東 海 道


箱根宿から三島宿 




{左}芦ノ湖  
箱根は、東海道で 唯一 国立公園に指定されているだけに、美しい景観を醸し出している。 特に、芦ノ湖は、周りの風景を湖面に 映し、優雅である。 この湖は、標高七百二十五メートルに位置する周囲二十一キロ、最深部は四十三メートル五十センチの湖で ある。 冨士火山帯の陥没火口湖(カルデラ湖)で、湖底には、今でも、杉の大木が立ったままの姿で沈んでいるし、古代集落の跡も、 そのまま残されている。 
{左}大学駅伝記念碑 
とはいうものの、東海道を歩くものにとっては、江戸時代の旧跡は関所までの松並木がかろうじて残るだけで、もの足りない。  箱根宿だった場所は、バスターミナルと海賊船の発着場になっていたし、箱根宿南交差点には、大きな駅伝碑があり、現在の箱根観光 の現状を象徴しているように思えた。 
{左}山神が祀られている祠   
箱根宿南交差点から三島宿に向って歩き始める。 国道1号はここから少し上りになるが、東海道は、駒形神社の表示板がある交差点 で右折する。 そのお陰で車による事故の心配はしないで済んだ。 交差点の左角に、山神が祀られている小さな祠があった。  また、祠の左側には、天正十八年の関白道の道標があったが、これは、小田原攻めの際、豊臣秀吉が通った道なのだろうか? 
{左}駒形神社入口   
交差点を右折し、東海道である対向二車線の道に入っていくと、左側の赤い鳥居の先の杉木立の奥に、駒形神社の社が見えた。 入口に 、箱根七福神の赤い幟があり、毘沙門天 駒形神社の案内板が立っていた。 鳥居のあたりに、犬神明神の案内板があり、 それによると、 「 元和四年(1618)、箱根宿が創設されたとき、付近には、狼がたくさんいて、建設中の宿の人々を
{左}庚申供養塔   
悩ませた。 そこで、唐犬二匹を手に入れて、狼を退治させ、やっと、宿場が完成した。 しかし、二匹の犬も傷ついて、死んで しまった。 人々は宿場を完成させてくれた二匹の犬をここに埋め、犬神明神として祀った。 」 、と書かれていた。  江戸時代には、日本狼がまだ生存していたのですねえ!!  石段の右側に、庚申供養塔が建てられていた。 石段を登ると、蓑笠明神が祀られている。    
{左}駒形神社   
蓑笠とは変な名であるが、商売の神、恵比寿を祀っていて、お参りの日に蓑笠を被ることから、という。 その先に、先程の犬神 明神の小さな社があった。 毘沙門天は右手にあり、駒形神社は一番奥にあった。 この神社は、駒形大神とも呼ばれ、天御中主大神 (あめのみなかのぬしのおおかみ)、大山祇神、素戔鳴命を祭神とした、宿場の鎮守社である。 箱根神社の社外
{左}芦川の石仏、石塔群  
の末社として、荒湯駒形権現と称していたこともあり、創祀は不明だが、 かなり古いと思われる、とあった。  街道に戻ると、道は三差路で、そこには、芦ノ湖西岸歩道の大きな案内板が建っていて、右折すると、ふれあいの森を経て、湖岸を 湖尻まで行く道で、約四時間のコース、とあった。  東海道は、正面の舗装された狭い道で、入っていくと、民家の反対側の山際に、多数の石仏と石柱が建っていた。 これは、芦川の 石仏、石塔群と、呼ばれるものである。   
{左}史跡箱根旧街道の石柱   
その先の左側に、箱根旧街道の案内板と史跡箱根旧街道の石柱が建っていて、案内板には、この地点から箱根峠まで、約五百メートル にわたり、石畳が現存する、とあった。 その奥に建つ南無観世音菩薩の石碑は、苔むして、字がかろうじて読めるものである。  その先の家までは、敷石が置かれていて、歩きやすかったが、その家を過ぎると、昔のままの石畳みの道に変った。 向坂の石標が あり、また、向坂と風越坂の案内があった。    
{左}赤石坂   
石畳を上り始め、杉が茂って日が当らないところにくると、石畳の上に雪が積もり、溶けないでいる。 小生が訪れたのは、三月下旬 だったが、一月前に降った雪が残っていた。 滑らないように、足場を確認しながら歩く。 東海道は、その先で国道の下をくぐる。   赤石坂と表示はあるが、雪の量は先程より増えたようで、所々に、石が頭を出す程度である。 
{左}挟石(はさみいし)坂   
笹の葉が枯れて地表に落ちているところを踏んで進むと、あまり滑らなかったので、それを見つけながら、上っていった。  続いて、釜石坂の表示があった。 杉の木が多く残っている割に明るいので、雪は溶けて少ないのだが、溶けたのが氷に変り、滑る ので、かえって危険であった。 少し歩くと、また、 雪道になり、その先に階段が見えてきた。 階段を上ると、右側に挟石坂の石碑があり、国道1号線に出た。     
{正面高架道}箱根新道   
挟石坂の案内板には、箱根峠に行く坂で、当時の浮世絵を見ると、伊豆国を分ける標柱とゴロゴロした石、それに、カヤしか描かれて いない荒涼した峠だった、とある。  時計を見ると、上るのに四十分もかかっていた。 二十分足らずでいける予定だったので、 雪と氷で倍を要した計算である。 国道を右折すると、道の駅箱根峠があるが、眺望はあまり良くない。 国道を三島に向って進む。 道の左側を進むと、箱根新道に入ってしまうので、手前で右側に 移動する。     
{左}箱根峠標高846mの標示板   
その先では、左から箱根新道からの車が合流してくる。 歩道が狭いし、車が多いので歩いていて、気をつけなければならない。  右にカーブする左側に、箱根くらかけゴルフ場の看板がある。 箱根エコパーキング500mの標識のあるところで、左側に渡り 直した。 芦ノ湖スカイライン入口を過ぎると、箱根峠のバス停があり、箱根峠交差点の手前に、箱根峠標高846mの標示板が あった。 雪道を歩くハプニングはあったが、とりあえず、箱根峠に到着したのである。     
{左}箱根峠交差点
なお、江戸時代の東海道の峠は、ここより高い、鞍掛ゴルフ場へ向う道の途中にあったようである。  静岡県と函南町の標識があり、ここが神奈川県と静岡県の県境である。 昔は相模国と伊豆国の国境だった訳で、 日本橋を出発した旅人は、武蔵、相模と歩き、箱根峠で、三つ目の伊豆国に入った訳である。  峠といっても、見晴らしが良い訳でもなく、振り向くと、出光のガソリンスタンドの先に、駒ケ岳がなんとか見えるだけだった。
{左}箱根旧街道の門札
交差点の左側に、ラーメンの赤い幟が出した喫茶箱根路があるが、この後、山中城址付近に一軒、食事処があるだけである。  この店に入り、トイレを借り、寒かったので、ラーメンを頼んだ。 二十分程いて、店を出ると、道の反対にあるのが、先程の標識に あったエコパーキングで、大型の車が数台停まっていた。 その一角にある箱根旧街道の門札があるところをくぐり、東海道の旅 を再開した。 箱根の坂は、箱根峠までの江戸側を東坂、京都側を西坂と呼んでいたようである。   
{左}新箱根八里記念碑
これから歩く西坂は、開設当時、ほぼ一直線の下り道で、あまりの急坂だったため、雨の日には、人も馬も滑って転んだため、その後、 改修され、道幅も広くなり、歩きやすくなった、と伝えられる。 箱根旧街道のけったいな門をくぐり、タイル敷きの道を歩くと、 右側に、黒柳徹子など八人の女性の揮毫により誕生したという新箱根八里記念碑(峠の地蔵)があった。 その先に共同トイレと 大きな案内板が建っていた。 
{左}箱根旧街道入口の道標
その先の下がったところに、箱根関所跡2.5km、箱根旧街道入口の道標があった。 指示された道は、芦ノ湖カントリークラブへ 通じる舗装された立派な道であるが、車はほとんど通らない。 五百メートルほど歩く と、ゴルフをしている人が、遠目に見えるようになったら、左側に旧箱根街道の案内板があり、三島宿までのルートと所要時間が 表示されていた。 また、このあたりは、いばらが生い茂っているので、付近の草原を茨ヶ平という、と書かれていた。    
{左}兜石休憩所
江戸中期 の東海道巡覽記にも、「 ばらが平、いにしえよりいばらの多くありし故に名とするよし 」 、とあるので、頷ける。  箱根関所跡3km、三島宿11km、の標識、また、是より江戸二十五里、是より京都百里の道標は、雪の中に埋まっていた。   狭い道を下ると、すぐに休憩施設と兜石案内板があり、その前には、いつ作られたものか、雪だるまが鎮座していた。   道の脇にあった、 夢舞台東海道 兜石 の道標には、次の宿場の方向と距離が表示されていた。 
{左}八ツ手観音(?)
この坂は甲石(かぶといし)坂というようであるが、案内板にある兜石はここにはなかった。 夢舞台東海道の道標は、静岡県が設置 しているもので、この先、愛知県に入るまで、しばしば目に触れることになる。 案内板の奥に入って行くと、「 箱根七里記念碑、 北斗闌干 井上靖 」 と、書かれた石碑が一つだけ建っていた。 道標のところまで戻ると、道の右側に、石仏が祀られている。  八ツ手観音だろうか? 坂を下り始めると、道の両脇は笹竹で、雪の重みによるものと思うが、道路側に倒れかけており、道に一部で あるか、雪が残っていた。 
{左}兜石(かぶといし)跡の標石
南西に面しているからか、東坂よりは少なかったとはいえ、涸れた笹は、滑りやすいので、注意して下りた。  笹原の道が終り、 杉林に入ると、雪はなくなり、荒れてはいるが、石畳になった。 左側の笹のある目立たないところに、函南町指定史跡・兜石跡の 小さな石碑が建っていた。 羽柴秀吉が小田原攻めの時に兜を置いて休んだという兜石があったところである。 このあたりは、 石畳の石がかなり残っている。 
{左}接待茶屋バス停付近
雑木林に入り少し進むと、道は荒れていて、少し急な下りになった。 車の音が気になりだしたら、国道1号線に出てしまった。  ここに、山中城跡、三島宿(箱根旧街道迂回路)の道標があるので、指示に従い、国道の歩道を下ると、左に急カーブするところにでた 。 そこには、接待茶屋のバス停があり、その先の右側に、小道があったので、中に入る と、史跡箱根旧街道の石柱と大きな看板が 建っていた。   
{左}夢舞台東海道 接待茶屋の道標
箱根八里の山越えは、旅人達にとって、困難な道で、特に、晩秋から早春にかけての峠付近は、雪の日が多く、危険な道だったので、 旅人や馬子達の避難場所が必要だった。 夢舞台東海道 接待茶屋の道標が建っている場所は、その施設があったところである。  施行平に、本格的に接待小屋が設けられたのは、文政七年(1824)のことで、江戸の豪商、加勢屋與兵衛(よへい)が、私財五十両を 投じ、是を基金として、馬に飼葉を、また、他の茶店が閉店する冬場には旅人に粥と焚き火を無料で提供したもので、明治維新まで 続いた。 
{左}施行平(せぎょうだいら)の接待茶屋
街道制度の廃止により閉鎖されたが、明治十二年(1879)に再開されたものを、鈴木家が引き継ぎ、昭和四十五年(1970)に、店が閉じら れるまでの九十年の永きにわたり守り続けてきた。 その建物(右写真)も、平成五年(1992)の国道拡幅工事により、取り壊されて しまった。 接待小屋事業は、まさに、ボランティアの先駆者であった。 
{左}巨大な兜(甲)石
少し先に、富士屋ホテルのコック長を務めた鈴木源内が昭和十年(1935)に建立した徳川有徳公遺跡碑が建っていた。  有徳公とは、徳川吉宗のことで、謚名の有徳院から来ている。 
道の右側に、巨大な石があった。 兜(甲)石である。 豊臣秀吉が小田原攻めの時、彼の兜を置いた石といわれ、最初は、先程の 兜石跡の石碑があったところにあったのだが、昭和初期の国道工事の際、接待茶屋のあたりに移され、平成の国道工事で、ここに 移された、とあった。 
{左}明治天皇御小休阯碑
静かな林の中の道を進むと、三差路になるが、道標に沿って左の道を進むと、左手の笹の奥に、昭和三年(1928)建立の明治天皇御小休 阯碑が建っている。  明治天皇が、明治元年(1868)に上京なさった時、休憩をおとりになった場所で、当時はビンカの茶屋と呼ばれ た甘酒茶屋があった。 ビンカとは、イヌツゲのこの地方の呼び名で、茶屋の脇に植えてあった、という。 
{左}念仏石
街道に戻り、石原坂を下る。 石畳の道であるが、その上に、落葉が積もって石畳には見えない道だった。 坂が急になると、落葉も 少なくなり、石がゴロゴロむき出しになった。  しばらく行と、右側に、ふれあいの森と、刻まれた大きな記念碑がある。 両脇の 木は、雑木から杉に変った。 気を付けないと、見落とすが、右側に、念仏石と呼ばれる、大きな三角形の石が突き出していて、 その前に、南無阿弥陀仏 宗閑寺 と、刻まれた、小さな石碑が建っている。 
{左}国道が眼下に見える
突き出ている石を土地の人は念仏石と呼ぶ。 宗閑寺とある石碑は、行き倒れの旅人を宗閑寺で供養して、石碑を建てたもの。と思わ れる、 と、説明板にあった。 道が平坦になると、道の左側が開け、奥に箱根の山々が、国道が眼下に見える。  右側に、仮設トイレと街道の案内地図があり、山中城跡まで一.三キロの標識があった。 左から国道1号から入ってきた細道を横切 ると、大枯木坂の石畳道になる。 このあたりは、山中農場の一角なのだろう。  
{左}箱根連山
杉林の中を少し上ると、視野が開ける枯れ野に出た。 鞍掛山から十国峠にかけての風景だろうか?   しかしながら、富士山のある西方は視野が妨げられて見ることは出来なかった。 それでも、これまで歩いたなかで、一番解放感に 浸れる道だった。 この区間は短く、下り坂になると、民家の庭のようなところにでた。 民家の前を歩き、国道に出た。  横断歩道を渡り、国道の左側に出て、坂を下ると、右にカーブするところに、農場前のバス停があった。 
{左}東海道夢舞台 山中新田 願合寺地区石畳
その先に、三島市の標識があり、三島市に入った。カーブを曲がったところの左側に、下に降りて行く階段がある。 下りていくと、 杉が林立する林の中に石畳があった。 少し歩いたら、東海道夢舞台 山中新田 願合寺地区石畳 の道標があった。 この緩やかな 坂道は、小枯木坂と思うのだが、願合寺地区となっていた。 石畳は、昭和四十七年に、道の中間部分の二百五十五メートルを修復 整備し、残りの四百六十六メートルは平成七年に工事を行った、とあった。 
{左}一本杉石橋
入口の大看板に、一本杉石橋が当時のままの姿で発掘された、とあったが、石畳に大きな石を横に並べた形だった。 横に並んだ 大きな石が石橋のようだった。 石畳み道と杉並木の組み合わせは江戸情緒を感じさせ、なかなか良いものである。 元箱根の 杉並木程、雄大ではないが、ひとけのない静かな杉木立の間を歩く喜びを感じた。 その先、左側に現れる道は、函南原生林に入る 道だろう。      
{左}雲助徳利墓
道を直進すると、正面の小高いところに、国道が見えてきた。 その手前の右側に、墓石に徳利の絵が描かれている墓があり、 盃と徳利が浮き出している下に、久四郎と彫られている。 傍らの案内によると、雲助徳利墓と呼ばれる墓で、彼は、 松谷久四郎と名乗り、一説では、西国大名の剣術指南だったが、大酒飲みのため、酒がもとで事件を起こし、国外追放となり、 箱根で雲助の仲間入りをした。 剣術の腕前に優れ、読み書きができるので、雲助仲間から親分以上に慕われるようになったが、 酒が因で命を縮め、亡くなった。 
{左}六字名号碑など
彼の死後、雲助仲間が彼を偲んで、この墓を建てた、と書かれていた。 国道に向って上っていくと、山中城跡歩道橋があり、その 足元に、史跡箱根旧街道の石柱と天保九年(1838)の三界万霊塔と延宝八年(1680)の六字名号碑が建っていた (右写真) その奥の竹林の土手下には、中段に八基の石碑や供養塔があるが、この地にあった阿弥陀堂の名残り、という。   
{左}山中城阯の石柱
山中城跡歩道橋を渡ると、東海道夢舞台 山中城跡の道標があった。 その向かいに、石段と鳥居があり、鳥居の左にも、山中城阯の 石柱が建っていた。 山中城は、永禄年間(1558〜1570)に、北条氏康によって築城された城で、東海道を取り込む形で造られていた。  鳥居を入った右側には、貞享四年(1687)の庚申塔と地蔵があり、石段を登っていくと、正面に駒形諏訪神社、右側には、八坂神社が あった。 駒形諏訪神社 は、以前からあった駒形神社に、
{左}駒形諏訪神社と八坂神社
鎌倉時代、旧東海道の元山中にあった諏訪神社を合祀したもので、城の守護神として祀られたものである。 左側のアカガシの老木 は、樹齢約五百〜六百年で、根廻り九.六メートル、高さ二十五メートルの巨木で、県の天然記念物である。 うしろには、三島市 天然記念物の矢立の杉があり、高さは三十一メートル五十センチ、樹齢五百年の古木である。   
{左}山中城阯
その先に進むと、山中城の本丸だった ところに出た。 山中城は、北条氏が秀吉の小田原攻めに備えてつくった堅固な城である。 戦国時代共通の山城だが、石垣を使わず に土塁と空堀で防備を固めた築城方法は珍しい。 本丸は、標高五百七十八メートル、面積は千七百四十平米で、天守櫓と共に、 城の中心で、堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南に兵糧庫と接していた。 城址の地形などはしっかり残っているので、一時間かけて 見学したが、説明は省略する。 
{左}山中新田集落
江戸時代の山中新田は、山中城跡の曲輪の中に東海道が通り、集落を形成していたが、難所の箱根峠を控えた間の宿として栄えていた 、という。 山中公民館のあたりに水戸屋(脇本陣)、その向かいに、大和屋(脇本陣)、水戸屋の手前には茶屋本陣の笹屋 など、 四十軒を越える茶屋があった、というが、現在の姿からは想像できない。 なお、駒形神社斜め向かいの茶屋、竹屋は、江戸時代の 茶屋を平成八年に復活させたもののようである。   
{左}宗閑寺
山中城址前の細い道を進むと、右側の公民館の隣に宗閑寺という寺院がある。 ここは三の丸の跡地だが、三の丸での戦いは、大激戦 で死体が折り重なった、と言われる。 宗閑寺は、静岡市の華陽院の末寺で、当時の華陽院住職、了的上人が、この戦いで死んだ 間宮豊前守康俊の女、お久の方の心情をあわれと思い 山中城の三の丸跡に、宗閑寺を建立した、と伝えられる。   
{左}間宮康俊と弟同監物とその一族の墓
境内には、間宮康俊と弟同監物とその一族の小さな墓が三基あった。 また、北条方の山中城主、松田右兵衛太夫康長と箕輪城主、 多米出羽守平長定の墓、そして、豊臣方の先鋒、一柳伊豆守直末の墓碑が、敵味方並んで建っていた。 街道に戻り、少し進むと、 小高いところに、お堂があったので、石段を上っていった。 
{左}芝切地蔵堂
芝切地蔵堂という名のお堂であるが、「 山中新田で泊まった旅人が急な病で亡くなった際、自分を地蔵尊として祭り、芝塚を 積んで、故郷の常陸が見えるようにして欲しい、と言い残した、という。 村人は、いわれた通り、地蔵尊を祭り、あわせて、 小麦饅頭を作り、参拝にきた人に接待したところ、大好評で有名になった。 江戸時代には、沼津方面から七月十九日の祭に多くの 参拝者が訪れ、当日販売する小麦饅頭の儲けで、山中集落の一年の費用が賄えた。 」、と案内にあるほど、賑わったようである。  お堂の脇には、芝塚が造られていた。   
{左}司馬遼太郎の箱根八里記念碑
岱崎出丸の右側には、東海道の石畳と三島市が立てた箱根旧街道の案内板があり、この先三百五十メートルの石畳があると書かれて いた。 国道一号線は、曲りくねりしながら三島へ向かうが、江戸時代の東海道は国道を 突っ切るように一直線に延びていたようで ある。 杉林の中に入ると、右側に、嘉永六年(1853)の馬頭観音と司馬遼太郎の箱根八里記念碑があり、「 幾億の足音が 坂に積も り 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ 」 と、刻まれている。   
{左}浅間平の富士山
杉林が途切れると、国道にでた。 東海道夢舞台 腰巻地区石畳の道標が建っている。 横断歩道があるので、道の反対に行き、国道 を下る。 右側は枯れ草が残る土地で、奥の雑木の間から富士山が見えた。 道が左へカーブするのが見えるところにくると、右側の 柵が一部外されているところに、東海道の標識があるので、その中に入ると、浅間平の石畳復元整備の案内板があり、石畳が現れたの で、そのまま進むと、杉の間から富士山が見え始めた。 
{左}芭蕉の句碑
眺望が開けたこの場所を下ると、国道1号線沿いのドライブインの脇に出た。 ここには、東海道夢舞台富士見平の道標と浅間平石畳 の説明板がある。 国道と交わる手前の道を塞ぐような巨大な句碑は、昭和五十三年に当時の三島市長が建てた芭蕉の句碑で、芭蕉が 貞享元年(1684)の旅の途中に詠んだものである。  「 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き 」  とある句には、芭蕉の富士山が 見られなかったくやしさがにじむような気がした。    
{左}下に降りる階段
東海道は、ここで国道を渡る。 国道が急カーブしていて、車を確認するのが困難なので、迂回してください、という立て札が立って いる。  左手の横断歩道で、国道を渡ると、下に降りる階段が東海道である。 階段を降りると、すぐ左に小道があり、少し入ると 突き当たりに、明治天皇御駐輦阯の碑が建っている。 隣には、名勝地見晴碑もある。 街道に戻り、石畳を歩くと、上長坂の石畳の 復元整備の案内板がある。  
{左}東海道夢舞台 笹原新田の道標
石畳を歩き、国道に合流する手前までくると、笹原一里塚への道しるべが立ち、東海道夢舞台 笹原新田の道標も建っていた。 先程の 山中新田、この笹原新田、この先、三ツ谷新田、市ノ山新田、塚原新田と五つの新田という名の集落が続くが、どこにも水田らしいもの は見渡らない。 ここの新田は、東海道を維持するために、三島付近の農家の次男、三男を移住させて作った集落で、彼らは街道の維持 整備に携わっていた、という。 
{左}下長坂
国道に出ると、左右に注意して、国道の反対側にわたり、歩道を歩いて行くと、左に入る狭い道にラブホテルがある。  その横を入って行く坂道が、下長坂である。 笹原地区の石畳の案内板があり、全長三百八十メートル、内、現状保存が百四十五メート ル、農耕車による陥没を修正し保存は九十三メートルとあり、昔のままの石畳は中央部分に残っていたようである。 上って下ると、 周りが畑になり、少し歩くと、人家が見えてきた。   
{左}箱根八里 笹原一里塚の道標
そのまま下って行くと、左側に小高い丘がある。 道の左側の草むらに、箱根八里 笹原一里塚の長方形の道標があるのだが、よほど 注意しないと気が付かず通り過ぎてしまう。 小生も国道まで行き、慌てて引き返した。 先ほどの道標の他、曲がり角に、箱根旧街道 の道標が建っているのだが、三島宿と山中城跡の案内は目に入るが、笹原一里塚の表示は、影に隠れて目に入らなかった。 
{左}笹原一里塚
笹原一里塚は、長方形の道標にある石段を上り、農道を横切ると、杉の大木が茂る下に、片側だけあった。 江戸から二十七里目の一里 塚である。 木の下には、昭和四十四年の一里塚石碑と三島出身の詩人、大岡信の 「 森の谺を背に 此の径をゆく 次なる道に 出会う ため  」 と、ある詩碑があった。 街道に戻り国道にでると、国道の脇に、庚申供養塔と思える石碑と東海道夢舞台 笹原新田 笹原 一里塚の道標が建っていた。 国道をこえると、細い坂道の両側に、笹原の集落の家が並んでいた。 坂を下ると、すぐこわめし坂の 説明板がある。  
{左}二体の単身道祖神
この坂道は、 下長坂だが、別名、こわめし坂である。 現在の傾斜は十二度であるが、江戸時代には平均二十度で、最大は四十度の急坂だった、と いう。 あまりの急坂で、背負った米が人の汗の蒸気で蒸されて強飯となってしまったことから、強飯坂の地名が生まれたというから、 想像もできないほどの急坂だったのだろう。 少し先の右側に小さな祠があり、二体の単身道祖神が祀られていた。 二体とも年号は 不明で、右側のは上部が割れていた。 
{左}駿河湾と伊豆半島が見える
これは、笹原新田集落の入口に祀られた塞神(さいのかみ)で、江戸時代には、隣に高札場があった、という。 その先の民家から、 坂は急激に下がる。 老人憩いの家の先を右折すると、秀吉側の武将、一柳直末を弔らった一柳庵がある。 このあたりから、民家が まばらになる。 左側の農家の庭から、駿河湾と伊豆半島が見えた。 更に、坂を下ると、右側の斜面に、念仏石の説明板があった。  昔、この辺りにあった横九十センチ、縦百二十センチの巨石で、 
{左}東海道夢舞台 三ツ谷新田 こわめし坂の道標
昭和二十年代の大雨で埋まり、平成八年に発掘しようとしたが発見できなかった、という。 このあたりにくると、道の傾斜も少なく なった。 坂を下りきると、県道(旧国道1号)に合流したが、車がほとんど通らない道である。 道がカーブする手前に、東海道夢舞台 三ツ谷新田 こわめし坂の道標があり、その先火の見櫓が見えた。 
{左}天神社
合流して少し行くと左に三ッ谷区公民館があり、公民館向かいの県道右側には、右側に、三ッ谷新田発祥の地の看板がある。 この辺り に三軒の茶屋があり、元茶屋と呼ばれたが、三茶屋から三ッ屋と呼ばれ、元和四年(1619)、街道奉行、大久保長安が五ヶ新田を設立する 時、三ッ谷新田に転化した、とある。 公民館手前の三差路を左折すると、左に天神社の鳥居と石段がある。 昭和四十三年に山神社 を合祀した。  
{左}覚源山松雲寺の日蓮宗題目碑
度々の土砂崩れで流されたため、流の天神とも呼ばれるが、明和三年(1766)の創建で、祭神は高皇産霊神、大山祇神である。  県道を歩くと、右側に、覚源山松雲寺がある。 尾張大納言、紀伊大納言など、参勤交代の大名の休息所となり、朝鮮通信使、十四代 将軍家茂、十五代将軍慶喜なども泊まった寺本陣である。 明治天皇も、御小休所として、しばしば利用されたという寺である。  本堂前にあるのは、享保十四年(7129)に建立された日蓮宗題目碑である。   
{左}富士山の眺望
境内には、日桓人の題目宝塔、その奥には、樹齢三百五十年のヤブツバキ、その先には参杉明神の祠があった。 境内にあった明治天皇 御腰掛石は、明治天皇が腰掛けて富士山を眺めた石といわれるが、ここから見た富士山の眺めはなかなかよかった (右写真) 江戸時代には、寺の前に高札場が置かれていたようである。 また、この寺は、明治六年から明治四十三年まで、坂小学校の前身である 三ッ谷学校として、寺子屋教育を行なっていた、という。   
{左}法善寺旧跡碑
寺の二軒先には、茶屋本陣の富士見屋があったようだが、今は民家になっている。 三ツ谷下バス停を過ぎると、道は左そして、右に カーブするが、その手前に右に降りる細い道がある。 この道を降りると、右側に坂公民館があり、その先に法善寺旧跡と書かれた石碑 が建っている。 左手に坂小学校があるのを見ながら進むと、その先の下り坂を降りると、三差路で左側は小高くなっているが、登ると 幼稚園がある。    
{左}足利尊氏建立七面堂旧跡碑
その前に、征夷大将軍足利尊氏建立七面堂旧跡の碑があり、側面には、 「 あしがわの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどう と いうべかりける 」 という、東海道中膝栗毛の中の歌が書かれていた。 これは、武将 七面堂 と 不精 七面倒 をかけた狂歌で、 十返舎一九のだじゃれである。 三差路まで戻ると、右側の道脇に、箱根旧街道 題目坂の案内板があり、この坂は、玉沢妙法寺への 道程を示す題目石から名付られた、とあり、この学校の通学路のような坂道が題目坂で、れっきとした東海道で、ここにあった題目石は、 法善寺へ移され保存されている、という。    
{左}山神社
坂を下ると、車道に出る手前はコンクリートの石段になっていた。 車道で左折すると、すぐ先の三差路で県道と再び合流し右折する。 三差路の左側に、東海道 夢舞台 市の山新田の道標が建っていて、三差路の反対側には、出征馬記念碑があった。 県道の右手に石段があり、上ると、山神社があった。 祭神は大山祇命で、創建は不明だが、社殿には享保十四年(1729)の棟札が確認されている、とある (右写真) 社殿の前には水神の碑もあった。     
{左}帝釈天法善寺
反対側の道を下ると、山神社の鳥居右の大きなシイの根元に、単体の道祖神が祀られていた。 道祖神は、市の山新田の集落入口に あったもので、神社の参道入口前には、江戸時代には高札場があったようである。 街道には、帝釈天法善寺の石柱があり、寺の前には 帝釈天王の碑と題目碑が建っている。  法善寺は、坂小学校のあたりにあり、江戸時代には多くの伽藍があったようだが、明治四十三 年、ここに移転してきたのである。      
{左}箱根旧街道の道標と、臼転坂(うすころげさか)の案内板
街道に戻り、歩き始めると右側に赤いエプロンを着けて祀られている六地蔵があったが、何故か、六体以上あった。 その先の右に カーブする道の手前の右側に木柱があり、その中に入ると、箱根旧街道の道標と、臼転坂の案内板があり、牛が上れず転げたとか、 臼が転がったので、それが地名になった、と書かれていた。 道を歩くと、下り坂になったが、石がところどころに露出しているので、 石畳の跡と分るが、その先は林の中の山道のようになった。     
{左}東海道 夢舞台 塚原新田 臼転坂の道標
パッと開けると、石畳の残る道になったが、その先は急坂で、下りると、国道1号線の信号交差点に出た。 この林間の道は、二百メート ルくらいだった。 ここには、東海道 夢舞台 塚原新田 臼転坂の道標が建っていた。 国道を進み、ラーメン一番亭まできたら 、右の狭い道に入る。 このあたりが塚原新田で、坂を下ると、 左側に道照山普門院がある。 創建時期は不明だが、寺の東北にある道照山の岩穴に夜な夜な五光を発する一寸八分の観音像があり、 これ
{左}道照山普門院
を安置したのが寺の起源、と伝わる。 現在の本尊は、聖観世音だが、鉄牛という僧が、この像を背負い通りかかったところ、 仏像が重くなって動けなくなったのでここに安置した、という (右写真)堂の左側には、宝暦四年(1754)の大きな西国三十三所 巡礼供養塔の他、巡礼供養塔二基、観音座像二体、馬頭観音三体、地蔵像二体などがあった。 その先を歩いて行くと、右手の 山門の脇に大きく聳えた欅の木がある寺があったが、横目で見ただけで、入っていか       
{左}宗福寺の弁財天女尊の石碑や地蔵尊
なかったが、延宝元年(1673)創建の宗福寺だろう。 入口の左側に、弁財天女尊の石碑や地蔵尊が祀られていた。 やがて、左右の土手の上 が並木になっているところに出た。 歩道は右側だけで、暗渠の上を利用した狭いものだった。 さらに行くと、国道1号に合流する。  合流地点の左側に、箱根路と書かれた大きな石碑があるはずなのだが、様相が一変していた。 周りはビニールシートで囲まれ、 その先の歩道は通行禁止で国道の左側を通るように、と表示       
{左}伊豆縦貫道路塚原ICの工事中
されていて、箱根路の碑も石仏なども姿を消していた。 現在、伊豆縦貫道路塚原ICの工事が行われていて、旧東海道の道は閉鎖されていた。  しかたがないので、左折して、塚原新田交差点を渡り、国道の左側に移ると、伊豆縦貫道路塚原IC工事の看板があり、完成後の姿が 描かれていたが、現在の姿はまったくなくなりそうである。 左手は、谷のようにすっこと落ち込んでいる地形だが、大型機械が 入って工事中だった。        
{左}初音ヶ原の松並木
右側の工事用の柵の向こうに、小生が歩くはずだった歩道の箱根旧街道の道標が見えた。 国道1号線はこれまで歩いてきた道と違い、 車の交通量が多い。 少し進むと、松並木が現れた。 初音ヶ原の松並木と呼ばれるものである。 この松並木は、江戸時代からの もので、この先一キロほど残っている。 国道はここでは、上りと下りとが分断されていて、初音ヶ原の松並木は、国道の上り車線の 両側にある。         
{左}初音ヶ原の道標
松並木を挟むように設置されているので、上り車線は、江戸時代の東海道の跡ということになる。 初音ヶ原は、頼朝がここを通過した 時にウグイスの初音を聞いた伝説にちなんで名付けられた名である。 松並木の右側に歩道があり、石畳が敷かれているが、これは昔を 偲んで最近敷かれたものであろう。          
{左}錦田一里塚
しばらく行くと、江戸から二十八番目の錦田一里塚がある。 一つは石畳道の左側に、もう一つは国道を挟んだ左側にある。 錦田は、 明治二十二年(1889)に、谷田村と川原ヶ村が合併して出来た村で、街道を境に地名が違うため、右側は初音ヶ原一里塚とも呼ばれる ようであるが、左右の一里塚には榎が植えられていた。 右側の塚の前には、一里塚の石柱と写真付きの説明碑があった。 
{左}箱根八里記念碑
説明碑によると、この一里塚は、太平一里塚(愛知)、阿野一里塚(愛知)、野村一里塚(三重)とともに、東海道に四つしかない国指定史跡 の一里塚である。 また、近くにある箱根八里記念碑には、龍澤寺住職だった鈴木宗忠の歌、 「 日々うらら 松の道場の 一里塚 」 が刻まれていた。 箱根旧街道の長方形の石標には、三島宿まで二キロとあった。 石畳を歩くと、横断歩道橋があり、それを渡った先 にも石畳の道があった。 初音入口のバス停があるところからは、石畳の右側は普通の民家が並んでいた。 石畳を車で通らないように の注意があるが、通って          
{左}東海道夢舞台 松並木の道標
もよいように固くできているような気がした。 松並木が終わる手前の石畳の左側に、史跡箱根旧街道の石柱が建っていて、その先には、 箱根旧街道 松並木の大きな看板が、そして、東海道夢舞台 松並木の道標があった。 このあたりからビルも現れ、市街地に 入ったという印象を受けた。 明治二十二年(1889)に東海道線が開通すると、東海道を歩く人は激減し、東海道の西坂一帯の人々は、 農業に転職するしかなくなり、急斜地を開墾し、大根、芋、人参、ゴボウ
{左}大根歌碑
などの農作物を作った。 その先の右側の小高い草むらの中にある歌碑は、生産の協同化、品質の向上に尽力した平井源太郎を顕彰し、 彼の死後に建立されたもので、彼が詠んだ歌、「  箱根八里の 馬子唄消えて 今は大根を 造る唄 源水 」 が刻まれている。  源太郎は、「 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪 朝日でとける とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ 」  と、続く農兵節を作って全国に広めた人物である。 
{左}愛宕坂
その下には、慶應三年(1867)、大名の人足頭を怒らせて斬られて、この下の今井坂で息絶えた、備前国出身の雲助親方の雲助備前繁の墓 もあった。 信号交差点を渡ると、東海道は右側にある石畳道へ入る。 少し上ると下る坂は、愛宕坂である。 明和六年(1769)の 石畳修復記録には、長さ一町十八間、幅二間とあるが、今の石畳は、江戸時代の石の上に、新たな石畳が作られ、右側にはコンクリート の道もあった。
{左}東海道本線の踏切
左側の三島東海病院の敷地には、江戸時代、愛宕神社と八幡神社があったが、頭上のこんもりとした小山に、愛宕山と刻まれた 安永七年(1778)の大きな石碑や石祠だけが残っている。 石畳を下りると、箱根旧街道入口案内板があり、東海道夢舞台 川原ヶ谷 箱根旧街道入口の道標も建っていた。 その先に、東海道本線の踏切がある。 東海道踏切を越えたところには、箱根旧街道 の標識があり、その先は下り坂になるが、この坂道は今井坂と呼ばれた。 
{左}愛宕橋
坂を下りると、小さな橋の愛宕橋があり、橋を渡ると長く続いた道の西坂が終わった。 これで、天下の険といわれた、東海道最大の 難関を越えた訳である。 少し歩くと、左側の川に架かる橋から県道(旧国道1号線)が合流してくるが、国道1号のバイパスがある御蔭で、 車は多くなかった。 少し歩いた左側の宝鏡院入口の両脇に石が置かれている。 説明によると、鞍掛け石というもので、昔は馬乗り石 とも呼ばれ、北にある川原ヶ谷神社に参詣する人がここで馬に 
{左}宝鏡院
乗った、と伝えられる、とあった。 宝鏡院は、足利尊氏の三男、足利二代将軍、義詮が創建した寺である。 足利七代将軍、義政の弟、 堀越公方だった足利政知の墓がある。 源頼朝参詣の折、笠を置いた石と伝えられる、笠置の石もあった。 街道に戻り、大場川に架か る新町橋を渡るが、江戸時代にはここに東見附があったというが、今はなにも残っていない。 橋を渡ると、三島宿で、予想しない雪道 に遭遇したが、なんとか無事で三島宿に到着できる。 
{左}富士山
東海道の最大の難関の箱根八里を越えた余韻を感じながら、新町橋を渡ると、右手に真っ白に雪を被った富士山が祝福するように姿を 見せていた。 これで、箱根西坂の旅は終えた。 橋を渡ると、日の出町だが、江戸時代には、新町、長谷、伝馬金谷、久保町などの 町名だった。 
しばらく歩くと、右側に守綱八幡神社がある。 創建ははっきりしないが、寛永年間ごろとされ、祭神は守綱大神である。 石鳥居は 慶応三年(1967)の建立、灯籠は安永六年(1777)、
{左}妙行寺
境内の秋葉山常夜燈は弘化弐年(1845)のものである。 神社の反対、国道を越えた向かいの細い道を入ると、妙行寺があり、その前に 大きな題目塔が二基あり、山門は、小松宮の別邸だった当時の楽寿園の表門を移設したものである。 このあたりには、お寺が多く、 時宗の光安寺、高野山真言宗の薬師院、真宗大谷派の成真寺などが並んでいるが、古い民家は見渡らない。 
{左}三島大社の大鳥居
道をそのまま進むと、安藤広重が東海道五十三次、三島宿の絵で、描いている三島大社の大鳥居の前に出た。 三島大社バス停近くに、 静岡県が建てた、 夢舞台東海道 旧伝馬町 三島大社 の道標が建っていた。 三島は、奈良時代には伊豆国の国府にもなっていた。  鎌倉時代以降は、三嶋大社が幕府や武家の手厚い保護を受け、門前町として栄えた町で、江戸時代に入ると、箱根越えの前後に必ず 泊まる宿場町となり、箱根を越えた旅人達は、山祝いを称し  
 
{左}たたり石
て、供の者に御祝儀を出したため、遊ぶ旅人でさらに賑わったのである。 三島大社の鳥居と常夜燈が並ぶ参道を歩くと、右側に大きな石が あり、たたり石とある。 傍らの説明では、 「 かっては東海道の中央にあり、人の流れを整理をする役目をしていた。 往来が 激しくなり邪魔になったので取り除こうとする度に災いがあった。 大正三年の道路工事で掘り出されてここに移された。 」、という ものである。 
{左}若山牧水の歌碑
池のほとりに、沼津市に居を構えていた若山牧水の歌碑が建っていた。  
「 のずゑなる 三島のまちの あげ花火 月夜のそらに 散りて 清ゆなり 」 
牧水が、三島大社の夏祭りの花火を詠んだものである。 三島大社の祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神 (つみはやえ ことしろぬしのかみ)である。 神社の由来書には、創建は明らかではない、と書かれていないが、 伊予国大三島の三島明神を伊豆下田
{左}安達盛長警護の跡
へ勧請した後、この地へ勧請したものといわれれ、延喜式神名帳に名神大社として記載される、伊豆国の一之宮である。  松の木が生えているところに、安達藤九郎盛長警護の跡の案内板があった。  。 源頼朝は、治承四年(1180)に、源家再興を祈願して、百日もの間、毎晩蛭ヶ小島から三島大社に日参したのであるが、警護した 安達盛長が詰めた場所である。    
  
{左}厳島神社
左側の神池の脇には、北条政子が勧請したという厳島神社が祀られていた。  三島大社の起源の話に戻るが、鎌倉時代の東関紀行に、「 伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、 木ぐらくおとづれて庭の気色も神さびわたれり。 この社は伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞く 」 と、書かれていること からみると、日本総鎮守と呼ばれる、伊予国大三島の大山祇神社から勧請されたという説が主流だったのだろう。     
  
{左}三島大社社殿
池の脇を過ぎると、三島大社の総門がある。 慶応三年(1854)に建てられた神門をくぐると、正面に慶応弐年(1866)に再建された舞殿 が見え、その先に 立派な社殿が現れる。  社殿は拝殿、本殿、幣殿からなるが、本殿の大きさは出雲大社級の大きさである。  高さは二十三メートル、鬼瓦の高さは四メートル、流れ造りで、切妻屋根、棟には千木、鰹木をつけている。 総檜造りで、 六千六百七拾七両余りのお金がかかった、という。     
  
{左}御神木のキンモクセイ
嘉永七年(1854)の東海地震で倒壊したのを慶応弐年に再建したものである。  本殿前の御神木のキンモクセイは、国の天然記念物に指定 されていて、樹の高さは十メートル、周囲約四メートルで、樹齢はおよそ千二百年の巨木で、今もなお青々とした葉を付けていた。  境内で福太郎餅の暖簾を掲げた店に入り、福太郎餅を頼んだ。 出てきたお菓子は草餅に餡を包んだものだった。 その菓子を食べ、 濃い目に出されたお茶を飲んだ。       
  
{左}中央町
休憩が終わると、街道に戻った。 江戸時代、三嶋大社の正面から下田街道が出ていて、西側には、中山道に通じる佐野街道があり、 交通の要所だった。 三島宿は、東西十八町二十間(約2km)の長さで、東海道は大社町交差点を直進する。 宿場町だった中央町は、 アーケードのある商店街になっていて、古い家は見当たらない。       
  
{左}問屋場跡
三島宿は新町橋の東の見付から広小路先の西の見付までの長い宿場であるが、天保十四年の宿村大概帳によると、家数は千二十五軒、 宿内人口は四千四十八人だった。 少し歩くと、右側に、郵便局(市役所中央町別館)があり、右に入ったところに、問屋場跡の石碑と案内板が建っていて、問屋が一軒だ けだったので、東海道の交通量が多くいつも人手不足だった、と書かれていた。  田町駅入口交差点の左側のメガネのスパーの手前に、上御殿橋があった
  
{左}人形からくり
ことを示すモニュメントがあった。 県道51号線を越える交差点の手前には、井戸から水を汲み上げる人形からくりがあった。  三島は、富士山の溶岩流上にあり、湧水が豊富なため、水の都とも言われる。 一年を通して一定の水温のため、冬は外気より暖かい ため、朝霧が立ち込める、といい、三島は水、水、水で象徴される都市である。 
  
{左}世古本陣跡
交差点を渡って少し行ったところに花で飾られた西洋風のお店があり、そこに世古本陣跡と表示されたものが水盤の上に乗った デザインであった。 しゃれたものなので、お店の案内と思って通り過ぎてしまいそうである。 道の反対にある樋口本陣は、 茶処山田園になっていて、店の前に、小さなセロケースに案内が書かれていた。 店の中に入り、お茶を買って、女房への御土産にした。  江戸時代の三島宿には、箱根越えをする人、終えた人が集まったので、脇本陣       
  
{左}商店街
は三軒、旅籠は七十四軒あった。  箱根関所と箱根越え を終えた開放感から旅人は農兵(のうへい)節と並んで有名な三島女郎を相手に遊んだ。 それを示す数字は宿場の人口で、女子が 二千百二十人で、男子を百五十人上回っていた。 そうした賑わいはもうない。 その先もアーケードが続く商店街だが、当時のよう な活気は感じられなかった。 道の左側に、常林寺という古い禅寺があるが、ここには江戸時代の古い墓が多数あった。        
 
{左}源兵衛橋
常林寺を過ぎると、すぐ源兵衛橋がある。 この橋は源兵白旗橋といい、江戸時代の駿豆五色橋の一つに数えられていたといい、その下 には楽寿園の小浜池を源流とする源兵衛川が流れている。 橋を渡り、左折して川に沿って歩くと鐘楼がある。 江戸時代から時を告げ た鐘だったので、時の鐘と呼ばれている。 宝暦十一年に鋳られた鐘は太平洋戦争時に供出してしまったが、昭和二十五年に復活させた。           
{左}三石神社
その奥にあるのが三石神社である。  源兵衛川の川辺に三ツ石という巨石があり、その上に社を建て、稲荷を祀ったのが始まり。  東海殿の宿場が発展するとともに隆昌したが、天明年間に隣村新宿の火災で類焼。 その後、火防の神、正一位火防三石大明神も合祀したという、地元の鎮守である。  街道に戻ると、その先に踏切があり、伊豆箱根鉄道三島広小路駅がある。         
{左}三島広小路交差点付近
その先は変則の交差点で、道が多数に分かれている。 東海道は、右側に花屋、左側にパチンコ屋がある道であるが、この先黄瀬川の 先まで旧道が残っている。  なお、この交差点で、花屋の右側の道に入り、最初の五叉路の狭い道を進むと伊豆国分寺跡がある。  その先は西本町であるが、宿場の面影はまったく残っていなかった。  林光寺を通り過ぎると、左に茅町   
{左}秋葉神社
の石柱があり、その先に善教寺という寺があった。    広小路から五百メートルほどで、左側に秋葉神社があった。 小さな社は八坂神社、石段を上ると秋葉神社である。 手前に秋葉山常夜 燈があった。 この先に橋があり、境橋とあり、ここが三島宿の西見附の跡で、三島宿はここで終わりになる。 
{左}うなぎ
三島のうなぎはなぜうまい、とあるのを見て、三島で食事をすることにした。  何箇所か案内がある中、駅前の不二美という店に入り、う な重を頼んだ。 しばらく待って出てきた鰻は割と淡白な味だった。 三島では江戸時代、うなぎは食用とされていなかったため、 桜川などには沢山の鰻がいたという。 幕末に薩長兵により食され、三島の清流に住む鰻は美味と次第に東京方面に伝わり、鰻屋が増え ていったとあった。 それを証明するように、パンフレットの味処案内の半分が鰻屋だった。 
{左}白滝観音堂
最後に三島の水の名所を紹介しよう。 元小松宮の別邸で廻遊式の庭園の楽寿園は地下水低下の影響で水はなかった。 白滝公園は、 公園の至るところから湧水が噴き出し、池をなしていた。 また、桜川は、この上流にある菰池公園が源流で、白滝公園の水も集めて、 流れている。  桜川に沿って作られた遊歩道には、文学碑が多数あり、水辺の文学碑と名付けられている大岡信、宗祇、正岡子規、 太宰治、若山牧水、十返舎一九、川端康成、三島由紀夫、井上靖、司馬遼太郎という豪華メンバーである。  桜川の水辺に白滝観音堂というお堂が建っている。



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!