東 海 道


白須賀宿から二川宿 




{左}旧東海道(?)
白須賀宿のはずれの笠子神社の手前で、国道42号(旧国道1号線)に合流したが、国道の右側の民家の前にある細い道が旧東海道と思えるが、左にカーブすると、無くなってしまった。  その先の信号交差点から、道は上りになり、たった二間(約四メートル)程のちいさな橋がある。 橋の下の川のは境川といい、その上に架かる橋は境橋である。  橋の先には、愛知県と豊橋市の標識、橋桁には、静岡県県境の表示があり、ここは静岡県と愛知県の県境である。
{左}境橋
江戸時代以前は、遠江(とうとうみ)と三河(みかわ)の国境だったので、太古から境界線を巡って、何度となく、戦いが繰り 広げられたところである。 たった四m弱の川であるが、国境は国の境を決めるものなので、たとえ一メートルであっても、譲 れぬものだろう。 これで延々と歩いてきた、静岡県は終わった。 静岡県は、伊豆、駿河と遠江の三つの国、からできてい た。 東海道は、伊豆の箱根宿から遠江の白須賀宿までの約四十五里(180km)で、旅人はこの区間を
{左}畑の中に立つ石仏
五日から八日かけて抜けていたのである。 川止めがあれば、更に、数日加わった。 橋を渡った左下の畑に、お地蔵様と思える 石仏が一体ぽつんと建っていた。 その先の一里山東交差点は三叉路で、左右は国道1号線である。 これまで歩いてきた 国道 42号は、かっては、国道1号線だったのであるが、潮見バイパスが開通した後、その名前を奪われた。 多くの車が、潮見バ イパスに入っていったので、名前返上はやむをえないだろう。   
{左}弁天神社
東海道は、ここから三弥町交差点先の二川ガード南までの四キロほどの区間は残っていないので、国道を歩かなければならない。  一里山の交差点のあたりは、江戸時代には立場茶屋があったところだが、民家が見られない殺伐とした所に変っていた。 少し 歩くと、右側の少し小高いところに、壊れた祠から身体を現わしている石仏があった。  よく見ると、三体の馬頭観音のよう である。 その先の小さな社を覗く込むと、津島神社、秋葉神社と書いてあった。 更に、左に目をやると、一里塚の看板があ る。 馬頭観音や津島神社があったところは、こんもり盛り
{左}細谷一里塚
上がっていたが、細谷の一里塚だったのである。 この辺りは、一里塚のことを一里山と呼ぶので、それが地名になっていた。  江戸時代には、一里塚も松並木も吉田藩の管理だったが、明治政府が一里塚を民間に払い下げた際、反対側(南側)は宅地の一部 になり、残っていた部分も大正末期には全てなくなった。 現在残る北側は、東西十一メートル、南北十四メートル、
{左}一面に広がるキャベツ畑
高さ三メートルの一里塚で、東海道に残る数少ない一里塚である。 ここから四キロの間は、国道1号をただ延々と歩き続ける ことになる。 歩いていて困るのは、向かってくる大型トラックで、粉塵を吹き付けて、去っていく。 道の両側は、畑がずー っと拡がっている。 畑の区画が大変大きく、土の色が異常なほど赤かった。  どの畑にも、キャベツだけが植えられているの だが、ここはキャベツの一大産地なのである。         
{左}神鋼電機
この先、黙々と歩く。 弥栄下、三ツ板を通り、豊清町茶屋ノ下、籠田 三弥町交差点を過ぎると、左側に大きな工場がある。 神鋼電機でそれを横目で眺めながら歩いていると、右側に新幹線が現れた。 二川ガード南交差点で右折し、国道と別れると、 ここからまた、東海道が残っている。 新幹線のガードをくぐり、梅田川に架かる筋違橋を渡り、東海道線の踏み切りを越え、 すぐ左に曲がると、町並みが見えてきた。 そこが二川宿の入口である。 
{左}二川一里塚跡
交差点を越えた右側のたばこ屋の角に、日本橋から七十二番目の二川一里塚を示す、小さな石柱が建っていた。  少し先を右折して、奥に入ると、曹洞宗の十王院という寺があるが、普通の民家と変わらない造りである。  天正十三年(1583)に、私庵として始まり、十王堂とも、念仏堂とも、称せられた寺院である。  境内には、寛永十九年(1632)に建てられた、二川新町開山の石碑がある。 碑文には、後藤源右衛門は、二川宿開宿当時の本陣と問屋を勤めた人物で、   
{左}芭蕉の紫陽花塚 
この寺を開いた一翁善得は、その祖である、ということが書かれていた。  道の右側に、南無妙法蓮華経と書かれた大きな石碑は、日蓮宗の妙泉寺の入口である。 山門をくぐると、紫陽花塚呼ばれる、芭蕉の句碑があった。  寛政十年(1798)建立の句碑には、
 「  阿ちさゐや  藪を小庭の  別座敷  」 という句が刻まれている。  街道に戻ると、東海道は昔のままの狭い道なのに、思ったより多くの車が入ってきて、又、出てゆく。   
{左}秋葉山常夜燈
車が怖いという感じがするのだが、地元の人達はこれをなんとも思わず、普通のように生活しているのが、不思議に思えた。  街道の右手に、白壁に囲まれた二川八幡神社の鳥居があった。  二川八幡神社は、 永仁三年(1195)に、鶴岡八幡宮より勧請し、創建された、と伝えられる神社である。  境内の秋葉山常夜燈は、二川新橋の枡形南にあったものを移転したもので、文化六年(1809)の建立である。  毎年八月十日に行われる湯立神事は、幕府から薪が下付   
{左}東駒屋
され、幕府役人をはじめ、多くの人々が集まり、賑わったという(現在は十月に行われるようである)  道の両脇には、間口が狭く奥行の古い宿場特有の建物が、ところどころに残り、風情のある風景を演出している。  小さな橋を越えて歩いて行くと、二川宿の江戸側入口である鉤型の右側に、歴史を感じる古い建物があった。 江戸時代から、 味噌やたまり醤油を造ってきた商家で、現在でも赤味噌を製造販売している東駒屋である。 その先のシキシマショップ  
{左}二川宿 東問屋跡
のところに、東問屋跡の小さな石柱が建っている。 二川宿は、慶長六年(1601)の東海道開設と 同時に設けられた宿場だが、問屋を二川村だけで負担するには、小さな村なため、隣の大岩村と共同して行うよう、幕府は決め たが、大岩村と一キロ強(1.3km)も離れていたため、しばらくすると、問屋(人馬継立業)の荷役業務を負担しきれなくなった。  幕府は、正保元年(1644)、二川村を西に、大岩村を東に移動させて、両村を接近させ、大岩村を
{左}二川宿 脇本陣跡
二川宿の加宿とし、大岩町に問屋を設けた。 これが西の問屋といわれるもので、二川宿のは東問屋と呼ばれた。 その先の民 家の小さな庭の一角に、脇本陣跡という案内板があった。 脇本陣の建物は間口七間(約13m)、奥行十九間(約35m)で、畳 数は九十三畳あった、といい、脇本陣の仕事を松坂家が務めていたが、それ以前は、本陣がここにあったのである。 少し歩く と、豊橋市二川宿本陣資料館がある(400円、9時30分~16時30分、月休) 
{左}二川宿本陣
江戸時代、公家、大名、幕府役人などが、旅の途中、宿泊休憩した専用施設を本陣というが、現存するものは少なく、東海道で は、ここと草津宿のみである。 本陣は、馬場彦十郎が文化四年(1807)から明治三年(1870)の本陣廃止まで、現在地で、務めた。  本陣の持ち主、馬場家から市が寄贈を受け、現存部分の改修と明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を行い、江戸時代の 姿を復活したもので、文化年間の間取図によると、間口十七間半(約32m)、     
{左}二川宿本陣 上段の間
敷地は五百二十五坪(約1733㎡)、建坪は百八十一坪余(約598㎡)と、門、玄関、上段の間を備えた堂々たる建物。 その後も 増改築が行われ、安政弐年(1855)には、総坪数二百三十三坪半となり、最も整備された状態になった。 残っているのは、文化 四年、本陣開設時に建築した玄関棟と表門、享保年間建築の土蔵、宝暦三年(1753)建築の主屋である。 上段の間、風呂や厠は、 壊された書院棟を復元した時に作ったものだろう。   
{左}旅籠 清明屋
本陣内は、家人が住む主屋と大名が泊まる書院棟に別れていた。 大名が泊まる際、本陣は部屋を貸すだけで何もしない。  料理やその他一切の雑事は、大名が連れてきた料理人などが行ったのである。 本陣と隣に旅籠の建物があった。 旅籠 清明屋 は、寛文年間(1789~1801)頃開業し、代々八郎兵衛と名乗っていた。 現存する建物は、文化十四年(1817)に建てられたもので、 主屋、繋ぎの間、奥座敷で構成されている。 中に入ると、右側の板の間の前で、旅人が草鞋を脱ぐところを再現していた。  本陣の隣に建っていたことから、大名行列
{左}二川宿京方入口
の際、家老や上級武士が泊まったようである。 二川宿は六町三十六間(約700m)、加宿の大岩町は五町四十間(約600m)の長 さで、この辺りが両者のほぼ中間に位置した。 天保十四年(1843)に、旅籠は三十八軒あったが、本陣の周りに多くあった。  街道を少し歩くと、左カーブする左側の小さな社の前に、石灯籠、二川町道路元標と高札場跡の石碑があった。 江戸時代には、 高札場があり、前述した二川八幡神社境内の常夜燈も道の両脇にあり、二川宿の西の入口になっていた。 この場所がへこんで いるのは、鉤型のなごりである。  
{左}大岩寺 石仏群
ここから、加宿の大岩町に入る。 道を右折して、奥に入って行くと、大岩寺がある。 大岩寺は、曹洞宗で、千手観音が御本 尊、以前は岩屋山麓にあって、岩屋観音に奉仕した六坊の一つだったが、正保元年(1644)、二川宿移転とともに現在地に移った。  境内の一角に、馬頭観音などの石仏群が祀られていた。 高さ三十三センチの黄金燈籠一対、狩野派の手法で馬が描かれた 絵馬四枚と岩屋堂観音経は、吉田城主、池田輝政の曾孫で、岡山藩主、池田網政  
{左}二川宿 西の問屋跡
が、元禄~宝永にかけて、岩屋観音へ寄進奉納したものである。 街道に戻ると、右側の民家の前に、西問屋場跡の石柱が建っ ていた。 江戸時代、大岩町にあった西の問屋場跡である。 連子格子の家の隣の家に目がいき、気がつかないで通り過ぎると ころだった。 その先の四差路の左側の交番の前に、郷倉跡の石碑があった。     
{左}大岩神明宮
右側に入って行くと、突き当たりに、大岩神明宮がある。 神明宮は、文武天皇弐年(698)に、岩屋山南に勧請したのが、始めと いわれ、保延元年(1135)、大岩村が本郷に移転したときに遷座し、その後も、大岩村の移転とともに遷座し、正保元年(1644)に 現在地にきた。 境内には、寛延四年(1751)の燈籠、文化四年(1807)の秋葉山常夜燈、文政六年(1823)の手水鉢がある。 境内 は広く、樹木は大きく育っていて、社殿も歴史ある雰囲気のものだった。
{左}立場茶屋跡
街道に戻ると、左側のおざきという店の前に、立場茶屋跡の石碑があった。 少し歩くと、左手に、JR二川駅が見えた。 駅 が二川宿と離れた大岩町側におかれたため、宿場周辺の開発は進まず、古い町並が残ったのだろう。 四時前なので、無理すれ ば吉田宿にいけるのだが、車を置いた新居の駐車場が五時間迄なので、今日の新居宿からの旅はここで終る。 この後、二川駅 から新居まで電車で戻り、乗ってきた車で帰宅した。



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!