東 海 道


江尻宿から府中宿 




{左}入江の変速十字路
江尻宿のはずれの稚児橋を渡ったところから、二つ目の信号、竹翁堂菓子店前の入江の変速十字路を右折して行くのが 東海道であるが、この先、府中(現静岡市)の中心まで断続的だが、かなりの部分が残っている。  なお、直進する道は久能山への参詣道(久能道)で、清水港、三保へも通じている。  右折すると入江町になり、かっては、桶屋、刀剣屋、畳屋、箒屋などが軒を連ねた職人の町だったが、そうした店も少なくなってしまった。 
{左}追分羊羹店 
二十分程歩くと、道の左側に 名物追分羊かんと書かれた看板が見えるが、江戸時代に創業した追分羊羹店である。  このお店は創業元禄八年とあるので、歴史が古い。  この辺りは、茶屋が建ち並び、東海道を行く人と久能山へと向かう人で、賑わったところで、店の左側に建っている久能道の追分道標は、久能山へいく道の分岐点を示す道標である。 
{左}久能道の追分道標 
追分道標の一面は、 右より志ミづ道 、もう一面には、 南無妙法蓮華経 と、刻まれているが、前述の入江交差点の久能道ができるまでは、ここが久能山へいく街道だった。  その先の民家の前の五輪塔は、都田吉兵衛の供養塔である。 清水の次郎長の子分の森の石松は、通称、都鳥の都田吉兵衛の家にやっかいになっていたが、賭場の金の貸し借りがもとで、吉兵衛
{左}都鳥の都田吉兵衛供養塔
との仲がこじれ、だまし討ちにあって殺されてしまった。 吉兵衛は、東海一の大親分、次郎長の子分を殺したことで逐電し、 追分の茶屋の一軒に潜んでいたが、次郎長一家に見つけられ、文久元年(1861)正月十五日、次郎長より、討たれてしまい、 吉兵衛の死体は、後難を恐れ、野ざらしになっていたが、それを哀れんだ里の人がここに埋葬し、供養塔を建てた、というもの  
{左}金谷橋
である。 その先の金谷橋には、追分と金谷橋の今昔というプレートがあり、 「 東海道と清水湊への道(志ミづ道)の分岐点であることから、追分と呼ばれた。  旅人は土橋だった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運ぶ牛馬は、、橋の脇の土手を降りて、 川を渡り、土手を登って、街道に合流した 」 と、あった。 その近くに、夢舞台東海道 元追分の道標が建っていた。     
{左}静鉄の踏切を渡る
鉄道線路を越えた所が、平川地、うばが原ともいったところで、東海道名所記では、 「 うばが原、右の方の田中に婆が池とてちいさきいけあり。 しるしに松二本あり・・・・ 」 と、ある。  道は右に大きくカーブしながら穏やかに上る。  その先の交差点は、左に向かう道は広く、右側の道の先には、静鉄狐ケ崎駅がある。 交差点の手前の左側に、久能寺観音道 と書かれた道標が建っている。 久能寺観音道は、ここ(平川地)から、有東坂、今泉、船越、矢部、
{左}久能寺観音道道標
妙音寺、久能寺に至る有度山麓を通る道である。 久能寺は久能山にあったのだが、武田信玄の駿河進出により、久能山に城が築かれたため、天正三年、現在地に移転したが、明治維新で廃寺になった。  その後、明治十三年(1883)に、山岡鉄舟が再建し、鉄泉寺にかわった。  この道標は、安永七年(1778)に妙音寺の若者の寄進により造立されたもの。 地元の人達が建てた東海道の説明板によると、 「 (最初の)東海道は、今の北街道を通っていたが、慶長十二年(1607)、徳川家康の命により、七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)が架けられ、
{左}上原堤 
追分、そして、ここ大原から駿府横田に至る道に変えられた。 」  とあった。 左側には、上原堤という大きな池があり、 池を避けるため、道は湾曲していた。 これが、前出の婆(うば)が池かどうか不明である。  昔はこのあたりに池沼多く、篠竹が繁っていたところのようで、駅のあたりにも、別の池がある。  池に沿って歩いていくと、左側に上原子安地蔵堂がある。 
{左}上原延命子安地蔵 
上原延命子安地蔵はいつの創建かは明らかではないが、鎌倉時代か?とあった。  「 永禄十一年(1568)の武田信玄の駿河攻めの時、山県正景がここに陣を敷いた。 天正十年(1582)には、徳川家康が江尻城主の穴山梅雪とここで会談し、 梅雪は織田方に降り、これが武田氏滅亡のきっかけとなった。 」 と書かれていたが、当時の建物や子安延命地蔵は焼失しているので、お堂や地蔵は最近のものである。
{左}十七夜山千手寺
その先、左側の百メートル上ったところに白壁で大陸風の小さい寺があった。  十七夜山千手寺という寺で、入口に、 「 柚子湯出て 慈母観音の 如く立つ 」 という上田千石の 句碑があった。 有度(うど)第一小学校前を通り、歩き続けると、県道に合流した。  この交差点には、夢舞台東海道 有度の道標があった。 右側の静鉄御門台の駅を見下ろしながら進む。 
{左}東海道 草薙一里塚跡
すると、右側に大きなタヌキの置物があり、横に東海道草薙一里塚跡の石柱が建っていた。  江戸から四十三番目の一里塚跡で、昔は塚の横に高札場があったようである。  ここから十分ほど広い道をそのまま進むと交差点があり、右折するとJR草薙駅前になる。  道の左側に大鳥居と此奥有草薙大明神と刻まれた道標があるので、ここで左折し、道を上る。  1.2kmとあったので、たいした距離でないと上り坂を歩いていったが、かなりの急坂で、予想した以上に  
{左}草薙神社
時間をくわれた。 草薙神社の鳥居をくぐる。 草薙神社の社殿は立派で、境内は鬱蒼とした森でに包まれていた。  草薙神社の祭神は日本武尊、景行天皇五十三年の創建と、伝えられる神社で、平安時代編纂の延喜式神名帳の延喜式巻第九に、有度郡三座のうちとして、記されている。  江戸時代の東海道名所図会でも、 「 駿府より二里ばかり東、草薙村にあり。 海道より入る事五町余、鳥居海道に立つ。 延喜式内、有度郡三社のうちの一社なり 」 とある。   
{左}日本武尊の像
中世以降には武士の尊崇を集め、特に徳川家康が社殿の造営をしたほか、五十石の朱印領を与え、その後、歴代将軍の庇護を受けてきた。  『 日本武尊が東征でこの地を通りかかると、逆賊が起こり、尊を殺そうとして火を放った。  尊は佩いた剣を抜いて、「 遠かたや、しけきかもと、をやり鎌の 」 と、鎌を打ち払う様に唱え、剣を振り草をなぎ払い、 火を逆賊の方へなびかせ、無事逃れることができた。 )と伝えられ、境内には、草薙の地名にもなった日本武尊の像が祀られている。 尊の佩刀した、 あめのむらくもの剣は、草薙の剣と名称を替え、神社に
{左}駿河区谷田地区   
奉られていたが、天武十四年 (686)、天武天皇の勅命によって熱田神宮に移された。  街道まで戻り、東海道の旅を再開する。  バス停があるあたりで、車の少ない静かな通りに入るのが、旧東海道である。  やがて前方に東名高速道路の高架が見えてくる。 しばらくの間住宅街を歩き、高架橋の下をくぐり、さらに進むと、 左側に草薙運動場が見えるところで、マンションに突き当たり、旧道は終わっている。   
{左}JRの操車場
その先ははっきり分からない。 とりあえず、右折して県道の交差点を渡って進むと、静岡鉄道の県総合運動場駅があるが、その先はJRの操車場である。  旧東海道は鉄道線路で分断されているが、線路の北側から国道1号線まで続く。  地下道を抜け静岡鉄道の高架をくぐり、JRの線路沿いに百mほど行くと右に入る道がある。  後久橋を渡ると、夢舞台東海道 古庄の道標があり、府中宿まで3.3qと表示されていた。  
{左}長沼交差点
国道を少し歩くと、長沼交差点に出るので、国道を横断して、右側に渡り、続いて、県道74号線を越え、右側のタツノの看板のビル前の細い道に入る。  これが旧東海道で、この先、五百メートルほど残っている。 左の家の上に、マイクロウエーブを乗せたNTTのビルが見えた。  その先、右側に久応院という寺の前には石仏と庚申塔が祀られていた。 
{左}長沼一里塚跡
一里塚があるはずなので、その所在を求めて歩くと、左側の民家の前に、長沼一里塚跡の石柱を見つけた。  草花に埋もれていたので、かなり注意を払わないと、見つけられない。 静岡鉄道長沼駅の前を通り過ぎると右側の線路越しにバンダイのビルが見えた。  左側には、静岡トヨペット本社ビルがあった。 踏切の向こうに見えるのは、静岡県護国神社である。 
{左}柚木交差点
道はその先カーブし、護国神社前交差点で、再び、国道1号線と合流する。 交差点の先を見ると、道は残っているが、 残念ながら、JR運転所の先の鉄道線路で終わっている。 国道を静岡方面に向かうと、右手に静岡鉄道柚木駅が見えてくる。  交差点には横断歩道橋があるので、これを利用して反対側に渡る。  JR線のガードをくぐり、小さな道路の立体交差が見えたら階段を上ると、上の道路に出られる。 右折すると、夢舞台東海道 曲金の道標が
{左}春日町駅前の五叉路
あるが、昔は曲金村(まがりかね)だった。 その先の左に、西豊田小学校があり、その先に、曲金軍神社がある。  その先の交差点手前に、戦死した梶原景時一族郎党の霊を弔う曲金観音堂がある。 江戸時代にはその前の東海道には石橋が架かっていた、という。   右の道を進み、JR線のガードをくぐると、春日町駅前の五叉路に出る。 春日町一丁目交差点であるが、国道1号線をわたって、正面の道を進めばよい。     
{左}、横田町
春日町駅前の五叉路で、国道1号と別れ、右の道に入った。  このあたりは横田町で、道脇に、横田町の道標と歴史が書かれていた。  「 横田はかなり古い時代から交通の要衝だったようで、江戸時代の元禄五年(1692)、東境に、道の両側を挟んで石垣が築かれ、枡形の府中宿の東入口の見附が設置された。 」、とあるから、ここから、府中宿である。  府中は、徳川家康が、足利氏の支族の今川氏の人質として、幼少の頃を過ごした土地である。    
{左}きよみずさん通り
また、晩年、将軍職を秀忠に譲り、駿府城に移った後、大御所として権勢を振るった所でもある。  従って、府中は、単なる城下町とか、宿場ということでなく、徳川家にとって由緒の深い所として重要視されてきたのである。  その先の交差点は横田東で、左右の通りはきよみずさん通りと、いうらしいが、当時の下横田町の家数は四十七軒、二百十四人の人口だった。  右折すると、静岡鉄道音羽駅があり、その先にある清水寺は、永禄弐年(1559)の創建で、家康が
{左}西宮神社
建立した観音堂がある。    交差点の先は、江戸時代の猿屋町で、左側の酒屋の二階にビールジョッキ片手の人形が下を見下ろしていたが、愛嬌があり、おもしろい。  その先は、旧院内町になるが、右側の奥に西宮神社が祀られている。  その先の交差点を越えると、伝馬町通りに入るが、旧上横田町、旧鋳物師町と続く。  ○○だるま店という店があり、店頭にちいさなだるまや招き猫などが飾られていたが、慶事関係の問屋なのだろう。     
{左}ビル街
交差点を横断すると、ビル街になった。 道脇に鋳物師町の道標があり、旧鋳物師(いもじ)町は鋳物を扱っていた職人の町だったが、今は横田1丁目、伝馬町、日の出町の3つに分割されている。  交差点を越えた先の左側に、久能山東照宮道の標柱があるが、この道は久能山に通ずる道で、江戸時代には、参勤交代の大名たちが久能山詣でをした、という。  その先の道の右側に、華陽院門前町の道標がある。 
 
{左}華陽院
華陽院は、右側の道を入ったところにあり、家康が今川氏の人質になっていた時代に勉学に通った寺である。  家康は三歳で母と生き別れ、祖母の源応尼が静岡まで付き添ってきて面倒をみた。  源応尼が亡くなると、家康はこの寺で法要を営み、源応尼の法名から、寺の名をこれまでの智源院を、玉桂山華陽院府中寺と改めた。  寺には、源応尼墓の他、市姫(家康と側室との娘)や側室お久の方など、徳川家にゆかりの深い墓がある。 
{左}下伝馬町本陣、脇本陣跡碑
花陽院門前町の石碑のところまで戻り、歩き始めると、 右側に伝馬小路と表示があるが、道を挟んだ左側のまつ本という店前の歩道に、本陣脇本陣跡の石碑があった。  これは下伝馬町本陣と脇本陣の跡である。  下本陣と呼ばれたのは、小倉家で、脇本陣は平尾家である。 その先の右側に、上伝馬町の本陣望月家、脇本陣松崎家があったのだが、それを示す石碑などは見付けられなかった。    
{左}FIVE−J
スルガ銀行の先の交差点を渡るが、前方に見えるのは高いビルばかりで、昔の面影を 感じさせる建物は残っていない。  交差点の右手には静岡鉄道新静岡駅があるが、道を直進すると、左側にFIVE−Jというビルがある。   静岡市は、駿河国の国府であったことから、府中となったが、中世になっても、海道のおさえとして足利氏の支族、 今川氏が支配した。 江戸時代の府中は、宿場町であると同時に、駿府城の城下町として、駿河国では最大規模を誇り、    
{左}伝馬町由来碑
天保十四年の宿場の人口は、一万四千七十一人で、家数は三千六百七十三軒を数えている。  FIVE−Jビルの左側には、丸井、松坂屋などのデパートが並んでいて、その先が静岡駅である。  若い人が沢山歩いていたが、静岡市は東京風の雰囲気が流れた都会なのである。  歩道に上下伝馬町の石碑があり、傍らに説明があった。 また、人形像の脇に伝馬町由来碑が建てられていた。      
{左}ホテルシティオ静岡
道の右側に戻り、西に向かう。 右にカーブする道の右側に、ホテルシティオ静岡がある。  ホテルの外壁に、西郷と山岡の歴史会見の説明板があった。  『 慶応四年(1868)二月十二日、最後の将軍・徳川慶喜が江戸城を出て、上野寛永寺で謹慎 した直後に追討軍が江戸に到着。 官軍の江戸城総攻撃が目前に迫った。   幕府軍事取扱の勝海舟は、慶喜の処刑と江戸会戦を避けるため、山岡鉄太郎(鉄舟)を静岡にいる官軍参謀西郷隆盛のところへと       
{左}西郷と山岡の歴史会見
派遣した。 山岡は、江戸から駿府にかけて居並ぶ官軍の中を 「 朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎。大総督府へ参  る。 」 と大声で叫びながら馬を駆り、 呆然と見送る兵士たちの間を走り抜けた。  駿府まで進出してきていた西郷は、定宿の松崎源兵衛方で山岡と会見する。 両者  は初対面だったが、山岡の人柄にすっかり惚れ 込んだ西郷は勝との話し合いに  応じることを約し、これにより江戸無血開城への道が 開けたのである。 』  
{左}会見の碑
ホテルは、安田屋太郎兵衛宅だったところで、西郷と山岡が会見した場所は、安田屋の三軒隣の松崎屋源兵衛宅だったが、 現在はペガサートというビルになっていて、その前に静岡市史跡の石柱と二人の顔入りの会見の碑が建っている。  そのまま道を進むと、右手に駿府城がちらりと見える五叉路の江川町交差点に出る。 
{左}江川町交差点
江川町交差点には横断歩道が無いので、地下道を通って斜めに出るのだが、地下道はけっこう複雑なので、町名から出口を 探して表に出た。 このあたりは、城下町特有の曲がりくねた道である。 ワタベウエデングの前に出たので、南に向かい、 呉服町交差点まで来たら、右折する。 呉服町商店街は、レトロな雰囲気を演出しようとしているようで、鋳物製の街燈や モダンなデザインのベンチが置かれていた。  そうした通りを自転車がすいすい通り過ぎていく。 
{左}伊勢丹前の交差点
静岡市は平らな土地からか、自転車の利用者が多く、このような町の中心にも平気で乗り入れてきていたのには驚いた。  駿河区役所に通じる緑道の脇に、ライオン像があり、子供が口に手をいれようとして、母親に叱られていた。 少し歩くと、 伊勢丹前の交差点に出た。  交差点の右側に、府中宿の浮世絵タイルを大理石に嵌めこんだ時計付きのポールが建っている。 また、少し離れたところに、里程元標址の石碑があった。 
{左}札の辻址の碑
道を渡ると、右側に姉妹都市友好の碑もある。 道の向こう側の伊勢丹前に札の辻址の碑が建っていた。  江戸時代には、ここに高札場が設けられていたので、札の辻と呼ばれ、昭和二十年まで札の辻町という町名が残っていた、と ある。 初期の東海道は、本通りを通り、この先の呉服町一丁目から四丁目(現在の呉服町一丁目)を経て、ここに至り、 呉服町五丁目から八丁目(現在の呉服町二丁目)を経て、伝馬町に至っていた、という。 その後、東海道が新通り   
{左}七間町交差点
を経由するようになると、ここで左折し、七間町通りを進む道に変わった。 七間町にも商店街があった。 周りが山と海に 囲まれていることから、大型スーパーが郊外に立地する場所に制約があるのかも知れないが、これだけの商店街が残る都市は 珍しい。 そのまま歩くと、右側に静岡東映とサークルKがあり、七間町交差点に出た。 国道362号線を渡ると、 オリオン座があり、その反対側にも、映画館がある。 映画館が数軒固まってある映画館街は、一昔前には
{左}映画館街
全国の各地で見られた風景だが、シネマコンが登場し、一つの映画館で複数の映画が見られるようになってからは、姿を消してしまった。 そういう意味でも、静岡は不思議な町である。  交差点の左側にファミリーマートがあり、右側には最近造られたと思える赤茶色のビルがあったが、東海道はこの交差点で、右折する。  入った先は先程までの商店街と違い、中心を外れていく感じで、取り残された商店街に変る。 道の脇にあった府中宿人宿町と刻まれた石碑に
  
{左}梅屋町キリスト教会
は、静岡姉様人形や駿河竹千筋細工など、江戸時代の名物が紹介されていて、東海道であったことが感じられた。  人宿町は縦七間通りと呼ばれていたこともあるようで、江戸時代には、庶民が泊まる木賃宿が多く、旅籠町として栄えたところのようである。  人通りが少なくなった道を歩くと、右側に梅屋町キリスト教会がある。 東海道は、キリスト教会の次の交差点を左折して、狭い道に入る。 これが新通りで、東海道はこの先、安倍川の渡しまで、まっすぐな道    
{左}田尻屋本店
が続く。 そのまま歩くと左右の道が大きい信号交差点に出た。 この道を横切ると、新通1丁目に入った。  右側に、駿河名物元祖わさび漬 宝暦三年創業、と書かれた看板の家があった。 家の壁には、田尻屋本店とあり、八代目とある。  宝暦の頃、東海道の新通りで味噌屋を営んでいた田尻屋和助が、山に出かけ、立ち寄った農家で出されたお茶受けが、 山葵の茎と葉を糠味噌に漬けたものだった。 食べてみると、捨て難い風味だったので、茎と葉を持ち帰り、色々と工夫をして 加工している中に、酒粕に漬けるのが一番よいことを発見した。 
{左} 府中一里塚跡
それがわさび漬の始まり、と、傍らの案内板にあった。  新通1丁目を過ぎると、信号交差点があり、左側には、秋葉神社が祀られていた。  府中一里塚は、江戸時代初期の道につくられたので、新通りではなく、もう1つ右側の本通りにある。  右側の東海電工舎を右折すると、本通り8丁目の交差点に出た。 道の反対側に渡り、左折し、道に沿って歩くと、ラペック静岡の案内標示の先に、府中一里塚址の石碑が建っていた。   
{左}弥勒一丁目にある信号交差点
先程の交差点まで戻ると、あとは安倍川橋まで真っ直ぐである。 その先には郵便局と静岡銀行がある。  信号交差点の先で、町名が川越町に変った。 江戸時代には川越町に西見附があり、府中宿はここで終わりだった。  西見附のあったところを探ろうとしたが、どこにあったのかは確認できないまま、府中宿は終わった。             
{左}駿河城のお堀と石垣
徳川家康が晩年を送った駿河城址には、静岡市役所のビルが建っているが、お堀と石垣が残っている。 今川館と呼ばれた駿府城は、永禄十一年の武田信玄の駿河侵攻と天正十年の 徳川家康の侵攻により灰燼と帰したが、徳川家康はその跡に城を築き、天正十七年、居住地を浜松からここに移転した。  家康は大御所になった後、再びこの城に入り、天守閣を設けるなど、城の大修復を行い、慶長十三年に完成させた。  家康の没後、駿河(府中)藩として、徳川
{左}巽櫓と東御門
頼宣と徳川忠長が藩主になったが、その後、天領になり、五千石格の旗本による駿府城代が置かれた。 天守閣が焼失して後は、 再建されなかった。 幕末、徳川慶喜が江戸城からここに監禁された後、徳川家達が藩主になり、版籍奉還となった。  その後、建物は壊され、堀と城壁の一部が残されていたが、最近、巽櫓と東御門が復元された。 
{左}JR静岡駅
東御門から入ると、駿府公園となっているが予想していたより広大な面積である。 復元された櫓(有料)の中は見ることがで きるが、時間が過ぎていたので入れなかった。 城を示すものは家康の銅像と本丸跡を示す水溜まりだけで、その他は紅葉山 庭園位しか見るものはなかった。 その足で静岡駅に行き、江尻宿からの旅は終わった。   



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!