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大手門をくぐると三の丸広場で、正面に姫路城のその雄姿が展望できるスポットになっている。
「 姫路城の創築は南北朝時代の始めとされるが、
その後、羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて、
近世城郭としての体裁を整え、姫路城と改称した。
今日に残る城の形にしたのは徳川家康の娘婿池田輝政である。
池田輝政が築いた姫路城は、
徳川家康が豊臣秀頼の住む大坂城を監視するため計画された天下普請の城で、
西国大名の進攻に備えた実戦的な縄張りの城である。
羽柴秀吉が築いた城の縄張りを踏襲し、九年の歳月を費やし、
慶長十四年(1609)、五重六階地下一階の大天守と三基の小天守を結んだ天守群を中心に、
多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。
元和三年(1617)、池田家三代目藩主光政が幼少を理由に姫路から鳥取に国替えになり、
代わりに、伊勢桑名藩から転封されたのは、
徳川四天王として勇猛でならした本多忠勝の嫡男、本多忠政である。
これまでの姫路城が姫山だけであったのに対し、城の拡張を進め、
鷺山の造成と周囲を取り囲む多門櫓の建造に着手し、三の丸と西の丸を完成させ、
山上の備前丸にあった御殿を三の丸の西側に移した。
三の丸西側は本城(御居城)と呼ばれ、御殿や屋敷が建ち、
東側には向屋敷と庭園を造営し、本多氏以降の藩主の政務の中心の場となった。
これにより、複雑な縄張を持つ名城の姫路城が完成した。
明治維新で廃城になると、城跡は陣地として好適な場所であったことから、
陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、
姫路城でも明治七年(1874)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、
この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。
」
三の丸から二の丸に入る門は菱の門と呼ばれる櫓門である。
「 現在では正面登閣口から入って最初に通る門で、
西側にある石垣と土塀で枡形虎口を形成し、
門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、
西側部分に番所詰所、東側部分に馬見所がある。
城内の現存の門では唯一、柱、舟肘木、長押を表面に出した真壁造りで、
安土桃山時代の意匠を残している。
櫓二階部分の中央に黒漆と金箔で装飾された格子窓と両側に同じ装飾の火灯窓、
その右手に庇出格子窓がある。
門名は冠木に木製の花菱模様が装飾されていることや築城以前に流れていた菱川に由来する。
菱の門の大きな門扉の左手(西側)に潜戸をつけている。
普段はこの戸から出入するので、戸の左側に番所があって、門番が監視していた。
門は城主が天守に登るような時にしか使用されず、
城主がこの門で駕籠などの乗物を降り、あとは徒歩となった。
そうした場合はこの門の出入りを厳重にして、姫山を警備する必要があった。 」
門をくぐった先にあったのが三国堀である。
「 三国堀は姫山と鷺山の間にあった谷を利用して作られた捨て堀で、
輝政の所領だった播磨、淡路、備前の三国に由来する。
姫山と鷺山から流れた雨水を濾過する役割があったとも、
秀吉の時代は空堀であったともいわれている。
二の丸は秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており、
通路は迷路のように入り組んでいる。
内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、
さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。
門のいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、
また、分かりにくい場所、構造をしていたりと、
ともかく進みづらい構造をしている。 」
これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、
袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。
三国堀を右に見て直進すると行手に見えてくる小さな門が、「いノ門」である。
「 これは城内の門としては小さくて貧弱な門だが、 敵を直進させるためにわざと貧弱な門にしているのではないか、と疑う程の高麗門である。 なお、高麗門は高麗(朝鮮)から伝わったというわけではなく、我が国のオリジナルで、 秀吉の慶長文禄の役の前後に考え出された建築スタイルだったため、 高麗門と名付けられたようである。 」
いノ門をくぐって中に入ると、正面にまた同じような「ろノ門」が見えるが、 右手に進むと井戸がある。
「 姫路城には往時、内曲輪(桜門より内側)内に三十三ヶ所の井戸が掘られ、 現在でも十三ヶ所が残っている。 ほとんどの井戸は水が枯れているのに、この井戸は今でも水をたたえ、 水深が二メートルもあるという。 」
そのまま塀沿いに進み、塀の狭間から覗くと三国堀が見えるので、
三国堀に落ちた敵兵をここからだと余裕を持って狙えそうである。
視線を正面の高い石垣に転じると、四角く飛び出した石垣がある。
これは、江戸時代に石垣が前方に膨らんできたので、
崩壊を避けるために抑えとして後で積んだ石垣である。
ここでUターンして「ろノ門」に戻るが、
「ろノ門」もいノ門と同じく高麗門である。
ろノ門そのものの攻略はさほど難しくないが、ろノ門の右側に伸びる白塀に鉄砲狭間や弓狭間があり、
門に辿りつくまでに、右斜め、上方からの矢と銃弾の雨にさらされることになる。
ろノ門をくぐるとその先に三叉路があり、道は二手に分かれる。
右はクランク状に塀を回り込むと上り坂で、天守への道である。
ここまで敵が攻め寄せたら、
さきほどまでこの坂道の白塀の狭間から射撃していた兵と白兵戦に及ぶことになる。
左手の登り坂は西の丸へのもうひとつの入口で、
防御側の兵を坂の上に駐留させておけば、
天守目指して右手の坂を駆け上がろうとする敵の背後から襲うことが可能である。
なお、この坂は松平健主演のテレビ映画「暴れん坊将軍」シリーズに、
江戸城内のシーンとして度々登場したことで、将軍坂という別名があると聞いた。
大手道を行くと、左側の分厚い白壁の塀は狭間がある美しいもので、
「はノ門南方土塀」と書かれている。
両側から狙われている狭い道を進むと、その先にあるのは「はノ門」である。
「 はノ門は、いノ門やろノ門とは違って、
防御力が格段にアップした門の形式の楼門で、
両側の石垣の上に櫓がある形式の門である。
階上の櫓は、両側の石垣の上に乗っているように見えるが、
両側の柱によって支えられ、自立していて、
敵が攻め込んだ時には、扉を閉めて両側の石を崩し、
石で門内のスペースを埋めてしまう構造になっている。
そのため、門内はすぐ登り階段になっていて、
扉の内側に石で埋めることのできる空間を確保している。
また、櫓の窓からも容赦ない攻撃が浴びせられ、門の天井の櫓の床下をはずして、
槍を突き下ろすこともでき、はノ門は鉄壁の守りを誇っているのである。 」
この門は秀吉時代に建設されたものを輝政がそのまま使っているのではないか、
と言われ、控え柱には、当時の大工道具である「ちょうな」の削り跡がくっきりと残っている。
はノ門の足元に「石燈籠の基礎」という説明板がある。
「 姫路城では姫山やその周囲にあった寺から墓石や石仏、 古墳の石棺などの石造品が石垣や建物の基礎に転用されている。 「はノ門」では礎石に六角形に加工された石材が転用されている。 これはもともと石燈籠の基礎として使用されていたものである。 」
確かに門の下から一部が姿を出していた。
はノ門を入ったところに広がる空間は「乾曲輪」と呼ばれている。
天守から見て乾(西北)の方角にある曲輪だからで、
菱の門から始まった二の丸の一番奥まった部分がこの乾曲輪である。
階段を登り切ると、高くそびえる石垣と建物がある。
この建物は次の「にノ門」の上階の櫓なのだが、
その一階の屋根は優美にカーブしている唐破風(からはふ)である。
建物の下の空地に「十字紋の鬼瓦」の説明板があった。
「 にの門櫓(右の二階櫓)の唐破風屋根に乗っている鬼瓦には 十字紋が彫られている。 キリシタンの名残りとか魔除けともいわれるが、 日本の城では珍しい紋である。 なお、この櫓の南面と東面の鬼瓦は波しぶきが彫られている。 これは火除けを祈ったものと思われる。 」
唐破風の中央の鬼瓦をよく見たが、十字のマークは雨天ではぼやけて見えた。
「はノ門」の石段を上がると、天守への道は右の方向だとはわかるが、
その先でさらに道が左右に分かれている。
左の道は正面を高い石垣に阻まれて、一見行き止まりのように見える。
そのため、攻め手は右側のゆるやかにカーブした壁沿いに道を進むと、
この道はその先で徐々に狭まって袋小路になっていき、
右手の塀も途中で途切れ、いきなり高い石垣の崖上に出る構造になっている。
現在は見学順路のロープが張られて右のほうには行けなくなっているので迷うことはないが、
姫路城の優れた縄張の妙が見られる場所である。
天守へは一見行き止まりのように見える左の道をUターンして細い坂道を登る。
天守が目の前だというのに、天守を背にして登るのは攻め手としては不安に駆られることだろう。
更に細い登り坂では長い縦隊になって進むしかなく、
右手頭上の塀と正面のにノ門からはさらに激しい射撃が浴びせられ、
全滅の危険が増すという仕掛けになっていた。
その先にあるのが穴蔵構造の「にノ門」である。
「 にノ門は、城内屈指の防御力、攻撃力を誇る櫓門で、
門は門柱、冠木、大戸からくぐり戸まで一面鉄板で覆われている。
頭上には三棟の櫓が複雑に折れ重なり合い、
門の内部は低い天井の穴蔵を右に曲がりながら階段を登るという構造である。
穴蔵で攻め手が一気に攻めるのを止めると共に、
階上の櫓の床板をはずせばそのまま門内を通過しようとする敵兵の頭上に、
槍を突き立てることができるようになっている。
寄せ手の軍勢を最終的にここで殲滅することを意図した縄張りと建築であるといえるだろう。 」
「にノ門」を抜けて出た空間は「二の丸腰曲輪」と呼ばれているが、
本丸はここから始まり、天守が目の前に迫ってくる。
順路に沿って進むと埋門の「ほノ門」がある。
「 埋門(うずみもん)には、
石垣上の土塀の下の一部を切り取って門とする方法と
石垣そのものに穴を開けて通路としてそこを門とする方法がある。
「ほノ門」は前者の石垣上の土塀の下の一部を切り取って門とする方法を採用している。
門扉はにノ門と同様、総鉄板張りになっていて、
敵が来ると門の内側から石などで通路をふさぎ、門自体をなくしてしまうことで、
敵からの攻撃を防ぐようにできている。 」
ほノ門をくぐると右側(写真では左側上部)にある壁は通称「油壁」と呼ばれる築地塀である。
「 油壁は高さの違う塀と塀に挟まれる形で、
板張りの側面をこちらに向けている。
真白な漆喰塗籠めの壁が続く姫路城の中にあって、
この茶色い壁はひときわ異彩を放っている。
この土壁は、山土に豆砂利を加えて、もち米の研ぎ汁やおかゆなどを練り合わせ、
土を仮枠の中で叩き締めて築いたもので、かなりの強度がある。
この工法からみて池田輝政時代より古く、秀吉時代の時代のものが残されたといわれている。 」
石垣に金網があり、その中に石臼が半分見えるのは「姥ヶ石」である。
説明板「姥ヶ石」
「 石垣の上方に欠けた石臼が間詰めの石として積まれている。
これは姥ヶ石と呼んでいる。 羽柴秀吉が姫路城を築くときに石集めに苦労していた。
城下で餅を焼き売っていた貧しい御婆さんはそのことを聞き、
使っていた石臼を寄付した。 秀吉は喜んで石臼を使った。
この話はすぐに広がり、国内からたくさんの石が寄付され、
築城工事が急速に進み、立派に完成したという。
姥ヶ石が積まれた石垣は池田輝政が築いたものなので、この話は伝説である。
その他には、御婆さん(姥)は妊娠いない(孕まない)ことにかけて、
石垣も孕まないようにとのお呪いで積まれたという説もある。 」
ほノ門を上り、天守台の石垣に沿って行くと道は二つに分かれるが、
順路に従い右に大きくUターンすると「水ノ一門」に出る。
左に多門櫓を見ながら直進する方法もあるが、大天守へはこちらが近道である。
水ノ一門の右側には油壁が袖塀として、門の屋根の高さより高くそそり立て、
左側には天守台の石垣がある。
「 水ノ一門は、
両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根をかけただけの簡単な門(棟門という形式の門)である。
棟門を城に使うのは珍しいそうで、姫路城ではこの水ノ一門と次の水ノ二門、そして、
ちノ門の三つしかない。 また、城門としては珍しい片開き扉である。 」
水ノ一門をくぐり、左側の天守台の石垣の角に沿う形で左折すると、 目の前に水ノ二門が現れる。
「 水ノ二門も水ノ一門と同じ形式の棟門で、 桁行(横幅)は両方とも一間四尺(約3m)程の小さな門である。 水ノ一門が片開き扉だったのに対し、水ノ二門は両開き扉となっている。 」
水ノ二門をくぐると、門に付随するように西側に建てられている櫓(にノ櫓)が、 カギ型に折れているのが分かる。
「
二門のところで通路を狭くするように櫓を張り出して設計し、
門はできるだけ小さくして、寄せ手が多く侵入するのを遅らせるようになっている。
また、頭上の小天守と渡櫓からの狭間から鉄砲や弓矢が敵兵に降り注ぐ設計になっている。
現在、「にノ櫓」と呼ばれている単層でカギ型に折れている櫓は、
この他、姫路城のへノ櫓(太鼓櫓)の二例のみという珍しいものという。 」
その先は水ノ三門だが、道が下り坂になっていることに気付いた。
菱ノ門から上り坂を登ってきたが、水ノ一門をくぐったところから、
緩やかな下り坂になっている。
この下りは水ノ三門の前まで、幅広の下り階段となってさらに続く。
天守閣に一番近いこの道を進む敵は下り坂であることから道を間違えたと思いこみ、
混乱が生じることを計算した仕組みである。
この後、天守入口に至るまで「水」の名前を持つ門が六門まで六つ続く。
ほノ門を入ると、左手(北側)の多門櫓(ろノ渡櫓)内に井戸がある。
天守に籠城となった時、この井戸から汲んだ水をこれらの門を通って天守に運ぶことから、
水の名が付き、
水ノ一門から五門までの細長い区域を「水曲輪」とも呼ばれた。
「水ノ三門」はほノ門と同じく土塀の下の石垣を一部切り抜いた形の埋門である。
「 扉の横幅は一メートル五十センチしかない小さな門で、
高さも身をかがめないとくぐれないほどなので、
具足を身に着けた兵は一人ずつしか門を通れないだろう。
門に入ると九十度左折する形で上り階段になっているので、
敵が侵入する前に扉を閉め、廻りの石垣を崩して階段を石で詰めてしまえば、
敵の侵入を防ぐことができる構造になっている。 」
水ノ三門をくぐり階段を登り切ると、視界がぱっと広がり、 城の中枢、天守は目前である。
「 池田輝政は新しい天守を建てるため、 羽柴秀吉が天正八年(1580)に建てた三重の天守を解体して、 用材は乾小天守に転用されたと伝えられる。 」
狭い空間に人がごった返している。
ここには直進すると天守閣、右折すると下(広場)に降りていく通路が設けられている。
この通路は後世作られたもので、
往時は広場(備前丸)に面した櫓が建っていて、ここはその壁で閉ざされた空間だった。
そのまままっすぐ突き当たり、右に九十度折れると 「水ノ四門」がある。
「 水ノ四門も土塀の下に設けられた埋門で、 門内はすぐに上り階段で、また、門内には石を詰める空間がある。 敵兵は水ノ四門に向かうと西小天守を完全に背後に回すことになり、 背後から攻撃されることになる。 」
水ノ四門に入るとすぐに左折して上り階段、階段を登るとさらに左折する。
すなわち、四門正面からは左にUターンする形で、
やっと天守エリアの入口である「水ノ五門」に向くことになる。
ここの縄張りは四門(外側)と五門(内側)の門で枡形を形成している。
「 水ノ五門は、天守の入口で楼門になっていて、 中に水ノ六門があり、水ノ五門を外側、水ノ六門を内側の門として 枡形を形成している。 即ち、水ノ四門から水ノ六門まで二重枡形になっていて、 天守への完璧な防御体制を築いている。 」
本丸北側の水の五門をくぐると内庭に出て、大天守に到着。
下記写真は池田輝政により、慶長十四年(1609)に建てられた大天守閣である。 五重六階、天守台地下一階、計七階の大天守と、三重の小天守三基(東小天守・西小天守・乾小天守)、 その各天守の間を二重の渡櫓で結ぶ連立式天守である。 その大きさと華麗なる姿に圧倒された。
「 大天守の外観は、最上部以外の壁面は大壁塗りで、
屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、
緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に、
懸魚が施され、多様性に富んでいる。
最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。
天守の外側は、初重は方杖付きの腰屋根を四方に、
東面中央に軒唐破風と下に幅四間の出格子窓(でごうしまど)で、
北東、南東、南西の隅には石落としを設けている。
二重目は南面中央に軒唐破風と下に幅五間の出格子窓、
東西に三重目屋根と交わる大入母屋破風を設けている。
三重目は 南面と北面に比翼入母屋破風、二重目から大入母屋破風が交わっている。
四重目は 南面と北面に千鳥破風、東面と西面に軒唐破風を設けている。
五重目は 最上部で、南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根を設けている。
壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られていて、
防火、耐火、鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。 折廻櫓には編目格子が施されている。
各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。 」
大天守の地下は東西約十一間半、南北約八間半の大きさで、穴蔵と呼ばれ、 簀の子の流し台と台所を付属させ、厠が三ヶ所設置されていた。
「 大天守の心柱は東西方向に二本並べ、地下から六階床下まで貫き、太さは根元で直径九十五センチ、 高さは二十四・六メートルの木材が使用された。 東の大柱の目通りは十尺、末口は五尺三寸の杉木材で、 西大柱も同様の木材だが三重目(三階床下付近)で松に継いであり、 根元から二尺に継ぎ目に補修した「貞享保四年丁卯の六月」の墨書きがある。 その他の柱用材は欅、松、犬桜など堅い樹種を二寸角にして使用している。 」
大天守の一階は東西約十三間、南北約十間で、
北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓がある。
大天守一階には二の渡櫓へ入口になる鉄板鋲打ちの扉がある。
説明板
「 大天守一階と二の渡櫓を結ぶ扉で、
火災と防備を兼ねた役割を担っていた。
大天守に入る扉は四ヶ所すべて二重扉になっていたが、そのうちのひとつである。
内側の門は片側に潜り戸が設けられ、
両扉とも内側からカンヌキがかけれるようになっている。
また、潜り戸の大きさは刀を差したままでは通れないサイズになっている。
また、天井に渡された梁には肘木を添え、荷重を分担させている。
こうした肘木は大天守では一階のみで見られる。
六葉釘隠しは長押などに出ている釘の頭部を隠すための装飾で、
六枚の葉をデザインしていて、
葉と葉の間に猪目と呼ばれるハートの隙間ができている。 」
二階は 一階とほぼ同様の構造で、地下から二階は身舎の周りに武者走りを廻し、 鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。
「 武者走りは身舎の外側を囲う廊下で、戦闘時は武士が行き交い、 敵兵に射撃を浴びせることを目的に造られたもので、 大人が五人横になっても余裕で歩ける程の幅があるが、 当時は鎧兜に刀を身に着けた侍が二人横並びで 走れる幅ということからこの幅になったという。 両側には武具掛けが所狭しと並び、往時は鉄砲や長槍が掛けられていた。 火縄銃や長槍などの重量物を掛けたので、竹で作られたものではなく、 L字型の金属製になっている。 」
破風の間は天守入口に架かる入母屋破風の屋根裏の空間で、破風の間といわれる。
格子窓の一つは開閉できるようになっている。
三階は東西十一間、南北八間で、 南に唐破風が付くため、
窓の位置は破風の上と高くなるので、
その下に石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、
屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補正している。
北側では石打棚の下に武者走りを内陣と板で仕切って、
内室のような構造にしていて、
建物の四隅に破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋を設けている。
四階は東西九間、南北六間で、三階同様に石打棚があり、
武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に二ヶ所、計四ケ所ある。
また、籠城の際に射撃すると室内に硝煙が充満するので、
それを排出するため、煙出し用の高窓が設けられている。
五階は東西九間・南北六間で、大広間一室のみで四重目の屋根裏部屋に相当する。
東西二本の大柱は地階から五階の梁まで通柱になっている。
柱が梁を受ける接合部分は昭和の大修理の際に鉄板で補強された。
六階は最上階で、東西七間、南北五間で、一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。
部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ、
長押や棹縁天井など書院風の意匠を用いている。
六階の壁面すべてに窓が開けられる予定だったが、
築城途中で設計が変更され、四隅の窓を塞いだことが分かったとある。
六階には播磨国大社二十四社の一つである長壁神社(おさかべじんじゃ)が祀られている。
光仁天皇の皇子の刑部親王を主祭神に、親王の王女という富姫を配祀する神社で、
江戸時代には「とノ二門」と「とノ三門」の間の小高い場所に鎮座していたといわれる。
「長壁神社の由来」
「 刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、
親王の王女という富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去した。
国司の角野氏がこの二人を守護神として姫山に祀って以来、
代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた。
天正八年(1580)頃、羽柴秀吉が姫路城の改築を始めた際、
縄張り内に位置するため、城下に移され、
播磨国総社である射楯兵主神社の境内に摂社として祀られた。
江戸時代になり、池田輝政が姫路城に入城した際、輝政が病に倒れると、
神社を移した祟りと噂され、城内へ戻されて八天堂として再建された。
寛永十六年(1639)、藩主が松平氏に変わると再度城下へ移され、
慶安二年(1649)、榊原氏に変わると城内の社殿を再建し、
城内と総社境内の二社併存となった。
近代になって、天守内で祀られるようになった。 」
大天守の屋根の鯱は、貞享四年(1687)の鯱を基に昭和の大修理の時に製作、
据えられた鯱だが、
現在は平成の修理の際に作成された鯱に代わっている。
鯱は通常、雌雄一対(阿吽)だが、基にした貞享の鯱が雌だったため、
大天守の十一の鯱は全て雌となっている。
なお、天守以外の櫓の屋根にも鯱が載せられていた。
ページが長くなるので、この後は後編としたので、続けてご覧ください。