東 海 道


蒲原宿から由比宿 




{左}若宮神社の鳥居
訪れた蒲原宿の西の木戸跡のモニュメントのあるところの反対側には、若宮神社の鳥居がある。 奉納柱には和歌宮神社、 燈籠には若宮浅間御廣前と刻まれていて、全て名前が違う。 それはともかく、江戸時代、西の木戸の隣には、 浦高札場があったはずである。 蒲原は、蒲原の津(港)を経由する海上交通が盛んだったので、浦高札場には、海船や 川舟など船舶一般の取締りのお触れ書きを掲示したのである。  県道396号(旧国道1号)の向こう側にある古屋敷 跡の石柱は、元禄以前、津波で崩壊する前の蒲原宿だったところを示している。 
{左}静岡市蒲原文化センター 
県道に入り、西に向かって進むと、小さな橋を渡るが、橋のイラストはさくらえび、また、歩道のタイルにも富士山と 波に中のさくらえびが描かれている。  橋を渡ると、左側に南国情緒を感じさせるやしの木(?)が見えた。 奥の 建物は、静岡市蒲原文化センターと、表示されているが、合併前は、蒲原町役場だったところである。 蒲原宿と由比宿 の間は、江戸時代でも町続きだった、といわれる。 今でも古い家が多く残っているが、その中から、立派な連子格子と
{左}蔀戸(しとみど)のある家 
蔀戸のある家を見つけた。 連子格子が一階だけで なく、二階にあり特にきめが細かいようで、すばらしい。 蔀戸とは、右写真にある障子が入った二つの戸のことであ る。 一見すると、一枚の戸のように見えるが、小さな戸を横向きにして入れ、その上に重ねて次の戸を入れるもので で、両脇に立てられた通柱(とおりはしら)には、戸を通す溝が掘られていて、戸を横にして上から入れる ようになっている。   
{左}神原不動尊 一乗院
昼間は、戸を入れず、開け放しにして、店先にしたり、障子戸を入れて明るくなるようにした。 夜はぶっそうだから、 板戸に替えて使用する。 使用しない戸は天井に跳ね上げるなどの格納の工夫もあった。  街道は、国道を避けて走る 車が徐々に増えてきた。 左側に大聖不動明王の幟があるのは神原不動尊 一乗院 。 役行者より伝わる千三百年の歴史 をもつ修験道の真言宗醍醐派のお寺である。 信号のある三叉路には、左へ0.9km国道1号の表示があった。 
{左}桜えびを売る店
少し先の左手には、蒲原駅があったが、ここから由比宿までは2.1qの距離で、由比宿には由比駅よりこの駅の方が 近い。 駅を過ぎると、古い家は少しづつ減り、残っている家も、蒲原宿やその周辺の方が手入れがよい。 その代わ り、蒲原名物と書いた桜えびを売る店が多くなった。 しばらくの間、淡々と歩く。 道路には車が増え、ハイカーの 数も徐々に増えてきた。 三十分ほど歩くと、東名高速道路が見えてきた。 高速道路の下には川が流れていて、
{左}由比宿に入る三叉路
道はそれに沿ってあるので、高速道路をくぐって歩いて行く。 百メートル程歩くと、 三叉路に出る。 道の真中に大きな道標があり、由比本陣公園、広重美術館は右と大きく表示されているが、 これは車両用で、その下によく見ないと分らない小さな字で、由比宿は左の矢印があるので、旧東海道は、県道 (旧国道1号線)と別れて、左側の道に入る。 二百メートルほど歩くと、神沢川橋という小さな橋がある。  ここまでが旧蒲原町(正確には静岡市清水区)である。 
{左} 神沢川酒造場
橋を渡ると、町村合併をしなかった由比町である。 ここから由比宿までは2.1qの距離である。 神沢川橋の上から 見えた大きな煙突には、清酒正雪神沢川酒造場と書かれていたが、富士山の伏流水を使った地酒であろう。 橋を渡ると 左側に、夢舞台東海道・由比の道標があり、蒲原宿境まで廿六町(約2.8km)、由比宿まで三町とあったので、あと 三百三十メートルほどで由比宿に到着である。 神沢川酒造場の先から、道は右へ曲がり、次いて、左へ曲がる。   
{左}由比新町一里塚跡 
由比(ゆい)宿には、江戸時代の宿場に共通した枡形があった。 そこが、由比宿の江戸側の入口である。 曲がった 道の左側に水神の石碑があった。 更に、十メートルくらい先の右側には小さな社があり、小さな二体の石仏が祀られて いた。 右側の民家の一角の目立たないところに、由比一里塚跡の石柱がある。 また、左側の民家の少し奥まった ところの由比一里塚の案内板には、 「 由比新町一里塚は、江戸から三十九番目の一里塚で、松が植えられて
{左}枡形 
いたが、寛文年間(1661〜1671)に、山側の松が枯れたので、清心という僧侶がここに十王堂を建てて、延命寺の境外寺と した。 十王堂は、明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、 祀られていた閻魔像は延命寺に移されて、お堂に安置されて いる。 」 と、あった。 五十メートルほど歩くと、右側の家と左側の家の並びがおかしく、道が左側にずれて いる。 この曲がった道を鉤型とか、枡形と呼ぶが、遠州や尾張では、曲尺手と呼んでいた。 
{左}志田家
江戸時代には、参勤交代の大名などが泊まる宿場を外部からの侵入を防ぐため、真っ直ぐ入れないように枡形になる ようにしていて、ここを通り抜けると江戸側の入口である東木戸があり、そこからが由比宿だった。 枡形の左側に ある連子格子の家は志田家で、江戸時代には、こめやという屋号で、商売を営んでいた家である。 少し歩くと、 右側に真っ黒な大変存在感のある大きな木造の倉庫が現れた。 何をしている家なのか、中に何が入っているのだ ろう?? 
{左} 七里役所跡
隣の白塀を見ると、黒い大理石に、 「 この新緑に囲まれた家は紀州藩の七里役所跡である。 」 と、書かれていた。  七里役所とは紀州藩が設けていた大名飛脚の中継所のことで、この家に、紀州徳川家の飛脚が詰めていたのである。  由比(油比とも書く)宿は、天保十二年(1841)の東海道宿村大概帳によると、家数百六十軒、人口は七百十三人、 本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が三十二軒と、東海道五十三次の中で、規模の小さな宿場の一つだったが、さった 
{左}由比本陣公園表門
峠をひかえた宿場なので、賑わっていた、という。 少し歩くと、右側に由比本陣公園があった。  江戸時代の本陣の門を復元したと思われる表門の脇には、明治天皇由比御小休所などの石碑や常夜燈が建っていた。  門を入ると、昔の本陣の敷地千三百坪をそのまま利用していて、右側に休憩施設、正面の芝生の先には、東海道広重美術館と明治天皇が小休止した離れを     
{左}広重美術館
忠実に復元した御幸亭が並ぶ。 また、左側の隅には、物見櫓が建っていた。  御幸亭への入場料は、抹茶付きで五百円だったが、同料金の広重美術館に入った。 東海道広重美術館は、浮世絵師、歌川(安藤)広重の作品を中心に収集、展示している美術館である。  東海道五十三次の全宿の絵が見られ、更に貴重な隷書東海道と呼ばれる浮世絵も数枚見ることができた。 隷書東海道は丸清という版元から、嘉永年間(1848〜53)に刊行された五十五枚の
{左}正雪紺屋   
揃物で、外題の書体からその名があるということだった。 はがきくらいの小さなものだったが、画面がいきいきしていて、今刷られたばかりという出来栄えだった。  本陣公園の向かいの正雪紺屋に入った。 江戸時代初期から四百年近く続く染物屋で、帳場や藍瓶等が残っていた。  家の左側にある案内によると、 「この家が由井正雪の生家といわれ、そのため、正雪紺屋という名が付いた。 」 と、あった。 
{左}脇本陣 温飩屋
由井正雪は、由比(駿府宮ヶ崎町という説もある)の紺屋に生まれ、江戸に出て、楠木流の軍学を学び、神田連雀町に軍学塾を開き、多くの門下生を集めた。  慶安四年 (1651)、三代将軍家光没後の混乱につけこんで叛乱を起こそうとしたが失敗し、駿河城下で捕り物に囲まれて自害した。  紺屋の右隣の民家の塀に、脇本陣 温飩屋(うんどんや)の表示があり、江戸後期から幕末まで脇本陣を務めた、とあり、東海道宿村大概帳に、 「 脇本陣一軒、凡そ建坪九拾
{左}脇本陣 羽根ノ屋
坪、門構え、玄関付き 」 とあるのは、ここだろう、とあった。 隣の黒塀に覆われた洋館の家は、明治時代に建てられた郵便局舎で、現在は、局長の子孫(平野氏)の自宅になっている。  更に進むと、右側の民家の塀に、脇本陣 羽根ノ屋の表示があった。 由比の脇本陣は一軒だけだが、途中で代わっている。  最初営んでいた徳田屋が、江戸後期寛政年間ごろ、この羽根ノ屋に代わった。 羽根ノ屋は、江尻宿の羽根ノ屋の分家で、寛政五年(1793)に幕府に
{左}加宿問屋場跡
願い出たことが資料に残っている、という。 その後、前述の温飩屋に代わり、明治を迎えている。  その先のお店の脇に、 加宿問屋場跡の標札があった。 幕府は東海道の各宿場に問屋場を置き、駄馬壱百匹、人足壱百人の常備させたが、 由比宿は宿場の規模が小さく負担しきれず、周りの十一の村(北田、町屋原、今宿など)に、加宿問屋を結成させて、 一ヶ月交代で、荷役を負担させたのである。 それに似たものに、助郷制度があるが、これは、臨時に人馬が
{左}枡形の道(?)
足りなくなったとき、周囲の村から調達するものである。 本陣公園から二百メートルくらいで、二又にでる。  江戸時代にはまっすぐな道はなく、枡形に曲がっていて、由比宿の西木戸があり、高札場があったといわれる。  枡形のあった場所がが分らないので、左側の狭い方の道を行くと、すぐに由比川に出た。  左側の入上地蔵堂は、水難者を祀った川手地蔵を祀り、多くの石仏があった。 隣に、矢箭(さき)八幡宮もあった。 
{左}安藤広重の由比宿
旅人は、西木戸を出ると、川原に下り、仮の板橋を渡っていった、といい、その時の様子が、安藤広重の浮世絵に描かれている。  そのイラストが橋の欄干にあったので、当時の様子が分かった。  橋ができたのは明治八年のことで、仮橋のところに木橋が架かった。 その後、昭和八年にコンクリート製の橋が、現在の場所に架かった。 ここで、全長五町半(約600m)
{左}桜えび御膳
と短い、由比宿は終わる。 由比宿には、古い家が多く残っていると、期待したが、思った程ではなかった。  小生が訪れたのは、五月の連休であった。 桜えびの季節でもあり、由比宿周辺の食事処は、それを求めてごった返していた。  由比宿おもしろ宿場の二階、レストラン海の庭で、昼食をとることにし、この地でないと食べられないものと、生さくらえび、さくらえびのかき揚げ、さくらえびの吸い物など、さくらえびばかりの桜えび御膳(1680円)を注文した。     
{左}由比展望
だいぶ待たされた後、食事開始となったが、まさに、その名の通り、さくらえびのオンパレードで満足。  また、駿河湾を一望できる展望になっていたので、これから向かうさった峠の地形も分った。  時計を見ると、一時間近く経過していたが、結果的にはこの後への十分な休息となった。  さくらえびのシーズンの土、日曜日は、さった峠を越える人はもちろん、ドライブの人の立ち寄る人も多いので、早めに食事をとられることをお勧めしたい。 



     

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