東 海 道


川崎宿から神奈川宿  




{左}馬嶋病院(上手土居)  
小川町停留所前の馬嶋病院のあたりに、川崎宿の西の見附の上手土居があった、といわれ、幕末に起きた生麦事件後は、外国人を警護するため、第一関門が設けられた。  土居とは切石を積んでもので、宿場を入る旅人を監視していた。 東海道は、この先、平坦で真直ぐ続く一本道の八丁畷となる。  畷(なわて)とは、田圃や畑の中をまっすぐに続く道のことであるが、
{左}八丁畷 芭蕉の句碑 
川崎宿を出ると、人家がなくなり、道の両側に麦畑が拡がっていて、川崎宿から隣の市場村まで、八町(約870m)続いたことから、この名が付いた。  一キロ程先の右側の少し小高いところに、芭蕉の句碑がある。  芭蕉は、元禄七年(1694)五月十一日(現在の六月下旬)、江戸深川の庵をたち、故郷の伊賀への帰途、送ってくれた門人達と、八丁畷にあったよしず張りの腰掛茶屋で休憩したが、別れを惜しみ、翁の旅を見送りて と題し、各人が俳句を詠みあった。 
{左}芭蕉の句碑   
芭蕉は弟子達に  「  麦の穂を  たよりにつかむ  別れかな  芭蕉  」 という句を返し、旅立ったが、その年の十月に大阪で亡くなったので、弟子達との別れの句になった。 芭蕉の死後、百三十年ほど経った文化十三年(1830)に、俳人の一種が建立した句碑で、最初は上手土居にあったのをここに移転したのである。 
{左}慰 霊 塔
二十メートル程歩くと、京浜急行の八丁畷駅で、右側の踏切を渡ると、左側に、昭和九年に建てられた慰霊塔等がある。 周辺から、江戸時代のものと思われる人骨が多く出土した。 江戸時代には、大火、洪水、飢饉や疫病の発生により、頻繁に大量の死者がでたようで、川崎宿ではそれをまとめて宿はずれのこの地に埋葬したものらしい。  それを慰霊するために、建立されたようである。 市場上町の交差点を過ぎると、横浜市鶴見区になる。 
{左}熊野神社
少し歩くと、右側に熊野神社がある。 弘仁年間に、紀州熊野神社から勧請したと伝えられ、徳川家康が入国に際し、武運を祈ったされる神社で、最初は旧市場村八本松にあったが、天保年間に東海道沿いに移され、明治五年に現在地に移った、という。 神社の前の交差点を左に入り、京急鶴見市場駅前に行くと、手前の右側を少し行ったところに、専念寺がある。 ここには、紫式部の持念仏と伝えられる市場観音と富士山から飛んできた夜光石やイボ地蔵が祀られて
{左}市場村一里塚
いる。  街道に戻り、三百メートル程歩くと、市場橋バス停のそばの左側に、社が祀られていて、その前に、市場村一里塚とある石碑が建っていた。  江戸から五番目の一里塚で、道の両側にあったのだが、今は左側の土盛りされているところに、中町稲荷が祀られているが、これが一里塚の名残である。 右側は床屋になっていた。 江戸時代には、京急鶴見市場駅付近は海が間近にあったので、 漁業や製塩業で生計を立てる人が多く、天文年間(1532〜1554)には、

{左}双体道祖神
海産物の市場が開かれるようになったため、市場村という地名になった、と一里塚の案内板にあった。 その先の民家の一角には、双体道祖神が祀られていた。 更に、馬頭観音を祀った小さな祠の脇には小さな地蔵さんが鎮座していた。 また、下町稲荷の社もあった。 これらは皆、民家の一角を削ったようにして祀られているので、信仰心の強い土地柄なのだろう。 右側の光明山金剛寺を横目に見ながら通り過ぎると、少し上りになり、鶴見川橋が見えてきた。  
{左}鶴見橋関門旧跡碑 
鶴見川に架かる鶴見川橋は、アーチ形の立派な橋で、歩道の巾もきちんと取られていた。  橋を渡ると、少し下りになるが、左側の植栽の中に、旧東海道鶴見橋の木柱に、武州橘樹郡鶴見村三家と書かれていた。  その脇には、鶴見橋関門旧跡の石碑があった。  幕府は、万延元年(1860年)四月、横浜の外国人保護する目的で、横浜に入る者を取締るため、この橋に関門を設けた。 さらに、文久弐年(1862)八月に起きた生麦事件後には、外国人保護を強化する 
{左}寺尾稲荷道追分   
ため、この橋に川崎から五番目の関門番所を設けた。  五十メートル程歩くと、鶴見上町交差点で、道を越えた右側の鶴見図書館の前に、馬上安全 寺尾稲荷道の大きな道標があり、従是廿五丁とある。 ここは、寺尾稲荷へ向う道の追分で、寛永二年(1705)に道標が建てられたが、その後、壊されても、二度建て替えられた、という。
{左}鶴見神社拝殿
この道は、馬場を通り、菊名に抜ける寺尾道や末吉橋を渡り、川崎へ向う小杉道に繋がる重要な道だった。 駅東口入口交差点まで行くと、自動車が増え、両脇には、マンションのビルが連なっていた。 交差点を越えて、少し歩くと、右手奥に鶴見神社がある。 由緒書によると、 「 往古から杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する社であった。 その創建は、約千四百年前の推古天皇の御代と伝えられ、続日本後記承和五年(約千百八十年前)二月の項に、  
{左}寺尾稲荷道道標
武蔵国都筑郡杉山の社、霊験あるを以って官幣を之に預らしむ、 とある。 」 としており、武州で一番古い神社のようで、一村一社合祀令により、周囲の神社が統合された際、現在の名前になった。 境内には、文化十一年(1828)に建立された寺尾稲荷道道標が保存されていた。 先程見たのは複製で、ここにある道標が本物だったのである。 江戸時代、道標は東海道筋の三家稲荷に設置されていたが、神社合祀を行なったとき、三家稲荷も神社の境内に移され、
{左}JR鶴見駅付近
道標も移ってきた、という訳である。 東海道は、鶴見神社の参道入口で、くの字に曲がっているので、そこを左折すると、右側にJR鶴見駅、そして京浜急行鶴見駅に突き当たる。 このあたりが、旧鶴見村の中心地である。 川崎宿と神奈川宿は、二里十八町(9.7km) の距離であるが、中間にあたる鶴見に立場があり、旅人相手の茶屋が並んでいた。 江戸名所図会には、鶴見村最大の志からき茶屋の絵が描かれていて、「 生麦は河崎と神奈川の間の宿にて立場

{左}鶴見銀座
なり。 此地しがらき屋といへる水茶屋は、享保年間廊を開きしより梅干をひさぎ梅漬の生姜を商う。 往来の人ここに休はざるものなく今時の繁昌な々めならず。 」 と記述されているが、そのような面影はすっかり消えていた。 京急鶴見駅では、道に沿って、左側に進み、線路の高架をくぐると、駅の左側に出た。  鶴見銀座と表示されていて、飲食店や商店もあるが、その間にアパートなども出来て、 このままでは、早晩商店街はなくなるだろうと、思えた。 
{左}魚河岸通り   
その先の交差点で、第一京浜に出たが、東海道は国道を横切り、向かいの細い道に入る。 前方のJR鶴見線のガードをくぐると生麦五丁目で、右手には国道駅がある。 このあたりから道のにおいが変わってくる。 やがて、道の両脇が全て魚屋になってしまう。 まだ早いので、買い物客はまばであったが、魚河岸通りと呼ばれるところである。 江戸時代、左側の海から
{左}道念稲荷神社の社殿
揚がったばかりの蛤、蛸、イカばどを売っていたところで、今でも、三百メートルほどの間に、八十軒もの魚屋が並んでいる。 二百メートル程歩くと、道の右奥に慶岸寺があり、その手前に、子育て地蔵堂があった。 生麦四丁目に入り、五百メートル程歩くと、右側に道念稲荷の石碑があり、その先の鳥居の前には、左右にお地蔵様が祀られていた。 鳥居をくぐって進むと、道念稲荷神社の社殿があった。 毎年六月第一日曜日に行われる、 蛇も蚊も祭りは、数百年前
{左}神 明 社
から伝わるもので、横浜市の無形民俗文化財に指定されている。 その先、三百メートル程行くと、右側の住宅前のフェンスに、生麦事件の現場というパネルがあった。  今まで、生麦事件は、生麦事件碑のある所で起きた、と思っていたので、新発見である。  生麦三丁目に入り、県道六号と交差する交差点を横断して、少し先を右に入ったところに、神明社があるが、先程の道念稲荷と同様、「蛇も蚊も」に由来するお祭りが残っている。 
{左}蛇も蚊も
生麦が農漁村だった三百年前に始まった悪疫祓い豊漁祈願の行事で、氏神祭神の すさのうの尊にちなみ、大蛇によってこの疫病を退散させようと考え、萱で 長さ八間胴回り二尺の大蛇をつくり、これを担ぎ、「蛇も蚊も出たけ 日和の雨け 出たけ 出たけ」と大声に唱えながら、町内を練り歩き、最後にこの蛇体を海に流す行事である。 江戸時代の分間延絵図には、原町

{左}キリンビアビレッジ
立場と書かれて、その右側に神明社がある。 川崎宿から一里六町、神奈川宿から一里十二町にあった立場であるが、このあたりに茶屋の跡の表示はない。 今は原西自治会の名に、原の名が残るだけである。 右側は住宅地だが、左側は横浜に向って麒麟麦酒の工場が続いていて、工場がきれると、キリンビアビレッジがあった。 生麦事件は、幕末の文久弐年(1862)、薩摩藩主、島津久光の行列の前を横切ったイギリス人三人に、薩摩藩士が斬りつけ、二人は
{左}生麦事件の石碑
けがを負いながらも逃げ帰ったが、一人はその場で切り殺されたという事件で、このことが契機となり、翌年の薩英戦争へと発展した、といわれる。 第一京浜に合流すると、すぐの左側にあるのは、明治十六年に、鶴見の住人、黒川荘三が建てた生麦事件の石碑で、殺されたリチャードソンは事件の起きたところから逃れてきて、ここで亡くなった、といわれる。 ここから神奈川宿までは、第一京浜を歩き続けなければならない。 
{左}遍照院
江戸時代には、子安の左側は海だったと思うが、沖まで埋め立てられて、マンションや倉庫などが建っているので、その面影を追うのは不可能である。 東海道分間延絵図には、東子安村に一里塚と遍照院の表示がある。 武蔵国風土記にも、子安一里塚は左右とも東子安村地内にあり、右は榎、左は松を植ゆ、 江戸より六里とあるのだが、その場所は確認できない。 遍照院は、子安通り交差点の先を右に入り、京浜急行の踏み切りを渡ったところにある。 
{左}神奈川通東公園
入江橋を渡り、京急子安駅を過ぎると、浦島町である。 浦島町交差点 の右側に京急 神奈川新町駅があるが、その手前の路地を入って行くと、神奈川通東公園がある。  江戸時代には、土居があり、神奈川宿の江戸見附があったところである。 また、長延寺があり、開港時にはオランダ領事館になったところでもある。 
{左}良泉寺   
ここから神奈川宿であるが、東海道の道は無くなっているので、第一京浜に戻ると、その先の右側に、良泉寺というお寺があった。 江戸時代には新町といわれたところだが、開港当時、外国の領事館に充てられることを快しとしない、この寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるという理由を口実にして、幕府の命令を断った、と伝えられる寺である。 良泉寺の角に、
{左}笠脱稲荷神社の石柱
笠脱稲荷神社の石柱が立っているが、天慶年間(938〜947年)に創祀、元寇の際には北条時宗より神宝を奉納されたという由緒ある稲荷で、社前を通行する人の笠が、自然に脱げ落ちたことから、笠脱稲荷大明神と称された、とあるが、この奥の京浜急行のガードをくぐった右手にある。 信号交差点を越えると、次の路地に入る。 このあたりは、江戸時代の荒宿町で、
{左}東海道分間延絵図
その先に神明宮と能満寺がある。 案内板に描かれた絵には、薬師堂、不動堂、その奥に本堂、左側に神明宮があり、この寺は神明宮の別当寺であった、と書かれていた。   神明宮の角を右折すると、神奈川小学校の脇にでた。 この場所は小学校の校庭の端で、壁面の一部に、タイルで、東海道分間延絵図が描かれていた。 
{左}金蔵院
この後、大田道灌の守護仏を平尾内膳が賜り、寺を草創した、といわれる東光寺に行ったが、門を閉ざしていて入れない。  一旦、第一京浜に戻り、神奈川二丁目交差点を渡り、東神奈川郵便局の角を右折する と、金蔵院がある。 平安末期に勝覚僧主により創られた古刹で、徳川家康より、十石の朱印地を許された、という寺で、。 立派な山門があり、境内には、徳川家康の御手折梅があるはずであるが、この寺も、閉じられていて、中には入れなかった。   

{左}成仏寺
京急仲木戸駅からの道は、歴史散歩道となっているが、その先の左側の神奈川地区センターの前に、復元された高札場がある。 成仏寺の門前の左側には、史跡外国人宣教師宿舎跡の石柱がある。 成仏寺は、鎌倉時代の創建の古刹で、三代将軍徳川家光の上洛に際し、宿泊所となる神奈川御殿を造営するため、現在地に移った。 安政六年(1859)の開港当初の
滝の橋 {左写真ー川の反対から写す}  
アメリカ宣教師の宿舎に使われ、ヘボン式ローマ字で知られ、和英辞典を最初に作った、ヘボンは本堂に、讃美歌の翻訳を手がけたブラウンは庫裏に住んだ、と傍らの説明石にある。 第一京浜の滝の橋交差点にでると、滝の川に橋が架かっているが、上には高速道路が通り、景観を壊している。 江戸後期の金川砂子には、滝の橋という小さな橋がかかっていて、その手前に
{左}宗興禅寺
高札場と神奈川本陣が描かれている。 橋の手前の右側の茶色と白い家がそれにあたるのだろう。 このあたりが神奈川宿の中心で、橋の東側に神奈川本陣、西に青木本陣が置れた。 橋を渡ったところに青木本陣があったはずだが、確認できなかった。 橋の右側に川に沿って道があるので、そこに入り、その先で左折すると、宗興禅寺があるが、幕末の開港時に、ローマ字の創設者ヘボン博士が診療所を開いた寺なのである。 境内にはヘボン博士の碑があった。 
{左}州崎大神の石柱
第一京浜に戻り、百メートル程歩くと、東海道は右側の神奈川駅に通じる狭い道に入る。 そこには、宮前商店街の看板が立っていた。  宮前商店街の中央右手に、源頼朝が勧請したと伝えられる州崎大神がある。 建久弐年(1191)、安房国一之宮の安房神社の霊を移して祀ったというもので、江戸名所図会にも、州崎明神として紹介されている。 神社前の参道(現在の宮前商店街)の先に船着場があり、横浜が開港してからは、横浜と神奈川宿を結ぶ渡船場 
{左}青木橋
として賑わった所、と案内板にあった。 その先の普門寺は、州崎大神の別当寺だった。 江戸後期には、本堂、客殿、不動堂を持ち、開港時にはイギリス士官の宿舎に充てられた。 甚行寺の門前には、史跡フランス公使館跡の石柱が建っていた。 甚行寺を過ぎると、宮前商店街も終わり、京急神奈川駅に出るが、東海道は、京浜急行とJRの線路に阻まれるので、その上にかかる陸橋の青木橋を渡らなければならない。 
{左}本覚寺
橋を渡った右側の高台にある本覚寺は、臨済宗の開祖、栄西によって、鎌倉時代に開創された寺だが、戦国時代の権現山の合戦により、荒廃し、天文元年(1532)に陽広和尚が再興し、曹洞宗に改められた。 開港当時、ハリスがこの高台は渡船場に近く、横浜が眼下に望めたので、アメリカ領事館に決めたという。 山門はこの地区に唯一残る江戸時代の建築である。 
{左}大綱金刀比羅神社
青木橋交差点まで戻り、国道1号を少し進み、やまざき歯科の角を右折、これが東海道である。 少し歩くと、右側に、大綱大神、金刀比羅宮鎮座と刻まれた石柱と赤い鳥居がある。 この神社は、平安時代の創建で、もとは飯綱社といわれたが、その後、琴平社と合祀され、大綱金刀比羅神社となった。 神社前の道の両側に、江戸から七番目の一里塚があったのだが、
{左}当時の雰囲気を感じさせる料亭
今は残っていない。 このあたりから道は上り坂になった。 このあたりは、かって、神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす、袖ヶ浦と呼ばれる景勝地だった。 十返舎一九は、東海道膝栗毛に、「 この片側に茶屋軒を並べ、いずれも座敷二階建、欄干付きの廊下、桟などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし 」 と、書いているが、江戸時代には、道の左側は、海に  
{左}神奈川台場関門跡石碑
面して茶屋が並び、海を見ながら休憩ができたところだった。 バブル前には料亭に代わったお店が多くあったが、今はマンションが建ち並び、数軒の料亭が残っているだけになった。 時代の変化を感じながら上っていくと、右側に神奈川台場関門跡、袖ヶ浦見晴所と刻まれた石碑があった。  幕末の横浜開港後、攘夷過激派による外国人の殺傷事件が相次いたので、幕府が
{左}上台橋
警備のために、各所に関門を設けた一つである。 道は右にカーブすると、坂の頂上。 そこからは短いけれど、坂を一気に下る。 下ったところに、道路にかかる陸橋があり、上台橋と名付けられた橋を渡ると、神奈川宿の京都側の入口である。 ここで、神奈川宿は終わりとなる。
(ご参考)神奈川宿の家数は1341軒、人口は5793人、本陣は2軒、脇本陣はない、旅籠は58軒だった。     



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!