東 海 道


浜松宿から舞阪宿 




{左}成子交差点
伝馬町交差点をでて、右に緩くカーブする国道257号線を歩くと、成子交差点に出る。 交差点には、右折は雄踏(県道62 号線)、直進は豊橋、舞阪(国道257号線)表示されている。 東海道はここで右折し、病院の脇の細い道を行き、成子幼稚 園のある寺の前で左折し、大通りで右折し、菅原町交差点で左折するルートである。 菅原町交差点で左折し、進むと、 道の右側に、堀込ポッポ道とある小道の公園があり、大正七年(1918)に国産された軽便機関車(ケ91タ
{左}軽便機関車(ケ91タンク機関車)
ンク機関車)が展示されていた。 パチンコ屋を越え、JRの高架をくぐると、成子交差点で別れた国道257号線に合流する。  新幹線の高架をくぐると、森田町交差点 で、この通りにはデーラー(自動車販売店)が多く集まっている。 更に歩いていく と、東若松町、旧可美村。 小川に架かる橋は、平安時代の末期、浜松駅の西にある鴨江寺と比叡山延暦寺がいさかいをおこし、 比叡山の僧兵が東海道を攻め下って来た時、鴨江寺の軍兵はこのあたり一帯の水田に水
{左}鎧(よろい)橋
を張り、鎧を着てこの橋を守り固めて戦ったので、その後、鎧橋と称された橋である。 橋の北に、合戦で戦死した約千人を葬り、千塚 (血塚)と呼んだところである。 そのまま進むと、左側の八丁畷バス停の先の民家の駐車場に、一里塚跡の標柱が あった。 昔は、八丁畷と呼ばれた土手の上に松並木が続き、一里塚の榎は、街道を行く旅人の道標になっていた、という。  道が右に大きくカーブすると、二又になるが、東海道は、国道257号で、右の道を行く。
{左}二つ堂 北の御堂
交差点の右側には、村社八幡神社の石柱があり、右から順に、馬頭観音、高札場跡、二の御堂の標柱が並んでいて、その右側に、 二の御堂といわれるお堂があった。 その脇には、明治三年まで、高札場があった。 馬頭観音は、旅人や馬の安全を祈願して 祀られたものである。 松の木が大きく伸びて見づらいが、道の反対側にも、お堂がある。 左右に二つあるので、二つ堂と 呼ばれたのである。 
{左}南の御堂
二つ堂は、奥州平泉の藤原秀郷と彼の愛妾によって、天治年間(1125頃)に創建された、と伝えられる。 京に出向いている秀郷 が、大病であることを聞いた愛妾は、京に上る途中、ここで飛脚から秀郷死去の知らせをきき、その菩提を弔うため、街道の北 側に御堂を建てて、阿弥陀如来を祀った。 実は、訃報は誤りだった。 京の秀郷は病気が回復し、帰国の途中、この地に来て、 この話を聞き、愛妾への感謝の気持を込めて、南の御堂を建て、薬師如来を祀った、       
{左}八幡神社
という伝承が残る。 江戸時代の旅の案内書、東海道名所図絵には、若林二つ堂として紹介され、「 むかし奥州伊達秀衡の 室上京の時、ここに建立す。 本尊阿弥陀、薬師の二仏、長二尺五寸ばかりなり 」 と、書かれている。 道の右側の細い道 を入ると、その先に、大きな木に囲まれた、八幡神社があった。 ここから先は古い家もこれといった史跡もないので、単調な 道を延々歩くことになる。  
{左}若林の松並木
少し歩くと、若林バス停から松並木が現れてきた。 道路標識には豊橋37km、舞阪10kmとあるので、浜松宿から3km ほど歩いたことになる。 このあたりは、若林町で、少し歩くと、可美市民サービスセンターがあり、可美小学校跡の標柱が あった。 数百メートル歩くと、右側に紳士服の青山や晴山などのお店があり、町らしい感じであるが、その先の松並木が現れ たところからは、人家はなくなっていく。 左手奥に可美公園が横に長く続いているが、道の両脇は、  
{左}諏訪神社 
カントリーロード店があるだけで、車は全てただ走り去っていく。  しばらく歩くと、大永四年(1524)に、信濃国の上諏訪神社より勧請した、という諏訪神社があった。 木造の秋葉山常夜燈が 民家に一角に建っていた。 右側に可美小学校があり、ここから、増楽町になった。 その先の右側に、熊野神社があり、 境内の常夜燈の脇に、高札場跡の標木があった。   
{左}従是東濱松領の領界石
数百メートル先の右側にあるモンテカルロという名の自動車用品店の駐車場の植栽の中に、 従是東濱松領 と、書かれた領界石 があった。 江戸時代には、ここが浜松藩の松平家と堀江領の大沢家の領地の境だった。 その少し先の右側の 民家の前に、堀江領境界石の標木があったが、境界石はなかった。 雨はすっかり上がり、空は明るくなってきた。 右側に おおこうち眼科の看板の先の家前の駐車場に、高札場跡と秋葉山常夜燈跡の標柱があった。 
{左}熊野神社
そこから少し歩くと、赤い鳥居の熊野神社があった。 しばらく歩くと、高塚駅入口の交差点がある。 更に歩くと、高塚西 バス停の先で、道が左にカーブし、二又に分かれる。 道路の表示は、右が舞阪駅、篠原、左は豊橋、国道1号線とある。  東海道は右の狭い方の道を行くのである。 ここから舞阪宿の入口の新町まで約四キロであるが、国道とは違うので、交通量 はかなり少ない。   
{左}篠原一里塚跡の標札
少し歩くと、立場というバス停があり、左側には、数軒だが古い家が残っていた。 江戸時代には、このあたりに、立場茶屋が あったのだろう。 今は、普通の住宅地になっていた。 神社を過ぎると、家がたて込んできた。 右側の家の前に、篠原一 里塚跡の標札が建っていた。 東海道宿村大概帳には、 壱里塚木立 左松右榎 左右の塚共篠原村地  と、記されている一里塚で ある。 道路(県道316号)を進むにつれて、車の通行が多くなったのは、国道257号が、
{左}秋葉山常夜燈の祠
篠原ICで、国道1号になり、この道と平行して走っている影響かもしれない。 札木バス停付近の民家は、大きな家が多く、 道路に面して蔵が建っている家もあった。 東海道本線が、右から急接近してくる。 右側に、秋葉山常夜燈の祠がある。  その先にも、秋葉山常夜燈は点々と続く。 左側の小学校の前に、大きな松があり、小さな橋を渡ったところにも、松の木が 残っていた。 篠原交番の隣の愛宕神社の境内にも、秋葉山常夜燈が建っていた。      
{左}稲荷神社
坪井町北交差点を過ぎると、右手に、永享十二年(1440)、伏見稲荷より勧請した、と伝えられる稲荷神社があった。 拝殿は 天正十六年(1588)に再建された、という記録はあるようだが、現在の建物は、大正十一年の建立である。 赤い鳥居の先にある 石鳥居は、文化十三年(1616)のものである。  その先の右側の奥に入ったところの空地に、史跡引佐山大悲院観音堂聖跡の石碑 が建っていた。 東海道名所図会にも、記述がある、といい、祀られていた観音  
{左}春日神社
像は、近くの如意寺に安置されている、とあった。 バス停は馬郡観音堂となり、馬郡町に入ると、蔵を持った家が現れた。  東本徳寺を過ぎると、西本徳寺があらわれた。 両方とも日蓮宗の寺院である。 馬郡跨線橋南交差点を渡ると、道の名は、 県道49号になった。 右側のこんもりした森には、応永弐年(1395)に奈良春日大社から勧請した春日神社があった。 神社の 社殿前には、狛犬ではなく、二頭の鹿が、鎮座していた。 舞阪駅南入口交差点を越えると、 
{左}舞阪の松並木
松並木が見えてくる。 東海道の松並木は、徳川家康の命令で、慶長九年(1604)に、黒松が植えられたのが始めである。 正徳 弐年(1712)には、馬郡村の境から舞阪宿の東のはずれの見付石垣まで、八町四十間(約920m)の間に、千四百二十本植えられた 、とあり、それから四百年経過しようとする今日でも、道の両側に、ずらりと立派な松が並び、見付石垣までの七百メートル間 に、三百三十本が並んで立っている。  道の右側には、十二支の彫り物、左側には、
{左}浪乗り小僧
東海道の宿場のレリーフが置かれていた。 東海道の松並木を歩いて行くと、新町交差点の手前に、ポケットパークがあり、 浪乗り小僧のかわいい置物があり、その言い伝えが書かれていた。 新町交差点で、斜めに交差する国道1号線を渡った。  二百メートルほど行くと、道の両側に小さな石垣が現れた。 舞阪宿の入口を示す見付石垣を再現したものである。 舞阪宿 は、弘化弐年(1845)の記録によると、家数二百六十五軒、人口千二百六十四人、本陣二軒、 
  
{左}舞阪宿 見付石垣
脇本陣一軒、旅籠が二十八軒だった。 江戸時代には六尺棒を持った番人がここに立ち、宿場に出入りするものを見張ってい た、という。 なお、舞阪町は、今回の町村合併で 浜松市に吸収され、浜松市西区舞阪町になった。 二十メートル程歩いた 左側に、江戸から六十七番目の舞阪一里塚跡の石碑があるが、その手前に、正面に秋葉大権現、西面に津島牛頭天王、南面 には両皇大神宮、そして、東面には、文化十二年乙亥正月吉日と刻まれている石灯籠が  
{左}秋葉山常夜燈
建っている。 文化六年(1809)に、舞阪 宿の大半を焼く大火事があり、火防せの秋葉山信仰から、この常夜燈が設置されたもので、秋葉山だけなら普通だが、 その他に海の安全を願って、伊勢神宮や厄病退散の津島神社も加えているのは珍しい。  住民の安全と宿場を火災から守るという気持が、この地区に多い木造秋葉山常夜燈ではなく、多くの神々に願う 
{左}切妻造りの二階建ての家
石製の燈籠になったのだろう。 両脇に建つ家は、全て、切妻造りの二階建てである。  しらす干しとのりを売る店が数軒あり、その他電気屋や八百屋、米屋など数軒あるが、その他の家は商売をしている様子がない。  宝珠院の前には両皇太神宮常夜燈があった。 左側の小道の入口には、岐佐神社の矢印があった。  そのまま道を進むと、右手の民家の駐車場の一角に、本陣跡の石柱があった。 舞阪宿には、宮崎伝左右衛門と源馬徳右衛門の二軒の本陣が  
{左}脇本陣 茗荷屋住宅
あったが、源馬本陣の跡のようである。 道の反対にある立派な建物は、内部を無料公開している、舞阪宿脇本陣の茗荷屋堀江 清兵衛宅である。 主屋、繋ぎ棟と書院の三棟からなっていたが、現在残る建物は、天保九年(1838)に建てられた書院部分のみ である。 書院の庭に面した一番奥は、大名の上段の間である。 脇本陣は大名や公家、公用の幕府役人らが使用したが、利用 がない時は旅籠として営業した。 その時は、主屋の二階が客室になったという。    
{左}西町常夜燈
脇本陣から五十メートルほど歩くと、目の前が浜名湖だが、手前の左側に、夢舞台東海道 舞阪宿の道標があり、西町常夜燈が建っていた。  文化十年(1807)二月、西町の住民が建立したもので、こちらのは、正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津島牛頭天王、南面が文化十年二月吉日願主西町中、となっていた。  浜名湖は遠江と書かれたように淡水湖で、太古の東海道は陸続きで、歩けたが、明応七年(1498)の大地震と津波により、陸地部分が  
{左}今切(いまぎり)の渡しの木製常夜燈
決壊した結果、浜名湖と遠州灘がつながってしまった。 これを今切と呼ぶ。  道の反対に、木製の常夜燈があるが、今切の渡しがあったところである。 江戸時代に開設された東海道は、ここから新居宿までは船渡しとなった。  舞阪側の渡船場を雁木といい、往還より海面まで東西15間、南北二十間の石畳になっていて、階段状の船着き場になっていた。  渡船場だったところは、スロープになり、海岸にはふぐ採りの漁船が係船されていた。 
{左}国道1号バイパス橋
その奥に魚市場があったが、堤防の先には国道1号のバイパスの橋が見える。  橋のあたりの一部が、地震で海につながったのである。  新居に向かう船は、季節により変るが、関所の関係から朝一番は午前四時、夕方の最終は午後四時だった、という。  舞阪の渡し口は、三ヶ所あり、この船着場はまん中の、旅人が一番利用する本雁木で、南側に、荷物を積みおろす渡荷場があった。  
{左}北雁木(がんげ)
少し北に行くと、大名や幕府公用役人が利用した北雁木が現れた。 これは復元されたもので、入口に、大きな渡船場跡北雁木 の石柱が建ち、常夜燈が建っていた。 北雁木は、明暦三年(1657)から寛文元年(1661)にかけて、造られたもので、往還(街道) から巾十間(約8m)の石畳が水際まで、敷き詰められていた。 また、船着場にある木製の常夜燈は、渡し口が夜でもわかる ようにしたものである。 舞阪宿はここで終わりになる。   



     

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