東 海 道
日坂宿から掛川宿
{左}古宮橋
今日は島田から金谷宿、日坂宿を経て、掛川まで歩く予定で、朝早く出発したが、途中で道を間違えたため、時間をロスした ので、少しペースを上げないといけないだろう。 日坂宿出口の逆川に架かる古宮橋を渡ると、日坂宿も終わる。 左側の民家の前に、書家成瀬大域出生之地碑があった。 成瀬大域は、文政十年(1817)の生まれ、明治天皇に書を献上し、 楠正成愛用と伝えられる硯を賜ったことから、賜硯堂という号を持つという人物らしい。
{左}若宮神社の鳥居と秋庭山常夜燈
右側に、若宮神社の木の鳥居と秋庭山常夜燈がある。 草むらに、夢舞台東海道 日坂宿宿場口の道標があり、掛川まで 6.7kmと、あった。 東海道はその先で、国道1号に合流してしまった。 東海道は、ここから掛川宿まで、一部、旧道の 残るところもあるが、ほとんどは国道を歩かねばならない。 目の前に見える横断歩道橋の左側は小高くなっているが、そこに は事任八幡宮がある。 道を渡る為の横断歩道橋があるので、それを使って反対側に出た。
{左}事任(ことのまま)八幡宮
事任は、ことのままと読む神社で、境内を進むと、大きな鳥居の先に石段があり、登ると社殿があった。 神社の創建時期は 定かではないが、延喜式神名帳にある、己等乃麻知神社がこの神社で、現在の祭神の中の玉依姫命が、己等乃麻知比売命と 考えられる。 そういうことから、古い神社であることは間違いない。 社伝によると、 大同弐年(807年)、坂上田村麻呂が 東征の折、桓武天皇の勅命により、北側の本宮山から現在地へ遷座させた、と伝えられる。
{左}事任八幡宮境内
境内は、樹齢千年といわれる杉の大木など、鬱蒼した樹木に囲まれていた。 康平五年(1062)、源頼義が京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請したのちは、日坂八幡宮や八幡神社と称された。 徳川幕府は朱印高百石余りを献上している。 清少納言の枕草子に、 「 社は、ことのままの明神いとたのもし 」 とあり、鎌倉時代にここを通った阿仏尼も、十六夜日記で、 「 ことのままとかやいふ社のほど、もみじいとおもしろし 」 と、記しているので、
{左}雌鯨山(めくじらやま)
京都まで知られる存在になっていたようである。 江戸時代に入ると、東海道の道筋にあり、難所、小夜の中山の 西側の麓にあることと、神社名が、願い事が意のままに叶うという意味を持つことから、旅の安全や願い事成就を祈るため、 大名を始め、多くの旅人が立ち寄り、かなり賑わった、といわれる。 街道に戻り、しばらく国道を歩くと、国道1号のバイ パスが見えてくる。 国道1号のバイパスの向こうに見えるのは、雌鯨山である。 古来、雄鯨山と雌鯨山が一対で
{左}塩井神社鳥居
有名になっていたが、雄鯨山(おくじらやま)は農地事業で削られ、今は畑になっていた。 バイパスを越えると、二又の道になるが、左側の県道250号線が、東海道で、道の左側に、夢舞台東海道 塩井川原の道標が建っていた。 道の左手には、逆川が流れている。 その先には、塩井神社の木の鳥居がある。 鳥居は道に面しているが、社殿は石段を下り、川を渡った向こう側にあった。 道は右にカーブするが、このあたりは古い家が多く残っていた。 右側の
{左} 嵐牛美術館
塀がある屋敷の前に、俳人伊藤嵐牛翁出生地の碑があった。 伊藤嵐牛は、幕末、遠州で活躍した芭蕉の流れを汲む俳人で、鶴田卓池に入門し、浜松から静岡まで、三百余人の門人を養成した俳人である。 子孫の方が倉を改造して美術館にしているようであった。 その先の東名高速道路菊川入口の表示の下に、福天権現大○とある古い石碑があった。 石碑は途中で折られたのか、金具が嵌められていて、下の方がコンクリに埋まって、○の部分が読めなかっ
{左}伊達方一里塚跡
たが、裏には、寛保二 日坂町連・・・、 とあった。 三十メートル程先に、伊達方一里塚がある。 江戸から 五十五番目の一里塚であるが、明治三十三年に取り壊されたのを平成七年に復元したものである。 そこから百五十メートル ほどで国道1号に合流した。 国道を歩くと、伊達方幼稚園前で、左に入る細い道があるが、これが旧東海道である。 少し 歩くと、諏訪神社という古い神社の前を通り、白子観音を通り過ぎると、国道1号に再合流した。
{左}本村橋
国道を黙々歩くと、左側に、夢舞台東海道 本所 と書かれた道標があり、掛川宿まで一里三町(約4.4km)とあったので、掛川宿の入口まで、まだ一里以上ある。 国道には車がびゆうびゆうと通り過ぎていくところで、古い家もなく見るべき史跡もない。 国道に入って、約二十分程、歩いたところに本村橋があった。 本村橋の交差点で、国道と別れて、左の道に入る。 ここからは、県道37号線である。 左側に、庚申塔の祠があり、右側に、夢舞台東海道 成滝 の道標
{左}夢舞台東海道 成滝 の道標
があり、掛川までは二十町(2.2km)となった。 あと一踏ん張りである。 西山口小学校を過ぎた掛川農協西山口支所前に、大頭龍大権現 福天権現 従是川崎道行程六里、 従是大頭龍大権現 福天大権現、と書かれた古い道標があった。 川崎道とは、掛川宿から川崎湊(現在の静波町)へ行く道。 また、大頭龍権現は、菊川町加茂にある大頭龍神社のことだろう。 福天権現は、同町西方の龍雲寺境内にある。 逆川に架かる馬喰橋を渡る。 ここは、江戸から
{左}JR掛川駅
五十六番目の葛川一里塚があったところで、それを示す標柱がある。 そのまま歩いて行くと、歩くに比例して、民家や商店が増えてきた。 道が狭くなったところが掛川宿の江戸側の入口である。 途中で迷ったこともあり、掛川にはかなり暗くなって入った が、なんとか、掛川宿に到着した。 その足で、JR掛川駅へ行き、満足な気分で、自宅へ帰った。 前半の坂道はともかく、日坂から掛川の国道は固い感じで、足底が痛み大変だった。
{左}掛川宿江戸側入口(?)
JR掛川駅から前回終えたところまで戻り、今日の旅を始める。 掛川は、宿場町であると同時に、城下町だったので、江戸 側入口には、新町七曲がりと呼ばれる鉤型(曲手)が設けられた。 資料によると、葛川村と宿場の新町の間に橋があり、 門があった、とあるが、それに該当するのは、県道が狭くなったところで、小さな川があり、橋があるところだろう。 しかし、 それを示す表示板などはなかった。 とにかく、七曲りはここから始まった。
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{左}秋葉山常夜燈
道を左折をして、細い道に入ると、右側に東伝寺があり、そのまま進むと正面に、モダンな建物の進学予備校がある。 その 手前を右折し、百十五メートル進むと、民家の前に建つ秋葉山常夜燈に突き当たる。 ここで左折し、五十五メートル進むと、 L字形になり、突き当たりはかねも茶工場である。 ここを右折し、百六十メートル歩くと、また、L字形になる。 ここを、 右折すると、正面に、案内板がちらと見え、左折する道が見えてくる。
{左}掛川宿東番所跡 道標
案内板は五十五メートル先にあり、この枡形が、七曲がりの終点である。 江戸時代には、木戸と番所が置かれ、宿場に出入り する人を監視していた。 現在は、夢舞台東海道 掛川宿東番所跡と、書かれた道標が建っている。 手前の右側には、塩の道 の道標があり、右菊川町、左森町とある。 塩の道は、相良町を起点とするが、大須賀町から御前崎町に至る横須賀街道 (海の東海道と呼ばれる)と接している。
{左}山崎デイリーストア前の十字路
道を進むと、県道に再び出るので、ここで左折し、少し先の左側にある山崎デイリーストア前の十字路を右折する。 大通りに 出たら、左折するが、このあたりは、江戸時代には札の辻と呼ばれたところである。 掛川宿は、家数九百六十軒、宿内人口 三千三百四十三人で、本陣二軒、旅籠は三十軒あった、という。 その先に、問屋があったようであるが、跡形もないし、 表示もなかった。 仁藤信号交差点を越えると、連雀商店街である。
{左}掛川城大手門
白壁の建物で、町並みを統一しようとしているようで、右側の掛川信用金庫も例外ではなかった。 古地図では、信用金庫の あたりに、ご馳走場があり、その先に本陣、そして、脇本陣 (本陣)、中町に入ると、左側に問屋があり、その先に脇本陣 (本陣)があった、とされるが、これらがどこにあったかは、表示がないので、分らなかった。 宿場探索をあきらめて、 信用金庫まで戻ると、大手通りと書いた幟があり、その奥に掛川城の城門が見えたので向かった。
{左}掛川城大手門番所
掛川城大手門をくぐると、正面に掛川城大手門番所と書かれた建物があった。 傍らの案内板には、「 江戸時代、大手門を 入ると、番所があり、城に出入りする人を厳重に監視していた。 嘉永七年(安政元年-1854)十一月四日の安政東海地震で倒壊 したが、安政六年(1859)に再建した。 明治初年、静岡藩士、土谷庄右衛門が居住用に譲り受け、別の場所に移されたが、市 が寄贈を受けた後、元の場所に移転させ、併せて、大手門も復元した。 」、 と、あった。
{左}掛川城の外濠
左側の赤い幟がはためくのは、大手郭の構内に祀られていた三光稲荷。 広い道の右側に、逆川が流れていて、掛川城の石垣が築かれていて、掛川城の勇壮な城郭が遠望できた。 掛川城は、室町時代中期の文明年間(1469〜1487)に、守護大名、今川義忠が、朝比奈泰煕に命じて、築城したと、伝えられる。 永禄十一年(1568)の今川氏と徳川家康の戦いで、徳川氏のものになり、城代として、家康の重臣、石川家成、康通親子が入った。 武田信玄が、
{左}掛川城
掛川城に近い牧之原台地に諏訪原城を築き、更に、掛川城の南方の高天神城では、武田と徳川両氏間の激しい攻防戦の舞台と なったが、掛川城は武田氏の手には落ちず、徳川氏の領有であり続けた。 天正十八年(1590)、家康の関東移封に伴い、 豊臣秀吉は、家康への備えとして、忠誠心の強い山内一豊を掛川城に入れた。 一豊は、城の大幅な拡張を実施し、石垣、瓦葺 の建築物、天守など近世城郭としての体裁を整えたのである。 一豊は土佐一国を貰って
{左}二の丸御殿
掛川を去ると、家康の異父弟、久松定勝が城主になったが、その後、城主は次から次へと替わった。 城は嘉永七年(1854)の 安政東海地震により、天守閣を含め、損壊してしまった。 国の重要文化財に指定されている二の丸御殿は、文久元年(1861) までに再建されたが、天守は、平成六年(1994)の四月に再建したものである。 街道に戻る。 交差点角の清水銀行は、民家の ような造りで、袖看板も江戸風である。
{左}円満寺 蕗の門
交差点を越えて、西に進むと右側に円満寺の山門がある。 これは、掛川城蕗の門と言われるものである。 内堀(蓮池)の ほとりに建てられていた掛川城の四脚門で、大手門、仁藤門などと二の丸につながる道筋にあったので、小さいが重要な門だ った。 掛川城が、明治維新により、明治五年(1872)に廃城となると、寺が買い取りここに移された際、柱の下を二尺五寸 (約76cm)切り取って山門にした、と伝えられる。
{左}東光寺山門
掛川信金を過ぎて少し行くと、道が二股に分かれるので、右の道を行く。 交差点から少し先の右側の山門脇に、秋葉常夜燈 と成田山遥拝所と刻まれた石碑が建っている。 山門をくぐって入って行くと、医王山東光寺という小さな寺がある。 養老年間(720年代)に、僧の行基により開基された真言宗の草庵で、天慶の乱(940)後、将門等の首級をこの地に葬った時、 将門の念仏仏である薬師如来を寺の本尊として草庵に祀り、平将寺を建立した。
{左}東光寺 不動堂
天文年間(1530年代)に曹洞宗に改宗し、東光寺になった。 その後、兵火で燃失したが、慶応三年(1867)に、一堂を建てたのが 現在の建物である。 千葉県の成田山新勝寺が将門を祀る寺であることから、明治十年、新勝寺より不動明王の霊を勧請し、 寺の東側に不動堂を建立し、遠州で唯一の遥拝所となった、というものである。 この地、十九首地区には、 平将門にまつわる伝説が残っている。
{左}十九首(じゅうくしょ)塚
寺の墓地を抜けた先に広場に、十九首塚があった。 平将門の乱を平定した藤原秀郷は、将門ら十九人の首級をもって、東海道 を上るが、朝廷の派遣した勅使がこの地で首実検を行い、賊徒の首を都に近づけてはならない、という朝廷の命令を伝えたの で、秀郷はその首をこの地に埋葬し、十九基の塚を作った、というものである。 昔は十九基あったが、時代を経て減ってゆ き、将門のものと思われる大きな一基だけが残された、とされる。
{左}逆川橋
平将門の乱は、地方豪族の叛乱と歴史教科書で教わってきたが、これまでの公家政治に風穴を開け、平家、源氏などの武士の 台頭に貢献したとの評価もあるようである。 街道に戻ったところに、十九首塚50mの標識があった。 少し歩くと、道は右側から来た道に合流し、逆川橋が架かっていたが、掛川宿はここで終わりになる。
貴方は
目のゲストです!!