東 海 道


小田原宿から箱根宿 




{左}板橋見附交差点  
板橋見附交差点の手前右側にある光円寺の角が、小田原宿の上方見附があったところである。 今は痕跡は残っていないが、ここで小田原宿は終りである。 東海道は板橋見附交差点で国道と別れ、右の道に入り、ビデオレンタルアルバの看板のある赤褐色のビル脇の新幹線のガードをくぐる。 くぐったところに、旧東海道と板橋(上方)口の案内板があり、東海道は、光円寺で北に進み、直角に西に曲がっていた、とある。 ここは鉤型に曲がっていたといういう意味  
{左}松永記念館 
だろう。 道は対向二車線で、白い線で歩道を区別しているだけの道である。 しかし、すぐに、左側の歩道帯はなくなり、右側にだけ歩道になった。 ここは昔の板橋村で、古い家がちらほらあった。 左に下田とうふ屋という手作り豆腐の看板をかけた店がある。 江戸時代には、その先に水抜石橋があり、番所があった、といわれる。 右に小道を入っていくと、香林寺、左に松永記念館がある。 日本の電力王で数寄茶人として高名な松永安左ヱ門(耳庵)が別邸内に 
{左}戊辰戦争慰霊碑   
設けた美術館である。 街道に戻る途中、左に入ったところに、秋葉山量覚院がある。 天正十八年(1590)、徳川家康が、小田原城主の大久保忠世に管理を命じ、一月坊法印により、遠州秋葉山上より、御本尊を小田原に奉還されて以来、関東山伏の目付としての役割を任じた寺院である。  街道に戻り、少し進むと、右側に、立派な石作りの墓のような施設があるが、戊辰戦争後、戦争での犠牲となった、官軍の軍監、中井範五郎等十三名の姓名を刻んだ慰霊碑
{左}宗福院の本堂
である。 その先の石段を上ると、銀杏が茂る先に、堂々と建つのは、金麓山宗福院の本堂で、永禄十二年1569)、香林寺九世の文察和尚が身の丈一丈(330cm)の大坐像を作り、箱根湯本の宿古堂に祀られていた弘法大師の自彫造の御真体を胎内に安置したと、伝えられる、板橋地蔵尊が祀られている。 本堂の建物は、正徳五年(1715)に建てられた、慈眼寺の仏殿を移築したものである。 本堂の前に、大きな大黒天が祀られていた。 
{左}一刀流六代目、横田豊房と七代目石坂政宣の供養碑
境内には、寛政七年(1795)建立の一刀流六代目、横田豊房と七代目石坂政宣の供養碑があった。  また、石仏群が祀られていた。 道がカーブするあたりは、自動車がすれ違うのはやっとという狭さである。 そのまま進み、箱根登山鉄道の高架をくぐったところで、国道1号と合流した。 道の脇に、常夜燈が集められたように置かれていた。 国道を早川側に渡ると、小田原用水(早川上水)取入口の看板があった。 道はなだらかな上り坂。 道の右手には箱根登山鉄  
{左}右手には箱根登山鉄道が走る
道の列車が走り、右側の国道には車が多く行き来していた。  東海道は、西湘バイパス(小田原厚木道路)のガードをくぐったところで、国道1号線と分かれ、右側の箱根登山鉄道の踏み切りを渡る。 踏み切りを渡ると、二又で、すぐ右手に日蓮旧蹟の大きな岩、象ヶ鼻がある。 日蓮が身延山への往来の途中、この岩の上より故郷の安房を臨み、亡き父母を偲んだ、といわれるものだが、どれなのか確認できなかった。 東海道は左で、すぐにある二又も左で、右手に
 妙覚寺
妙覚寺が見える。 ここは旧風祭村で、天保年間の相模国風土記稿に、 「 風祭村は家数八十五軒、東西六町、南北七町程、東海道村中を貫けり、道幅二間或は三間 当場は立場なり、西方 湯本茶屋 へ一里・・・ 」 とある。 この道は、東海道の道幅がそのまま残されている、といわれる。  右手に、国立箱根病院がある。 以前、結核の医療施設であったが、今は老人看護施設になった感がある。 古い家の多い道を行くと、民家の一角に道祖神のようなものが  
{左}風祭の道祖神の標柱 
あった。 風祭駅を通り過ぎた民家の一角に、小田原市指定文化財の道祖神の標柱と東海道の風祭一里塚の案内板があった。 相模国風土記稿に、 「 東海道側に 双こう有り、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、 西方湯元茶屋の里こうに続けり 、・・ 」とあったが、一里塚は、明治十二年に取り壊されてしまった。 右側の小道を入ったところに、宝泉寺がある。 入生田(いりゆうだ)駅 の近くまで来ると、長興山紹太寺の案内板があった。 
{左}紹太寺総門跡  
右側の道は入ると、長興山紹太寺の広い参道の右側に、総門(大門)跡の案内板があった。 江戸時代には、東海道に面したこの場所に石造りの門が建っていた。 元禄四年(1691)、ドイツ人の博物学者、ケンペルが、江戸に向う途中に、総門を見て、 江戸参府紀行に、 「 入生田村は、小さな村であるが、その左手に、四角の石を敷き詰めたところに、紹太寺という立派なお寺がある。 前方には、金張りの文字を付けた石造りの門があった。 」、と記している。   
{左}春日の局と稲葉一族の墓
紹太寺は、春日の局とその子、小田原城主、稲葉正勝と稲葉氏一族の菩提寺であるが、寺の七堂伽藍は、弘化四年(1847)、安政年間(1854〜1859)、明治の火災で、焼失してしまった。 参道を進んだ左手にある清雲院だけはかろうじて難を逃れ、寺の法燈を守り続けている。 稲葉一族の墓は、清雲院の右にある参道を進み、石段を上っていくが、けっこう厳しい坂道である。 途中、紹太寺の伽藍が建ち並んでいた場所を通り抜けた先にある。 街道に戻り、入生田踏切 
{左} 道祖神
を渡る。 この道は、静かな佇まいを見せていて、国道1号線の渋滞振りと違い、車は殆ど通らない。 踏切を渡ると、箱根境交差点で、また国道1号線に合流し、ここから箱根町である。 少し先の右側の細い道に入り、国道と別れて進む。 道脇の空地に道祖神と思われる小さな石仏が置かれていた。 少し歩くと、再び、国道と合流したが、ここからの道は巾は狭いが、歩道があった。 横断歩道橋があったので、早川側に移動して歩くと、箱根三枚橋交差点に出る。 
{左}箱根湯本駅が見える
早川に架かる三枚橋から、箱根登山鉄道の箱根湯本駅が見えるが、そちらに直進する道が七湯道で、江戸時代より、湯本を始め、芦ノ湯、木賀(きが)湯、底倉(そこくら)湯、宮ノ下湯、堂ヶ島湯、塔ノ沢湯が箱根七湯と言われてきた。 その後、強羅温泉、小湧谷温泉等五つの温泉が加えられて、箱根十二湯と言われるようになった。 東海道は、三枚橋で早川を渡る。 相模国風土記稿によると、 「 三枚橋は土橋、元は板橋なり、長二十二間、幅一丈余、 」 
{左}新明町の石祠
とある。 橋が一つなのに三枚橋とあるが、かつては、川幅が広く、二つの中洲があり、そこに、三つの橋が架かっていたのである。 また、小田原から順に、地獄橋、極楽橋、そして三昧橋とも呼ばれていた。 橋を渡り終えると、箱根東坂の上りが始まる。 新明町自治会の看板の脇の小さな石の祠の中に石仏(道祖神?)が祀られていた。 江戸時代の湯本村は、相模国風土記稿によると、 「 湯本村は東西二十六町、南北五町で、家数は七十六軒、橋の辺りに
{左}早雲寺の薬医門   
茶店が軒を連ねていた。 また、橋を過れば道次第に険しい山道となり、往来困難なり。 」 とあるが、その言葉通り、下町バス停の先で、右にカーブしながら、 上っていく。 その先には、鬱蒼とした林に囲まれた白山神社があった。 道の反対側に、早雲寺の惣門(薬医門)が建っていた。 早雲寺は、後北条氏の菩提寺である。 北条早雲が、大森氏を追放し、三浦氏を滅ぼして、相模国を手に入れたが、晩年に好んで訪れたところで、その遺命により、嫡男の氏綱
{左}早雲寺の本堂
が大永元年(1521)に建立した寺で、本尊は、室町時代の釈迦三尊仏である。 秀吉により焼かれた後、北條河内狭山、下総岩富両家の手で、寛永四年(1627)に再興された。 本堂は、寛政年間の建立で、昭和三十年代までは、茅葺き寄棟造りだった。  この寺に逃げ込むと、どんな罪人でも罪を免れる、と言われ、追手も地獄橋までは追うが、その後は追わなかった、
{左}早雲寺の梵鐘
という。 まさに、地獄橋と極楽橋があった訳で、三昧橋(三枚橋)は、その先は、仏三昧に生きよと、いう意味らしい。 境内は禅寺特有の閑静さで、時が止まるようである。 境内の茅葺き屋根の鐘楼に下がる梵鐘は、秀吉が小田原攻めで石垣山一夜城の陣鐘に使用した、というもの。 墓地には北条五代の墓や連歌師 飯尾宗祇の墓などがある。 道に戻り、三百五十メートル登ると、弥坂湯の看板があるが、湯本温泉街の共同湯のようである。 この先には、温泉
{左}放光山 正眼寺
旅館が多い。 少し歩くと、左側に、臨済宗大徳寺派正眼禅寺の石柱があるが、放光山正眼寺である。 この地にあった湯本地蔵堂を基にして、鎌倉時代に建立された寺で、曽我十郎、五郎の縁者たちが、兄弟を弔うため、供養地蔵を奉納した、といわれる、曽我兄弟のゆかりの寺である。  慶応四年(1865)の火災で、寺は焼失し、当時のものは、石仏、石塔のみのようである。 曽我兄弟の供養塔と、曽我五郎の槍突石(鏃突石、やじりつきいし)がある、というので、
{左}双体の道祖神
槍突石を池の周りで探したが、どれなのか分らなかった。 本堂の左側にあるお堂前の大きな地蔵は、火災でなくなった後、早雲寺から移されたものである。 裏山の墓地を上っていくと、曽我兄弟を祀る曽我堂があった。 街道に戻ると、少し先の右側に、苔むした長方形のものがあった。 これはなんだ、と、よく見ると、湯本茶屋村の境の双体の道祖神だった。 相模国風土記稿によると、「 湯本茶屋村は、家数二十七軒、東西十町許、南北二十町程 東海道の往還係れり、幅四間、当所立場にて下は風祭村立場、上は畑宿立場へ各一里、休憩の茶舗あれば
{左}湯本一里塚跡
村名となれり。 」 、とあるが、湯本茶屋村は立場で、旅人は原則としては宿泊できなかったが、湯治にかこつけて泊まるものが多かった、という。 少し行くと、右側に、日本橋より二十二番目の一里塚跡がある。 靜観荘の脇の石碑には、 旧箱根街道一里塚跡の碑、江戸から二十二里 、と彫られているが、相模国風土記稿に、 海道の西辺、左右に並、榎樹あり 囲六尺五寸ほど、東方は風祭村、西方畑宿の一里塚に続けり、とあるものである。 坂の傾斜は 
{左}台の茶屋バス停の先の東海道
かなりあるが、温泉施設が多くある。 江戸時代も、この辺が箱根湯本の中心で、街道の両側に、茶屋が沢山建っていた。 日帰り温泉 箱根の湯の看板が出ているところで、上りは一旦、終わる。 そこから、道路が狭くなり、車の交差がようやくできる程度になる。 道を下ると、台の茶屋バス停の先で、東海道は、県道より右の狭い道を下る。  降り口の湯本茶屋公民館の前に、石造りの馬の水飲み桶があった。 昔は、ここで、馬子たちが休憩をとったのだろう。  
{左}石畳の道
箱根旧街道入口の看板には、 「 延宝八年(1680)に石畳を敷き、舗装をした。 この先から、二百五十五メートルはその面影を残し、国の史跡にしてされている。 」 、と書かれていて、左側は崖で右側は谷、その間が石畳の道となる。  猿沢の石畳といわれるものだが、長い期間、多くの人に踏まれたため、表面の角は取れ、丸くなっていた。 しかし、かなり下りなので、滑りそうで決して歩きやすいものではなかった。 少し歩くと、猿沢に架かる猿橋があり、頭上の 
{左}箱根湯本ホテルの渡月橋 
施設の下をくぐる。 この施設は、箱根湯本ホテルの本館と別館をつなぐ連絡通路の渡月橋である。 石畳を歩くと、箱根観音 福寿院の上で、再び、県道と合流した。 観音坂は、登りが続くきつい道だった。 温泉施設はほとんどなくなったが、見晴らしの良い街道歩きとなる。 その先の天山湯治郷の辺が、箱根湯本の一番奥で、 奥湯本と呼ばれる。 須雲坂を上ると、右側に、金ぴかの趣味の悪い、浄土金剛宗天聖院という寺があり、五分位歩くと、ホテル初花が   
{左}須雲川集落
あった。 少し先の道脇に、石碑があるが、かろうじて、初花の滝の碑と読める。 初花(はつはな)は、浄瑠璃、箱根権現霊験記に登場する飯沼勝五郎の妻である。 初花が、対岸の湯坂山の中腹の滝で、水垢離(みずごり)をとったところが初花の滝であるが、今は、樹木に隠れて、街道からは見ることが出来ないようである。 葛原坂を上り切ったところに、須雲川ICが有り、その先には、須雲川の標柱があった。 相模国風土記稿によると、 「 須雲川村は、古は、箕作
{左}霊泉滝と鎖雲寺(さうんじ)
と唱う、箕を造るを以て生産となせり、民戸二十三、東西十四町余、南北一里余 戸数三十、・・ 」 とあるが、東海道を開設した当時は民家がなかったので、強制的に他所から移住させられた。 須雲川を右手に見ながら通り過ぎ、小さな集落を抜ける。 左手に駒形神社がある。 街道はゆるい上り坂になるが、道の左側に霊泉滝という小さな滝と鎖雲禅寺の小さな石碑がある。 石段を登ると鎖雲寺という小さな寺である。 寛永七年(1630)に、早雲寺の一庵  
{左}比翼塚(ひよくづか)
だったのを須雲川村に移し、寺として建立したもので、普段は無住で、管理は正眼寺が行っている。 寺の本堂の右手の墓地の一角に、小さな五輪塔が二基並んで建っているのが勝五郎、初花の墓である。 「 このあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る・・・ 」、ご存知、歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で、初花の夫勝五郎を恋うる名台詞であるが、この墓は比翼塚(ひよくづか)と呼ばれている。 その傍に、初花堂もある。 鎖雲寺を出ると、上り坂は大きく  
 女転し坂の石碑(右側)
右にカーブし、須雲川に架かる須雲橋を渡るが、 その手前の左手に自然遊歩道の入り口があり、そこに建つ、女転し坂の石碑には、女転がし坂登り1町余 と、彫られている。 相模国風土記稿に、 「 海道中の西方にあり登り1町余、昔婦人駅馬に乗り、此にて落馬す故に 此名ありしと云う。 」 、とある坂だが、関東大震災の時、崩落してしまい、今は通行できない様子である。 橋を渡ると、県道は急な傾斜の坂道になった。 上って行くと、右手に、箱根大天狗神社
{左}割石坂
があるが、そのまま上る。 坂はカーブしていくが、道脇に、女転がし坂の案内板が立っていた。 きちんと整枝された杉林の中に、県道は続くが、歩道はもちろん、歩道帯を表示されていない道である。 正一位稲荷大権現の稲荷像があり、発電所前バス停があるところを過ぎると、右側に、手すりがあり、割石坂の石碑が建っていた。  相模国風土記稿に、 「 是も海道中にて畑宿の境にあり、登り一町、路傍に一巨石あり、 長四尺、横三 尺、厚さ五寸許、相伝ふ、曾我五郎時致、富士野に参り向ふ時、此坂にて帯刀の利鈍を試ん とて斬割れる石なり、
{左}割石坂の石畳
其半片は渓間に落しとなり。 」 、とある坂である。 石畳の道だが、薄暗い林の中なので、苔がむし、枯葉も落ち、滑りやすい。 明るくなった、と思ったら、左下に県道が見えた。 説明板に、江戸時代のものに、明治、大正時代に、須雲川小学校への通学路として整備した、とある (右写真)前後の新しいものは、最近設置したもののようである。 橋が見えてきたと思ったら、石畳は終わった。 県道をしばらく歩くと、左側に箱根旧街道の木柱がある。 案内通り   
{左}板橋を渡る
下り坂の石畳の道を歩く。 昔は立派に整備されていたのだろうが、石が減って地面が剥きだしになったり、石がなく土の道となっているところもあった。 石は角がとれて丸くなり、 その上に苔が生え、傾斜が急で滑りやすくなっていた。 川に一枚の板を渡した橋を渡る。 相模国風土記稿に、「 千鳥橋、大沢川に架していて、長幅各二間、古は土橋なり、寛政十年石橋となり、欄干あり、領主の修理なり、 」 とあるので、江戸時代には、現在より川は大きかったの
{左}大澤坂
だろう。 橋を渡ると、上りになるが、そこにあった案内板には、 「 幕末の下田奉行、小笠原長保の甲申日記に、大沢坂又は座頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によしと、書かれていた、とあるところで、当時の石畳道が一番良く残っている。 苔むした石畳は往時をしのばせる。 」 、とあった。 歩きずらいが、しょうがないか? 道幅が広い石畳の左側に、大澤坂の石碑が建っていた。 大澤坂の石畳を上り終えると、県道に出て、江戸時代、
{左}間の宿・畑宿
間の宿だった畑宿の集落に入った。 江戸時代の畑宿は、小田原宿と箱根宿の間の箱根旧街道の間の宿として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工に人気があった、といわれる。 畑宿バス停の脇の寄木細工の店、浜松屋の隣に、畑宿本陣茗荷屋跡の木柱が建っていた。 畑宿は間宿でも本陣があり、代々、茗荷屋畑右衛門を名乗った。 明治天皇は、京都から東京への遷都に際し、明治元年十月八日、同年十二月十日と翌年三月二十
{左}畑宿本陣跡
五日の三回、ここで御小休を取られたが、それを記念して、大きな石碑が建っている。 また、米国初代総領事のハリスが、江戸入りの途中、下田から駕篭で 上京したが、その際、ここで休息し、日本式庭園を観賞している。 大正元年の全村火災の折、建物は焼失したが、庭園は、昔を偲ぶ形で、残された。 
{左}箱根駒形神社
その先の右側の細い道の奥にあるのが、駒形宮の鳥居がある箱根駒形神社で、畑宿の鎮守社である。 箱根神社の社外の末社として、荒湯駒形権現とも言われている。  箱根細工ともいわれる寄せ木細工は、古くは木地挽きから起こった。 後北条氏の小田原の発展に伴い、畑宿は、轆轤を使った挽き物と、平面的な箱物などの指物が、製品として作られるようになった。 江戸時代の中期以降は、寄木細工と象嵌細工が中心となり、旅人の人気を博した。   
{左}畑宿寄木会館
こうした伝統工芸を紹介する、畑宿寄木会館は、街道に戻り、少し行った右側の小道を入ったところにあり、寄せ木細工の販売とともに、製作の模様が見学できる。 相模国風土記稿によると、 「 畑宿村は、江戸より行程二十四里、此地は東海道中の立場にて湯本茶屋へ一里、箱根宿へ一里八町、民戸連住し、宿駅の如し、家数四十三、東西二十三町、南北十八町余とあり、当所も正月松に替へて樒(しきみ)を立り 名主畑右衛門、字号を茗荷屋と称す、湯本
{左}守源寺
細工、挽物(ろくろ細工)、塗物類をひさぐ、 」 と書かれている。 道は、畑の茶屋バス停で、右にカーブして登り坂となるが、東海道は、そのまま進むと、一里塚の木柱があり、脇の参道を上ると、守源寺がある。 箱根七福神の一つ、蓄財の神様である大黒天が、本堂の右側の大黒堂に祀られていた。 箱根七福神巡りは、江戸時代初期より庶民の間に広まった信仰で、今でも人気がある。 街道に戻ると、畑の茶屋や蕎麦処桔梗屋がある。 それらを過ぎると、石畳が  
{左}畑宿一里塚跡
始まる。 木々に囲まれた大きな広場に、小山が二つあり、右の塚には、樅(もみ)、左の塚 には、欅(けやき)の木が植えられている。  これは、江戸から二十三番目の畑宿一里塚を整備、復元したもので、なかなか美しい一里塚である。 相模国風土記稿には、 「 西海子坂の下、海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、西は箱根宿の一里塚に続けり、 」 とある。 一里塚跡碑を出ると、道は、再び、石畳となり、急な坂道である。 
{左}西海子坂
相模国風土記稿に、宿外西の方にあり、登り二町許り、とある、西海子坂であろう 。  道に沿って茂る杉林は、雨風や夏のひざしから旅人を守り続けてきただろう。 先程までの石畳と違い、石が地面から浮いていたりするので、歩きずらい。 案内板があり、雨水を排水するため、斜めの排水路を作っていた、とあった。 上流側に小さな石、下流側に大きな石を積み、斜めに段差を付けることで、街道脇に流し込むもので、快適に歩くための江戸時代の工夫である。 
{左}七曲がり
更に歩くと、階段が見えてきた。 階段に、西海子坂の石碑があり、「 石畳が敷かれる前の東海道は、雨や雪の後は、泥道になるため、竹を敷いていたが、調達に苦労した。 」 、と書かれていた。 階段を上ると、舗装した県道に出た (右写真)  幾重にも曲がりくねった道なので、七曲がりと呼ばれる。 道は、右にカーブし、左にカーブするが、歩行者は途中で上れる石段があり、そこを上った。 続いて、左にカーブするところで、箱根新道の下をくぐる。 この坂は、
{左}橿木坂バス停
かなり厳しい坂である。 左側に、石畳風に石をあしらった歩道が設けられているのは助かる。 ゆっくり上って行くと、橿木坂バス停があった。 橿木坂の案内板には、 「 相模国風土記稿に、峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得とあり、東海道名所日記には、けわしきこと道中一番の難所なり、おとこかくぞよみ ける、かしの木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼれる と、書かれていた。 」 、とあるが、江戸時代には、箱根路で一番の難所だった
{左}橿木坂の石段
のだろう。 相模国風土記稿にも、 「 此坂山中第一の険しさにして、壁立するが如く、岩角をよじ登るべし、一歩も謹ざれば千尋の岩底 におとしいれり、 」 とあった。 橿木坂の石碑の脇の石段を上るが、石段の一段一段が高いので、非常につらい石段である。 石段を上りきると、県道に出たが、右にカーブするところで、また、石段があった。 階段を上った先に、旧街道心晴橋の道標があるが、左に入ると、箱根旧街道(新設歩道)甘酒茶屋1300米、元箱根
{左}山根橋
3000米、の道標がある。 道は、最近造られたように思えた。 右側に石段の上に見えるのが見晴茶屋かも知れないが立ち寄らず進むと、山根橋である。 旧街道山根橋の道標には、元箱根まで三キロの表示があった。 石畳の道を歩くと、階段があるので、それを上ると、甘酒橋があった。 その先も石畳の厳しい坂が続く。 階段が見えてきたところに、猿滑り坂の石碑が建っていた。 案内板に、 「 猿滑り坂は、相模国風土記稿に、 猿、猴といえどもたやすく登り
{左}笈親鸞上人御旧蹟碑
得ず、よりて名とす、 」 と難所らしい名の由来が書かれている。 県道の横断歩道を渡り、階段を上ると、県道を下に見て歩く形になる。 高度も高くなった。 石畳を進むと、階段があり、それを降り、県道脇の歩道を進むと、平らな所に出た。 笈の平の碑があり、その近くに、笈親鸞上人御旧蹟と刻まれた大きな石碑があった。 東国の教化を終えての帰路、親鸞上人と四人の弟子が険しい箱根路を登って、ここまで来たとき、親鸞は、弟子の性信坊と蓮位坊に、
{左}甘酒茶屋
 「 立ち戻って東国布教をしてもらいたい! 」 、と頼み、悲しい別れをしたところ、と伝えられる。 碑の裏側になだらかな階段の先の未舗装の細い道が東海道で、県道に沿って続いている。 追込坂登二町半余の石碑がある。  その先の左手に、箱根旧街道資料館(入場料70円)があり、昔の旅道具などが展示されている。 また、隣の家前に、甘酒茶屋の石碑があるが、赤穂浪士の一人、神崎弥五郎の詫び証文で知られる茶屋である。 畑宿と箱根宿の中間に
{左}於玉坂
位置し、旅人が一休みするのに適当な場所で、名物の甘酒を出していた。 こうした甘酒茶屋は、箱根八里全体では、十三軒あった、という。 以前は小さな小屋だったのだが、今は立派な建物になっていて、甘酒以外にも、色々なものを商っている。 名物の甘酒を頼んだが、小さな頃飲んだ甘酒を思い出す味だった。 街道を歩き始めると、、標高七百十五メートルの地点があった。 左側が杉林、右が雑木の道を歩くと、於玉坂の石碑が建っていた。 この坂は二町余
{左}皇女和宮御降嫁の際改修された石畳道
で終り、県道に出た。 その対面に石畳の道が続いている。  甘酒茶屋まで0.4km、元箱根まで1.2kmの道標があった。 その先の石畳道に、史跡箱根旧街道の石碑が建っていた。 奥の案内板には、東海道の変遷が書かれていた。 この地点から元箱根に至る約一キロメートル残っている石畳道は、文久三年(1863)の皇女和宮の御降嫁の際、幕府は時の代官に命じ、前年の文久二年に改修工事をさせたもの、といわれ、平均三メートル六十センチの道巾の中央
{左}箱根八里馬子唄石碑
に、約一メートル八十センチ巾に石を敷きつめられていた、という。 道脇に、白水坂 登十二間余の石碑があり、少しあるくと、今度は、天ヶ石坂の石碑である。 相模国風土記稿には、 「 天ヶ石坂は登り七間余、坂側に 一巨石あり、方八尺余、天ヶ石と云う 天蓋石の訛なり 其形、天蓋に似なればなり、此所 箱根宿の界にて山中海道の最高頂なり、爰より次第に下れり、 」とある。 この坂を過ぎると下り坂になり、その先に、 箱根八里は馬でも越すが、越すに 
{左}八町坂
越されぬ大井川と唄われた、箱根八里馬子唄の石碑があった。 権現坂を下ると、舗装した道と交差する。 交差する左右の道は、鎌倉時代の東海道の湯坂道である。 正面に樹間を通して、芦ノ湖が見える。 この先は八町坂とも呼ばれる坂。 坂道の長さは、約八町、八百六十四メートルで、かなりの急坂であるが、芦の湖に向って、一気に駆け下ると、舗装した道に出た。 長かった石畳の道は、ここで終り、舗装した道を下ると、成川美術館の脇を通り、芦ノ湖畔に出た。 
{左}箱根神社の一の鳥居
成川美術館の反対側にある大鳥居は、箱根神社の一の鳥居である。 箱根神社は、天平宝字元年(757)、万巻(まんがん)上人が、ここに、丈六薬師如来を祀ったのが始まりで、後に、頼朝の保護を受け、伊豆山、三島と並ぶ関東第一級の神社となった。 一の鳥居のある湖畔が、賽の河原である。 東海道名所図会では、 西の河原と紹介されている。 江戸時代には百三十基の石仏や石塔があったが、今は五十四基しか残っていない。 
{左}身替わり地蔵
このあたりは、元箱根で、定期バスのターミナルもあり、芦ノ湖遊覧船が常時発着し、その傍は、観光バスで混雑していた。 先程のところに戻ると、成川美術館の隣の吾妻山日輪寺の参道入口に、髭題目が建っていた。 その先、左側の岩屋に、身替わり地蔵が祀られている。 宇治川の先陣争いで名高い梶原景李が、箱根を通りかかった時、背後から何者かに襲われた。 父の梶原景時と間違えられたらしい。 しかし、かたわらにあった地蔵が身代わりなって、
{左}葭原久保一里塚
かろうじて命が助かったという。 車道の右側には逆さ富士駐車場があるが、この湖岸は逆さ富士が見られる所である。  逆さ富士は、富士山が湖面に反対に映った姿なので、湖面が平らであることが条件になるので、無風であることが条件である。 杉並木を関所に向かうと、巨大な杉が二本生えている下に、一里塚跡の石碑がある。 江戸から二十四番目の葭原久保一里塚があった所で、かつては、ここでは珍しいニシキギ科の落葉小高木の檀(まゆみ)が植えられて 
{左}箱根杉並木
いた、という。 国道の左の狭い道が東海道で、今から三百七十年前の元和元年(1618)に植えられたといわれる見事な杉並木が四百二十本も残っている。 その先、国道に出るが、国道を横切ると箱根恩賜公園がある。 公園の横を左に入っていくと、箱根関所資料館があり、通行手形、古代道中絵図など、関所に関する資料や関所破りを防ぐための武具などが展示されている。 更に、歩いて行くと、冠木門のようなものが見えてきたのは、箱根関所の江戸口御門を
{左}箱根関所
復元したものである。 元和五年(1619)、江戸幕府は、全国に五十三ヶ所の関所を設置したが、箱根関所は、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中までの柵で、厳重に区分し、江戸口、京口両御門を備え、大番所と足軽番所が向き合うものになっていた。 入り鉄砲に出女 、という言葉があるが、箱根関は、大名の妻女が江戸から抜け出すことを防止することが主眼だったので、鉄砲改めは行われなかった。 箱根関所は、士分十名、
{左}箱根関所の吟味
足軽十七名、人見女、二名が一組であった。 担当したのは、小田原藩で、十一組で編成されていて、毎月交替で、関所役を勤めた。 非常時は、小田原藩から非番のものが駆けつけた。 門の手前には、千人溜まりと言われる場所があり、吟味を受ける順番を待ちの人が待機していた。 旅人は、中の建物前で、吟味を受けた。 また、 箱根足軽番所の裏の高台に、遠見番所があり、湖上監視のため、関所破りを見張っていた。 なお、箱根全山の監視は此処だけでは 
{左}京方御門
出来ないため、根府川、仙石原、矢倉沢、谷蛾、川村にも裏関所が設けられていた、という。 東海道に箱根関所が出来たころには、宿場がなかった。 関所の門は、暮六つには閉じられてしまうと同時に、裏道もすべて封鎖されたので、関所の通過には、旅人はすごく神経を使った。 大名達も同じであった。 そうしたことから、西国大名の要請で、元和四年(1618)、箱根宿が誕生したのである。 京方御門をでると、 オルゴール館、蕎麦屋、箱根寄木細工の店や御土産店
{左}箱根ホテル
が建ち並んでいた。 箱根宿は、相模と伊豆の国境にあることから、小田原宿と三島宿より、五十軒づつの宿を移住させて作った。 本陣の数は六軒と、東海道最大で、脇本陣も一軒あったが、その先の国道の右側にある箱根ホテルが、本陣だったはふやの現在の姿である。 旅籠は三十六軒で、宿場創設時より減少していった。 大名が多く泊まることや関所が 近いということで、民衆は敬遠したようで、旅人の多くは、三島か、小田原に泊まったようである。  
{左}箱根駅伝の碑
江戸時代の箱根宿の中心は、その先の遊覧船とバスのターミナルになっているところだったが、江戸時代の面影は全く残っていなかった。 それに代わり、雲助だんご本舗の奥には、箱根駅伝に関連する石碑が幾つか建っていた。 毎年正月に行なわれる東京から箱根往復の大学駅伝は、東海道の沿線を走る冬の 名物である。 ここには、箱根栄光の碑や駅伝をたたえての歌詞が書かれた碑などが建っていた。 その先の右側には、箱根駅伝ミュージアムが
{左}箱根駅伝ミュージアム
あった。 交差点の左側にあるコーナーにも、箱根駅伝の歴史を語る出来事が書かれていて、ここが箱根宿であったことは一言も書いてなかった。 今の箱根は、江戸時代の東海道の箱根宿より、テレビで放映される箱根駅伝なのだ、と思った。 
これが現実なのだろう。 これで、箱根宿は終わる。 



     

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