東 海 道


興津宿から江尻宿 




{左}国道1号線静清バイパス
今日は、新蒲原駅から前回見落とした蒲原宿の一部を見学し、由比宿に出て、さった峠を越えて、興津宿に来た。 もう 夕方なので終了したが、興津駅に戻るにも、遠すぎる。 このまま、江尻宿に向かうことにした。  国道1号線をひたすら進むと、正面に、高速道路の陸橋みたいなものが見えるが、これは、国道1号線静清バイパスで ある。 高架の下に川が流れているが、川に沿って進むと、少し上りになる。 
{左}横砂東町 延命地蔵 
東海道本線の上を渡ると、江戸時代には横砂村だった横砂東町に入る。 少し行くと、右側に延命地蔵があり、前に常夜 燈が建っていた。 横砂自治館前の交差点あたりが、横砂中町であろうか? その先の民家の一角に、念仏供養塔がある。 この横に、袖師ふるさとの道25という番号が表示されていた。  この番号は何を意味するのだろうか?  
{左}東光寺の山門 
その先の右側にある医王山東光寺の山門は、昔、朝廷からの勅使が、興津川の氾濫により、東光寺に泊まることになり、 急遽、この門を造った、と伝わるものである。 勅使が泊まる宿舎は、格式上、門構えでなければならなかったためで ある。 寺がここに移ったのは、天文年間(1532〜1555)で、寺佛の薬師如来(秘仏)は行基の作と伝えられている、という。   その先の横砂交差点を急ぎ足で通り過ぎた。 このあたりは旧清水市の住宅地のようで、ほとんどが
{左}横砂西町
比較的新しい家で、見るべきものはなかった。  庵原川に架かる庵原川橋を渡ると、横砂西町である。   しかし、すぐに袖師町に入った。 明治維新後の町村合併で、旧横砂村、旧嶺村、旧西久保村が合併し、袖師村になり、 その後、袖師町になったが、昭和の大合併で清水市に併合された。 さらに、今回の静岡市との合併で、旧横砂村は、 清水区横砂○○町に、旧西久保村は、清水区西久保に変り、旧嶺村だけが、清水区袖師町になったのだが、別の意味では、 江戸時代の区分けに戻ったとも言える。 
{左}東海道の松並木の生き残り(?)
道の左側に、松の木が一本あり、夕方の逆光の光で、シルエットを作っていたが、東海道の松並木の生き残りなのだろうか?  袖師東交差点を過ぎると、左右の道が広い交差点に出たが、横断歩道がないので、歩道橋を歩き、向こう側に渡った。  その先の右側に、馬頭観世音菩薩があり、それには袖師ふるさとの道1、とある。  道の右側に、袖師ふるさとの道と書いた、大きな案内板があり、疑問だった番号の怪が解けた。 ふるさとの道を一周する場合の
{左}細井の松原跡
順番が示されていたのである。 夢舞台東海道 袖師ヶ浦の道標には、江尻宿まで六町とあったので、七百七十メートルほどの距離である。  だいぶ日が陰ってきたが、なんとか江尻宿まで着けそうである。 道が二又になったところが見えてきた。  二又の中央に行くと、無縁さんの碑と夢舞台東海道 細井の松原、という道標があったが、東海道の松並木は、第二次世界大戦の際、飛行機の燃料にするための松根油をとるため、伐採されて一本もなくなってしまった、とある。  ここにある一本は、平成になって植えられたもの。  
{左} 辻町三丁目の古い家
旧東海道は、国道1号線と別れて、右側の道に入る。  このあたりは、江戸時代には辻村で、百十戸の家があった、とされる。  現在は、辻町三丁目になっているが、古い家は一軒も残っていない。  矢倉町通り交差点を過ぎると、数は少ないが古い家が残っていた。  その一軒の連子格子のすばらしい家の屋根から、SEIYUのネオンが見えた。 その先の信号交差点は、   
{左}清水駅前 
江尻東交差点なので、江尻宿に入ったことを知った。 十七時半前だった。 今日はこれで終了 することにした。  新蒲原駅からさった峠を越えてここまで歩くことができたのはよかったし、さくらえびが食べられた ので、大変満足した一日だった。 交差点で左折し、歩いて行くと、両側に大きなビルのある交差点に出た。 地下道を くぐり向こう側に出て、右側の商店街に立ち寄り、新茶を買って家への御土産にした。 そして、清水駅から家路についた。 
{左}江尻(えじり)東交差点 
訪れてから一月以上経った6月上旬、再び、江尻東交差点に立つ。 今日は江尻宿を見学してから、清水港に向かい、その後、府中宿まで行くつもりである。  江尻というとなじみが薄いが、駿河国では、府中宿に次いで、大きな宿場だったのである。  江尻宿は、江戸幕府は、慶長六年(1601)、東海道を開設した際、江尻の町中に東海道を通して、宿場町とした。 その後、慶長十二年(1607)に、宿場の西端に近い巴川に、橋を架けたことで、東の辻村の木戸から
{左}テーラー雀荘
西の入江町の木戸までの二キロの宿場町になったのである。 旧清水市は、次郎長の住む清水港(みなと)で有名であるが、 その時代には、別の町だった。 清水駅から江尻東交差点に出て、交差点を左折すると、江尻東商店街で、江戸時代には傳馬町と呼ばれた。   広くない東海道だった道を歩くと、江尻東商店街から銀座商店街となる。 交差点の手前の右側に、高級英国生地テーラー雀荘(ジャクソウ)がある。 麻雀屋と勘違いするが、れっきとしたオーダーメ
{左} 水神社
イドの洋服屋さんで、東海道は、その角を右に曲がる。 そのまま行くと、前方の緑色の鉄橋は大正橋で、右側に水神社があっ た。神社隣の公園には、昔の稚児橋の親柱が残されていた。 テーラー雀荘がある交差点は、江尻宿の江戸側入口である。  江戸時代には、宿場特有の鉤型になっていたが、その形跡は残っていない。 その先に、志茂町、仲町、魚町などの町があり、宿場の家数千二百四十軒、六千四百九十八人、本陣が二軒、脇本陣が三軒、旅籠が
{左}夢舞台東海道 江尻宿 の道標
五十軒が軒を並べていたようであるが、宿場町時代の面影はまったく残っていないのは、昭和二十年七月七日の清水市市街地の空襲によるものだろう。  左側の洋菓子喫茶富士と駐車場の前には、夢舞台東海道 江尻宿の道標が建っていた。  その先の交差点の左側あたりに、江戸時代には羽根本陣があったように思われる。 また、羽根本陣の先には大竹屋脇本陣があり、その反対の手前には田中屋脇本陣があったはずである。       
{左}江尻宿の説明板
道の左側のおもちゃ屋、富岡屋の前に、江尻宿の説明板が立っていた。 図面でみると、手前の駐車場あたりが、寺尾 本陣があったところに思えるが、戦後の区画整理などですっかり変わったようで、銀座通りになっている道も昭和の ものである。 左側の履き物屋、西村屋あたりが、江戸時代には鉤型になっていたところで、東海道は、この交差点を 左折する。 江尻の歴史は、今川が支配していた頃に始まり、最初は三日市場として栄えていたが、
{左}魚町稲荷神社 
永禄十二年(1569)、武田信玄が進出し、その翌年、現在の江尻小学校の敷地に江尻城を築いたことから、城下町が形成 され、職人の町として発展して行った。 天正六年(1578)、当時の城将、穴山梅雪が城を大改築して本格的な城にしたが、そのとき、 城内に祀ったのが魚町稲荷神社である。 交差点をそのまま直進すると、魚町稲荷神社がある。 
{左} 稚児橋
街道に戻り、東海道を歩くと、巴川に架けられた 稚児橋がある。 慶長十二年(1607)に架けられたときは江尻橋と言った が、渡り初めの日に人が川を渡ろうとすると、川の中から童子が現れ、橋脚を登ると入江方向に消え去ったことから、 稚児橋に変わった、と伝えられ、前述の童子は巴川に住む河童だったといわれる。  橋は昭和六十一年に架け替えられたものであるが、橋の親柱四隅に、河童の像がのっているのは、童子は巴川に住む河童 だった、といわれる
{左}河童のレリーフ
ことから。 橋の中間にあるレリーフは、河童が蕗の葉を雨よけにして歩いている姿だが、大変愛嬌があった。   橋を渡ったところには、江戸時代には高札場があり、船の難破や破損時などの取り決めごとなどを書いた、船高札が立て られていた、という。 稚児橋を渡り終えると、江尻宿は終わる。   
{左}日の出埠頭
江尻宿探訪は、短時間に終わったので、清水次郎長の町に足を伸ばすことにした。 まず、清水港へ、近そうに思えたの で歩いていったが、思ったより遠かった。 駅前からバスで行った方が時間短縮できるし、料金も百円と安いのでお得の ようである。 日の出埠頭は小生が大きな港湾施設ではなく、県警の船が係留される程度の小さなものだった。    
{左}フェルケール博物館
でも、フェルケール博物館に寄れたのはよかった。 フェルケール博物館は、人と海の交流のステージともいえる港に スポットを当てたミュージアムである。 こうしたものをテーマした博物館はあまりない。 清水港に限定しているので、 インターナショナルでないため、展示物が限定され、スケールが小さいのが惜しいが・・・ 物流の仕事を経験したものには面白い博物館だが、 
{左}清水港船宿記念館
一般向けするテーマではないので、入場者は限定されるだろう。 なお、フェルケールはドイツ語で交通、交際を意味す る言葉(入場料400円、9時30分〜16時30分、月曜日は休館) 
港橋のところに、清水港船宿記念館があったが、清水次郎長が、明治十九年に営業を開始した船宿、末廣を再現した建物 (無料、10時〜18時、月休)である。 室内では、次郎長が清水港の振興に尽力した晩年の姿を紹介していた。 
{左}次郎長の生家
橋を渡り、左側の通りに入ると、股旅姿のイラストの次郎長通り商店街があった。 商店街を歩くと、左側に次郎長の 生家があった。 戦後、広沢虎造の浪曲で有名になった清水次郎長の本名は、山本長五郎といい、伯父の米問屋山本次郎 八の養子になったが、二十歳の頃から遊侠の世界に身を投じ、次郎八の長五郎から通称次郎長となり、やがて東海道一の 大親分となった。 明治維新後は、山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を受け、明治政府から清水の治安を    
{左}次郎長と子分達の墓
任されると共に、英語塾を開設したりして、 清水港の振興に尽力、また、三保の開発や富士山麓の開墾など、人のためにささげ、明治二十四年、七十四歳で亡くなっ ている。  少し歩いた梅陰禅寺には、子分や妻のお蝶らの墓に取り囲まれた次郎長の墓がある。  大政小政の墓には壊さないでくださいと注意書きがあったが、賭け事にこの墓石や遠州森町の石松の墓石のかけらが 幸運をもたらすと信じられているようである。 以上で、清水の見学も終わり!!



     

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