東 海 道


大磯宿から小田原宿 




{左}旧東小磯村  
上方見附の先は、大磯宿の加宿になっていた旧東小磯村である。 左側に大磯中学校があるあたりから松並木になる。 そこには、東海道の松並木とこゆるぎ海岸の案内板がある。 大磯は海辺の町だったが、江戸時代には宿場町として栄え、明治以降は別荘地や避暑地として多くの有名人を集めた。 左側の大きな松の下の小高い歩道を歩いて行くと、古河の保養所などがある。 道の反対に、宇賀神社があるが、このあたりが東小磯村の境と思われる。      
{左}滄浪閣(そうろうかく) 
大磯宿はここで終り、旧西小磯村になるが、大磯宿から次の小田原宿までは15.6kmと比較的長い距離である。  その先の滄浪閣前交差点の左側にあるのが、明治の元勲、伊藤博文の旧邸だった滄浪閣である。   江戸時代の東海道は、大磯宿を過ぎると、おおむね三間(約5.4m)の道幅であったようである。 滄浪閣から五百メートル程歩くと、左側に八坂神社がある。 
{左}西国三十三所順社講供養   
八坂神社から二百メートルくらい先の交差点の右側に、右大磯と書かれた道標を兼ねた、西国三十三所順社講供養碑があった。 傍らに、小さな道祖神が祀られていた。  更に歩いて行くと、血洗川という少し物騒な名の川に架かる切り通し橋を渡る。 右側の小高い山が城山と呼ばれる城跡があるので、先程の川の名はこれと関わりあるのかも知れない。 
{左}城山公園前交差点
切り通しの先に城山公園前交差点があった。 国道の左側にあるのが旧吉田茂邸である。 明治以降、大磯には伊藤博文をはじめ多くの要人たちが別荘と構えた。 吉田茂もその一人で、貴賓客をこの別荘によく招いていた。 その後、西武鉄道に売却され、大磯プリンスホテル別邸として使用されていたが、現在は閉鎖されている。 東海道は国道一号と分かれ、右側に大きく折れ曲がって行く。 
{左}茶室 城山庵
交差点を右折すると、神奈川県立城山公園があり、その中には、日本庭園と茶室があった。 県立大磯城山公園は、三井財閥の別荘、城山荘の跡で、茶室 城山庵は、三井家の草庵式茶室であった国宝の如庵にちなんで建てられた、とあったが、本物は愛知県犬山市の名鉄グランドホテルの近くに移設されている。 城山公園は、西小磯と国府本郷との境に位置し、その一角に大磯町郷土資料館がある。 このあたりは太古から人が住んでいたいたようで、横穴古墳     
{左}宝前寺付近
群があった。 街道に戻ると、すぐに三差路になり、東海道は狭い道を直進するが、六所神社の道標も立っていた。 右折する道の一キロ先には、五社の神が集まって祭事を行なう神揃山がある。 東海道を進み、橋を渡ると、国府山宝前寺があり、中丸の集落に入った。 中丸の地は、大磯宿より一里(約4km)離れたところで、立場茶屋があり、荷馬の休息所だった。  江戸時代の東海道分間絵地図に、宝前寺と手前に板橋が記されている。 宝前寺の手前には、
 道祖神
最近建てられたと思える橋が架かっていた。 中丸ふれあい館を過ぎると、左側の民家の前に、道祖神碑の両脇に石仏が祀られていた。 かっては、大磯城山公園からこのあたりの道の左右に道祖神が多くあったようだが、今回歩いたところでは、この場所だけだった。 その先で、左側に国道が接近してくる。 東海道と国道の間にある土塁の中に、江戸から十七里の国府本郷の一里塚跡の案内板があり、江戸時代の一里塚は、手前二百メートルの両側にあり、   
{左}国府新宿交差点 
塚の上には榎が植えられていた、とある。 その先の国道の左手に、大磯警察署があり、その先に国府新宿交差点がある。  大磯には相模国の国府が置かれた時期があり、国府は、北方にあったようである。 大化改新の前には、相模国は相武と師長の二国に分かれていた。 この二つの国が合併して相模国となり、国府は海老名におかれたが、元慶弐年(878)に大住郡に移り、平安時代末にこの地(国府本郷)に移ってきたと考えられている。 
{左}六所神社鳥居  
国府新宿交差点から再び国道1号線に合流し、三百メートルほど歩く。 二つ目の信号交差点の右側に、六所神社の石柱と鳥居があった。 六所神社は、崇神天皇の時代の創建と伝えられる古社で、相模国の総社だった。 稲田姫命、須佐之男命、大己貴命を祀る神社で、この地は柳田郷だったことから柳田大明神と称した時期もあったが、養老弐年(718)、この地を相模国八郡の神祗の中心とする旨の宣下が下されたことから、一之宮から四之宮、平塚八幡宮と
{左}六所神社
柳田大明神の六社を合祀し、国府六所宮と称されるようになった。 参道を三百メートル程歩くことになるが、東海道線のガードをくぐった先に神社があり、本殿は、小田原北条氏四代目の北条氏政が修復寄進したものといわれる。  五月五日が例大祭で、この祭りを国府祭という。 この祭には、近郷五社の御輿(宮本村一ノ宮、山西村二ノ宮、三の宮村三ノ宮、四の宮村四ノ宮、平塚新宿八幡)が、国府本郷にある神揃山、通称、高天原というところで、神事を行う。 この祭は、養老年間に始まったとされ、治承4年(1180)には頼朝の参詣もあった、と伝えられる。 
{左} 道祖神碑
少し歩いた右側に、国府福祉館があり、お稲荷様が祀られている奥に、道祖神碑があった。  その先に、こよるぎハイツ入口の交差点があり、その先の右手に蓮花院がある。 神社から六百メートルほど歩いて行くと、右側に高い松の木があり、その下に、二宮町の標識があった。 二宮町に入り、七百メートル歩くと、塩海橋交差点があり、その先の小さな橋が塩海橋である。 橋の手前に、塩海の名残りと書いた木柱があった。 
{左}塩海橋
相模国風土記では、塩海は古此所にて塩を製造す、とある。 名残りという意味は説明がないので分らぬが、海水が宇田川を遡ってきているということか? 橋を渡ると、二宮交差点で左側には西湖二宮ICがあり、その先は西湘バイパスである。 ここは横断歩道橋を渡り、向こう側にでる。 秦野道バス停を過ぎると、二宮駅入口交差点である。 二宮駅前を過ぎて、五百メートル程いくと、江戸時代の山西村に入る。   
{左}内原交差点付近
内原交差点付近に、数は少ないが、松並木が残っていた。 藤田電機を過ぎると、梅沢交差点があった。 二宮は江戸時代、大磯宿と小田原宿の距離が比較的長いことから作られた間の宿である。 梅沢の立場とも呼ばれた小規模な宿で、江戸から進むと急な下り坂、押切坂を手前に控え、籠や馬を止めて一息入れた、といわれるが、古い家は一軒も残っていなかった。 吾妻神社入口交差点手前の国道の標識には、日本橋まで74km、二宮町山西とあった。  
{左}旧東海道の名残り道標   
そのまま歩くと、吾妻神社入口交差点があった。 二つとも同じ名 の交差点である。 この交差点では、右へ行く狭い道があり、これが旧東海道である。 三差路の角に、旧東海道の名残りという道標が建っている。  ここで、国道1号線と別れ、斜め右の旧道 に入っていく。 旧道に入るとすぐ右に、吾妻神社の鳥居と県下名勝四十五佳選記念碑がある。 吾妻神社は、JR東海道線を越えた吾妻山にある。 古事記の話を思い出し、寄り道をする。 
{左}吾妻神社鳥居と社殿
東海道線を陸橋で越えると、鳥居があり、石段を上ると、コンクリートの道、また、石段があり、その先は、七曲がりのような参道が続いている。 距離はそれほどではないが、傾斜がある道なので、けっこう厳しく、樹木に覆われているので、相模湾は一部しか見えない。 最後の石段を上ると、鳥居が現れ、その奥に社殿があった。 案内板には、「 吾妻神社は、梅沢の大神で、第十二代景行天皇時代に始まり、主神は、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で、
{左}吾妻神社社殿
日本武尊を配祀とする。 源頼朝は、鎌倉幕府を創設すると、吾妻山と山麓の田畑と塩田を寄進した。 弟橘媛命のご神体は、木彫りの千手観音で、現在は藤巻寺に安置されている。 」 と、あった。 弟橘媛命は穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘で、日本武尊との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)をもうけた、と伝えられる。 古事記では、武尊の東征に同行し、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)に至った時、海は荒れ狂い、先に進むことが
{左}庚申塔と首のない二体の石仏
不可能になった時、弟橘媛が海に身を投じると波が穏やかになり、船を進めることができた。 彼女が付けていた櫛は、七日後にこの海岸に流れ着いた、とある。  境内には、三猿が彫られた庚申塔と首のない二体の石仏が祀られていた。  街道に戻ると、道は右にカーブしながら下って行く。 右側に、手造り醤油と書かれたヤマニ醤油株式会社があった。 その先で、左にカーブするところに、小さな梅沢橋があるが、橋の下の川は、暗渠になっている。 
{左}等覚院
右に入ったところに、相模三番観音堂の小さなお堂があり、「  いくたびも まいりておがむ 観世音 心のあかを すすぐ梅川 」 と、書かれていた。 お堂の脇に、石仏(碑)群があった。 双体道祖神もあったが、道の整備でここに集められたような気がした。 橋を渡ると上り坂となり、右にカーブする。 坂の途中の右側に、藤巻寺といわれる等覚院があった。 藤巻寺といわれるのは、元和八年(1622)徳川家光が上洛の際、ここに寄って藤の花を見たという故事による。  
{左}道祖神と石仏群
境内の藤棚には、樹齢四百年の藤があった。 どのような花が咲くのがなあ。 その先の山西交差点で再び、国道に合流する。  火見櫓の下に、道祖神と天社神の石碑と双体道祖神と石仏群があった。 これも周囲から集められたものだろう。 ここから国道を歩く。 その先、押切坂上バス停の先で、三差路になり、左側の狭い道が東海道である。 国道に架かる川匂歩道橋には、川匂神社入口の交差点があった。 川匂神社は、垂任天皇の頃、この地を支配した磯長
{左}二宮一里塚跡
(しなが)国造が創建したと伝えられる相模国二の宮で、延喜式内社である。 神社は、ここから一キロ程上った山側にある。 国道と東海道との間に、江戸から十八番目の二宮一里塚跡の石碑と四角形の説明石があった。 国道の傾斜は緩いが、左側の旧東海道は上りで、押切坂という坂が実感できた。 押切坂の頂上付近の左側の民家の一角に、松屋本陣跡の標柱があった。 傍らの説明板には、「 二宮は間の宿として、大友屋、蔦屋、釜成屋など、多くの茶屋
{左}双体道祖神
や商店が軒を並べ、 梅沢立場と呼ばれて、大変賑わっていたが、その中で中心的な存在だったのが、和田氏が営む松屋茶屋本陣で、諸大名、官家、幕府役人が利用した。 」 とあった。 その先から下り坂になるが、右側の草むらに、双体道祖神が祀られていた。 坂の頂上からの下りは急坂である。 昔は、左手に相模湾の広がる快適な道であったが、今は家が建ち並んで、行く手の視野を妨げている。 坂を下ると、国道1号線と合流した。 中村川(押切川)に  
{左}西湘バイパスの橋 
架かる押切橋を渡る。 左手に相模湾があるのだが、西湘バイパスの橋に視界がさえぎられてしまっている。 橋を渡ると車坂で、ゆるやかだが、長い上り坂になる。 このあたりは行政区画が輻輳している。 押切橋交差点は、二宮町山西だが、その先の江戸時代の羽根尾村は小田原市である。 次の川匂は江戸時代の川匂村で、二宮町に所属する。 江戸時代の前川村は小田原市で、ここから先は小田原市である。 坂の途中の左手に、西湘バイパス橘ICの入口が
{左}相模湾
あり、海がわずかに見えた。 浅間神社入口の信号の先に町屋バス停があり、それを越すと、坂の頂上になった。 下り坂となると、ほんの一時であるが、左手に相模湾が開けた。 昔は、今のように住宅が無かったので、常に海を眺めながら歩けたのだろう。
坂をほぼ下り終える右側に歌碑があった。 
 鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆう立の空  大田 道潅
 大山道標(右)と秋葉山常夜燈(左)
  浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 阿仏尼
などの句が書かれていた。 相模国風土記によると、前川村は、東西十四町余、民戸百六十三、東海道が村の南を貫いていた、とある。 その先右側の果物屋の角に、右に入る小路があり、天保五年建立の大山道標とその奥に秋葉山常夜燈と石祠が建っていた。 風土記に海道中小名向原にて北に入、一路あり、大山道なり、幅六尺、と記載があるが、こに道だろうか?      
{左}坂下道祖神碑と双体道祖神像
上に乗っている像は迫力があった。 坂を下りると、道は右にカーブ。 小さな川の手前の民家の塀の前に、坂下道祖神碑と双体道祖神像が祀られていた。 その先の右側に、今戸神社の石標が建っていた。 その先の中宿公民館の前には、道祖神と思えるものが祀られていた。 昔の家と思える建物もあった。 常念寺入口の信号を越えると、左側には民家はなく、海岸になった。 右側が崖のようになっていて、松の木が聳えているところまで来ると、坂は終り、    
{左}親鸞聖人七ヶ年御旧蹟 真楽寺石柱
JR国府津駅前に出た。 国府津駅は小高いところにあり、御殿場線も発着する駅で、以前は眼下に真っ青な相模湾を見ることができたが、前にマンションなどが建ち、前のようには見えない。 街道を進むと、横浜銀行の先に、親鸞聖人七ヶ年御旧蹟 真楽寺の石柱がある。 真楽寺は、相模国風土記に、 「 聖徳太子の開にして天台宗の古刹なり、安貞のころ 親鸞、当国化盆ありし時、現在性順、師資の約をなし、一堂を建て是に移り親鸞をして 当寺住せしむる事七年、夫より親鸞、寺務を上足顕知に譲りて帰治ありし、・・ 」 とある浄土真宗のお寺で
帰命堂  
ある。 境内には、親鸞が指先で名号を書いた、といわれる二メートル程の石が安置されたお堂があり、帰命堂と呼ばれる。  脇には、市天然記念物の菩提樹があった。 傍らの案内板によると、山門の国道を挟んだ南側の袖ヶ浦の海岸に、勧堂がある。 親鸞は、七年間このお堂に住まい、民衆を教化されたと伝えられる、とあった。 真楽寺を出て、さがみ信用金庫の岡入口信号交差点を右に入り、JRのガードを越えたところに、道祖神があった。 その先の三差路に、
{左}曽我兄弟の隠れ石
菅原道真を祀った天神社の菅原神社がある。 境内には、 わらべ歌 とうりゃ んせ の発祥の地の石碑と、曽我兄弟が、鎌倉に向う父の敵の工藤祐経の行列を見つけるも、多勢に無勢のため、 石の陰に隠れて見送った、 という言い伝えのある曽我兄弟の隠れ石の石碑があった。 街道に戻り、少し歩くと、親木橋で、左側に横断歩道橋が見えたが、近づくと右側は交差点をそのまま渡れた。 このあたりから、左側に松並木が見られた。   
{左}一里塚バス停
渡った先は、江戸時代の小八幡村で、相模国風土記によると、「 家数九十六軒、東海道が村の東南を貫いていた。 山西村梅沢の立場から一里の距離で、路の左右に松の並木があり、立場・・・ 」 とある。 少し行くと一里塚というバス停があるが、この先あたりに江戸から十九番目の小八幡一里塚があったようである。 相模国風土記には、「 一里塚は東海道の東に あり、左右相対せり、高二間、舗(つらなり)六七間塚上に松樹あり、・・ 」 とある。   
{左}酒匂の松並木
宮前のバス停の先に、八幡神社の石柱があったが、覗いてみても、神社の姿が見えない。 そのまま進むと、弘法大師利剣名号安置の碑があり、奥に見えるのは東海道分間絵図にある三宝寺だろう。 小八幡境のバス停で、旧小八幡村も終わった。 漁場前のバス停を過ぎると、両側の松並木は、太く高くたくましいのが続いた。 このあたりは江戸時代の酒匂村である。 酒匂郵便局を過ぎると、松並木もなくなってしまった。 少し行くと、右側に、 おだわら観光の看板  
{左}川辺本陣跡
があり、観光土産物店のようである。 その先の右側に、大見寺の石柱があり、小田原市指定文化財 小島家宝しょう印塔と五輪塔の標柱があった。 隣の黒塀の立派な門構えの旧家は、社会福祉法人ゆりかご園(児童養護施設)であるが、江戸時代は川辺本陣だった。 東海道分間絵図には、東海道の左側に描かれているが、そこには酒匂不動尊が祀られていた。 
{左}酒匂橋東側交差点
小路の奥に妙蓮寺が見える道の角に、道祖神が祀られていた。 法善寺の石柱があり、その先の小路にも道祖神碑があった。 右側の大きな白いビルの手前が連歌橋交差点で、その先の小さな橋が連歌橋である。 東海道分間絵図には、傳ヶ橋の手前に、川高札場があり、高札場の向いに間口七間、 奥行四間の川会所があったように描かれている。 小さな橋を渡ると、酒匂橋東側交差点で、その先には酒匂川が流れていた。 酒匂川は当初船渡しだったが、
{左}酒匂橋
後に徒歩(かち)渡しとなり、冬(十月五日から明年三月五日)の間は土橋の仮橋がかけられた。 相模国風土記に、川渡場の記載があり、「 酒匂村、網一色村、山王村の三村にて歩行人夫を出し、其役を勤む、人夫は三十九 人を定額とし、・・ 」 とある。 江戸時代の渡し場は酒匂橋の袂にあり、仮橋は酒匂橋より百メートル上流の中州にかけられたようである。 小生は国道1号の酒匂橋を渡る。  正面に箱根から伊豆半島の峰々が見え、川の下流には西湘  
{左}城東高校前交差点
バイパスの橋があった。 三百八十一メートルの橋を渡ると、左側の桜が咲く先に城東高校の校庭が見えた。 対岸のこちらは江戸時代の網一色村で、当時の民家は五十三戸で、漁業を生業にしていた。 東海道は、酒匂橋の百メートル上流の八幡神社のあたりで、 川を上ると、神社の前を通り、国道1号線を横断し、城東高校の先の道を右折し 再び、国道1号線と合流するルートだった。 城東高校の先の民家の路地を入った所に新田義貞の首塚がある。
{左}新田義貞の首塚
少しわかりづらいところで、城東高校前交差点を左折し、二つ目の道を右折し、突き当った丁字路を右折し、その奥の金網に、首塚の説明板があり、民家の奥に入るとある。  案内板には、「 福井県藤島にて討死した新田義貞の首は足利尊氏によって晒首となっていたのを家臣、宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の祖先)が奪い返して、義貞の本国に埋葬するため東海道を下った。 しかし、酒匂川のほとりの網一色村で病に倒れ、止む無くこの地に 首を埋葬し、  
{左}山王神社
自らも亡くなった。 」、とある。 東海道に戻り、歩くと、常剱寺入口交差点で、国道に合流した。 その先の右左に、呑海寺、弘経寺、昌福禅院、心光寺などお寺が続いてある。 山王橋交差点を渡ると、山王川があり、短い橋を渡ると、右側に山王神社があった。 神社の由緒によると、「 明応四年(1495)、北条早雲が、当時の小田原城主の大森藤頼を破り、城を手中に納めた頃は、神社は海辺にあったが、高波で崩壊したため、慶長十八年(1613)に、ここに
{左}小田原城址江戸口見附跡
移された。 神社が海辺にあったとき、星月夜ノ井戸があり、星月夜の社と呼ばれていた。 その後、井戸もここに移された。 江戸時代の朱子学者、林羅山は、寛永元年(1624)、神社の境内で、星月夜の詩を詠んだ。 」 と、ある。 山王橋バス停を越えると、歩道に、行灯風の下に東海道小田原宿と書いた道標があった。 その先の歩道橋の右手に、小田原城址江戸口見附跡の標柱と小田原城などの案内板があった。 江戸時代、浜町が小田原城の総構えの最東端
{左}浜町交差点
で、小田原の城下町入口であると同時に宿場町の入口だった。 江戸口見附跡の国道の反対側に、江戸より二十里の小田原山王原一里塚跡の案内があった。 小田原は後北条氏時代、関東を掌握する大大名として君臨して、居城のある小田原は城下町として発展した。 江戸時代に入っても、東海道の江戸防衛の要として大久保氏が配置され、十一万三千石の城下町となった。 また、箱根越えと箱根関所を控えていたため、参勤交代の大名も宿泊を強いられ、
{左}新宿(しんしく)交差点
本陣が四軒、脇本陣も四軒と東海道の宿場で一番多かった。 浜町交差点を過ぎると、新宿交差点に出る。 歩道の新宿町の道標には、江戸時代の前期、城の大手口の変更に よって、東海道が北寄りに付け替えられた時に出来た町で、藩主が帰城のときの出迎場であった他、郷宿や茶屋があり、小田原提灯づくりの家などもあった、と書かれていた。 東海道はこの先、鉤型(曲手)になっていた。 東海道は、その先の新宿交差点で、左折し、国道1号と分かれ、
{左}蹴上坂(けあげざか)
蹴上坂を上ると、左側に鍋町の道標があった。 蹴上坂は、坂といえない程の坂である。 その先で右折すると、万町の石標があり、江戸時代には、紀州藩の飛脚継立所があったところで、この町には旅籠が五軒あった。 この通りには蒲鉾屋が多い。 万町とその先の高梨町の間の右側の小路を北に行くと、江戸時代には唐人(とうしん)町があった。 後北条氏が、難破して小田原に漂着した中国人をこの地に住まわせ、対明貿易を行っていた、といわれ、最初は唐人村
{左}古清水旅館
と呼ばれていたらしい。 街道に戻ると、左側に高梨町の石標があるが、ここは甲州街道の起点であり、問屋場でもあった。 その先に青物町交差点がある。 江戸時代には青物を扱っていた商人の町がこの北側にあった。 青物町交差点を越えると、左側に、古清水旅館があるが、江戸時代には小清水という名で旅籠を営んでいた。 宮前町石標には、町の中央に、藩主専用の入口、浜手門口が設けられていた。 本陣が一軒、脇本陣一軒、旅籠が二十三軒あり、
{左}清水金左衛門本陣跡
高札場もあった。 本町と共に、宿場の中心だった、とある。 旅館の先に明治天皇聖趾の石柱がある。 清水金左衛門本陣があったところで、入った右側には明治天皇行在所の碑が建っていた。 傍らの案内板には、 「 明治天皇宮ノ前行在所跡とあり、清水金左衛門本陣は、四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行なっていた。 本陣の規模はおよそ二百四十坪で、明治天皇の宿泊は、明治元年(1868)十月八日の御東行を初め、五回
{左}なりわい交流館
を数える。 」と書かれていた。 その先の右の小路を入った突き当たりに松原神社がある。 北条氏綱の時、海中より出現した金剛十一面観音像を祀ったのが始まりとされ、北条氏の庇護も厚かった神社である。 街道に戻り、道を歩くと、国道と合流する左側に、なりわい交流館という建物がある。  江戸時代の旅籠、住吉屋吉衛門の家で、大正時代にはブリ漁などに使われる魚網の問屋として栄えていた。 大正十二年の関東大震災で被害を受けた建物を、昭和七年
{左}徳常院
に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである出桁(だしげた)造りで、建てられている。 交流館の脇の小路に入ると、市場横町の石標があり、 「 本町と宮前町と千度小路の境を抜けられる横町で、魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、魚市場が開かれていた。 」 と説明があった。 交差点を越えた右側に徳常院という寺がある。  右側のお堂には、総身五メートルの青銅製の地蔵尊が祀られている。 もとは元箱根の 賽の河原に安置されて
{左}片岡本陣跡
いたもので、明治の廃仏稀釈で東京の古物商に売り渡され運搬途中、この地の有志が商人から買取り、当寺に安置したもの。 街道に戻ると、東海道小田原宿本町、と表示があり、ここがかっての小田原宿の中心地で、本陣が二軒、脇本陣が二軒、旅籠が二十六軒あったところである。 道の左側のレーアージュ小田原本町というマンションの駐車場の脇に、明治天皇本町行在所跡の案内板があり、大きな石碑が建っている。 片岡本陣があった場所で、明治天皇が、
{左}小西薬局
明治十一年十一月七日、東海北陸御巡幸の際、宿泊された、と案内にあった。 御幸の浜交差点のあたりに、久保田本陣があったはずだが、その跡は確認できなかった。 その先の小西薬局の前に、中宿町の石標があり、中宿町には脇本陣と西の問屋、旅籠が十一軒あった、とある。 調剤薬舗の看板を掲げた小西薬局は、寛永十年の創業、建物は関東大震災後に建てたものである。 なお、小西家は藩の御用商人だった。 道の反対側に、お城のような建物がある。 
{左}外郎(ういろう)本舗
歌舞伎の外郎売りで有名な外郎を売る店、ういろう本舗は、五百年の歴史を誇る日本最古の薬屋である。 再興した元から亡命した陳廷祐の中国での官名が、礼部員外郎だったことから、ういろうと名乗り、薬を製造販売したのが始まりという。  建物は大永三年(1523)に建設されたが、現在の建物は平成十年に復元されたもの。 箱根口交差点あたりが、江戸時代の欄干橋
{左}古そうな家
町で、欄干橋の石標には、本陣が一軒、旅籠が十軒あった、とある。 清水彦十郎本陣は、ういろう本舗の道を隔てた反対にあったというが、その跡は確認できなかった。 その先に、筋違橋町の石標があった。 この辺から、板橋見附までは八百メートル程である。 古そうな家がぽつりぽつりと残っていた。  諸白小路交差点の左側の小路のヨハネ玩具商会の前に、三好達治旧居跡の標柱がある。 この先の山角町の石標には、江戸時代にはかわら職人が多かった
{左}山角天神社
ところ、とあった。 山角町は、小田原北條氏の家臣、山角定吉の屋敷があったところから名付けられた、といわれる。 その先の信号交差点を右折すると、交差点の向こうに、菅原道真を祭神とする地域の鎮守社の山角天神社がある。  御神体は、高さ三十二センチの木像である。 江戸時代には、再興した三光寺を別当寺 としていたが、明治に廃寺になった。 
{左}芭蕉句碑
境内にある芭蕉句碑は、文政三年(1820)に建立されたもので、 有米家可耳(うめがかに) 乃都登(のっと) 日能伝(ひので)る 山路閑難(やまじかな) という、梅の花を詠んだ句である。 その他、とおりゃんせの歌碑と紀軽人の狂歌碑があった。 街道に戻り歩くと、早川口バス停の先の左側に、御厩小路がある。 JR、箱根登山鉄道のガードの手前にある早川口交差点を左折し、二百メートル程行くと、小田原城早川口の遺構がある。 
{左}小田原藩大久保氏の代々の墓
傍らの案内板によると、早川口遺構は、北条氏が秀吉の小田原攻めに備えて城下町すべてを取り囲んで構築した、小田原城大外郭の西側平地の代表的な遺構である。 街道に戻り、ガードをくぐると、直ぐ左側にあるのが大久寺である。 徳川家康軍の猛将だった大久保忠世が小田原藩主になり、建てた寺で、彼を初め、大久保氏の代々の墓があった。  大久寺を出ると、昔の赤い郵便ポストの前に、御組長屋(おくみながや)の石標があった。 
{左}居神(いがみ)神社
道を挟んで反対側にあるのが居神神社である。 居神神社は、戦国初期の永正十三年(1516)、伊勢長氏(後の北条早雲)に討たれた三浦道寸の嫡子、義意(よしおき)の霊と木花咲耶姫命、火之加真土神を祀る神社である。  義意は、七十五人力といわれた豪傑であったが、このとき、樫に鋲を打ち込んだ棍棒を振り回して奮戦し、多くの将兵を殺傷した後、自ら腹を切り首を刎ねて死んだ。 その首は恨みを含んで、伊勢氏の本拠地である小田原まで
{左}居神神社社殿
飛んできて松の枝にかかり、三年間、目を見開いて通行人を睨み殺した。 そこで、久野総世寺の忠室和尚がやって来て、これに諭したところ、義意の首は枝から落ち、瞬く間に白骨と化したという。 和尚がこれを弔い、祠を建てて、義意を祀ったのがこの神社の始まりである。 旧山角町と板橋村の鎮守で、神輿の巡業は大永元年(1521)から始まり、その行列は 十万石の格式であった、と伝えられている。 
{左}光円寺
境内には、鎌倉末期の念仏供養碑の古碑群や庚申塔などが 祀られていた。 石段を下り、街道に戻ると、左隣に大きな銀杏の木が生えている光円寺がある。 寺の角が小田原宿の上方見附があったところだが、そこには東海道の案内板や上方見附跡の表示があった。 
ここで小田原宿は終わる。



     

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