東 海 道


藤枝宿から島田宿 




{左}勝草橋
丸子宿から岡部宿を経て、藤枝宿のはずれまできた。 瀬戸川にかかる勝草橋を渡ると、藤枝宿ともお別れである。  当初の予定では島田宿まで行く予定だったが、既に十七時を過ぎており、島田宿までまだ八キロ以上あるので、無理だろう。  藤枝宿の西の木戸は、川原町の瀬戸川あたりにあった、とされるが、その跡はない。 ただ、弁天地蔵という名の石仏は、 祀られていた。 瀬戸川を渡る。 夕方になって、車の往来は激しくなったが、歩く人の姿はなく、時々、
{左}志太一里塚 
自転車が通り過ぎるだけ。 大きな川なのに、中央部に水溜りがあるだけで、水が全く流れていなかった。  橋を渡った右側の金網でできた柵の中に、秋葉神社の小さな社と秋葉山常夜燈、そして、東海道一里塚蹟の石柱があった。  江戸から五十番目の志太一里塚である。 ここは、公園として整備したようで、右手には、トイレやベンチなどがあった。  トイレを利用し、また、歩き始めると、右側に本陣と書いた看板の八百屋があった。  
{左}為善館跡の石柱
その先の駐車場の一角に、為善館跡の石柱があり、説明板には、「 このあたりは旧志太村で、為善館は、明治六年に創設され た学校で、志太村、南新屋村、水上村、稲川村、瀬古村が学区になり、授業が進められたが、明治二十三年に青島尋常小学校が 創立され、閉館になった。 建物も、明治四十三年の瀬戸川大水害で流失した。 」 、とあった。 蒲焼直売店丸天本 店があったが、道の反対を歩いていたので、そのまま歩いた。 
{左}松並木
すると、松並木が現れてきた。 その先で、小さないながわはしを渡る。 その先の民家の前に、岡野繁蔵出生地の碑が あったが、岡野繁蔵は、戦前、裸一貫でインドネシアで商売を始め、南洋のデパート王と呼ばれるようになった。 また、 インドネシアから持ち帰った古陶磁を、昭和十七年に、日本橋の百貨店で展示会を催し、好評を得ており、そちらの分野では、 有名な人物である。   
{左}青木交差点
歩き続けると、また、松並木があり、その先は五叉路の青木交差点。 左右は国道1号線、右から二番目の細い道が東海道である。  時計を見ると十七時半、無理は禁物と、藤枝駅に向かうことにした。   歩いて行くとやはり交差点で、国道1号線と交錯する青木交差点である。 藤枝駅へは直進する。  ここから藤枝駅までの家並みは、比較的新しい感じであるが、駅前はちゃんとした商店街になっていて、藤枝宿の商店街より、 活気に満ち溢れる感じがした。   
{左}藤枝駅
前回時間配分を間違えて、藤枝駅で終わったので、今回は駅からスタート。  東海道の青木交差点までは、駅前の道を北に向かうが、一キロ以上あったので、けっこう遠く感じた。  青木交差点で、左斜めの狭い道に入るが、東海道は、ここから一里山交差点まで、残っている。  その先の民家の前には、津島神社があった。 このあたりは、南新屋地区であるが、歩いて行くと、道は右にカーブ、その左側に、西友があった。  その先に、信号交差点があり、左右
{左}瀬戸新屋 松並木
の大きな道を横切ると、そこからは、瀬戸新屋地区に変り、松並木が現れた。  歩いていくと、交差点を二つ越えたあたりの道の左側に、田中藩傍示石蹟の石柱があった。 前回歩いた藤枝宿 鬼島集落で 見た傍示石は、従是西田中領と刻まれた本物だったが、ここにあった傍示石はなく、あったことを示す標柱だけが建っていた。  ここにあったのは、 従是東田中領と刻まれた、掛川藩との境界を示すものである。  田中藩の傍示石は、田中藩主、本多正意が、家臣の書の達人、藪崎彦八郎に書かせたもので、その見事さは、旅で訪れた文人達を驚かせたと、
{左}鏡池堂(六地蔵堂) 
いう。 松並木が残る道を進むと、県道上青島焼津線に合流する手前の左側に、鏡池堂(六地蔵堂)がある。 お堂の軒下には、渡辺 崋山の揮毫と伝わる額が掲げられていた。 道の脇のお堂には、駿河国百地蔵の一つである六地蔵が祀られていた。 また、 県道に合流する一隅には、道路を背にして、一面に六地蔵が彫り出された石像が祀られていた。 背後には、双像道祖神(?) とすっかり風化した古い石像が建っていた。    
{右側下}古東海道跡の石柱 
五十メートルほど先の、右側の小道に、古東海道跡の石柱があった。 傍らの案内には、 「 少し上りの畑の畦道くらいの 狭い道が、江戸時代以前の東海道、といい、ここから瀬戸山の上を通り、内瀬戸の集落を通っていた。 江戸時代に入り、 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。 」 、とあった。 
{左側中央}東海道追分の石柱
少し歩くと、左側にある狭い道の入口に、東海道追分の石柱を見つけた。 傍らの案内によると、 「 瀬戸新屋や 水上は、池や湿地が多い所だったので、東海道が、六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからといい、それまでの 東海道は、この碑から東へ竜太寺をまわり、前島境で、初倉からの道と合して、南新屋(五叉路)へ通っていた。 東海道 が、瀬戸新屋を通るようになってから、この古道と分かれる角を追分と呼ぶようになった。 」 
{左} 庚申塔
と書かれていた。 そのまま歩いて行くと、青島小学校前で、松並木は残っていたが、周りは最近建てられた家ばかりである。  歩いて行くと、右手奥に、ゴルフ練習場が見える。 練習場の外垣の一角を右に入るとお堂があり、お地蔵様が祀られていて、 その右側には庚申塔があった。 右側にあるのは、江戸時代の人の墓らしい。 
{左}染飯(そめいい)茶屋蹟
街道に戻り、十メートル歩くと、右側のスズキの店前に、染飯茶屋蹟と書かれた石柱が立っていた。 染飯は、強飯(こわめし) をクチナシの汁で染め、すりつぶして薄く小判型にしたもの。 クチナシは、疲労回復にも効くといわれ、旅の携帯食として 重宝されていた。 弥次さん喜多さんも食べたといわれ、瀬戸の茶屋名物になっていたものである。 傍らの説明板によると、
「  瀬戸の染飯は、東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から、尾根の茶店で売り始め  
{右側下}瀬戸の染飯版木の木柱
た、といわれ、天正十年(1582)の信長公記に、その名が記されている。  東海道が瀬戸新屋を通るようになっても、ここの 茶店で江戸時代の終り頃まで売られていた。 」  と、あった。  道の反対側には、市指定文化財 瀬戸の染飯版木の木柱が立ち、染飯を売る時の包み紙に押した版木が石野家に残っている、と あった。 
小道を挟んだ反対側には、千貫堤の案内板があり、「 寛永十二年(1635)田中藩主となった
{中央奥}千貫堤   
水野忠善が領内を大井川の洪水から守るため、下青島の無縁寺の山裾から本宮山まで、約三百六十メートルに亘り、高さ 三メートル六十センチ、幅二メートル九十 センチの堤防を、千貫もの労銀を投じて造成したもので、千貫堤と呼ばれた。  昭和の土地改良事業でほとんどが消えたが、今も、石野家の南側に四十メートルほど残っている。 」、あった。  小道を入った左側の農家の生垣が、千貫堤の名残りだろうか?    
{左}田中藩領傍示石蹟
街道に戻ると、道の右側に、明治の学制発布後最初の公立小学校、育生舎跡の石碑があった。  その先でまた、松並木が現れ たが、枝ぶりが貧弱なので、西日が強いと日除けにはならない。 少し歩くと、左側に、田中藩領傍示石蹟の石柱があった。  ここは、旧上青島村だが、田中藩領は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接していたようで、その境界を示した傍示石で、従是 西田中領と書かれた高さ三メートル程の石柱だったようである。       
{左}上青島の松並木
上青島に入ると、松並木が残る中を進むが、ここの松は枝ぶりもよく、東海道に相応しい堂々としてものである。  道のすぐ左に、東海道本線が見えた。 酒樽が積まれているなあ!と、脇をみると杉玉が吊るされている。 右奥を見ると、 喜久酔という名が工場にカ書かれていた。 三軒屋のバス停を過ぎると、道は右にカーブする。  道は狭い上、歩道がないので、車が来ると怖い。 やがて瀬戸橋を渡る。 橋を渡った右側奥に、立派な祠があるので、入っていって覗く
{左}秋葉山常夜燈
と、秋葉山のお札と石製の秋葉山常夜燈が入っていた。 また、明治天皇が休憩したことを示す小休止跡の石碑も建っていた。  ここから先も、松並木が残っていた。  二百メートル程歩くと、左側の道路側溝の先に、県が建てた夢舞台東海道 藤枝市上青島の一里塚 の道標があり、藤枝宿境から一里五町、島田宿境まで二十九町(3.2km)と書かれていた。  江戸から五十一番目の一里塚である。 ところが、隣の駐車場との境に、東海道(上青島)一里塚趾の石柱 
{左}一里山信号交差点
を発見。 それには、一里塚は、南約十メートル道路東とあり、円形にして、約百二十平米 と、あった。 この方が正しいのだろう。  三百メートルほど歩くと、右側に、紳士服のあおやまが見えてきて、一里山信号交差点で、 東海道は、国道1号線と合流してしまった。 国道に入ってすぐ、右側のエネオスを越えると、島田市になる。   国道の表示206kmにも、島田市と書かれている。 道説島東交差点を過ぎ、左側の島田信金を横目で見ながら、通り過ぎる。   
{左}JR六合駅前
やがて、六合の交番が左側に見えてくる。 交番の先にコンビニが見えたので、道を反対側に渡り、コンビニに入る。  コンビニの中は涼しく、心地よいので、しばしの休憩をとる。 東海道は、JR六合駅前の横断歩道橋の手前で、 右側の狭い道に入る。 ここから北は阿知ヶ谷である。 少し歩くと、島田工業高校前のバス停がある。 車は人もほとんど 通らない静かな道だった。 五百メートルほどで旧道は終わった。  
{左}栃山橋
道説島交差点で、国道1号線と合流するが、左側を歩くと、三角形になった緑地帯に、夢舞台東海道 島田市道悦島 の道標が あった。 その先の左側にある、茶の一言商店の前に、昭和天皇御巡察之處という石柱が建っていた。 明治天皇の石柱は多い が、昭和天皇のは少ない。 大津谷川にかかる栃山橋を渡る。 この橋が、江戸時代の道悦島村と島田宿の境だったようである。       
{左}栃山土橋の案内板
橋を渡ると、左側の民家の前に栃山土橋の案内板があり、「 この川は、島田川とも呼ばれていたが、享保三年(1803)の道説島 田宿書上書によると、長さ十七間(36.6m)、横幅三間(5.4m)の土橋で、橋杭には三本立て七組で支えていた。 土橋とは、 板橋の上に柴(しば)を敷き、その上に土を盛ったものである。 」 と、書かれていた。 
{左}監物(けんもつ)川
少し歩くと、横断歩道橋があり、その下に小さな川が流れていた。 寛永十二年(1635)、島田宿は、田中藩の預り所となった。  田中藩主、水野監物忠善は、栃山川以東の水不足に対応するため、灌漑用水路を造ることを計画し、島田宿南(横井)に水門を 設けて、大井川の水を取り込み、栃山川まで水路を開削して、流すようにした。 この水路を感謝の気持を込め、農民は監物川 と呼び、東海道に架かる幅三間、長さ二間の土橋を監物橋と呼んだ。      
{左}御仮屋信号交差点の道標
少し歩くと、道が二つに分かれる、御仮屋信号交差点に出る。 、東海道は、左側の直進の道、国道1号は右にカーブしていく 。 交差点の少し手前の国道の左側の草むらの中に、夢舞台東海道 島田市島田宿 の道標があった。 金谷宿境まで三十三町 (3.6km)と、ある。 国道と別れ、新しい住宅が建ち並ぶ道を歩いて行くと、右側奥に、島田商業高校があった。  信号交差点を越えた左側に、島田信金七丁目支店がある。 その前に、夢舞台東海道 島田宿の
 
{左}島田宿一里塚趾
二つ目の道標があった。 信金の角を左折すると、八百メートル先に蓬莱橋がある。 明治に架けられたもののようだが、 ギネスに登録されている世界一長い有料木橋である。  商店街をそのまま進んで行くと、本通り6丁目の右側歩道に、 江戸から五十二里の島田宿一里塚趾の石柱があった。 説明板には、「 天和年間(1681〜1684)に描かれた最古の東海道絵図の 中で江戸から五十里と記され、北側の塚しか描かれていない。 幕末の島田宿並井両裏通家別
{左}刀匠島田顕彰碑
取調帳に巾五間二尺で北側のみ、榎の木が植えられていた。 」 とあった。 左側の閉店したジャスコの入っていたビルの 前に、刀の刃先をイメージした刀匠島田顕彰碑があった。 室町時代初期、助宗や義助という刀鍛冶がいて、この一門は代々 同じ名前を踏襲して明治に至るまで高い評価を得ていたとあり、このあたりに義助屋敷があった、という。  天保十四年の島田宿は、総家数千四百六十一軒、宿内人口六千七百二十七人で、三島宿より大きかった。   
{左}問屋場跡碑
島田宿が盛況を極めたのは他でもない。 大井川の渡しがあったためで、 宿内に、男三千四百人、女三千三百二十七人がいた が、男子は川渡人足、女子は島田女郎で代表される稼業に従事していた。   その先には、問屋場跡の石碑があった。 問屋場の建物は、間口五間半(約10m)奥行五間(9.1m) で、常備人足を百三十六人、伝馬百匹を常備したが、その内、人足三十人と馬二十匹は 特別に備えた予備だった。 また、飛脚(御継飛脚)が十人常駐し、昼夜    
{左}からくり時計塔
交代で、御状箱を継ぎ送っていた。 そのまま歩くと、本通五丁目の交差点を越えたお店の前の小さな庭に、日本最初の私設天文台のあったところという、モダンな形をした石碑が建っていた。  このあたりは、都市整備事業で、すっかり様相を変えている ので、以前に訪れた方はびっくりするだろう。 少し先の右側に入ったところに、帯祭りの奴が踊り出すからくり時計塔がある。  ここは、下本陣の置塩藤四郎家があったところである。 島田宿には、本陣が三軒
{左}おび通り(?)
あり、京側上本陣の村松九郎治、中本陣の大久保新右衛門、そして、ここに下本陣があったのである。  なお、島田宿には脇本陣はなく、旅籠は四十八軒あった。 時計塔の通り(おび通り?)を奥に向って歩いて行く。  その先に車道が現れるが、それを横断すると、御陣屋の説明板があり、その先には神社があった。  島田宿は天領(幕府領)で、一時期、田中藩の預かり地などになったことはあるが、大部分は、幕府から派遣された代官により管理されていた。 
{左}御陣屋稲生神社
から府中城主、徳川頼宣の代官、長谷川藤兵衛長親が、元和弐年(1616)に建てた屋敷が始まりで、その子、藤兵衛長勝が、 寛永十九年(1642)に、幕府の代官職に任命された時、屋敷を御陣屋として、その後、明治まで続いた。  陣屋の北西(いぬい)の堤上にあったのが、御陣屋稲生神社で、陣屋の屋敷神として祀られ、年一回の祭礼には、宿民にも開放され賑わった、とある。  先程の街道まで戻り、西に向かって歩くと、信号交差点を越えた右側の天野屋の角  
{左}塚本如舟邸趾
に、本陣跡の石柱があるが、中本陣の大久保新右衛門宅の跡である。  道の左側の静岡銀行の前には、俳聖芭蕉翁遺跡、塚本如舟邸趾の碑がある。 塚本如舟は通称孫兵衛といい、文禄頃、島田で庄屋を務めた名家で、俳人でもあった。  松尾芭蕉は元禄四年十月、如舟の家を初めて訪れ、次の句を詠んだ。 
「  宿かりて 名を名のらする 時雨かな  」  「  馬方は しらじ時雨の 大井川  」  
{左}上本陣・村松九郎治邸跡
更に、元禄七年五月、彼が最後の旅になる旅の途中、如舟邸に立ち寄り、大井川の 川止めで四日間逗留した。 この時は、  「  さみだれの 雲吹きおとせ 大井川  」  「  ちさはまだ 青葉ながらに なすび汁  」 などを詠んでいる。  道の右側のホテル三布袋の前に本陣跡の石柱があるが、ここが上本陣の村松九郎治邸跡だろう。  その先の本通り2丁目交差点を左に行くと、JR島田駅である。    
{左}芭蕉句碑
交差点手前右側の島田信金の角に、 「 するがぢや  はなたち花も  ちゃのにほい  」 という、芭蕉の句碑 がある。 2丁目交差点を越えて、更に進むと、本通り1丁目交差点に出る。 左側の角に、石柱の道標があるが、風化して いて、よく読めないが、そこには、 「 東 六合村境まで十八町十六間 青島町に至る 西 大井川渡船場迄二十四町六間  川根に通ず 南 島田駅迄一町 第一街青年会 」 と、書かれているらしい。 交差点を越えて、西に向かう
{左}道中飛脚燈籠
と、右側に、大井神社の鳥居と社叢が見えてきた。 江戸時代には、大井神社が島田宿のはずれ だった。 大井神社の鳥居前の燈籠は、飛脚たちが、道中の無事を祈って奉納した道中飛脚燈籠である。  鳥居前から続く石垣は、川越人足たちが、毎日仕事後に、河原から一つずつ石を持ち帰って、積み上げたものである。  境内には、正徳三年(二百八十年前)に、神輿が渡るために造られた石の太鼓橋や使用した帯を供養して納める帯塚などがある。 
  
{左}帯祭り
大井神社は、明治に入ると政府の命令で、この地区にあった全ての神社が合祀されたが、島田大祭の帯祭りは、 元禄八年から始まった神事で、島田へ嫁いだ女性が氏子になったという報告と安産祈願で大井神社に詣でるときに、晴れ着 で、町内を披露して歩いたのが始まりで、やがて、男たちが代理で、嫁入り道具の帯を飾って練り歩く、というものである。   その先には、帯祭りの姿をした写真撮影用のボードがあったので、どんなものかは推測できた。    
{左}大井神社拝殿
燈籠が続く回廊を歩くと、大井明神と大きく書かれた額がある拝殿に出た。  大井神社の由来には、 「 大井神社は、貞観七年、授駿河国正六位上大井神と、三代実録に記載の見える古社である。 昔、 大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に、御守護を祈るべく、大井神社を創建 した。 幾たびかの御遷座の後、 島田宿が、東海道五十三次の要衝として、宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、 元禄八年より、 
{左}大奴像
御しんこいの神事が始まり、下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、日本三奇祭、帯祭と讃えられる ようになった。 」、とある。  大井神社は、島田宿の氏神として尊崇された他、大井川川越の公家、大名、一般人が、 大井川渡渉の安全を祈願する為に立ち寄り、深く信仰されたのである。  拝殿の奥の本殿は、文久三年(1863)の造営で、名彫物師といわれた立川昌敬の彫刻が各所に刻まれている、とあったが、覗きこんでも見えなかった。  拝殿を後にすると、清水祓いの神井戸があり、その左には、大奴像があった。 
{左}宗長庵趾碑と三つの句碑
これで、島田宿は終わるが、島田駅前の公衆トイレの前に、宗長庵趾碑と三つの句碑がある。 元禄年間(1688〜1704)に、 島田宿の俳人、塚本如舟が、宗長の昔を慕い、宗長庵を営み、雅人たちと諷詠を楽しんでいたところで、元禄七年に、松尾 芭蕉も訪れている。 
一番右にあるのは、宗長句碑で、
「 遠江国、 国の山 ちかき所の 千句に こゑやけふ はつ蔵山の ほととぎす 」    
{左}芭蕉句碑
と、書かれている。 真中は、芭蕉翁を慕う漢文碑である。 その左は、芭蕉さみだれ古碑であるが、 「 (さみ−欠)たれの (雲ー欠)吹きおとせ 大井川 」 というように、上の部分は欠落していた。 
(注) その後、島田駅を訪れた時には、島田駅前交番から左は工事中で、これらの石碑はなくなっていた。  工事後、もとに戻されたのだろうか??     



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!