丁目交差点で本郷通り(旧中山道)と交わるのは春日通りだが、 通り名と地名は将軍家光の乳母の春日の局から出ている。
交差点を渡ったところで右折し、警察署の先を左に入ると、
麟祥院という寺がある。
境内に春日局の墓があるのだが、訪れたところ、門が閉じられていて、
入ることはできなかった。
春日通りに戻り、左折して進むと切り通しの坂になる。
右側に「湯島神社」と書かれた大きな石鳥居があるので、鳥居を潜り入っていき、
奥の方へ行くと、「湯島神社表鳥居」の石標があり、
隣に 「湯島天満宮」 と刻まれた銅製の鳥居が建っている。
「 これは寛文七年(1667)に造られた表鳥居で、
同十一年(1671)に修理した、という銘がある。
また、下脚部に唐獅子頭部の装飾があるのは、鳥居では珍しい。 」
湯島天満宮は、平成十二年までは 「湯島神社」といったが、 その名よりも、湯島天神の方が有名である。
「 湯島天神を有名にしたのは、新派による泉鏡花作婦系図で、
「 別れるとかきれるとは芸者の時にいうこと・・・ 」 という、
お蔦が主税にいうセリフで、ここが有名になり、東京の名所になった。
伝承によると、正平十年(1355)、湯島の郷民が霊夢によって、
老松の下に勧請したといわれる。
その後、文明十年(1478)、太田道潅が社殿を再興し、江戸時代になって、
徳川家康を始め、歴代の将軍が、あつく庇護したので、隆盛をきわめた。 」
天神さまには梅がつきものだが、ここの梅園は新派演劇人からの献木もあり、 シーズンになると、百本以上の梅の木の花が咲き、 ほのかな香りが漂う都内有数の梅の名所となっている。
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◎ 湯島天神境内・東京大学赤門・安田講堂
境内の新派碑は、新派劇創立九十年をむかえた昭和三十二年に、
新橋演舞場玄関脇に建てられたが、
演舞場の改築の時、ここに移されたものである。
また、隣の梅の木は、昭和三十一年、新派の名優、花柳章太郎より、
贈られたものである。
境内には 泉鏡花筆塚や講談高座発祥の地碑 などがあり、
再現されたガス燈もあった。
社殿の前にある 「奇縁求人石 」 は、 嘉永三年(1850)十月 に建てられたもので、
右側面の 「 たづぬるかた 」 に尋ね事項を書いて貼っておけば、
左側面の 「 をしふるかた 」 に回答が貼られる仕組みであった。
昔から人出の多かった江戸の尋ね人の情報交換の場として使うのが目的だったが、
御殿女中と僧の密会の場にもなっていたといわれる。
本郷三丁目交差点に戻り、本郷通り(旧中山道)を進んでいくと、 右側にあるのは東大の赤門である。
「 赤門は、将軍家斉の娘・溶姫(やすひめ)が、
文政十年(1827)に加賀百万石前田家に嫁いだ時に建てられた門で、
正式には、 御守殿門(ごしゅでんもん) といい、歳月を重ねても健在だった。
東京大学は、徳川幕府の昌平坂学問所が明治に入り大学校となり、
それが前田家の江戸屋敷跡に移転してできたものである。
加賀藩は、江戸城に近い辰口(たつのくち)に敷地を与えられ、
江戸屋敷(上屋敷)にしていたが、
明暦の大火で焼けたため、筋違橋(神田)近くに移されたが、
その屋敷も、天和二年暮の大火で焼失。
翌天和三年(1683)に本郷の下屋敷が藩主が住む上屋敷に改められた。 」
東大のシンボル・安田講堂の眺めも、素晴らしい。
また、 前田家の庭園の一部が三四郎池として残っている。
「
以前大学模擬試験で訪れた当時の三四郎池はもっと明るかったように思えるが、
樹木に覆われ静まりかえっていた。
また、昭和三十〜四十年頃には通りの左側に何軒かの古本屋があったが、
古い建物は一掃されて、姿を消してしまっていた。 」
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◎ 弥生式土器発掘地・東大農学部・追分一里塚跡
東大正門を出て、本郷通りを北上すると、本郷弥生交差点である。
右手に進む道は言問(こととい)通りで、
この交差点から隅田川にかかる言問橋まで続く道である。
その道を少し行くと、右側に 「弥生式土器発掘之地」の記念碑が建っていた。
説明文
「 明治中期、
このあたりで発掘された土器を発掘地の向ヶ丘弥生町から弥生式土器と名付けられ、
以後、この様式の土器が出土する時代を弥生時代と呼ぶようになった 」
弥生二丁目遺蹟は、
右の小道を少し行った左側にある東大の武田先端知ビルにあるようなので、
大学構内の入口で、学生に教えてもらい、
ビルの脇のうっそうとした林の中に入ると、小さな丘があり、そこが弥生遺蹟であった。
本郷弥生交差点まで戻り、本郷通りを北上すると、右側に東大農学部があった。
「 江戸時代には水戸藩の下屋敷のあったところで、明治に入り、 その跡に第一高等学校が作られたが、 昭和十年、駒場にあった東大農学部と土地を交換して、現在の姿になった。 」
1号館の裏には、「第一高等学校の寄宿舎向陵」の碑が建っている。
正門近くの庭には、明治後期に建てられた
、「朱舜水先生終焉之地」 碑があった。
「 朱舜水(しゅしゅんすい)は、明の人で、1600年生まれの儒学者。 明朝を建てなおすために、日本に渡来したが、1661年、明が滅亡したので、 日本に帰化した。 水戸光圀に招かれて、寛文五年(1665)、賓儒となった。 この地(水戸下屋敷)に住み、この地で亡くなったという人物で、 以後の水戸学に大きな影響を与えた人物である。 」
本郷通り(旧中山道)を進むと三叉路になり、 国道17号(旧中山道)は左にカーブして行くが、 交差点角にある高崎屋の自動販売機の脇には、 文京区教育委員会が建てた 「追分一里塚」 の説明板がある。
「 一里塚は江戸時代日本橋を起点に街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。 駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。 ここは日光御成道(岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。 18世紀中ごろまで榎が植えられていた。 度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。 分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。 ここにある高崎屋は、江戸から続く酒店で、両替も兼ね、現金安売りで繁昌した。 」
日光御成道は交差点を直進する道で、将軍が日光を参詣する際に使われたので、 その名があるが、道中奉行の管理下におかれていた。
「 ここから、駒込、王子、そして、岩渕(ここまでが本郷通り)を経て、 岩槻街道に合流し、荒川を渡った後、鳩ケ谷、大門、岩槻を経由、幸手(さって)で、日光街道に合流する道である。 」
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