東 海 道


岡部宿から藤枝宿 




{左}東海道横内の表示板 
今日は、丸子宿を出発し、宇津ヶ谷峠を越えて、岡部宿を訪れた。 その足で藤枝宿に向かう。 岡部宿のはずれを過ぎると、 藤枝バイパスと国道1号線とに交わる交差点があり、藤枝バイパスの下をくぐると、右側に、東海道横内という表示があるが、 ここから藤枝市である。 表示の指示に従い、右斜めに入った道が東海道で、このあたりは、江戸時代は横内村だった。  文禄三年(1594)、豊臣家臣の池田孫次郎輝利が、村民を指導して、河川改修を行い、白髭神社を 
{左}傍示杭(ほうじくい) 
祀ったのが村の始まりで、江戸初期は、天領(岡部領)だったが、宝永年間に田中藩領になり、享保二十年(1735)には、岩村 藩領に変った。道の右側に、従是岩村領横内と書かれた傍示杭がある。 岩村藩は、美濃国岩村城を居城として、松平能登守 が、三万石の領地を有したが、五千石が駿河に数箇所ある飛び地だった。 傍示杭は、岩村藩領時代のものを復元したもの。  
{左}江戸時代の屋号 
慶長四年(1600)の開創という、慈眼寺を左手に見たが、寄らずに歩いた。 この集落は、町興しの一環として、民家の前に当時 の屋号を書いている。 仲町には、右に入ったところに年貢米を保管した郷倉があった、とある。 その先の橋場町の右に 入ったあたりに、岩村藩の横内陣屋があった。 享保二十年(1735)、岩村藩の松平乗賢が、幕府の老中に出世したため、駿河 に五千石の領地を受け、駿河領十五ヶ村を治める役所として、陣屋を設けた。 百三十五年  
{左}横内あげんだい
間、十四代の代官が支配したが、年貢率が他藩より低く、温情ある治世を行った、とある。 橋の手前に横内地区の案内板があり、 横内あげんだい と、表示された、かがり火入れのようなものがあった。 朝比奈川に架かる横内橋は、江戸時代には、長さ 三十二間、幅三間の板橋で、幕府が掛替えを行った、という。 橋を渡ると、川除地蔵を祀った小さな祠があった。  その先の道は狭い道であるが、県道81号線で、そのまま進むと、松並木が見えてきた。   
{左}従是西田中領の傍示石
国道1号線に合流すると、目の前が仮宿交差点で、横断歩道橋を使って、左斜め前方の道に入った。 階段で、広幡小学校の 生徒とすれちがうが、挨拶がきちんとしていて、気持がよかった。 左側の松の木の先にある大きな石柱は、田中領の傍示石 である。 従是西田中領と刻まれていて、ここが、田中藩と岩村藩領との境目だったようである。  駿河田中藩は、藤枝宿東方の田中城を居城にしていたが、藩主は、譜代大名で幕閣に近い ため、幕府が出来た前半     
{左}鬼島集落
は、大坂城代、駿府城代などの交代の度に頻繁に替わった。 その後、上野国沼田から入った本多正矩が藩主になってからは、本多 家のまま、明治維新を迎えている。 この先は鬼島集落で、二、三分も歩くと、国道1号線へ合流してしまった。 左側に 中古車を展示している店があり、その前の道路標識には、藤枝市八幡と、表示されていたが、その先で、国道を別れ、左の道 へ入る。 少し歩くと、右側の民家の前に松並木が現れ、その先の左側の木立の下には、
{左} 八幡橋
お地蔵様が祀られていた。 道は、その先で、右にカーブしていく。 黄梨川にかかる八幡橋を渡るが、岡部 宿の境を出て、四十分以上経過したことになる。 右の川沿いの道が東海道で、真っ直ぐの道は、元和弐年(1616)、徳川家康が 狩りの帰路、立ち寄って食べたてんぷらがもとで亡くなった、という話が残る田中城への道で、御成街道と呼ばれていた。  川のほとりにお地蔵様が祀られていた。 両側の家をきょろきょろ見ながら歩くと、左手のアパートのような建物の  
{左}県天然記念物の大楠(クスノキ) 
脇に、一里塚跡の標柱があった。 鬼島一里塚は江戸から四十九里目である。 左側の家の庭に、東海道鬼島の建場と書かれた 石碑が建っていたが、鬼島は、岡部宿と藤枝宿の中間にあたるので、立場茶屋があったのだろう。 その先に、鳥居と常夜燈が あるが、横目で見ながら通り過ぎると、前方の右側に、鬱蒼とした森の中に」あるのは須賀神社で、森のように見えたのは 根回り15.2m、樹高は23.7mの堂々たる大木で、県の天然記念物に指定されている  
{左}松並木 
一本の楠だった。 その先は区画整理をしているのか、少し地形が変わっていた。 正面にはカーマホームセンターと静鉄ストアが見える。  右側に松並木が見えるので、そちらに向かうと、蛇柳如意輪観世音菩薩の石柱があり、史跡鐙ヶ淵と観音堂の説明板があった が、時間がないので、そのまま進む。  水守交差点はやや複雑だが、左側の道を歩くと国道1号線に合流した。 東海道は、 その先で、国道1号線と別れて、左側に入る道を行く。 ここには、横断歩道
{左}藤枝宿東の木戸跡
がないため、車を警戒しながら、道路を渡った。 水守交差点を越えて、二百メートルほど歩くと、右側に松並木が現れる。  その先の右側に、成田山新護寺があるが、このあたりが、江戸時代の藤枝宿の江戸側の入口、東の木戸があったところである 。 既に十六時を過ぎていた。 藤枝宿は問題ないが、当初の予定の島田宿までは無理だろう。  区切りが良い藤枝駅で終えることにしよう。
{左} サッカーボールの形をした街燈
藤枝宿は、多くの街道が分岐する交通の要衝として栄えた。 宿場の家数は千六十一軒、宿内人口は四千四百人以上だった、と いうから、かなり大きな宿場町だった。 島田信用金庫を過ぎると、商店の数も、飛躍的に増えてきた。  頭上には、サッカーのまち ふじえだ と書かれ、サッカーボールの形をした街燈が並んで立っていた。  江戸時代の宿場は、さわやか通りという、ネーミングをつけた商店街に、姿を変えていた。  成田山から十分ほど歩くと、本町三丁目
{左}本町三丁目交差点
の信号交差点に到着した。  江戸時代には、交差点の左側に、大手木戸があり、その先に、田中城があったようである。  バス停に、藤枝大手の表示があるのは、ここから左側の地名が田中城の大手だからだろう。  交差点を越えた右側に、本町交番があり、隣に下伝馬会館がある。 境内には、大きな藤枝市の観光案内板と江戸時代後期に 造られた、大きな秋葉常夜塔がある。 また、公民館の奥には、大黒天が祀られている社(やしろ)があった。   
{左}サッカーの絵
道の反対側には、養命寺があり、延命地蔵菩薩が祀られている地蔵堂があった。 江戸時代の町の名前は伝馬町で、寺の付近に、伝馬を扱う問屋場があったが、その跡は 確認できなかった。 次の商店街は、白子名店街で、藤の里 ふじえだ がキャッチフレーズになっている。 店のシャーター には地元小学校の生徒のサッカーの絵が描かれていた。 徳川家康ゆかりの町 天正十四年(1586)八月十六日 白子町誕生 と の案内があるが、この町の成立には家康が 
{左}白子名店街 
係わっている。 「 伊勢国(三重県)白子出身の孫三という人が興した町ということで、白子町という名が付いているが、町の 誕生には本能寺の変が係わっている。 本能寺の変で、信長が暗殺されたとき、徳川家康も上方に行っていた。 信長が殺され たことを知った家康は、ただちにその地を離れて、鈴鹿を越えて、伊勢国白子の浜にたどり着いた。 舟を出し、家康を知多の 浜に送り、静岡まで送っていったのが、孫三である。 
{左}蓮生寺
孫三は、白子に帰ることが出来きなくなり、そのままこの地に土着することになったが、家康は、助けられた恩に応え、彼が 住む白子町には宿場に課せられた荷役を免除する旨の朱印状を下賜したので、この町は、御朱印のおかげで、荷役を負担しない で、明治を迎えた。 」 とあった。  信号交差点を越えると、長楽寺商店街である。 ここにある長楽寺が町名になった。  やがて、右側にある熊谷山蓮生寺の前に出た。 蓮生寺は、熊谷直実が出家した後の  
{左}夢舞台東海道 長楽寺町の道標
蓮生法師からの命名で、出家後の直実が、ここにあった屋敷に立ち寄ったのが起源、とあった。 山門は、文化八年(1811)、 田中藩主の本多正意が寄進したものである。 寺の脇には、火防安全と書かれた階段付きの大きな秋葉山常夜燈が建ち、 その前に、夢舞台東海道 長楽寺町の道標があり、島田宿境まで二里九町(8.8km)と、あった。 その先は、ちとせ通りと、 名を変えた。 民家の一角に、秋葉山常夜燈が建っていたが、江戸時代の町名は吹屋町なので、
  
{左}大慶寺 久遠の松
吹屋町の常夜燈だろうか?? 次は、上伝馬町 商店街である。 これまで色々なところを訪れたが、二キロほどの距離に、これだけ多くの商店街があったという記憶はない。  左手の路地に松が見え、右側の家の壁に、大慶寺・久遠の松とある。 大慶寺は、田中藩藩主の祈願寺で、この寺の二十五メートルの松は、久遠の松と呼ばれ、今から七百年前、日蓮上人が自ら植
{左}藤枝宿の浮世絵
えた、と伝えられる。 上伝馬町には、隣の川原町との境に近いところに、下本陣と上本陣と呼ばれる二つの本陣があった。  藤枝宿の浮世絵に問屋場が描かれているが、本陣の隣あたりに、下の問屋場があったようである。 その絵が、店のシャッター に再現されていた。 脇本陣がなかったのは、徳川親藩の田中藩の城下町ということで、参勤交代の大名達が、藤枝宿に泊まる ことを敬遠した、ということだろう。 正定寺は、江戸時代の川原町にある。   
{左}本願の松
本堂の前のクロマツは、本願の松と呼ばれ、享保十一年(1730)、藩主の本多頼稔が、大阪城代になった のを記念して寄進したものである。 樹高六メートル三十センチ、枝張り東西十一メートル五十センチ、南北十四メートルもある、姿が美しい松だった  (右写真) この先は、藤枝宿の西の木戸があったところで、瀬戸川にかかる勝草橋を渡ると、藤枝宿は終わりになる。



     

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