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流氷館を出て、坂を下ると博物館網走監獄がある。
「 博物館は、網走刑務所が昭和五十八年(1983)に、 新しい建物に全面改築されることになったが、 歴史的に価値がある旧建物の一部を残すために、昭和五十八年(1983)、開館した施設である。 」
鏡橋を渡ると、入館受付があり、一人千百円を支払い、中に入るが、入館受付の右側に正門がある。
説明板「二見ヶ岡農場旧正門」
「 明治24年に始まった中央道路開削工事などの、外役労働が終わり、
網走刑務所が自給自足による農業監獄を目指して、本格的な開墾が始められました。
明治29年には、現刑務所から西方6kmの二見ヶ岡に外役所が設けられて、
やがて、日本一広大な刑務所農場(16,181,266u)がつくられました。
この門は、博物館に移築復原されている二見ヶ岡農場の正門を再現したもので、
博物館網走監獄の入場ゲートとしたものです。 」
この門前の右側に「映画監督・石井輝男の作品「網走番外地」のシリーズは、
網走刑務所を舞台に作られた。
石井監督の墓は、網走市内潮見墓園にある。」と書かれた赤御影石の碑が建っていた。
中に入ると正面に赤い煉瓦のおしゃれな門がある。
説明板「煉瓦門」
「 明治23年、網走外役所創設当時と、明治42年の火災焼失後復旧した正門と外塀は、
木造でした。 これを永久的な物にするため、明治45年に用地内粘土で、煉瓦の製造をはじめ、
大正8年から5年かけて、築造しました。 これが今も網走刑務所の象徴となっている
「赤門と呼ばれる」正門です。
高さ4.5m、全長1,086m、使用した煉瓦は150万枚で、基礎石や塀の上の笠石も
用地内から採掘した軟石を用いています。
この意匠は、日本近代建築初期のものとして重要視されています。 」
門前には遠くから見ると本物と勘違いする人形の看守が立っていた。
門側に立って、看守が不審者が入らないように勤務していた様子を再現している。
正門の中、右側に看守控え室があるが、悪天候の日や記録簿に記入する時などに、
この部屋で執務が行われた。
門をくぐると、刑務所の歴史を紹介するコーナーがある庁舎の建物がある。
この建物は国の重要文化財に指定されている。
説明板「旧網走監獄 庁舎」
「 本建築にみる紋章入りの破風をのせた正面車寄せ、押し上げ式の窓、木造下見張りは、
明治10年前後、学校や官公庁の建築にみられた様式で、
和洋折衷の「擬洋風建築」といわれています。
この旧網走監獄庁舎は、明治42年の火災後、同45年に再建されたもので、
網走監獄の管理棟として使用されていました。
昭和63年10月、博物館網走監獄に移築保存されました。 」
庁舎を出て、案内マップでは裏門方向へ向かい、味噌・醤油蔵や釧路地方裁判所網走支部法廷、
二見ヶ岡刑務支所などの色々な施設を見学することになっているが、
それらを見ると1時間半以上もかかるので、訪問はあきらめた。
帰り道になる右側の道に出ると、独立型の独居房があった。
説明板「煉瓦造り独居房」
「 明治時代、監獄内の規則を守らない者には食事の量を減らし、
一定の期間、生活させる罰がありました。
窓のない真っ暗な、この独居房での生活は受刑者にとって大変つらい生活でした。
この煉瓦造り独居房は、明治末期に造られ、平成3年3月に博物館網走監獄に移設されました。 」
その先の右奥には浴場があり、その中に囚人の浴場風景が人形で再現されていた。
説明板「浴場」
「 大勢の者が寝食を共にする刑務所では、皮膚病などが流行しやすく、そうした衛生面からも、
浴場は欠かせない施設のひとつで、
且つ、1日の作業終了後、受刑者にとって入浴は楽しいひと時でした。
網走刑務所では、「差湯方式」の浴場が、明治42年の大火で焼失後、
コンクリートの浴槽に蒸気で湯をわかす当時では、まことに近代的な浴場でした。 」
浴場の外に、煉瓦壁の一部が置かれていた。
説明板「網走刑務所赤煉瓦外塀の煉瓦」
「 この煉瓦は、現刑務所の外塀に使われていた煉瓦の一部で最近、工事用出入口を造るために、
取り壊されたものです。 布コンクリートの上に、敷石の基礎石を敷き、
その上に煉瓦を3丁3段積みから最上部は1丁半積んで、
更にその上に1尺巾(30cm)の笠石を置いたつくりになっています。 」
坂を登りきると、右手に移築された旧網走刑務所の中央見張所とそれを中央にした五つの監獄が 建っている。
説明板「旧網走刑務所 舎房及び中央見張所」
「 この舎房は、明治42年の火災で焼失後、それまでの並列型の舎房に代わって、
同45年に再建された放射状の旧網走監獄 舎房です。
中央見張を中心に、雑居房・独居房・鐙格子・矢筈格子といった独特の建築技法を採用し、
昭和59年9月まで、使用されていました。
明治時代の獄舎の名残を完全にとどめる舎房としては、
国内最大規模で、ことに木造は現存する我国最北端の監獄として、
学術的に貴重なものとされています。 」
中に入ると、放射状に伸びる五つの舎房の手前に、八角形の中央見晴がある。
「 放射状に伸びる五つの舎房を一ヶ所から、
監視できるように八角形の見晴所が設けられている。 」
網走監獄のこれらの建物は昭和六十三年(1983)まで、約百年に渡り使用されていた舎房で、 国の重要文化財に指定されている。
「 ここには、独居房、雑居房合わせて、226房あり、 最大700名を収容できました。 舎房の廊下には天窓がつけられおり、クイーンポストトラスの小屋根と鉄筋の開き止めが、 美しい空間を造り出しています。 」
第三舎は、雑居房で、総数三十二。 雑居房の広さは九・九〇六平方米で、
数人で起居していた。
部屋の中には棚があり、入口には木製の格子がはめられ、その上には鉄製の格子がはめられていた。
第四房は独居房で、80房があった。 部屋の広さは4.90uであった。
この建物を進むと、小屋根の下の三角テラスに裸の人形が屋根に向う様子になっている。
これは脱獄再現シーンである。
第四舎第24房に収容されていた、白鳥由栄は青森刑務所、秋田刑務所、網走刑務所、
札幌刑務所と、四回脱獄したつわものである。
秋田では収監された鎮靜房の天窓の釘が腐りかけていることに気付き、布団を丸めて立て、
よじ登って脱獄。
網走では、味噌汁で手錠と視察孔の釘を錆びさせ外し、関節を脱臼させて、室外に出て、
天窓を頭突きで破り、煙突を引き抜いて脱獄。 時は第二次大戦の昭和19年。
札幌では、隠し持った金属片で鋸を作り、床板を切断、食器で床下にトンネルを掘り、脱獄。 」
中央見張所を出て、来た道を引き返す。
先程の煉瓦造り独居房を過ぎると、左側に教誨堂があるが、国の重要文化財に指定されている。
「 教誨(きょうかい)とは、僧侶、牧師などの宗教者が刑務所を訪れ、 受刑者に人の道を説き、犯罪ですさんだ気持ちを和らげ、更生へと導くことを言います。 明治45年(1912)建築の材料も、作業で山から切り出した木を使って作りました。 瓦も網走監獄の窯で焼いたものです。 宗教的な意味合いがある建物ですので、 「神仏の魂を宿す建物だ」と、特に精魂込めて作ったといわれています。 戦前(1945年)まで網走の教誨事業は、仏教の浄土宗東本願寺派の宗派が行っていたので、 正面には仏壇をこしらえ、阿弥陀如来像を安置していましたが、 戦後は舞台に改造し多目的に使えるようにしました。 昭和56年(1981)に移築復原し、平成17年(2005)国の重要文化財に認定されました。 」
出口手前右側にあるのは、哨舎である。
「 これは、外部からの侵入や受刑者達の行動を監視する見張所のことです。
明治13年に内務省が制定した図式に基づいて、
全国各地の刑務所では出入口に様々な色や型の哨舎を設けています。
この哨舎は平成5年まで、実際に網走刑務所で使用されていたものを移築したものです。 」
小清水原生花園から知床そして風蓮湖へ
網走監獄を跡にして、今夜の宿のウトロ温泉に向う。
30分程走ると、左側に「網走国定公園小清水原生花園」の建物がある。
ここは濤沸湖の植物と渡来する鳥を観察する木道が設置されている。
小清水原生花園の看板の先を上ると踏切があり、釧綱本線の原生花園駅がある。
天覧ヶ丘展望台からは濤沸湖が遠望できた。
オホーツク海側には近く、草叢にハナナスがちらほら咲いていた。
また、エゾカワラナデシコ(?)の花も咲いていた。
北海道の花の時期は短く、前回訪れた時は花は一つも咲いていなかったので、
今回の訪問で目的の一つが果たすことができた。
小清水原生花園から一時間で、オシンコシンの滝に到着した。
説明板「知床世界自然遺産 オシンコシンの滝」
「 オシンコシンとは、「そこにエゾマツの群生するところ」を意味するアイヌ語に由来します。 流れが2本になっていることから、別名「双美の滝」とも言われています。
この滝は平成2年に日本の滝100選に選定されました。 」
平成十四年(2002)九月二十六日にも訪問していて、その時は夕日で滝が渋茶に染まっていた(右下写真)
17時45分、ウトロにある知床第一ホテルに到着。
温泉に入る。源泉は6号・9号・11号・12号・13号の混合泉で、61.2度、pH6.75、無色澄明、
塩味、無臭と温泉分析書にある。
海側に開けた露天風呂に入った。
食事はバイキングだが、なかなかうまかった。 値段も高かったが、部屋も広く、
新しく泊まってよかったと思った。
前回はこのホテルより高いところにある知床プリンスホテルに泊まった。
近くにオートキャンプ場があり、知床八景の一つ、夕陽台からは港が見える絶好のローヶ―ションで、当日はウトロ港にある、知床八夕八景の一つ、オロンコ岩に夕日が沈み、その残照で海がが染まり、すばらしかった。
翌七月二十日、根室半島チャシ跡群に向う。
知床峠に向い、見晴橋を渡ると左側の道道93号に入る。
くねくねした道をしばし進み、左に入ると知床五湖の入口である。
ここには展望台があり、しばし眺めた。
「 原生林に囲まれてたたずむ幻想的な5つの湖からなる。
周りの樹林や知床連山を湖面に写して、静寂を保っている姿は、原始の中の楽園にふさわしい。
高架木道の展望台からは、第一湖と知床連山の大パロラマが見渡せる。 」
道を引き返し、幾つかの峰を越えると知床峠に到着した。
知床峠は、斜里町ウトロと羅臼町を結ぶ「知床横断道路」のピークにある峠で、
標高738メートル。 道の脇が展望台で、振り返ると、知床連山のなだらかな風景が見られた。
知床峠からくねくねした道が続き、羅臼入口のバス停先で大きく左にUターン。
その先も大きくカーブしながら下り、右側に熊越の滝を標識を見ながら、知床大橋を渡る。
羅臼温泉郷を通過し、坂を降りきると左手に羅臼漁港があり、我々は羅臼には寄らないので、
羅臼本町から国道335号(国後国道)を海岸沿いに走らせていく。
標津の手前で、国道244号に変わるが、羅臼から標津までは約一時間の距離。
ポー川史跡自然公園や三本木遺跡があり、このあたりは古くから開かれていたことが分かる。
標津には北方領土館や標津サーモン科学館があるが、寄らずに行く。
その先、野付分岐バス停から左の道道950号に入ると、野付半島でナラワラ、トドワラ、竜神崎があり、
原生花園がある。
「 野付半島は、根室海峡に向けて飛び出した、
全長二十八キロの日本最大の砂嘴の半島である。
トドワラは、立ち枯れたトドマツ林のこと。
幾度かの暴風や嵐により、現在は数本が見ることはできない。
野付半島は、冷涼な気候から高山植物の可憐に花々が咲くと知られる。 」
下の写真は十九年前に訪れた時のもので、今はトドマツ林はほとんど消えてしまったようである。
この地には、黒ユリ、エゾカンゾウ、センダイハギ、ノショウブ、アッケシソウが咲くが、
この時はハマナスが咲いていた。 知床旅情に登場する花である。
野付分岐を国道244号を南に進む。 別海北方展望塔があり、
別海漁港の左を通ると道は根室湾と別れて、内陸へ入り、風蓮湖が見えるところに出る。
その先はまた内陸部に入り、風蓮川を過ぎると根室市明郷で、その先の厚床2丁目交叉点で、
左折して国道44号に入る。
しばらく走ると左側の風蓮虎のほとりに、道の駅スワン44ねむろがある。
「 手付かずの自然が色濃く残すラムサール条約登録湿地「風蓮湖」に隣接し、 湖に沿って木道が整備され、風蓮湖を望む展望台が設置されている。 春と秋はオオハクチョウ、夏はタンチョウ、冬はオオワシ、オジロワシと、 四季を通して様々な野鳥が訪れる風蓮湖はまさに野鳥の楽園です。 」
当日、木道は熊の足跡が見つかったと、進入禁止で、残念。
店内に入るとガラス越しに風蓮湖が見えた。
昼食には花咲蟹ラーメンを食べたが、おいしかった。
道の駅を出ると、温根沼と根室湾の上に架かる温根沼橋を渡る。
この後、100名城のスタンプをもらうため、根室市歴史と自然の資料館へ行った。
ナビで行ったが、借りたレンタカーが古く、ナビも古いため、新しい道をナビを使わず走り、
出たところからはナビに従って、到着した。
花咲港の北東にあり、南に進むと花咲灯台車石があるところに位置し、
隣は花咲港小学校である。
「 レンガ造りの建物は、昭和十七年(1942)に、
大湊海軍通信隊根室分遺所として建設され、戦後は花咲港小学校として使用されたが、
平成二年から根室市郷土資料保存センターとして、郷土資料の収集、保存を行い、
平成十六年から根室市歴史と自然の資料館として、博物館相当施設の認可を受けた。
市内遺跡から出土した考古資料、ロシア初の遺日使節であるラクスマンの根室来航の資料、
樺太に設置された国境標石などの歴史資料、シマフクロウ、ラッコなど、
この地域を特徴づける自然資料を展示している。 」
所在地:根室市花咲港209番地 TEL:0153−25−3661
月、祝祭日、12/29-1/3休 9時30分〜16時30分
根室半島チャシ跡群
ここで、スタンプをゲットし、資料も手に入れたが、後日、地図を見ると、根室駅前バスセンター前の観光インフォメーションセンター(0153-24-3104)の方が場所に近いと思った。
いよいよ、根室半島チャシ跡群に向う。
「 チャシは北海道を中心に千島列島、樺太、東北地方の一部地域に見られる、
独特な形状をした砦、または城の総称である。
チャシは、アイヌ語で、「柵囲い」を意味し、砦、祭祀の場、見張り場など、
多目的な用途に使われていたとされる。
チャシは北海道で約五百ヶ所が確認されていて、道央から道北にかけて多く分布するが、
道内の自然の地形を巧みに利用し築かれた簡易なものがほとんどである。
純粋な軍事施設というより聖域などの側面ももっていて、祭祀に利用される場合が多かった。
また、部族同士の談合(チャランケ)や漁業のための見張り場(鮭の遡上監視など)として、
使用されることも多かった。
根室市内に32ヶ所のチャシ跡が現存していて、
これらの多くは、16世紀〜18世紀に造られたと考えられており、海に面した崖上に、
半円形や方形の壕が単独もしくは連結して構成されている。 」
チャシ群の中で、ノツカマフ1・2号チャシ跡とオンネモトチャシ跡が、
根室市により整備していると、資料館で伺ったので、訪れることにした。
花咲港から敷島町2交叉点に出て、右折して市役所前を通り、
その先の交叉点を左折して坂を下り、本町3交叉点へ出る。
右折して道道35号根室半島線に入り、道なりに進む。
出発して約一時間、ノツカマフ1・2号チャシ跡は、
風力発電の二本の風車が立つところの左手にあった。
道道から左に入ったところに二台分の駐車場があり、そこが入口である。
ここにある「牧の内文化遺産」の説明板には、旧海軍飛行機滑走路跡も表示されていて、
道の手前の右手奥にあったようで、
飛行場建設の際には根室駅から牧の内まで引込線が引かれた、とある。
ノツカマフ1・2号チャシ跡があるところまでは、笹が茂る草原で、
ヒオウギアヤメなどの野生の花が咲いていた。
ノツカマフ1号と2号チャシ跡に分かれるところに、説明板が立っている。
説明板の「ノツカマップの歴史」の部分
「 この地は、ノツカマップというアイヌ語地名で、
「岬の上にあるところ」という意味である。
1754年には松前藩の役人やこの地を経営する和人が住むようになりました。
1778年にはロシアの商人、シャパーリンやオチェレデンがノツカマップを訪れ、
交易を申し出ました。
1779年には、この地域を治めていた和人が、
アイヌ民族に対し過酷な労働や暴力的な支配を行ったことが原因で、
クナシリやメナシ(羅臼・標津)地方のアイヌ民族が、
和人七十一人を殺害する「クナシリ・メナシの戦い」がおきます。
その後、松前藩は鎮圧隊を派遣し、戦いに加わったアイヌ民族三十七人をこの地に集め、
処刑しました。
それまで、ノツカマップはこの地方の中心でしたが、
この事件をきっかけに現在の根室港周辺に中心が移りました。 」
説明板の「ノツカマフ1・2号チャシ跡」部分
「 ノツカマフ1号チャシ跡は、半円形の壕が二つ連結していて構成されています。 壕の幅は約5m、深さは2m〜3mと深く、壕の一部に「土橋」と思われる高まりがみられます。ノツカマフ2号チャシ跡は、半円形の壕が1ヶ所巡り、
幅2〜3mで、深さ50cm程度と、壕が浅く作られています。
チャシ跡からは北方領土の国後島や歯舞群島を見渡すことができます。 」
右手に行くと「国指定史跡 根室半島チャシ群 ノツカマフ1号チャシ跡」の標柱が立っていて、その先には湾が広がっている。
ノツカマフ1・2号チャシ跡は、ノツカマップ湾に突き出した岬の上にある、
「面崖式」のチャシ跡である。
「 オホーツク海を一望できる崖上に半円形の堀が巡る。 」 とあったが、草が茂っているので、
確認は難しいが、左側の段差になっている(落ち込んでいる)ところが壕なのだろう。
2号チャシ跡にも、標柱が立っている。
標柱に「チャシ跡は、十六〜十八世紀ころ造られたアイヌの砦跡です。
当チャシ跡は一条の半弧状の壕が掘られ、ノツカマップ湾を臨んでいます。
壕は深さ五十センチと非常に浅く、完成されていないチャシかもいれません。 」 とあった。
ノツカマフ2号チャシ跡は、ノツカマップ湾に突き出した岬の先端にあり、
海側は崖で海に落ち込んでいた。
右側の半円状になっている部分が壕跡と思われるが、確信は持てなかった。
続いて、オンネモトチャシ跡に向う。
オンネモトチャシは根室市内から道道35号根室半島線で約40分、納沙布岬から約10分のところにある。
道道35号を15分程走ると、左側に入口の看板があり、左折すると下り坂で、
四台程停まれる駐車場がある。
その先はオンネモト漁港であるが、民家や漁港に入らぬように、という標示板がある。
駐車場を出ると、「オンネモトチャシ跡→」の看板と「温根元野鳥観察会→」の看板がある。
坂を上っていくと、「オンネモトチャシ跡」の説明板がある。
国指定史跡 根室半島チャシ跡群 「オンネモトチャシ跡」
「 チャシ跡は、アイヌ文化期(13世紀〜19世紀)の砦跡とされていますが、
チャシ跡の築造は、18世紀ころまでとされています。
砦のほかにも見張場、聖地、祭祀場などの使われ方をしたようで、
その規模や形状は様々です。
北海道内には500以上のチャシ跡が確認されています。
特に、道東地方はチャシ跡の分布密度が高く、根室市内にはチャシ跡が32ヶ所現存しています。
そのほとんどが、オホーツク海を臨む海岸段丘上に作られています。
根室半島のチャシ跡群は保存状態が良好なこと、分布密度が高いこと、
寛政元年(1789)の和人のアイヌ民族に対する非道が発端の「クナシリ・メナシの戦い」と関連性が
高いことから、根室半島に分布する24ヶ所が、「根室半島チャシ跡群」として、
昭和58年に国指定史跡となっています。 」
説明板の所で右折すると石段があり、その上には「オンネモトチャシ跡」の標柱が立っている。
チャシ跡は丘先式、面崖式、丘陵式、孤島式の四つの形式に分類されるが、
根室半島では岬や丘の一部を区切ってつくられた面崖式(めんがいしき)が一般的である。
オンネモトチャシは岬や丘の先端に孤状の壕により区画された面崖式チャシである。
下の地図はオンネモトチャシ跡で、現在地とあるのは説明板のあるところ。
その先が丘陵地になっていて、その北側に二つの平坦面があり、これがチャシ跡である。
中央の写真が上空から見たオンネモトチャシ跡である。
「 オンネモトチャシは、温根元湾の西岸に突出した岬の上に盛土して、 壕を区画し、盛土頂上に平坦面を2ヶ所作り出している。」
岬の先端に築かれたチャシを訪れると、周囲を巡る幾条もの壕(空堀)の様子がよく観察できる、
と聞いていたが、草に覆われているので、壕の跡か否かの判断は難しかった。
平坦部に上ると、「根室市指定史跡 オンネモトチャシ」の標柱が立っていて、
その先に温根元漁港、ノサップ岬灯台が見えた。
振り返ると来た道が見えたが、左側のチャシに対し、壕のように見えた。
説明がないので、確証はないが、壕跡と思えた。
また、温根元漁港から側面を見ると、「お供え餅」のように見え、形が良好なチャシ跡として、
知られる、ともあったが、漁港への立ち入りは遠慮とあったので、確認はできなかった。
以上で根室半島チャシ跡群の見学は終了とした。
100名城といっても、根室半島チャシ跡群に残っているのは平坦部分と不明瞭な壕のみで、
これが100名城に選定されたのは疑問が残る。 アイヌ文化の遺産ということで、
選出されたのかもしれないが、続100名城でよかったのではないだろうか?
日本100名城のスタンプは根室市歴史と自然の資料館(0153―25―3661 根室市花咲港209 9時30分〜16時30分)
根室駅前の根室市観光案内所(根室市観光インフォメーションセンター 0153―24―3104 9時〜17時)
または根室市観光物産センター(0153-28-2445)にて
公共交通が利用できるのはオンネモトチャシで、JR根室駅から根室交通バス「納沙布線」で35分、 「納沙布岬」で下車、温根元漁港方面に徒歩約20分
この後、ノサップ岬を訪れた後、川湯温泉に泊まり、
阿寒湖見学、帯広を経由し、羽田へ戻った。
旅の続き 「摩周湖・阿寒・帯広の旅」を御覧ください。