東 海 道
吉原宿から蒲原宿
{左}錦町北交差点
吉原宿西木戸跡の道標の先の小川に架かる四軒橋を渡ると、国道139号線の錦町北交差点に出た。 右手に、冨士市 役所を見ながら、錦町交差点に出て、交差点を渡ると、間の宿 本市場への道標があった。 交差点を反対側(右側)に 渡ると、駐車場のようなものがあるが、この冨士車両中古車センターとその先の吉田写真館の間の狭い道に入る。
{左}高島交差点
この道をしばらく歩くと、右手に、山神社の木立が見え、道の左側に磯八幡宮があった。 神社には、道祖神と書かれた 石碑があった。 少し歩くと、右側に、元気寿司があり、その先には、五叉路の高島交差点があった。 この交差点では、 歩いてきた道と県道396号と353号が交差している。 東海道は対面に渡り、県道396号を西に向かう。 右手に、 愛宕神社があり、そこを過ぎると、潤井川橋が見えてくる。
{左}白いよだれ懸けをした石仏
橋の一つ手前の道を右折し、細い道を歩くと、奥に、赤茶色の大きなビルが見える十字路に出る。 ここには小さいが、 東海道の標識があるので、左折すると、小さな橋に出た。 さっき見えた潤井川橋の隣に平行している橋で、以前は 三度橋という名だったが、今は富安橋である。 橋からさっき見えた右側の赤茶色のビルを確認すると、市立中央 病院だった。 橋を渡ると、橋際の左側に、白いよだれ懸けをした、地蔵尊と思われる、小さな石仏が祀られていた。
{左}袂の塞神
その先の道の左側には、 明治四十年の南無妙法蓮華経御宝塔が建っていた。 そのまま、道なりに、右カーブ、左カー ブと進むと、カーブを曲がった右側の家の一角に、笏を持った大きな石像が祀られている。 蓼原の単体道祖神とある が、一般的には袂の塞神と呼ばれるものだろう。 このまま歩き、塔の木交差点を直進するが、交差点を横断中、右手に 見えた富士山は
{左}旧東海道 間宿 本市場の石碑
雲がかからず全貌が見えて美しい。 右手の山神神社の前を通り過ぎると、総合庁舎北交差点に出るが、そこまでの間も、家と家との間から、 富士山がちらと見える。 前回の原から吉原は雲を被った富士だったので、この日を選んでよかった、と思った。 交差点を越えると、左側の県冨士総合庁舎の先にあるフィレンセの前に、旧東海道 間宿 本市場の石碑があり、 「 本市場は、吉原宿と蒲原宿の間宿として、東の柏原と共に、茶屋が賑わっていた。 」 、とある。
{左}安藤広重の吉原宿
安藤広重の東海道五十三次の吉原宿は、江戸時代に東海道の間の宿だった本市場を描いている。 本市場の名物は白酒、 葱雑炊、肥後ずいきなどだったことが書かれていたが、ここに表示されていた当時の地図によると、山の神はフィレンセ の一角に祀られていたことになる。 総合庁舎とフィレンセを越えて行くと、左側の民家の一角に、鶴芝碑があった。
{左} 鶴芝碑
鶴芝碑は、江戸時代の文化三年(1820)に、鶴の茶屋に建てられたもので、当時は、ここから眺めた冨士の中腹が一羽の 鶴が舞うように見えたので、京都の蘆州(ろしゅう)という画家が鶴を描き、江戸の亀田鵬斉(ほうさい)という学者が 詩文を添えて、碑にしたものである。 交差点を渡り、道は左にややカーブ、その先に、太い道路の分離帯があり、 渡れなくなっていた。 通らないようにと注意があるので、右側の本市場南交差点に回り、対面に続く細い道を行くと、
{左}間宿・本市場の道標
右手に、法源寺が見える。 そのまま進むと、左右の大きな道に出るが、この信号交差点では、右側の古い家の手前まで歩き、 その前の横断歩道を歩いて、道の反対に出て、左側の狭い道に入る。 道の角に、冨士市が建てた間宿本市場の道標があった。 少し歩くと、左右に、富士緑道という小道があるが、そのまま直進すると、王子製紙の巨大な煙突からの真白い煙が見える。
{左}東海道本市場一里塚跡
道が右にカーブするところの花壇の中に、旧東海道本市場の一里塚跡の小さな石碑があった。 その先の左手は王子製紙の工場、右側は富士第一小学校、王子製紙の施設が続くが、その先の民家の紅梅とピンクの梅の花が美しかった。 富士西図書館の前を通過すると、アーケードのある富士本町銀座商店街に出た。 東海道はアーケードを越えて直進する。
{左}金正寺
少し歩くと、右側に、栄立寺があり、道をはさんで、金正寺があった。 山門前に、金正禅寺という石柱があるので、 山門をくぐったが、寺の建物は新しかった。 とはいえ、山門前の左側にある、不許葷酒入山門寺と書かれた石碑には、 天保十年の銘があったので、古い寺なのだろう。 その先の富士ホワイトホテルは真白で、隣のNTTも白い建物である 。 その先に小川があり、橋を渡ると、左側の道脇に、札の辻跡の標柱があり、左手に、猿田彦大神の石塔が祀られて
{左} 道祖神
いた。 ここから北西の方角にある実相寺は、かつては、西の比叡山、東の実相寺とまでいわれた名刹で、実相寺から三キロ以上ある、この高札場まで寺域だった、という。 その先の左側に、小さな社があり、その一角に、道祖神が祀られていた。 道が右にカーブしたところの右側には、秋葉山常夜燈が建っていた。 交差点を越えて進むと、右手に県道が見え、右側にすき家があった。 東海道はすぐに県道に合流するが、この角には、冨士市が建てた道標が
{左}天白神社
あり、反対から歩いてきた場合は、役にたつのではないか、と思った。 合流した道の右側に、天白神社があった。 「 太古の柚木村は、草深いところだったが、長さ一寸八分の米が三粒降ったので、一社を設けて、天白神社と名付けた。 天正十三年に本社を造営、慶長十八年、寛永十九年、寛文六年に修復した。 」 と、神社の石碑にあった。 境内には、馬頭観音と、宝暦十二年の銘がある石盤があった。 鳥居の先には、JR身延線の高架が見えた。
{左}道標と常夜燈
身延線柚の木駅は左にあり、身延線の高架をくぐり終えた時、右側に、富士山が見えた。 その先の橋下交差点は六差路 であるが、ここはやや左にカーブする正面の道を行く。 次の信号交差点の右側に、狭い道があり、そこの角に、 冨士市が建てた、道標と常夜燈の案内がある。 秋葉山常夜燈は、慶応元年(1865)の建立で、総高は一メートル四十三センチとあり、 その傍に左東海道の道標があった、とある。
{左}旧東海道
道標には、左東海道とあるが、これは間違いで、右側の細い道に入るのが東海道である。 左東海道の道標の向きはおかしく、歩く人を混乱させているのではないだろうか?? この道に入り、一時停止の 交差点を越えると、小川が流れている橋を渡った交差点では、左の道を行く。 県道を左に見ながら、歩いていくと、 左手に夢庵が見え、すぐに、横断歩道橋があるところで、 さっきの県道と合流した。 この後は、県道をそのまま歩く。
{左}明治天皇御小休所阯
五百メートルほど歩くと、左側に明治天皇御小休所阯の石柱が建っていた。 隣の小さな石碑は、その時の経緯を記した もののようであるが、残念ながら、読み取れない。 右手にこんもりとした森が見える。 どうやら、水神の森のようで ある。 江戸時代の富士川は、船渡しで、両岸の岩淵村と岩本村を結んでいた。 水神の森は、富士川渡船場の下船居に あり、船場と呼ばれていたところで、この森には、航海の安全を祈願し、水神社が祀られた。
{左}水神社
境内に入ると、鳥居の右側に、富士山道、富士川渡船場跡の石碑があり、参道には、古い常夜燈が建っている。 参道を進むと、赤と白に塗られたコンクリート造りの社殿が現れた。 古い朽ちたような神社を想像していたので、興ざめである。 渡船業務は、京都側の岩淵村がを担当していたが、交通量の増大に伴い、寛永十年(1633)以降は、岩本村も三分の一を分担するようになった。 東岸の渡船場は、松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居、中船
{左}常夜燈
居、下船居の三ヶ所があり、川瀬の状態で使い分け、そこから、上、中、下の往還が通じていた、と説明にあった。 境内の左側には、文政三年の 両舟場 と書かれた馬頭観音が祀られていて、その手前の常夜燈には、岩本村六番船方講中と刻まれ、その下に、多くの名前が書かれている。 富士川に向って歩き始めると、冨士市が建てた道標の東方向に、と、護所神社と雁堤とあるが、雁堤は、かりがねつつみと呼ぶのだそうで、実相寺の上にある岩本山公園から
{左}角倉了以の石碑
見ると、雁が連なって飛んでいるように見えるという。 時間があれば、確かめに行くたかったが、そのまま進んだ。 いよいよ、富士川を渡る。 江戸時代の舟渡りに用いた船には、定渡船、高瀬船、助役船があり、通常の定渡船には、 人を三十人、牛馬を四疋乗せ、船頭が五人ついた、という。 橋を渡ったところで、河原降り、川に沿って上流に上る と、その上の車道に、常夜燈と富士川を開削した角倉了以の石碑があった。
{左}富士川鉄橋を望む
東海道名所図会にも記されているが、富士川は、岩が多く、溶岩の露頭は、地盤堅固で、舟が通るのに適さなかったが、 江戸時代の豪商で土木事業家だった、角倉了以は、石を砕き川底をならして高瀬舟が通れるようにした、という。 常夜燈の前の横断歩道を渡り,正面の坂道を登る。 右へ左へとうねりながら,少しずつ道は広くなっていく。 さっき渡った橋の上に出る。 この交差点で、右へ曲がり、少し登ると、右手に清源院があるが、ここは左へ。
{左}小休本陣・常盤邸
その先の民家の塀前に、秋葉山常夜燈が建っていた。 道は右へ、そして、左に曲がると、右側に、高さ十メートルの 大きな槙が生え、黒塗りの塀のある屋敷が現れた。 門の下の方に、小休本陣常盤邸と書かれた教育委員会の案内が あった。 東海道の間宿 岩淵には、渡船準備のため、大名が一時休止できる施設として、小休本陣と脇本陣が各一軒 設けられた。 常盤家は、岩渕村富士川渡船の名主で、小休本陣を務めた家で、現在の建物は、安政の
{左}新豊院の山門
大地震後に建てられたもの、という。 建物の脇に、秋葉山常夜燈が建っていた。 用水の側溝の蓋には、東海道ルネサンスと書いていた。 この先の交差点を直進する。 その先の右側に、赤いエプロンをした大きな地蔵尊があり、その先に新豊院の山門が見えた。 寺は、鎌倉時代の創建で、山門は江戸時代のもの、という。 右側には、また、秋葉山常夜燈があった。
{左}岩淵の一里塚
その先は突き当たり、右にカーブしている。 この角に、江戸から三十七番目の岩淵の一里塚が榎の大木とともに残っているが、右側の榎の木は、今まで見たものよりも巨大である。 左側の榎の木は、昭和四十二年に枯死したので、四十五年に植えられたものである。 その下には、小さな石仏と東海道夢舞台 富士川町岩淵の道標があり、案内板には、ここが岩渕村と中之郷村の境で、岩淵名産の栗の粉餅を売る茶屋が並んでいた、とあった。
{左}一里塚から見た富士山
その奥には、富士山が見えた。 道に沿って進むと、右手に富士川町役場があり、隣は富士川第一小学校である。 小学校の先は左にカーブする。 その先、道なりに進むと、富士川駅前の十字路に出てしまう。 東海道線の富士川駅は、もとは岩渕駅といっていたが、前の道は、県道396号(旧国道1号線)で、初期の東海道は、この道に沿って通って いたが、度重なる水害のため、山裾を迂回するように新たに道が造られ、宝永四年(1707)十二月から三ヶ月かけて
{左}東海道に入る交差点
現在の場所に移った、という。 東海道に入るところが分りづらい。 小学校を過ぎたら、左側の秋葉山常夜燈の先の信号のない小さな交差点で右折する。 赤い消火器がある家の先を目印にするが、気をつけないと、駅前交差点まで行ってしまう。 小生は、念のため、地元の人に確認をした。
{左}延命福地地蔵
道はその先で左にカーブし、中部電力の営業所の前を通り過ぎると、新町本町防災倉庫の前に、秋葉山常夜燈があった。 東海道は交差点を直進するが、交差点を左折し、次の交差点を右折すると、等覚寺、そして、宗済寺がある。 宗済寺の延命閣には、延命福地地蔵菩薩という、一メートル五十五センチの大きな石造りの地蔵さんが祀られている。 傍らの案内には、「 寛政九年(1797)、中之郷村の名主が、夭折した愛児の追善供養のため、信州の石工に
{左}梅越しに、富士山が一望
由比川上流の石で造らせ、寄進したもので、山門右側に安置され、前を通る東海道に向っていたので、旅人達に評判に なり、笠被り地蔵尊の名声は高まった。 昭和五十年頃、現在地に移され、覆堂で保護した。 」、とあった。 墓地を上った頂上付近に梅林があり、梅越しに、富士山が一望することもできる。 先程の交差点に戻り、道を上って行くと、東名高速道路
{左}夢舞台東海道 中の郷 の道標
のガードが見えてくる。 ガードの手前の左側に、夢舞台東海道 中の郷 の道標があり、 蒲原宿二十三町(2.5q)とあった。 東名高速道路の下をくぐると、二又に分かれるが、正面に、野田山東京三田講と薬師如来の石碑が建っていた。 石碑の前で、道が二又に分かれるが、高速道路に沿った、左の道を進む。 やがて道は右にカーブして小さな川を渡る。 川を渡ったところで、また、二又になるが、左の道を行く。 ツル家という和洋菓子屋があり、
{左}秋葉常夜燈
その先、五十メートル程歩くと、右側に安政三年の銘のある秋葉常夜燈が建っていた。 その先の右側に、宇多利神社の石柱と常夜燈があるが、右手を見ても神社は見えなかった。 このあたりは、萬里というところで、少し歩くと、左側から道が合流し、また、道が二つに分かれる。 左側の道に蒲原の表示があり、右側の道は、この先、行止り、とあるが、これは自動車用の
{左}新幹線のガード
表示で、東海道は、 右側の狭い道である。 道は新幹線の線路まで続き、新幹線の下に大人がくぐれる程度のトンネルがあるので、 これをくぐり、反対側にでる。 また、道があるので、二百メートル進むと、左にややカーブしたところで、 左側の道が合流するが、この道は、さっき左に分かれた道である。 左の道には、大きな秋葉常夜燈があり、その横に、 聳岳雄飛 と、書かれた石碑があるが、昭和四十五年の区画事業を記念したもので、常夜燈もその時、移されたの
{左}明治天皇御駐輦之趾碑
だろう。 この辺りの東海道は、小さな道が左右に分岐するが、その まま直進する。 やがて、右側の古い家の前に、明治天皇御駐輦之趾之石碑が建っている。 これは、明治十一年に、 明治天皇が御巡幸の際、ここで休憩して富士山を眺めた、というものである。 道が左にカーブすると、登り坂で、 今度は右に曲がる。 右の山裾の少し高く、目立たないところに、三基の石仏が祀られている。 道は左にカーブして、 高速道の横に出る。
{左}高速道路の富士山
高速道路の東側を見ると、富士山が見えた。 富士山は、この先、山陰に入って、由比まで見られな い。 高速道路沿いに百メートルほど行くと、道路を渡る橋があり、静岡市の表示が出ている。 以前は、蒲原町の表示 だったが、合併で変ってしまった。 橋を渡って、先に進むと、道は下り坂だが、 かなり急である。 道端に野生と 思える、水仙が群がっていた。 左側の光蓮寺には、大きな石碑が林立していた。 下りきったところで、道を右折すると、小川がある。
{左}北条新三郎の墓
橋を渡ると、右側に、北条新三郎の墓の案内板がある。 その表示に従い、山道を少し登ると、 小さな墓があった。 北条新三郎は、蒲原城主であったが、永禄十二年(1569)十二月、武田軍の攻撃に遭い、蒲原城は 落城し、城主は城を抜け出し、常楽寺まで逃れたが、寺に火をつけて、自害した、 と伝えられる。 その供養のため、 碑が作られた。 常楽寺はこのあたりにあったことは間違いないが、位置は定かでない、とあった。
{左}蒲原一里塚跡
東海道に戻り、少し行くと、道の左側にある渡辺さんの家の一角に、一里塚跡の祠があった。 江戸から三十八番目の蒲原一里塚は、元禄十二年の大津波で、蒲原宿が流失し、山側に移転したのに伴って、この場所に移されたのである。 坂を下りきったところは諏訪町で、この先の角地に蒲原宿の東木戸の標柱があるが、江戸時代の旅人は富士川を船で 渡り、富士川町周囲の山塊を登り下りしてここまで到着した訳である。 現在では、道や護岸の整備が進んで
{左}諏訪神社
いるので、このコースはトレッキングのお勧めコースであるが、当時は川の増水の度に、逗留させられた難所の一つだった。 道の右側の小高いところに、諏訪神社がある。 今から八百五十年前の保元年間に、富士川の水害に苦しめられてきた住民達が、信州上諏訪大明神を勧請し、六本松の池の畔に宮を建てたのが始まり、と伝えられる。 その後も、富士川の水害が度々起き、御宮の流失の危険に迫られたので、元和六年の水害の後、現在地に遷座し、
{左}諏訪神社拝殿
本殿、拝殿などを造営したが、それらの社殿も、元明六年の火災で焼失、天保弐年に再建された社殿は、安政の大地震による山崩れで、押し出され、現在の場所に転座した、というのが神社の歴史である。 急な石段を登り、拝殿で、旅の無事を祈った。 境内にある遷座三百年記念碑は、大正九年に建てられたもの。 石段を下りて、街道に戻ると、その先の右側角地に、江戸側の入口、東の木戸跡の小さな石柱と夢舞台東海道 蒲原宿東の木戸跡の道標が
{左} 蒲原宿東の木戸跡
あるが、江戸時代には、ここが蒲原宿の江戸側の入口で、宿場特有の枡形になっていた。 宿場に入るには、枡形を右折すると、東の木戸があり、番所があった。 現在の道は、直角に曲がっていないが、道が少しずれているあたりに、枡形の面影が残っていた。 大きな蒲原宿案内板には、「 江戸幕府により開設された蒲原宿は、東海道本線の南側の海側にあったが、元禄十二年(1699)の大津波で大被害を蒙り、元禄十三年(1700)に山側の現在地に移され
{左}天保十三年の常夜燈
た。 」、と書かれていた。 案内板脇の常夜燈は、天保十三年(1831)に建立されたもので、宿内安全と刻まれていた常夜燈には、夜になると明かり が点され、東木戸に入る旅人を映し出していた、という。 左側の山に、発電所への落水管が見えた。 川に沿って、パイプが続き、右側の日軽金の工場まで延びているが、この工場で使用する電気を自家発電しているので ある。 左側に白い家があり、木屋と書いた木標がある。
{左}木屋(渡辺家)
渡辺家であるが、江戸末期に宿場の問屋職をつとめた家で、材木を 商ったことから木屋という屋号で呼ばれた。 左の奥に見える三階建ての土蔵は、四隅の柱を上に行くほど狭める四方 具(しほうよろい)という、地震に強い技法で作られていて、安政の大地震にも耐えた、という建物で、棟札から天保 九年(1838)の建築であることが分った、と説明にあった。 木屋の筋向いに脇本陣があったようであるが、今は残っていない。 天保十年(1839)の蒲原宿の宿内人口
{左}新しい家と古い家が共存
は、二千四百三十九人、家数が四百八十八軒、本陣は一軒、脇本陣が三軒、旅籠は四十五軒あり、かなり活況を呈したように思われる。 特に、富士川の川留めのときには、渡しを待つ人で、大変混雑したようである。 宿場を歩いてみると、新しい家と古い家が共存していることが分る。 新しい家に混じって、なまこ壁の商家や連子格子、旅籠造りの民家が残っているのである。 古い郵便ポストも残り、昭和の良き時代を思わせる雰囲気もあった。
{左}商家だった佐藤家
右側に、岩戸山、一国之廿六番と刻まれた石柱があり、奥を見ると、竜雲寺が見えた。 その先にも、南無妙法蓮華経と刻まれた石柱があり、奥に、東漸寺という日蓮宗のお寺があった。 右側の鳥居の手前に、なまこ壁の家がある。 かって佐野屋という商家だった佐藤家で、明治時代に建てられた建物で、ぬり壁という技法で作られており、 土蔵造りに比べると、壁の厚みは少ない割に、 防火効果が大きかったので、お金はかかるが、商家ではこの技法が多く
{左}旧僊菓堂(吉田家)
利用されたようである。 塗り壁と寄棟の屋根により、建物に重厚感があり、なまこ壁の白と黒のコントラストが美しかった。 その先の左側の塗り壁造りの家は、昭和まで僊菓堂という和菓子屋を営んでいた吉田家である。 玄関がなまこ壁の塗り壁造りで、中に入ると柱のない広々とした店の間造りになっていた。 更に歩くと、宿場の中央に出た。 そこには、道と交差するように、小川が流れている。 その手前の右角の家の前に、問屋場跡の看板が立っていた。
{左}安藤広重の東海道五十三次蒲原雪之図
川に沿って左側へ入って行くと、七十メートル〜八十メートルほど先の左側に、少し入ったところに、昭和 三十五年当時、蒲原町長が建てた蒲原夜之雪記念碑が建っていた。 その右側に、安藤広重の東海道五十三次蒲原雪之図 のレリーフがあり、雪の夜、傘や蓑に雪を積もらせた人々が、家路を急ぐ様が描かれていた。 安藤広重は、天保三年 (1832)四月、幕府の八朔馬献上の一行に加わって京都に行き、九月には江戸に戻っているので、当地で雪のシーン
{左}旧旅籠、和泉屋
に出会った訳ではない。 記念碑は、浮世絵が昭和三十五年の國際文通週間 の記念切手になり、世に広く知られるようになったことを記念して、蒲原町が建てたものだが、今回の町村合併で、 静岡市清水区蒲原となっている。 東海道に戻り、小川を渡ると、本町である。 右側のお休処になっている家は、昔の旅籠、和泉屋である。 天保年間(1830〜1844)に建てられたもので、安政の大地震でも倒壊を免れた。 現在は、 鈴木家の四間余とお休み処の二間に
{左}旧平岡本陣
仕切られているが、二階の櫛形の手すりや看板かけに、江戸時代の上旅籠の面影を見ることができる。 道の反対に ある、屋根付きの門と黒壁で囲まれた屋敷は、西本陣と呼ばれた平岡本陣だった家で、建物は、大正時代のものだが、 大名駕篭を置いた平石は、今でも残っている、という。 住宅に使用されているので、中を覗くことはできなかった。 蒲原宿には、ここから百メートル程東に、東本陣と呼ばれた多芸本陣があり、西本陣と二軒で務めていたが、
{左}磯部家
宝暦年間(1751〜1763)につぶれてしまった、という。 信号交差点を越えて進むと、左側に、案内看板があるのが磯部家 で、明治四十二年(1909)に建てられた建物は、総けやき造りという豪勢さで、二階のガラスは手作りガラス、という。 国産のガラスは、明治四十年に始まったというから、この建物は、当時一番お金がかかった建物だったのではないだろ うか?
{左}旧五十嵐歯科医院
右側に郵便局があり、その先の鳥居の奥には、若宮神社がある。 徳川家康が、織田信長を接待するため御殿を建てた 場所といわれる。 江戸時代には、鳥居の脇に、高札場があったようである。 その先の右側の洋風の建物は、 旧五十嵐歯科医院で、国の指定文化財になっている。 この建物は、町家だったのを大正時代に五十嵐氏が歯科医院に するため、洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれるものである。
{左}志田家住宅
その先の左側の二階屋に、蔀(しとみ)戸のある家という案内があった。 志田家住宅は、安政の大地震後に再建され たものだが、東側の二階建ての部分は、通り十間一列型と呼ばれる町家の典型的な建物で、国の登録文化財である。 蔀戸は雨戸の一種であるが、戸を横に入れたもので、昼間は、金具で上から持ち上げ、日除けとして使えるものである。 その先の右側に、格子の美しい家があった。 増田家であるが、蒲原には、このような多種多彩の家がある
{左}蒲原宿西木戸跡
ことに驚いた。 東海道は、この先、四百メートルほど行き、西町で南へ折れて行く。 長榮寺は、直角に曲がった枡形 の角にあり、その手前には、南無妙法蓮華経法界と、書かれた石碑があり、その奥に、妙隆寺という日蓮宗のお寺が ある。 枡形を折れ、百メートル程歩くと、県道にぶつかる。 道の右側に、夢舞台東海道 蒲原宿西木戸 跡の道標と西木戸跡の石柱があり、大きな蒲原宿案内板があった。 江戸時代は、蒲原宿の京方の入口として、西の 木戸が
{左}新蒲原駅前
置かれ、番人が監視していた。 場所は確認できなかったが、江戸時代、このあたりに、茄子屋という茶屋が あり、茄子屋の辻と呼ばれていたが、槍の名人と薩摩藩の大名行列との喧嘩は有名である。 以上で、吉原から蒲原宿 までの旅は終わるが見所は多かった。 近くのJRの駅は、新蒲原駅である。 駅前には、この地の名物、さくら海老 の発見を記念して、漁に使用する船を置かれていた。
貴方は
目のゲストです!!