東 海 道


戸塚宿から藤沢宿  




{左}第六天宮  
戸塚宿上方見附で戸塚宿と別れを告げる。 富塚八幡をすぎたころから、登り坂になったが、大阪下交差点を過ぎると、道は左にカーブし、傾斜が増したような気がした。  その先の右側に、第六天宮という名の神社があった。 いざなぎ命が、黄泉の国から生還する時、身に付けたものを投捨てながら逃げ帰ったが、捨てた六番目の冠から生まれたという神を祀っている神社である。 古事記には、黄泉の坂を塞いた石を道反之(ちがへしの)大神と名付けたとあり、これが
{左}庚申塔群 
各地の結界を守る道祖神になった、と考えられる。 少し歩くと、右側の道端に庚申塔が数基並んで建っていた。 三猿を描いた石仏、石塔が大きいのと小さいのを併せて七基あり、それが全て庚申塔である。 元禄四年(1691)八月に建てられたものや庚申塔を建てるに到った発願主の願文などが書かれたものもある。 これだけ多くの庚申塔が並んでいるのは、珍しい。 坂を登って行くと、左側にファミリーレストランがあり、道の両側には、マンションが建ち並んでいる。 
{左}大阪上交差点   
その先には、大阪の峠といえる大阪上交差点がある。 交差点から二百五十メートル程先で、国道1号線は、横浜新道と合流し、両側四車線になった。 歩道橋に上り下を見ると、道の中央に並木があるが、道の両側に車がひしめいていて、交通情報でしばしば登場する渋滞区間であることが確認できた。 車道の真ん中に区分帯のような形で、松並木の一部が残っているが、新しく植えられた松がほとんどで、以前はそこを歩行できたようだが、現在は歩くことは出来
{左}お軽勘平戸塚山中道行の碑
ない。 しばらく歩くと、汲沢町第二歩道橋の先の左側にある橙色の建物の脇に、東海道お軽勘平戸塚山中道行の碑があった。  歌舞伎十八番仮名手本忠臣蔵に登場する、お軽は大石内蔵助の山科での愛妾で、お軽と勘平の話は創作された話であるが、芝居の話が有名になり、こんな碑までできてしまったのである。 原宿町第一歩道橋の手前で、道は右にカーブする。  下り坂になり、吹上交差点で、左右に分かれていた国道は一本になった。   
{左}原宿一里塚跡
このあたりの左側は岡だったと思われる。 国道はそれを切り通した形になっている。 左側の道路の一角に、原宿一里塚跡の標識があるが、気をつけながら歩かないと、知らずに通り過ぎるてしまうだろう。 「 原宿の一里塚は、江戸から十一番目で、塚の付近に茶屋などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。 明治の初期の道路工事の際に取り壊したが、ここは、その後も一里山と呼ばれていたところである。 」 と、説明板に書かれていた。 
 
{左}浅間神社
道の反対側には、浅間神社があり、境内に巨大な椎の木が数本あった。 また、庚申塔が三基祀られていた。 ここから五百メートル程歩くと、歩道橋の下に、庚申塔や馬頭観音などの石仏が金網の中に無造作に置かれていた。 この辺りは、台地になっていて、道は平坦で、南西に真っ直ぐ続いていた。 原宿交差点では、道路の拡張工事が行なわれていた。 国道はここから若干南に向きを変え、西南南の方向へ真っ直ぐに延びていく。 
{左}馬頭観音
少し歩くと、工事箇所は終り、道の中央に松並木が現れた。 更に歩くと、影取歩道橋の付近にはAMPMなどのコンビニがあり、道の左側に、馬頭観音が祀られていた。 影取の地名の由来について、 影取には僅(わずか)の清水が流れているが、昔は池があり、池中に怪魚がすみ、夕陽に旅客の影が池中に投ずるのを食べたことから、影取という名前が残った、という伝承が残る、 という記述が相模国風土記稿に残っている。   
{左}諏訪神社 
四、五百メートル歩くと、影取第二歩道橋があり、その先の左側に、諏訪神社がある。 境内には、横浜市の名木古木に指定されている大楠がある。  このあたりは、江戸時代の東俣野村で、東海道とは村の東境で接していた。 藤沢バイパス出口の信号交差点で、国道1号線と別れて、国道30号線に入るが、道路標示に惑わされず、道の左側を歩くと、東俣野歩道橋のところに出た。 国道30号は車道と歩道を分ける松並木(松は少なかった)が続くので、夏は木陰  
{左}旧東海道松並木跡石碑付近   
になるだろう。 歩道も良く整備されている。 下り坂になった。 鉄砲宿を過ぎ、藤沢市の表示があるところで、道の右側に移動した。 歩道は、松を保護するため、車道より一メートル程高い所を歩くところもあったが、自然と共生するためにはやむをえないだろう。 緑ヶ丘に入ると、右側の歩道の少し残っている松の木の脇に、旧東海道松並木跡の石碑が建っていた。 説明板には、昭和三十五年頃から松喰虫の被害を受け、大半が枯れてしまい、今は若干の松が残る
{左}藤沢宿江戸見附跡標柱
のみ、とあった。 このあたりは住宅地になっていて、コンビニやその他の施設があった。 遊行寺坂上のバス停のところで、道の左側に移動して、坂を下る。  遊行寺坂は道場坂とも呼ばれたようであるが、遊行寺坂の標識があるあたりからは家が一軒もなかった。 坂をどんどん下ると、諏訪神社の常夜燈が建っていた。 江戸時代には、諏訪神社の先に藤沢宿の江戸見附があり、ここから藤沢宿であった。 現在は、諏訪神社の道の反対側に、それを示す標柱が建って
{左} 諏訪神社の鳥居の奥に社殿がある
いる。 なお、戸塚宿の上方見附からここまで一時間半の行程であった。 道の反対側に戻り、諏訪神社の鳥居と石段の前に立つ。 この神社は、藤沢宿の大鋸町と大久保町の鎮守社である。 石段を上ると、又、鳥居があって、その奥に、諏訪神社の社殿があった。 遊行寺の四代、呑海上人が、信濃でお札配りの道中に現れた諏訪明神を勧請したもので、以来、藤沢山の守護神として、元旦には、遊行上人(遊行寺の住職)が神社に参拝し、参詣者にお札を配って 
{左}遊行寺本堂
いる、という神社である。 街道に戻ると、右手に時宗総本山遊行寺と書かれた看板が見えるのが、遊行寺の入口である。 遊行寺は藤沢宿の東の端に寺門を構えた時宗の総本山で、藤沢山清浄光寺(とうたくさんしょうじょうこうじ)というのが正式名である。 遊行寺は時宗の総本山であるが、高野山や延暦寺、東西本願寺に比べると、建物の数も少なく、質素であるが、本堂は大きく立派だった。    
{左}敵御(味)方供養塔
東門横の左側に、国指定名勝・敵御(味)方供養塔の説明板があり、その奥に古く小さな石塔があった。 応永二十三年(1416)、上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対し反乱を起こしたが、幕府が持氏を援助したため、氏憲は敗れさった。 このとき、藤沢周辺も激戦地となったが、 遊行十五世尊恵(そんね)上人は負傷者を敵味方の区別無く治療し、死者を葬り、その翌年、死者を弔うための供養塔を建てた、とある。 遊行寺の名を全国的に有名にしたのは、平等の精神で
{左}大イチョウ   
建てられたこの供養塔と言ってよい。 振り向くと、正面に巨大なイチョウの木があった。 樹齢六百六十年といわれる古木である (右写真) 幹周り六メートル八十三センチ、樹高は三十一メートルあったが、昭和五十七年の台風で上部が折損し、半分になり、横に広がった樹形となった。 現在は十六メートルの高さとなったが、堂々たるものであった。 
{左}長生院小栗堂
東門を入った右側に、小栗判官墓所と書かれた石柱があるので入っていくと、石段を上った左側に長生院小栗堂があった。 このお堂は、小栗判官を救った照手姫の創建と伝えられる。 寺の裏には、照手姫建立厄除地蔵尊と照手姫の墓、そして、判官の愛馬鬼鹿毛の墓がある。 小栗判官は常陸国の人だが、敵にあざむかれて毒殺されたのを救ったのが照手姫という説話があり、その中に遊行寺が登場する。  これは説経浄瑠璃に発した古い説話であるが、説経
{左}小栗判官と家臣達の墓
浄瑠璃は室町後期に始まり、江戸時代には浄瑠璃などに分化していく。 その右側には、(伝)小栗十四代城主小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓についてという説明板があり、 小栗判官と家臣達の墓があった。 説明によると、「 桓武天皇の曽孫高望王から7代目の子孫平重家が常陸国真壁郡の小栗(茨城県真壁郡協和町)に館を構え、その地名から小栗氏を称し、その十四代目が小栗孫五郎平満重である。 応永十三年(1423)関東公方との戦いに敗れ、小栗城
{左}照手姫建立厄除地蔵尊と照手姫などの墓
は落城し、満重はその子助重と十名の家臣と共に、一族がいる愛知県に落ちのびる途 中、相模国藤沢辺の横山大膳の館で、毒をもられ、家臣十名は上野ヶ原(藤沢市)に捨てられたのを遊行寺の上人により境内に埋葬された。 小栗助重は照手姫の看護で回復し、父の死後十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦で幕府軍の将として活躍し、小栗の旧領を回復することができた。 」 と、あった。 小栗判官と照手姫の話は各地に残るが、その内容は微妙に違う。 
{左}広重の東海道五十三次・藤沢宿
これらの話は時宗比丘尼や熊野比丘尼が各地を回り、信仰を教化宣伝し拡がっていったものである。 いろは道を下ると、右に時宗真浄院、左に赤門真徳寺があり、その先には黒門がある。  安藤広重の東海道五十三次・藤沢宿は、境川に架かる遊行寺橋のあたりを描いている。 後ろに遊行寺、その下の家々、そして手前の鳥居は江の島弁財天の鳥居と思われる。 ここは江ノ島弁財天への道の追分(分岐点)であった。 また、橋の手前には鎌倉への道があった。 
{左}遊行寺橋
藤沢橋の手前から左に入ると、左側に三島大明神があるが、その道が当時の鎌倉道なのだろうか? 黒門近くの説明板には、 江戸時代にはこの一帯は広小路になっていて、上野広小路、 名古屋広小路と共に、藤沢広小路は日本の三大広小路といわれた、とあるが、その面影はない。 その先の遊行寺橋は、江戸時代は大鋸板橋といわれた板橋だった。 橋を渡った右手には高札場が、左手には江ノ島弁財天の大鳥居とその傍らには江の島道標石があった、
{左}江の島道標石
という。 江の島道標石であるが、遊行寺橋の左手の藤沢橋交差点をすると、江の島道である。 江戸時代、江の島道は、江の島弁財天の信仰と遊興のため大変な賑わいを見せたといわれる。 道を江の島方面に、四百、五百メートル先に、左に入る道がある。 その道と江の島道の三角になっているところに、江の島道の道標がある。 その道の先の右側に、鼻赤稲荷大明神の社もある。 遊行寺橋からの東海道は、橋を渡った先の十字路を右折し、国道467号を
{左} 本町一丁目
歩く。 道はかなり広く、古い建物は何も残っていないが、道筋としては昔の街道そのままである。 藤沢は、鎌倉時代の正中弐年(1325)に、遊行四代呑海上人が遊行寺を開いて以来、その門前町として栄えたところであったが、慶長五年(1600)、伝馬掟朱印状が発せられ、これまでの遊行寺の門前町に、大久保町、坂戸町を加えて、藤沢宿が生まれた。 また、藤沢御殿と呼ばれる将軍専用の宿泊所がつくられた。 
{左}古い蔵造りの家   
江戸時代、この先は、旅籠町、仲久保町、栄町と続き、その先は東坂戸町、西坂戸町 となっていた。 旅籠町は宿場創設前から遊行寺の門前町だったと推定されるが、 仲久保町から坂戸町にかけては宿場誕生により生まれた町だろう。 道の右側の紙屋と書かれた家は、古い蔵作りの建物だった。 街道の左側に問屋場があったようだが、その跡は確認できなかった。 藤沢宿は、この先で大山、伊勢原街道が分かれていたので、東海道を江戸と京都、大阪、伊勢を往
{左}藤沢公民館(藤沢御殿跡)
来する人々の他に、江ノ島、鎌倉や大山参りの人で賑わっていた。 江戸時代の資料によると、藤沢宿は、家数、九百二十軒、宿内人口、四千百三人で、東海道では神奈川宿、小田原宿に次いで大きい。 本町郵便局の先の信号交差点を右に入ると、藤沢公民館があるが、ここは藤沢御殿跡である。 江戸時代の始め、藤沢宿には本陣が無く、慶長元年頃、藤沢公民館と藤沢市民病院の間の約六千坪の土地に藤沢御殿が建てられた。 家康、秀忠、家光と三代に
{左}蒔田本陣跡
わたり三十回近く利用されたが、本陣の設置により、元和弐年(1682)に廃止された。 藤沢御殿廃止後は、藤沢宿を治める藤沢代官の陣屋になっていたようである。 藤沢宿の本陣は、延享弐年(1745)まで、大久保町堀内家が勤めたが、数次にわたる宿場の火災で、再建を諦め、その後は、坂戸町の蒔田源右衛門家が勤めた、とされる。 蒔田本陣跡は、藤沢公民館入口交差点のあたりとされるが、それを示す木柱は見つからなかった。  
{左}妙善寺庚申供養塔
その先の右側の南無阿弥陀仏の石柱を入った日蓮宗長藤山妙善寺に、蒔田家の墓がある。 蒔田家は、明治維新後、当地を去ったが、この寺に墓だけが残る。 その先の左側のJA脇を入ると、浄土宗常光寺があり、山門の先の左側に、万治弐年(1659)と寛文九年(1668)建立の庚申供養塔がある。 墓地には、洋文学者、野口米次郎の墓があった。 藤沢宿に旅籠が四十五軒あったが、飯盛旅籠が多かったので、享楽地としても賑わったのだが、それを支えたのは、  
{左}飯盛女の墓
飯盛女の存在である。 街道から左の路地に少し入った本町4丁目の永勝寺の山門を入ったすぐ左側に、飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓と源蔵が建てた四十数基の飯盛女の墓がある。 街道に戻ると、その先の右側に交番があるが、その手前に、義経首洗い井戸の標柱があった。 
義経首洗い井戸  
マンション脇の路地を入っていくと、本町公園の一角に首洗い井戸はあった (右写真) 湘南海岸に捨てられた義経の首が、境川をさかのぼって、この地まで流れ着き、人々がこの井戸で洗い清めた、と伝えられる井戸である。 再び街道に戻り、西に歩いて行くと、白旗交差点があり、そこを右折して少し行くと、白旗神社が見えてくる。 白旗神社の創立年代は不詳だが、古くは、相模の国一の宮の寒川神社の寒川比古命を分祀し、寒川神社と呼ばれていたが、
{左}江の島弁財天道標
宝治三年(1249)九月、義経を祭神として祀り、白旗明神、のちに白旗神社と呼ばれるようになった、とある神社で、鳥居の脇の大御神燈は、慶応元年(1865)に建立されたものである (右写真)  その先に石段の左側に三笠山大神、御嶽大神、八海山大神などの石碑群があった。  その中には、寛文五年の庚申供養塔がある他、江の島弁財天道標があった。 江の島弁財天道標は、杉山検校が参拝者が道に迷わぬように建てたものである。 最初は四十八基あった  
{左}白旗神社の社殿
と伝えられるが、現在も十基残っている。 碑の三面に「 一切衆生 」 、 「 ゑのしま道 」 「 二世安楽 」 と刻まれている。 石段を上ると、文政十一年(1828)から天保六年(1835)まで、七年の歳月をかけて造営された社殿があり、本殿、幣殿、拝殿が連なった典型的な流権現造りで、昭和の大修理をえているが、江戸時代のみごとな彫刻が残っている。 社殿前の御神燈は、天保十年(1839)に建立されたもので、社殿の左側に、弁慶の力石があった。 弁慶の首も、 
{左}伊勢山橋
義経の首と一緒に鎌倉におくられ、首実検が行なわれたが、夜の間に二つの首は此の神社に飛んできた、という伝承がある。 義経は白旗神社の祭神となったが、弁慶の首は八王子社として祀られたと伝えられる。 街道を戻り、白旗交差点を西に向かう。  ゆるやかな上り坂となり、坂を登りきると小田急をまたぐ伊勢山橋がある。   橋を渡った伊勢山橋交差点を右折すると、小田急江の島線藤沢本町駅である。  伊勢山橋の先は下り坂となるが、その途中に京方見附のあったようで、ここで、藤沢宿は終りである。   



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!