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隅櫓の前方に礎石だけが残っている場所があり、 その前に「軍役蔵跡・買物所」の説明パネルがある。
説明パネル「軍役蔵跡・買物所」
「 角櫓の南に位置するこの場所は、絵図面にある軍役蔵と買物所の一部にあたる。 発掘調査の際、両施設を区画すると考えられる南北方向の溝をはさみ、
西側の軍役蔵の敷地内には蔵が3棟南北に立ち並び、南端には防火用水とみられる溜枡2基があった。 また、東側の買物所の敷地北西部には蔵が1棟建てられていた。
「軍役蔵」「買物所」といった藩の施設が具体的にどのようなものであったか、
はっきりしないが、これらの蔵の構造は土塀で、漆喰塗りの土蔵風建物であったと考えられる。 」
隅櫓から左、胸川に沿って長塀(土塀)が続く。
説明パネル「長塀跡」
「 球磨川と胸川に面した石垣上には、要所に櫓が築かれ、櫓や門の間には塀が立てられた。
宝永4年(1707)の大地震で塀の一部が損壊すると、外側の下部には腰瓦が張られた。
また、塀の一部には石落しのための突き出し部があった。 」
長塀(土塀)と多聞櫓は平成五年に復元された建物である。
説明パネル「多聞櫓跡」
「 石塁上に建つ細長い櫓は、一般的に多聞(多門)櫓と呼ばれる。
人吉城の多門櫓は、城の正面口である大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓である。
大手門櫓・角櫓と同様、江戸時代前期の1640年代の建てられ、
宝永4年(1707)の大地震で傾いたので、修理されている。
幕末になると「代物蔵」として使用され、寅助火事でも焼失せず、
廃藩置県後の払い下げで撤去された。
写真は医師の佐竹文敬により、明治初期に撮影されたものである。
建物は石塁に合わせて鍵形となっており、梁間2間(4m)、桁行25間(50m)で、
瓦葺きの入母屋造りの建物である。
壁は上部を漆喰塗りとして窓をつけ、下部は板張りとしている。 」
多聞櫓前の道の反対に縦列で数台停められるスペースがあるが、 その上にある養生中の空地に礎石群があり、「渋谷家屋敷跡」の説明パネルがある。
説明パネル「渋谷家屋敷跡」
「 城の正面である大手門周辺は、城の防衛にとって重要な場所であるので、
監視のための番所を置き、重臣の屋敷を配置して戦時に備えた。
この場所は寛永16年(1639)の絵図では、西然太郎屋敷と下台所屋敷であったが、
翌年の御下の乱(おしものらん)によって焼失した。
その後、天保期(1830-1844)の絵図では、
家老の渋谷三郎左衛門(150石)屋敷となっている。
発掘調査の結果、渋谷家は鍵形の母屋を中心に、土蔵、泉水、井戸などを配しており、
屋敷周りには塀をめぐらしていた。
母屋は広さ262u(約80坪)で、台所、広間、座敷、寝間など5部屋からなり、
台所隅には食糧貯蔵用の穴倉がある。
広間前の泉水には、魚の寝床となる壺2個がすえられていた。
屋敷の北西部には、塀で囲まれる木屋(小屋)の掘立柱建物(2間X4間)がある。
平成3年復元整備。
平成5年3月 人吉市教育委員会 」
多聞櫓前に戻ると、多聞櫓の左側の道の両側に石垣があり、「大手門櫓台」の説明パネルがある。
説明パネル「大手門櫓台」
「 胸川御門とも呼ばれた大手門は城の正面入口となる重要な場所であったので、
石垣の上に櫓をわたして、下に門を設けた。
大手門櫓は正保年頃(1644〜1648)に建てられ、享保5年(1730)に造り替えられたが、
明治初期の払い下げにより撤去されている。
門の南側には櫓台から胸川に対し、石垣を堤防状に築き、雁木(城壁にのぼるために設けられた石段)
を用いて、多くの城兵が一度に門脇の塀裏に駈け上がれるように工夫されている。
現在は、横に長く雁木が続いているが、18世紀後半に描かれたとされる「人吉城大絵図」には、
大手門の櫓台から続くコの字構造の塀が太字で描かれている。
発掘調査では、この絵図と同じように、長さ1m大の巨石が列をなしていることが確認され、
コの字構造の塀の基礎と推定している。
平成27年3月 人吉市教育委員会 」
橋を渡ると裁判所や焼酎蔵繊月酒造があるが、橋を渡ったところで、引き返した。
橋の左手には隅櫓と長塀と多聞櫓が球磨川に沿って続き、綺麗な景観であった。
「 人吉城は、北側と西側の球磨川と胸川を天然の堀とし、
東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用して築かれていた。
源頼朝に仕えた遠江国相良荘の国人・相良長頼は、建久二年(1198)、
肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。
この地は平頼盛の家臣・矢瀬主馬佑が城を構え、支配する所であった。
下向した長頼は反抗する主馬佑を鵜狩りと称して誘き寄せ、謀殺し、
主馬佑の城を拡張し、人吉城を築城した。
戦国時代に入ると、相良氏は球磨地方を統一するが、
家督問題で内訌が生じた後の大永六年(1526)七月十四日、
日向真幸院を治める北原氏の大軍により、人吉城は包囲された。
相良義滋は策を用いて北原氏を追い返し事なきを得たが、
これが相良氏入城後の人吉城が他家に攻められた唯一の出来事である。
戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の名和氏や大友氏などに絶えず脅かされ、
よく耐えていたが 、天正九年(1581)、島津氏に降伏し、臣従する。
義陽の子・相良頼房は天正十五年(1587) 、羽柴秀吉の九州征伐の際、島津側で、奮戦するも降伏。 家臣・深水長智による交渉により、秀吉から島津氏より独立領主として、
人吉城と領地を安堵された。
天正十七年(1589)、相良長毎(ながつね)が大改修を開始。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当初は石田三成方(西軍)に付き、伏見城などを攻めるが、
本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、
徳川家康より二万二千石の領地を安堵された。
慶長六年(1601)、本丸・二の丸などの詰の城部分や御館(おたて)部分を竣工。
その後、度々工事の中断があり、寛永年間(1624〜44)に石垣の完成をみ、
二十二代頼寛の寛永十六年(1639) 漸く近代城郭に生まれ変わった。
享和二年(1802)には城内から出火、 文久二年(1862)には城下町の鍛冶屋から出火があり、
「寅助火事」と呼ばれる大火となった。
この二度の火災で城は全焼。
その後、一部の建物が再建されたが、明治四年(1871)、廃藩置県により廃城となり、
払い下げにより、城内の建造物は撤去された。 」
長塀(土塀)にはところどころに、石落し(黒い部分)が付けられている。
橋の上から復元された多聞櫓と、かって大手櫓が架かっていた櫓台を見る。
説明パネル「大手門」
「 大手門は、城の正面入口となる重要な場所にあるため、
門の上に矢倉(櫓)を造り、その櫓を鍵形の通路にして、これに橋を架けていた。
(現在の大手橋の位置と異なる。
櫓は、間口24m、奥行5mの建物と見られ、
切妻型の瓦葺きの屋根、壁は上部は漆喰塗り、下部は板張とする。
大手門橋は昭和初期まで残っており、高畠という人物が描き残している。 」
以上で西外曲輪の見学を終了し、
車を南東にある観光駐車場に移動させ、山側の城郭跡に向った。
道の向うに相良神社があり、交叉点の左手に元湯がある。
このあたりは水没したので、現在は再建途上である。
交叉点を渡ると勝海舟の書がある、日蓮宗の林鹿寺である。
道の反対は蓮池で、相良神社の石垣がある。
池に架かる橋を渡り、境内に入ると鳥居が建っているが、橋の手前に
「御館(みたけ)入口」の説明パネルがあった。
説明パネル「御館(みたけ)入口」
「 御館は代々の城主が居住していた所で、南を正門入口とする。
前には溜池があり、多脚式の石橋を渡った所に、
本御門が建ち、その内側右手に門番所を置いて出入りの監視をしていた。
石橋は、明和3年(1766)に山田村の石材を切り出し、領内各村に割当をして運搬させ、
建設されたが、各村民は作業割当日の翌日に交代で踊りを披露している。 」
江戸時代には、石橋の先に正門である御門があり、
藩主の館、一般的には御殿といわれる館が建ち、監視をする番所があった。
参道に「昭和53年 駆逐艦秋月戦没者慰霊祭 斎行」の奉納看板があった。
奉納看板「昭和53年 駆逐艦秋月戦没者慰霊祭 斎行」
「秋月型駆逐艦 第三艦隊/第十戦隊/第六十一駆逐隊 昭和十八年八月時」とあるが、秋月型の駆逐艦は13隻造られた。
看板にある秋月は秋月の二代目駆逐艦で、第二次世界大戦で、南洋の海戦で奮戦し、
海の藻屑に散っていった船である。
昭和十七年、ガダルカナル海峡で戦った秋月の所属する六十一駆逐隊は、
大きな被災を受け、駆逐艦秋月は第61駆逐隊から除籍され、
サイパンから修理のため、長崎へ廻送された。
翌、昭和十八年、佐世保に転送された秋月は被害を受け無くなっていた艦首に、
建造中の霜月の艦首を取り付けるという大工事を行い、完成したので、
10月31日付けで「第3艦隊・第十戦隊・第61駆逐隊(初月、涼月、若月)」に再編入された。
この看板にある秋月はこの大修理を受けたこの船のことであろう。
昭和十九年十月、小沢機動部隊の護衛としてエンガノ岬沖に進出し、
十月二十五日午前八時三十五分、米軍の爆撃機により、艦中央部に爆撃を受け、
機関科70名の内、3名を除き死亡。
更に、酸素魚雷の誘爆により大爆発が起き、秋月の機能は完全に停止。
まもなくして、乗組員に全員避難指示が出されが、真中から二つに折れて、沈没。
生存者は近くにいた槇に収容されたが、槇も被災中でもあり、海中から救助はままならず、
秋月乗務員のうち、183名の戦死者を出した。
槇は被弾により戦死者を31名出し、秋月乗務員も4名戦死した。
同年11月、秋月と初月の喪失、そして、駆逐艦司令の死により、第六十一駆逐隊は解散になった。 」
以上は駆逐艦秋月の顛末であるが、この看板の寄進した方々は機関室以外にいた人達だったのだろう。 」
看板の奥に相良氏が御館のために築園した庭園が残っている。
説明板「御館(みたち)跡庭園」
「 御館は、天和三年(1683)に城主相良氏の居宅が置かれて、藩政の中枢となった場所である。
公的な接客・饗応を行った表御殿の南端には、玄関がついた大広間や使者ノ間がおかれていて、
この庭園を眺望できるようになっていた。
本庭園は、霞がたなびくような中島を浮かべる池と優美な稜線を重ねる築山群による雅やかな空間の
中に、立石(りっせき)群からなる力強い滝石組を要に、三様を見せる石橋を見所として配する
池泉回遊式庭園である。
庭園空間は、園内にとどまらず、背後の高御城や原城の丘と一体ものであり、
重要な鑑賞位置である池の北岸の礼拝石と滝口を結ぶ軸線は、中世相良氏の古城跡へと向かう。
構想は、水の流れに鎌倉以来の相良氏の歴史を重ね、
一族の由緒をたどる祖先敬慕の遙拝庭園である。
優雅にして力強く、小空間にして宏大であり、眺めにも勝る相良氏の想い。
歴史ある大名ならではの名園と言える。
監修 作庭家 野村勘治
平成二十四年三月 人吉市教育委員会 」
参道の奥にあるのは相良護国神社の拝殿である。
「 明治十三年(1880)、人吉城の御館跡に相良神社と相良護国神社が創建された。
拝殿の右側に宝物館があり、奥に相良護国神社の本殿がある。
拝殿の左側には渡り廊下で続く建物があるが、これは相良神社である。
相良家初代〜36代の歴代当主の名札があり、歴代当主が祭神として祀られている。
護国神社の社地は水ノ手門跡の石垣の裏から蓮池までの縦に長い長方形である。 」
いよいよ、三の丸から二の丸、本丸に向う。 (人吉城 続き)をご覧ください。