東 海 道


掛川宿から袋井宿 




{左}秋葉街道(塩街道)との追分
掛川宿のはずれの逆川橋を渡り、袋井宿に向かう。  逆川橋を渡るとすぐに、信号交差点の二瀬川交差点に出る。 ここは、 江戸時代、東海道と秋葉街道(塩街道)との追分だった。 秋葉街道は、火伏せの神様の秋葉山に行く道であるが、それと同時に 遠州相良などの 塩を信濃国飯田や塩尻に運ぶ道であった。 東海道は、交差点を左折して、国道1号を行くが、日本橋から 二百三十キロの標識があった。 
{左}掛川の名物は葛布(くずふ) 
道の右側に、数軒の古い家が残るなかに、○○織物の看板があった。 江戸時代の掛川の名物は、鎌倉時代から作ら れ、江戸時代には袴などの生地に使われた、葛布である。 今でも、数軒の織元が残っている。 隣からは、焙煎の においがしてきたので、看板を見ると茶製造とあった。 十九首でも同じ香りがしていたが、掛川には焙煎作業を行う茶製造業 者が多いのである。 五百メートル程歩くと、倉真川に架かる大池橋がある。 江戸時代には、長さ二十九間
{左}大池橋
(約52m)、巾三間一尺(約5.7m)余りの土橋だった。 東海道を東から来て、この橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居と両側 に常夜燈が建てられていて、秋葉街道の入口であることを示していた。 秋葉山はここから九里(約35km)余りのと ころにあり、秋葉山権現の社が祀られている大登山秋葉(しゅうよう)寺という、曹洞宗の寺である。 戦国の頃、武田信玄に 寺院が焼かれたとき、観音堂だけは棟の上から水が流れていて、燃失を免れたことから、火伏せの神と
{左}秋葉神社の末社
して庶民の信仰を集めようになった。 常夜燈は明和六年(1769)に、鳥居は安永九年(1780)に建てられたが、嘉永七年 (1854)の大地震で倒壊、その後、鳥居も木造に建替えられた。  橋を渡ると、大池橋信号交差点で、道は、四つに分かれてい る。 右前方の道を少し入ったところに、秋葉神社の末社があることから、秋葉通りと呼ばれているが、入って行くと赤い鳥居 の奥に瓦屋根の拝殿があり、その先に小さな社があった。   
{左}夢舞台東海道の道標
鳥居の横には、大きな秋葉神社道の道標と、右あきは道、大池村とある小さな道標があった。 大池橋交差点に戻り、 川に沿った道に入ると、夢舞台東海道の道標があり、掛川宿の西境まで十三町、袋井宿まで一里三十五町と表示されていた。  この道は東海道で、この先、袋井までのほとんどの区間で残っている。 少し歩くと、鳥居町信号交差点があり、道の向 こうに天竜浜名湖鉄道(旧JR二股線)のガードが見えた。 ガードをくぐると土手の左側に西掛川駅が      
{左}大池一里塚跡
あった。 しばらく道なりに進む。 道の両脇には家が立ち並ぶが古い家は見当たらない。 白山神社と屋台置場を右に見て 進むと、宗心寺というかなり大きな寺があった。 その先、少し行ったところには津島神社があった。 しばらく歩くと、左側 に一乗山蓮祐寺という古い寺があり、その前に、夢舞台東海道 大池一里塚跡 の道標があった。 松並木が見えてきた。  すこし歩くと、道は右にカーブし、少し上りになった。 松並木が終わると歩道がなくなった。 
{左}造り酒屋
歩道がないのに、車は多く走るので、怖い。 三叉路の左には橋が架かり、逆川が流れている。 右側の細沢公会堂の先で、 道は左にカーブしていく。  右側に高い煙突が見え、近づくと銘酒曽代鶴とあり、醸造元柴田酒店とあった。 やがて沢田 I.C南の信号交差点に出る。 正面の国道1号線の高架をくぐると、沢田I.C北の信号交差点があるので、ここを左折。  歩道はあるが、右側は田畑が広がる道である。   
{左}掛川聖書バプテスト教会 
少し行くと、右に入る道があり、県道253号線の標識がある。 両側が民家になり、右側に原川公会堂(公民館)があった。   交差点を越え、東名高速のガードをくぐると、岡津集落で、家が少なくなった。 左側に、掛川聖書バプテスト教会の白い 建物があった。 松の木が数本あるところで、右にカーブし、垂木川に架かる善光寺橋を渡る。 少し下ると、右手に善光寺 如来の石柱があり、石段を登ると仲道寺があった。 寺の案内には、「 善光寺如来が祀られ、   
{左}仲道寺 
坂上田村麿の守り本尊と伝えられる阿弥陀如来が納められている。 」 と、あった。  左側のお堂に、善光寺如来の石柱があったので、このお堂に祀られていると思い覗いたが、御簾の扉は閉じられていた。  その先には、松並木が広がっているが、原川の松並木と呼ばれる。  松並木の両脇は畑で、両側見通しがとてもよく、左側の遙かに、国道1号、右彼方に、東名高速が見える。 松の下で座って、持参したお弁当を食べた。  しばし休憩の後、また歩き始める。 
{左}金西寺
松並木のはずれに、従是北和田岡村と書かれた道標があった。  この辺りは、旧原川村で、掛川宿から一里十八町(約6km)、 袋井宿から三十三町(約3.6km)の位置にあったので、間(あい)の宿になっていたところである。 少し先の左側に、 古いお寺があったので、入ると境内には多くの石仏石碑があった。 南泉山金西寺という寺で、本尊の薬師瑠璃光如来は、 元禄時代に近くの池で発見されたものである。 「 土中から掘り起こすことができず、雨が降ると笠
{左} 同心橋
をかぶせたことから、笠薬師と呼ばれた。 霊験あらたかと評判になり、それに供える薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ねていた。  文化文政頃の集落の戸数は、四十六軒を数えた。 」と、紹介されていた。 道が右にカーブすると、国道1号に合流した。  地下道をくぐって、道路の反対側に出て右折し、原野谷川に架かる同心橋を渡ると、袋井市になった。  左に降りる道があるので、下っていくと右側に、名栗花茣蓙公園があったので中に入ると、従是西
{左}可垂三尺坊大権現道標と常夜燈
東海道 御本躰 可垂三尺坊大権現 と、刻まれた大きな道標と常夜燈があった。  可垂三尺坊大権現とは、この北西にある秋葉総本殿 萬松山可睡斎のことである。  可睡斎は、応永年間(西暦1394年)頃、大路一遵が、久野城主、久野宗隆の援助を受けて開いた、と伝えている曹洞宗の寺で、 明治六年に、秋葉山から三尺坊大権現の御真躰を遷座し、日本唯一の御真躰をお祀する火防霊場として、秋葉総本殿三尺坊大権現鎮座道場と呼ばれるようになった。  隣の秋葉常夜燈は櫓の形をしている珍しいものである。 東海道はここから袋井までほとんど残って  
{左}花ござを売る
いる。 少し行くと、名栗のバス停があった。 十辺舎一九の道中膝栗毛に、 「 掛川城下を西に一里十丁 原川薬師は参拝し 軒を連ねた通りを過ぎ 瀬川を渡れば 早名栗 松並木を西に見て 立場 茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓 (一部省略) 名物の花ござを売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が珍しいと買って行く  」 と、あり、名栗は花茣蓙が名物だったようである。 
{左}国本の松並木
その先から、松並木が本格的に始まった。  先程までの松並木と違い、土塁の上に立っていて、松の木が大変大きい。  歩道は右側だけにあるだけなので、左側から写真を撮る際は車道に出ないと駄目。 また、工場地帯になっていて、時々排水路 の関係で、歩道が途切れるので、注意しながら歩く。 大和ハウスの工場を過ぎたところで、右側の道端に、大きな赤鳥居が 忽然と現れた。 松並木の入口からここまで、結構距離があった。 
{左}富士浅間神社の赤鳥居
赤鳥居は、北方にある富士浅間神社の鳥居である。 江戸時代には、参道が、ここから真直ぐ本殿まで続いていたが、鳥居と 本殿の間に、国道や高速道路が建設され、工場もできて、赤い鳥居だけが取り残されてしまった、という訳である。 延亨三年 (1746)の東海道巡覧記に、「 右浅間道有。 むかしは鳥居有。 今ハ松木有。 鳥居松と云 」 と、あるので、延亨三年当時 は、この鳥居はなかったので、その後、再建されたもの、と思われる。       
{左}富士浅間神社
鳥居縄手、浅間神社本殿まで八百メートルの案内板があったので、立ち寄ることにした。 途中、国道との交差点に、コンビニ があった。 その先の高速道路のガードをくぐり、神社の石段を登ると、国の重要文化財に指定されている本殿があった。  この神社は、大同年間(806〜810)、坂上田村麻呂が、富士浅間神社より分霊を移したのに始まる。 本殿には、天正十八 年(1590)の棟札があり、桃山中期の三間(縦横とも4.1m)流造り、檜皮葺きである。   
{左}久津部(くつべ)一里塚跡
参拝後、赤い鳥居まで戻り、街道を歩く。 松並木が続く道は狭く、蛇行している。 七百メートルほど歩くと、左手奥に、 妙日寺がある。 正慶元年(1332)に開山した日蓮宗の古刹で、日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族の貫名氏の邸宅跡と いわれる。 また、日蓮の両親を顕彰する妙日尊儀、妙連尊儀供養塔は、柳生但馬守の寄進と伝えられている。 その先の 袋井東小学校の敷地内に、久津部一里塚の復元ミニチュアがあった。 また、道の反対の民家の前には久津部一里塚跡の 石柱があった。   
{左}久津部 秋葉山常夜燈
久津部一里塚は、江戸から丁度六十里にあたり、明治時代までは老松が生えていた、とある。 右側に大きな秋葉山常夜燈が 建っていた。 少し歩くと、右に行く道の脇に、小さな八幡入口道標があった。  その先には、あぶら山寺みちと書かれた 道標が、地面に埋まるような形で建っていた。 油山寺(同市村松)はこの北方にある寺で、重要文化財 指定の山門と三重塔 がある寺である。   
{左}七ツ森神社
信号交差点を渡ると、松並木が再び始まり、しばらく行くと、右側に、和食めん処サガミがあり、その先に、七ツ森神社が ある。 言い伝えでは、桓武天皇の頃、日坂に出没する怪鳥を退治するために派遣された七人の武士が、返り討ちにあい、 この地の田圃の中に葬られた、という。 昔は七つの塚があったが、塚はひとつも現存しない。 三叉路の右側に松並木の 案内板があり、その近くに従是油山道の道標がある。 文化十一年(1828)に再建されたものといい、
{左}新屋秋葉常夜燈
この道を油山道という。 また、道の向かいの民家の花壇に、三尺坊大権現の大きな道標があった。 松並木は途絶え、しばら く行くと、 夢舞台東海道 西新屋 の道標があり、その先で、県道413号線に合流した。 新屋交差点を渡り、左へ少し行く と、夢舞台東海道 東新屋 の道標がある。 白畑ふとん店の前の細い道に入ると、三叉路に新屋秋葉常夜燈が建っていた。  袋井市には、石で造った燈籠形と木造の屋形の常夜燈が、併せて、十四基残っているという。     
{左}「 これより袋井宿 」 の石柱と天橋の橋柱
新屋の常夜燈は、木造屋形であるが、彫刻が施された立派なものだった。 道を斜めに進むと、市役所前に出た。  ここにも、夢舞台東海道 市役所前の道標があり、信号を右折(七十メートル)と、あった。  橋の手前を右に曲がると、袋井宿の説明板と 「 これより袋井宿 」 の石柱、そして、天橋の橋柱だったと思えるものが、置かれていた。  天橋(阿麻橋)の説明板には、 「 袋井宿は、江戸、京のどちらから数えても、二十七番目の宿場で、五十三次のまん中
{左}広重の東海道五十三次袋井宿 出茶屋ノ図
に当たる。 宿場ができたのは、元和弐年(1616)なので、他の宿場より十五年も遅かった。 袋井宿の江戸側入口は、 土橋である天橋(阿麻橋)だった。 その様子は広重の袋井宿 出茶屋の図にある。 」 とあった。  袋井は昔、袋で囲まれたような形をしていた。 その中に田圃がひろがり、それを潤すため、井戸を掘ったことから、袋井の名が生まれた。    
{左}東海道どまん中茶屋
天橋で、道が二つに分かれるが、江戸時代には右側の道はなく、一直線で渡って行き、橋の先の土塁(土手)の向こうには高札場があった、とあるが、 東海道どまん中茶屋があるあたりだろうか? どまん中茶屋は、初代広重の袋井出茶屋ノ図をモチーフにした建物で、お茶の接待が受けられる。  江戸時代の茶屋は小屋かけにするのが普通だが、常設茶屋がない所では、出茶屋と呼ばれる茶屋が臨時開業していた。  浮世絵には、 「 榎の木の根元に、木の杭で
 
{左}白髭神社
土盛りを築き、その上にむしろを敷き、よしず張りの屋根が覆っている。 榎の枝に吊り下げたやかんを地面に置いたへっついに薪を入れて、燃やして湯を沸かす 」 という風景が描かれている。  その先は、江戸時代、枡形があったところで、その先で右に曲がっていたのだが、枡形があったという形跡は感じられなかった。  その先、右側の小路を入ると、突き当たりに、猿田彦神を祀る白髭神社があった。 袋井宿は、新町から西境の中川まで五町十五間(約570m)
{左}袋井宿東本陣公園
しかなく、東海道の宿場では一番短い。 その中に、百九十五軒が建ち、八百四十三人の人が住んでいた。  宿内には本陣が三軒、旅籠が五十軒あったというが、宿場の面影はほとんどない。 そのまま進むと、右側に、袋井宿東本陣公園があった。  袋井宿の本陣は、全て、東海道の北側にあったといい、その場所から、東、中、西本陣と呼ばれた。 東本陣は、壱番御本陣と呼び、田代八郎左衛門が営み、併せて、問屋も勤めた。  本陣の敷地は、千六十八坪、建坪   
{左}袋井宿場公園
は二百九十坪ほどだった、という。 現在の公園は、本陣の家族が住む居住部分にあたると、説明にあったので、当時はこの倍あったのだろう?!  その先に、静橋北交差点があるが、江戸時代の左右の道は狭い小路だった。 右側に進むと、観福寺があるが、 宿場の真中にあったので、へそ寺という愛称で呼ばれ、寛永八年(1631)に可睡斎の等膳和尚を招き、活峰和尚が開山した寺である。  交差点の左側には、袋井宿場公園がある。 この公園は、東海道    
{左}本町宿場公園
どまん中ふくろい を提唱する市が創ったもので、昔ながらの宿場をイメージして作られている。 交差点を越えると、本町で、 江戸時代には、右側に、中(大田)本陣があったところである。 その先の民家の駐車場に、問屋跡の木柱が建っていた。  少し先の右側に、東海道の案内板が建っていたが、このあたりに西本陣があった、という。 宿場公園からここまで、二百メ ートル位の距離だった。 その先に、本町宿場公園がある。 江戸時代には、枡形になっていたようで 
{左}袋井名物の丸凧
ある。公園には、当時を偲ばせる高札場や土塁、従是袋井宿と記された棒鼻などが再現されていた。 秋葉常夜燈もレプリカと 思っていたが、脇の案内板によると、東海道の北側にあったものだった。 交差点を渡ると、右側に袋井名物の丸凧を作って いる店があった。 宇刈川に架かる橋を渡る。  
{左}御幸橋
宇刈川は、かっては中川といったようで、橋の名も中川橋といった。 明治天皇が行幸したことから、御幸橋になっているが、 橋は常夜燈をイメージしたデザインになっていた。 橋を渡ると、川原町のバス停があり、左側に、袋井宿の浮世絵の看板が あったので、ここが袋井宿の京方入口ということだろう。 以上で、袋井宿は終わる。 



     

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