東 海 道


袋井宿から見附宿 




{左}旧澤野病院
川原町のバス停の左側に、袋井宿の浮世絵の看板があったが、ここで袋井宿ともお別れし、見附宿へ向かう。 道は右にカー ブ、そして、左にカーブしていた。 信号交差点の手前の酒屋では、地酒・どまん中を売っていた。 少し歩くと、左側に、 旧澤野病院の木造の洋風建物が現れた。 澤野家は、享保十二年(1727)には、内科医に携わっていたようで、居宅は幕末から 明治期のものだが、東海道に面する病棟と洋館は昭和初期のものらしい。  
{左}寺澤家屋敷門 
その先に、明治元年(1868)に建てた、と伝えられる寺澤家屋敷門が残る。  道の右側に、小さな社の津島神社があった。  江戸時代、このあたりは、東海道の松並木が続いていた。 幕末に御札が空から降る奇怪な出来事が起きたことから、この神社 が祀られるようになった、とある。 東海道は、川井の信号交差点で、県道413号(旧国道1号線)の広い道に合流してしまっ た。 五百メートルほど歩くと、松橋という小さな橋がある。 
{左}木原一里塚
ここには、夢舞台東海道 木原松橋と、書かれた道標があった。 東海道は、右に入る狭い道である。 道の脇に、袋井宿 浮世絵の案内板が建っていた。 細い道に入っていくと、木原集落で、右側の民家の前に、木原一里塚跡の石柱があった。  少し歩いたところに、江戸から六十一番目の木原一里塚が復元されていた。 説明には、位置はここではなく、東に六十メート ルとあるから、先程の石柱あたりにあったのが正しいようである。  
{左}許禰(こね)神社
五十メートルほど歩くと、右側に、多くの石碑が建つ許禰神社があった。 祭神は、伊弉諾命、合祀されているのは速玉 男命 、事解男命 で、大宝弐年に熊野権現を勧請したのが始めと伝えられ、永保弐年(1082)に社殿を造営、今川氏真や徳川家康 の崇敬を受け、所領を安堵され、江戸時代には、熊野社、熊野権現、木原権現などと呼ばれていた。 東海道分間延絵図には、 熊野神主木原主水、と 書かれている。 慶応四年(1868)に現社名になった。 
{左}木原畷(なわて)古戦場碑と徳川家康腰掛石
境内には、木原畷の古戦場の碑と徳川家康腰掛石があった。 元亀三年(1573)、武田信玄はここ木原西島に陣を張った。  これを知った家康の兵とこの付近で、小競り合いを繰り返した。 信玄は、やがて、二俣城を攻略し、三方ヶ原を 通過しよう としたので、徳川家康が、一万の兵で立ち向かったが、信玄の三万五千の大軍の前で、一蹴され、浜松城に逃げ帰った。 世に いう、三方ヶ原合戦であるが、木原の戦いは、 その前哨戦だった。 御神木は樹齢五百年、目通り七メートルの巨木だった。      
{左}西木橋
神社の先に、夢舞台東海道 木原 の道標があった。 さらに進むと、先程の県道と合流した。 蟹田川に架かる西木橋を渡る と、磐田市に入る。 西島信号交差点を越えると、道の右左に、家が建っているが、家の裏側は田畑である。 以前は田畑だけ だったので、浜松や磐田の産業の好調がここまで住宅化を進めたことが 窺える。 道がやや上りになり、国道1号が右側から せまってきた。 国道1号と平行して、太田川にかかる三ヶ野橋を渡る。 
{左} 三ヶ野坂
少し行くと、三ケ野IC信号交差点があり、道は三つに分かれるが、一番左の狭い道が、東海道で、夢舞台東海道 三ヶ野 の道標と松並木の説明板が建っていた。  そのまま歩くと、道が二又になり、右側は大正の道、左は明治の道とある石碑があった。  左側の明治の道を選んで歩いた行くと、かなり急な坂になった。 三ヶ野坂であるが、薄暗い。 坂を五百メートル程上ると、交差点に出た。  なお、二又で明治の道に入ってすぐ、左に登っていく自然歩道があるが、どうやら、それが江戸時代の道のようである。   
{左}三ケ野公会堂 
交差点の左側にある三ケ野公会堂の前に、明治の道の石碑、三箇野車井戸跡の石碑と従是鎌田山薬師道の道標が建っていた。  交差点の先は、五年程前には畑や茶畑で、袋井方面も見渡せたようであるが、住宅地に変わってしまっていた。  交差点を右折し、少し歩くと、右側の空地に三ケ野立場跡の標札が建っていた。  その先の両側には、古い家が並び、その先の右側は茶畑だったが、そこを過ぎると、一戸建ての家とアパートが続き、かって農家が並んで  
{左}見付の松並木 
いたとは想像しずらい。 坂を下ると、交差点があったが、直進し、坂を下ると平坦な道に変った。 その後、上りになると、 松並木の道で、左側歩道に、見付の松並木と書かれた小さな石碑が建っていた。 坂の左は崖になっていて、階段を降り、 進むと、右手に富士塚稲荷大明神の社と善導寺という寺があった。 街道に戻ると、道は右にカーブし、国道1号線と合流した。  その先の歩道橋を渡り、国道の反対側(右側)に出ると、高台に遠州 鈴ヶ森の看板が見える。  
{左}遠州鈴ヶ森刑場跡
石段を登って行くと、遠州 鈴ヶ森の看板の先に、南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が建っていた。 高台は遠州鈴ヶ森刑場跡で、大盗賊日本左衛門の首がここで晒された、と伝えられるところである。  歌舞伎狂言の白波五人男で、日本駄右衛門として登場するが、実在の人物である。  日本左衛門は、遠州金谷の生れ、美濃から相模の八か国で、五十人〜六十人の盗賊団を率いて暴れまわった、といわれる大盗賊だったが、江戸の火付け盗賊改め方に捕えられて、  
{左}三本松橋(なみだ橋)
江戸で斬首され、この地に運ばれ、晒し首になった。 階段を降り、国道を歩くが、富士見町東信号交差点の手前で、国道と 別れ、右の道に入った。 東海道を西から歩いてくると、最初に富士が見られることから、見附という名が付いたという説があ るが、富士見はそのものずばりの名前である。 その先の交差点を渡ると、小さな三本松橋があるが、江戸時代には、なみだ橋 と呼ばれた橋である。 刑場のそばになみだ橋があるのは、品川宿の場合と同じである。 
{左}見附宿木戸跡
少し歩くと、交差点があるが、そのまま直進すると、道は左右に分かれるところにでる。 道のまん中に、三本松の秋葉常夜燈 があった。 東海道は右側の道で、百メートルほどで下り坂になるが、見附宿の東側にあるから、東坂という名である。  坂の途中で、見附の景観が一部だが見られた。 少し急な坂を下っていくと、坂を下りきったところの民家の前に、見附宿木戸 跡と記された木標があり、ここから見附宿である。    
{左}愛宕神社
見附宿は、江戸から六十里二十九町、京都より六十四里二十七町のところにあるので、見附宿と浜松宿の間が、東海道のまん中 ということになる。 東海道ではない国道1号から入ってくる道脇に、見附宿の案内板があり、道の両側に、宿場の木戸をイメ ージしたモニュメントが建っていた。 二つの道を挟む愛宕山の石段を上ると、小さな社の愛宕神社が祀られていた。  神社の奥に、一里塚跡の石柱があった。 江戸から六十二番目の阿多古山一里塚跡である。    
{左}矢奈比売神社の石柱と常夜燈
江戸時代には、道の両脇にあった一里塚の間を通って、見附宿に入っていった、ということになる。 石段を降り、街道を進む と、国道の両脇にある橋の形をしたものは、当時の愛宕橋をイメージしたものである。 その先の右手に、矢奈比売神社の石柱 と常夜燈二基が建っていた。 正式名称の矢奈比売神社より、見付天神の方が有名で、見付天神社とも言われる。 神社の創建 時期は詳らかではないが、延喜式内社で、祭神は、矢奈比売命と菅原道真である。 
{左}矢奈比売(やなひめ)神社参道
国の重要無形民俗文化財に指定させている裸祭は、矢奈比売神社の神様が、神輿に移されて、遠江国の総社の淡海国玉神社へ渡御する際に行われる祭で、 旧暦八月十日直前の土、日曜日にかけて行われる。 矢奈比売神社に入る鳥居の前の道には、後押し坂と書かれていた。  大通りを歩くと、右側に、見付宿分間絵図などを表示した大きな案内板があった。 見附宿は、東木戸から東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸までの約一キロで、天保十四年の
{左}東梅塚
宿村大概帳によると、宿場の人口、三千九百三十五人、家数は千二十九軒、 旅籠は 五十六軒だった。  案内板の先にある東梅塚は、復元されたものだと思うが、菅原天神にまつわる梅の木が植えられていた。 道の反対側には、飛行家、浮田幸吉の家跡の案内があった。  浮田幸吉は、神輿に移されて、空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを研究し、日本で初めて、 空を飛んだとされる人物である。 彼は、日本で最初にグライダーを発明したと、
  
{左}大見寺
伝えられるが、その為、岡山を追われ、晩年は磐田で送った、といわれる。 中川橋を渡るとすぐの右手奥に、見附城跡といわれる大見寺がある。  徳川家康は、今川領を武田信玄と分割した際、永禄十一年十二月、見附の問屋を安堵し、翌年一月、見附城を廃して、 浜松城を築き、遠州経営の本拠とした。 その際、家康は、見附城跡を大見寺に寄進し、寺の中に、茶屋御殿を建てた。  墓地には、純法親王や浮田幸吉の墓がある。   
{左}冷酒清兵衛邸
道の反対にある路地は、江戸時代、清水小路と呼ばれた。 絵図面によると、その角に脇本陣があり、対面に問屋場があったように描かれている。  大通り交差点の手前、右側の屋敷が、御朱印船屋敷の冷酒清兵衛邸である。  冷酒清兵衛は、家康が付けたあだ名で、本当の名は、上村清兵衛、 徳川家康が見附を訪れた時、自慢の冷酒を勧めたところ、家康は、たいそう気に入って、冷酒清兵衛と呼ぶようになった。  また、巡視途中に武田軍に捕らえられそうに
{左}見附宿 北本陣跡
なり、清兵衛宅に逃げ込ん だ時、清兵衛は見附の町に火を放ち、混乱の中で家康を浜松城に逃がした、などの逸話が残っている。  大通り信号交差点を越えた右側の宗教団体支部の建物が、北本陣跡である。 天竜川は舟渡しだったので、島田の大井川と違い 、通行は楽だったが、それでも、川止めになると宿場は混雑した、という。  道を挟んだ反対側には、南本陣があったようである。 
{左}淡海国玉(おうみくにたま)神社
その先の右側に、夢舞台東海道 見附 の道標があり、右手に、常夜燈と高札場跡があった。 奥に入っていくと、右側に、裸祭りで述べた淡海国玉神社がある。  「 創祀時期は、はっきりしないが、平安時代、見附に国府があったときの遠江国総社で、延喜式の式内社である。  もとは、岩井原という地に鎮座していたが、いつのころか、現在地に遷座した。 」、と あった。 拝殿は三棟入母屋造り向拝付、幣殿は三棟入母屋造りで、両方とも文久年間の再建である。    
{左}旧見付学校
本殿は明暦年間の再建で、三間社流造である。 主祭神は大国主命だからだろうが、拝殿前の像が狛犬でなく、兎というのもめずらしい。  左側にあるのは旧見付学校である。 この建物は、現存する日本最古の洋風木造小学校校舎で、玄関はエンタシス様式に近似した飾柱を配した、三階二層建ての建物である。  明治五年に小学校として開校したが、その後は小、中、女学校、病院として使用された。 現在は、国史跡の旧見付学校の他、磐田文庫を一般公開
{左}脇本陣門
している。 なお、磐田文庫は、淡海国玉神社神官を務めた大久保忠尚が開いた私塾である。  少し歩くと、右側の空地で工事中だったが、その傍に、脇本陣門復旧工事とあったので、ここに脇本陣があったのだろうか?  その先奥まったところに、半僧坊慈恩寺という寺があったが、手前の家の蔵は三層になっているので、珍しいと思い眺めていると、 通りかかった人の話では、以前は醤油製造業だった、といわれた。 見附は、平安時代には遠江国の国府が置かれ、
{左}姫街道との追分
江戸時代には東海道の宿場町として栄え、交通の要衝として多くの物資が集まったので、多くの蔵が建っていたというが、この家以外にはみなかった。  二百メートル〜三百メートルほど歩くと、県道44号線との交差点で、東海道はここで左折し、横町に入るが、正面の細い道は姫街道といわれる道で、姫街道との追分である。  東海道の新居の関が、幕府の出鉄砲、入り女の政策により、 女性の出入りを厳しく取り締まっていたため、旅をする女性達は東海道を避  
{左}加茂川橋
け、ここから、 本坂越えの脇往還を通ったことから、姫街道と呼ばれるようになった。  左折して二百メートル程行くと、右側に東福門院・日限地蔵尊を奉安する寺があった。  日限地蔵とは、日を限って御願い事をすると願いを叶えるという地蔵尊である。  その先の加茂川に架かる加茂川橋の両側には、宿場の木戸をイメージしたモニュメントがあった。  江戸時代には、ここに西木戸があり、旅人の通行の監視を行っていたのである。 これで、見附宿は終わる。 



     

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