東 海 道


三島宿から沼津宿 




{左}千貫樋(せんがんとい)  
三島宿の西の追分、秋葉神社から三十メートルほど歩くと、境川橋がある。  道の下の小さな川が境川で、ここが伊豆国と駿河国の国境で、現在は三島市と駿東郡清水町との境になっている。  橋の中ほどまで歩くと、千貫樋の案内板がある。  川の上流を見ると、大きなコンクリート製の樋が川を横切って架かっていて、よく見ると千貫という文字が見え、どうやらこれが千貫樋のようである。  「 天文二十四年(1555)、今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、
{左}中内村 常夜燈 
北条氏康の娘が今川氏真へ嫁ぐときの引出物として、北条氏康が、楽寿園の小浜池から長堤を築き、池の水を今川領だった駿河に引くために造った用水で、清水町の耕地百五十町歩が恩恵を受けた。  関東大震災で木樋が壊れ、今はコンクリート製に改造されている。・・・ 」 と、書かれていた。  二百メートルほど歩くと、右側の松が二本植えられたところに、弘化三年(1846)に建立された常夜燈が建っていた。 常夜燈の正面に、 常夜燈 中内村 とあり、
{左}伏見一里塚   
両側には、秋葉大権現と富士浅間宮 という、二つの火防の神様が刻まれていた。 最初は筋向いの東海道の十字路にあったが、 他に移されていたのをここに移したものである。 夢舞台東海道 新宿 向かい宿 の道標も建っていて、沼津宿まで一里とあった。  ここから一キロ程歩くと、右側に築山のようなものが見えてきた。 近づいていくと、先程見えた茂みは玉井寺の境内で、土盛り されたところに一里塚の標柱が立っていた。 江戸から二十九番目の伏見一里塚  
{左}宝池寺と新しい一里塚
である。 わりと原形が保たれていた。 道の反対側には、宝池寺が向かい合うように建っていて、両方とも臨済宗のお寺である。  宝池寺の一里塚も同じ時期に作られたのだが、形が崩れてしまったので、昭和六十年(1985)に改修した、とあった。 玉井寺の建物は 新しく、駐車場などが整備されていたが、江戸時代には宝池寺側に立場があり、人夫が駕篭などを停めて休憩できる場所だったようである  。 
{左}白隠の遺墨を刻んだ石碑
玉井寺山門の近くに、三界萬霊等と白隠の遺墨を刻んだ石碑がある。 白隠は、臨済宗中興の祖と称される江戸時代中期の高僧で、 「 駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠 」 と、いわれたとあり、この寺に彼の遺墨が数点残されているという。  石碑は、雄渾にして気迫ある筆太の筆跡で書かれていた。 お寺を出て少し歩くと、八幡交差点にでる。 国道1号線と交差しているが、 国道を越えて進むと、法泉寺があり、その先の民家の塀の花壇の   
{左}長沢八幡宮
ようなところに、長沢学校跡と書かれた木標があった。 その先の右側に、対面石と書かれた大きな看板と鳥居があるところが、長沢八幡 宮ともいわれる八幡神社である。 
東海道名所図会に、「  頼朝、義経初対顔地 ー 黄瀬川の東長沢村八幡宮の社地なり 」  と、書かれたところで、 治承四年(1180)の 富士川の戦いの前に、奥州からかけつけた義経と兄頼朝が初めて会ったところである。 
 対面石
桜並木の参道を歩いて行くと、社(やしろ)があり、その左手奥に、向かい合った石が二つあったが、それが対面石だった。  このあたりはお寺が多く、この近くに秀源寺、そして東光寺があった。 八幡神社を出て進むと、松並木が現れ、松の気の下に、 夢舞台東海道 長沢松並木 の道標があった。 この少しだけ残っている松並木を長沢の松並木というのらしい。 少し歩くと、 緩やかな上りになり、黄瀬川に架かる橋が見えてきた。   
{左}智方神社 
その手前にある小さな神社は、江戸時代の道中案内記に、 明神あり と、記されている神社だが、智方神社である。 建武弐年、侍女の 宮入南の方(藤原保藤の娘)は、しいられた後醍醐天皇の皇子、護良親王の首を持って、都に報告しようと、ここまで来たが、黄瀬川を渡る のが困難となり、首をこの地に葬り、祠を建てたのが智方神社の始まり、という。 智方神社の先で、道は右にカーブし、そのまま黄瀬川 にかかる橋を渡る。 
{左}亀鶴観音で有名な潮音寺  
橋の反対側はかなり急な坂なので、車が勢いをつけて向ってくるので怖い!!、と思った。 橋を渡ると、沼津市で、一応二車線だが、 道巾が狭まり、歩道もなくなってしまった。  交通量は少なくないので、神経を使って歩いた。 しばらく行くと、右側に臨済宗妙心寺 派の東海山潮音寺がある。 本尊の聖観世音は、恵心僧都の作といわれるが、それよりも、亀鶴山観音寺から移された亀鶴観音の方が 有名である。  
{左}亀鶴の墓
観音寺は、明治に廃寺になった寺で、黄瀬川近くにあった。 亀鶴姫は、白拍子で、大磯の虎御前と並び称された美女だったらしい。  曽我兄弟が工藤祐経の寝所に討ち入ったとき、祐経と同衾していたといい、東海道名所図会に、「 白拍子亀鶴は 建久の頃の風流女にして、 富士の牧狩の狩場の屋形に来り 工藤祐経と同席に臥したる事、曽我物語に見えたり 」 と、いう記述がある。 境内入ってすぐ左の 亀鶴姫の石碑のところが、亀鶴の墓といわれる。 
{左} 伏見一里塚への矢印の石柱
境内には、南無妙法蓮華経の石碑他馬頭観音、大日如来など古い石仏群もあった。 潮音寺を過ぎるとすぐ県道380号(旧国道1号線) に合流するので、ここを左折したが、きせがわ病院前には先程訪れた伏見一里塚への矢印の石柱があった。 道幅が広くなるが、車の通行 が多い道である。 しばらくの間、この道を歩く。 下石田バス停の先には眼鏡市場があり、その先の道の反対には大岡南小、その先には 西友があり、左側にはルネサンストーアというスポーツ
{左}歴史マップ沼津市大岡
クラブがある。 スポーツクラブの先の草むらに埋まりながら、 歴史マップ沼津市大岡という看板があった。 説明を読むと、潮音寺の あたりは木津川村で、潮音寺より西に従是西沼津領という傍示杭を示す石柱が建てられた、とあり、西の小さな川は久保川で、その両脇に は久保の松並木があった、と書かれていた。 この看板あたりも松並木だったようだが、今はその片鱗すらなかった。  ここには、 駿府への矢印のついた道標もあったが、この先の メガネパリミキ前   
{左}平作地蔵尊
で、左側の細い道に入るのが、東海道である。 道の左側は堤になっているので、階段を上ってみると、狩野川が流れていたが、かなり 広い川巾である。 堤から下に降り、街道を歩くと、左側に小さな社(やしろ)があった。 この小さな社は、日本三大敵討ちの一つに 数えられ、浄瑠璃・伊賀越道中双六に出てくる、平作ゆかりの地蔵尊である。 伊賀越道中双六とは、荒木又右衛門が義兄弟になった 渡辺数馬のため、伊賀上野の鍵屋の辻で、仇の河合又五郎一行に決闘に臨み、見事本懐を遂げる話を戯曲化したものである。 
{左}沼津一里塚   
このあたりが、江戸時代の沼津宿入口である。 その先の右側の小公園に、夢舞台東海道 一里塚跡 の道標が建っていた。 その奥にある 形が崩れてしまったため、かなり小さくなってしまった塚が、江戸から三十番目の 一里塚である。 「 細い榎(えのき)は枯れた後に 植え直したものである。  伏見一里塚からの距離が合わないが、沼津宿になるので、その手前につくられたのだろう。 」 と、傍らの 説明板にあった。 
{左}玉砥石
塚の上に、古墳時代に玉石を磨いたとされる玉砥石が二つ置かれていた。 承平年間(931〜938)に編纂された和名類聚抄に、駿河国駿河郡 に玉造郷の名があり、香貫地区一帯で、玉が生産されたという説がある。 その説からすると、 砥石が東海道の日枝神社参道脇にあるの は不思議で、何時からあるのかは分らない、と書かれていたが、静岡県内では、この二つしか発見されていないという貴重品のようである 。 一里塚から街道に戻り、先を行くと、県道380
{左}東海道 川郭通り の石柱
号線に合流した。 少し歩くと三枚橋東交差点で、その先の国道414号線との三園 交差点で、三枚橋歩道橋を渡り、向こう側に出ると、右側の八木橋パーキングの脇に、三枚橋のモニュメントがあった。  その先の歩道 橋を渡り、道の左側にでると、東海道 川郭通り の石柱があり、煉瓦色のタイルを敷き詰めた道があった。  江戸時代の川郭町は、川曲輪とも書き、志多
{左}末広五十三次沼津宿
(した) 町と上土(かち)町との間に挟まれた狭い町で、東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接していた。  左の絵は、医一雄斎国輝が描いた末広五十三次沼津宿で、これには富士山を背景に、沼津城の三重櫓、二重櫓や、長州征伐のため、 上洛する幕府軍の姿が描かれている。  沼津藩の初代藩主は大久保治右衛門忠佐で、三枚橋城の跡地に沼津城を築いたが、嫡子が死亡していた為、忠佐の死去により、 わずか十二年で断絶した。 その後、天領
{左}川郭通り案内板
(幕府領)となり、城も壊されたが、安永六年(1777)、水野忠友に沼津藩二万石として城地を与えられ、城跡に、 また、城が築づかれることになっ た。 それが浮世絵の沼津城で、狩野川に隣接し、天守に相当する三層の櫓の本丸、その北西に二の丸三ノ丸が造られ、二の丸に御殿を置 いた姿である。 なお、水野家はその後加増を受け、水野家五万石の大名として、幕末まで八代続いた。 道は川に突き当たり、右に カーブしていくと、右側に川郭通り案内板が
{左}狩野川の川岸
ある。 沼津城は明治五年の廃城令により破壊され、沼津兵学校の敷地となったが、道路の拡張などで、敷地は削られ城跡は残っていないが、 この上のあゆみ橋の先にある中央公園には、沼津城本丸址の碑が建っている。 阿見屋という店の横を上ると、狩野川の川岸に出た。  狩野川に沿って歩き、御成橋に出たら右折して、通横町の信号交差点で左に曲がり、県道159号線を進むと、左側は魚町、そして仲町になる。  魚町は魚を商う商人たちが集まっていた。 何時建てられたものか分らないが道標があり、千本浜海水浴場道、左沼津公園、とある。  
{左}浅間神社
江戸時代の終わりごろ、魚町も仲町も食品雑貨品や船具を扱う商人が増え、魚商は宮町や下河原に移っていった、とある。  左側に永代橋が見える信号交差点を右折すると、県道160号線になる。 新町、下本町を過ぎると浅間町で、交差点の右側に浅間神社 があった。  丸子神社も合祀されているようで、鳥居に両社の名前が並んで刻まれていた。 交差点を越えた左側に東方寺があった。 
{左}乗運寺の山門
右側には千本山乗運寺の山門がある。 乗運寺は浄土宗京都知恩院の末寺で、増誉上人(長円)による開基で、三枚橋城主、松平康親や 沼津城主、水野忠友の菩提寺である。  「 合戦によって荒れ果てたこの地に、旅の僧の長円がやって来て、土地の人々が塩害に苦しんでいる姿を見て、松苗を植え続けたという 。  人々は天文六年(1537)、長円の行為と徳を称えるため、草庵を建てた。 初めは成鳴寺といったが、その後、乗運寺と変わった。 」  と、寺に伝え
{左}若山牧水の墓 
られる。 しかし、この寺は有名にしたのは、長円や沼津城主水野忠友等ではなく、旅を愛した漂泊の詩人、若山牧水の墓である。  漂泊の歌人、若山牧水はいろいろなところを旅していたが、終の棲家にしたのは温暖な気候の沼津で、ここで亡くなったのである。  街道に戻り直進すると、右側の歩道に出口町見附の案内板があるが、ここは沼津宿の西の出口である見附があったところである。  沼津宿には本陣が脇本陣がそして旅籠があったのだが、それらが何処 
{左}沼津宿西の見附跡
にあったか確認もしないまま、宿場の終わりまできてしまった。 大正弐年(1913)の出口町から出た出火で、三百町歩、千四百六十八戸の家 を焼失させ、これを契機に道路改修に着手し、大正四年(1915)に完成させたが、昭和二十年に、軍事都市化した沼津市は八度の空襲に 遭い、町のほとんどが焼き尽くされた。 このような歴史を経験しては、江戸時代の古い建物が残っていないのは当然だろう。  



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!