東 海 道


二川宿から吉田宿 




{左}JR二川駅
今日は、二川駅から吉田宿を経て御油宿まで歩く予定である。 明治維新後、東海道沿いに鉄道が敷設された際には、二川駅は なかったのであるが、鉄道の便利さを認識した地元住民が請願運動を行なった結果、二川宿と加宿大岩町の中間地点のこの場所 に設置されたのである。 二川宿の東海道は、道が狭い上、歩道もないのだが、国道を避けた車が押し寄せてきて、危険であ る。 車は歩行者を気にせず、ビュービュー飛ばしていった。  
{左}伊良湖阿志両神社道標
二川駅を出た左側に、正面には伊良湖阿志両神社、右側には右東海道豊橋一里半、と書かれた道標があった。  伊良湖阿志両神社とは、渥美半島の突端にある伊良湖神社と田原市芦町にある、式内社の阿志神社のことである。  道はカーブし、火打坂交差点に出るが、直進し火打坂を上っていくのが東海道で、左折すると、岩屋観音への道である。 江戸時代の旅行案内
{左}火打坂交差点
の東海道名所図絵に、 「 亀見山窟堂(きけんざん、いわやどう)と号す。 ・・・ 大巌、堂後にあり、高さ八丈、幅廿丈余、岩形亀に似たり。  故に山号とす。 」  と、あるところで、大きな岩山の上に、観音像が立っているのが遠くからも見える。  折角の機会なので、寄ってみることにした。 右側に見える高いところが岩屋緑地の展望台で、その下に豊橋市地下資源館の建
{左}大師堂
物と緑地公園がある。 少し歩くと、岩屋緑地で、岩屋観音の入口になる。 右側に入るとすぐ、石碑が建っているが、ここから上り坂になり、歩くに比例して、傾斜が急になった。  そのまま上って行くと、岩山が 見えてきた。 駐車場の先に、赤い幟がひらめき、弘法大師を祀る大師堂があった。  その手前に道標があり、左よし田、右ふた川と刻まれていた。 大師堂の周りには、数多くの石仏が祀られている。  左に目を移すと、手前の左の建物は朱印帳受付で、  
{左}岩屋観音堂
奥に観音堂があった。 岩屋観音堂は、僧行基が、天平弐年(730)の諸国巡行の際、十一面千手観音像を刻んで、岩穴に安置して 開いた、と伝えられるもので、 亀見山観音堂とか、岩屋堂とか、呼ばれていたようである。 当堂は、真言宗の寺院だったが、 明治以降、二川宿にある大岩寺の境外仏堂となっているので、現在は曹洞宗の寺院ということになる。 また、三河三十三ヶ所 巡礼の二番札所になっているので、大師堂の御参りの方が観音堂より多いようである。      
{左}窟(いわや)のなかの石仏群
お堂の右側の窟の前にあった一対の常夜燈には、夜燈と書かれ、年号は文化酉子秋八月とあり、吉田連とあった。 窟のなかに、 石仏がいくつか祀られていたが、行基が最初に祀ったのもこうした石仏の一つだったのではないかと、思った。 窟は、直立五 十メートルもある大岩で、その岩の上に、聖観音像が祀られている。 東海道名所図絵に、「 岩頭に銅像の正観音を安ず。 明和弐年 (1765)、江戸谷中より寄進す。 遠境より鮮にみゆる  」  と、あるのがそれ 
{左}聖観音像
である。 窟の先から上に登れる道を苦労しながら登っていくと、大岩の頂(いただき)に、聖観音像が祀られていた。 吉田 大橋の架け替え工事を請け負った、江戸下谷の大工の茂平と善右衛門が、難工事で困り果て、観音堂 に参籠し、霊夢により、 難工事を完成させた。 そのお礼として、明和弐年(1765)、下谷講中が寄進した九尺六寸(約2.9m)の大きな観音像である。  吉田の俳人、木朶(もくだ)は、 「 霞む日に  海道一の  たち仏  」 、と詠んだ。 
釈光行は 「 君が代は かずは知られぬ さざれ石の みな大岩んぽ 山となるまで 」 と、  
{左}火打坂
富士紀行の中で、詠んでいる。  第二次大戦での金属供出で、この観音像は失われてしまった。 現在のは、昭和二十五年 (1950)に地元の寄進により再建されたものである。 大岩の上に建つ観音像は大変美しい姿だった。  また、ここは豊橋市が一 望できる展望台でもある。 東海道に戻り、火打坂を上る。 昔の火打坂は薄暗くて物騒なので、火打石で提灯に火を点さなけ ればならなかった、とあるが、道の右側に、東海道と書かれた標識がある以外は普通の    
{左}高師口のクロマツ 
道である。 坂を登りきり、しばらく進むと、大きな園芸屋の角に信号があるが、大岩町北交差点で、この三叉路は左に曲がる。  対向二車線の道で、歩道帯も付いている。 しばらくいくと、左側に、ヤマハ音楽教室の看板の建物があり、松の木が見える  。 高師口の旧東海道のクロマツといわれるもので、樹齢は壱百年以上、高さは十一メートル五十センチ、幹周りは二メートル 三十四センチである。 昔は沢山あったのだろうが、今や一本になってしまっている。 
{左}豊橋岩屋郵便局の三叉路
それにしても、これだけ素敵な枝振りの松はそうあるものではない。  本当に凄い。 歩いていくと、左からくる少し太い道と 合流する三叉路に出た。 道の左側には豊橋岩屋郵便局があった。 この道を左折したところにある岩屋交差点の国道の取り付 け部分には、旧東海道・岩屋堂道という案内板があった。 これによると、「 火打坂からの東海道は、坂の途中から園芸店の 敷地を通っていたようで、区画整理により、通れなくなった。 」 とあり、ぐるーと遠回り
{左} 飯村(いむれ)町東川(飯村南2丁目)
させられた感じがした。 合流した道を歩く。 この道が東海道で、国道1号と平行して続いている。  最初は対向二車線なのに、右側の東京庵飯村店という蕎麦屋いくころには、対向一車線にかわり、しかも、歩道帯は片側にしかないのに、 道の左右から車が入ってきて、また、出て行くという、二川宿で見た光景が再現されていた。  飯村町東川の交差点を越えると、道は、更に、狭くなり、車線区分がなくなり、道に白線を引って、歩道帯にしている。  安心して歩け 
{左}殿田橋
るのは、側溝のブロックの上だけである。  右側に、永禄十一年(1568)に始まったといわれる、日暁山清晨寺という寺があるが、本堂は質素というか、民家の大きなものというような感じだった。  その先に、二軒茶屋こども公園と、素朴な字で書かれた、空き地があった。  そのまま進むと、道は左にカーブし、左側に、連子格子の家が現れると、柳生川に架かる殿田橋になる。  江戸時代には、殿田橋を渡った先の交差点のあたりに、飯村一里塚があったようで  
{左}円六橋付近
ある。 東海道は国道1号線に合流し、しばらくの間は、単調な国道を歩かなければならない。  右側にセガワールドがある。 その後は東三輪、山中橋を渡り、三の輪町、伝馬町、そして円六橋と続く。  豊橋は、豊川に架けられた橋の名から、今橋といっていたが、 池田輝政が城主となった天正十八年(1590)以降、縁起のよい吉の文字を取り入れて、吉田に変えられたのである。  明治維新時に、豊橋と名を変えたが、昭和二十年六月の空襲で、死者六百二十四名、
{左}寿泉禅寺の大きな石門
燃失した家屋は一万六千八百六十六軒の 被害を受け、それまでの町並はほとんど焼失し、消えてしまった。 山中橋までは、比較的新しい家が多いのに対し、伝馬町 から先は、戦後すぐ建てたと思われる壊れかけた家が残っていた。 瓦町の交差点角に、寿泉禅寺の大きな石門がそびえ立ち、 門前には延命地蔵の石碑が建っていた。 その先の右側に、不動院幼稚園、そして、願成寺がある。  
{左}西新町(同新町)交差点
江戸時代の東海道は、元新町(現在の東新町)で、鉤型になっていて、ここで左折し、一本目の道を右折し、突 き当たったところを右折し、西新町(江戸時代は 新町)交差点に出た。 その先が東八町だが、交差点の北東角に、文化弐年 (1805)に住民達の手で建てられたという秋葉山常夜燈が建っている。 江戸時代には、その先に、吉田城の東総門があり、門番 が監視していたが、現在は、四差路の信号交差点で、地形が変り、その痕跡は分からなかったが、      
{左}東八町交差点
それに近い歩きをしようとすると、東八町交差点で左折し、一つ目の道(対面に東海道の矢印がある)を目指し て、車道を横断する。 但し、ここは横断歩道も信号もないが、渡ったら、右折して、東八町交差点に出る。 左に、東総門の ミニチュアが置かれているが、交差点を左折して、国道に出て、一本目の道を左折する と、鍛治町である。   
{左}そば屋のある四差路
続いて、二本目の道を右折すると、そのまま、曲尺手(かねんて)町と続く。 曲尺手とは、このように曲がりくねった道のこと をいう。 くすのき通りの交差点北側の道路分離帯に、曲尺手門跡の石碑が建っている。 くすのき通りを渡り、そのまま道を 直進し、そば屋のある四差路を左折する。 このように、鉤型が多いのは、吉田宿が東海道の中では、大きな宿場の一つだった と同時に、豊川の流れに接して築城された吉田城を有する城下町だったことにある。     
{左}ヴィジェアルスタジオマリエ
すると、三叉路に出て、正面にあるヴィジェアルスタジオマリエの建物に突き当たる。  東海道の右折する矢印の標識があり、ここを右折すると、呉服町、江戸時代の宿場の中心地に入っていく。  吉田宿は、二川宿から六キロ、御油宿へ十キロ強の距離にあり、宿内人口は五千二百七十七人、家数は千二百九十三軒で、 本陣は二軒、脇本陣は一軒、旅籠は六十五軒だった。  本陣跡に向かう途中の右側にあるガソリンスタンドが、高札場の跡である。 そこには、大手通  
{左}大手門跡の標柱
り商店街の袖看板があるが、道の左側に、豊橋市道路元標があった。 右側には、大手門跡と書かれた小さな標柱が建っていたが、吉田城の大手門のあったところである。  以前は、その先に吉田城祉が、垣間見られたようだが、豊橋市役所や豊橋公会堂に視野を奪われ、何も見えなかった。  豊橋公会堂は 昭和六年の建設、高さが十六メー トルの鉄筋コンクリート造三階建で、ロマネスク様式を取り入れたデザインはなかなかよい感じがする建物である。 
{左}豊橋鉄道の札木(ふだぎ)駅
札木交差点の手前にNTTのビルがあり、道路の一角に吉田宿問屋場跡の標柱が建っていたが、ここも、石柱に問屋 場の定義が書かれているだけで、誰がやっていたかの表示はない。 この交差点の右側に、豊橋鉄道の札木駅があり、路面電車 から、乗り降りの姿が見られた。 交差点を渡ると、右側に喜の字という蕎麦屋があり、その先に、創業百年余といわれる、 丸よという、うなぎ屋さんがある。 店の前には、本陣跡の石碑と案内板があるが、道路の   
{左}丸よ(清須屋与右衛門本陣跡)
片隅にある吉田宿本陣跡の標柱よりも、ずっと立派だった。  案内板によると、江戸時代の清須屋与右衛門本陣の跡地で、東隣には、江戸屋新右衛門の本陣が二軒並んで建っていた、とあった。 もう一軒の本陣は、隣の喜の字という蕎麦屋さんのところにあったのだろうか? 丁度昼になったので、抵抗なく、うなぎ屋に入ったが、値段は 高い方だった。  
{左}うなぎ丼
しばし待たされて、出てきたうなぎ丼は、鰻が皮を上に向けて乗っていた。 身は薄く、油は落とされて淡白。 あっさりした 味付けのたれにつけられて、なかなか美味だったので、この価額でも良いだろうと、思った。 吉田宿は、 吉田通れば二階から 招く、しかも鹿の子の振り袖が・・ とか、 御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い・・・ と、いった俗謡が良く唄わ れ、飯盛女の多かったことで知られる宿場で、旅籠はこの札木周辺に集中していた、といわれる。    
{左}安久美神戸神明社の鬼祭
レジの脇にあった鬼の凧は、二月十日と十一日に行われる、安久美神戸神明社の鬼祭をイメージしたものである。 鬼祭は、国 の重要無形民俗文化財に指定された天下の奇祭で、平安朝から足利時代にかけて行われた田楽の一種が今日まで継承されたも の。 暴ぶる神(赤鬼)と武神(天狗)の戦いは、寒中の勇壮な神事であり、暴ぶる神の退散により、一同が平和を喜んで舞う神楽 が有名である。 
 
{左}菜めし田楽のきく宗
五十メートル程歩くと、道の左側の普通の民家の壁に、脇本陣跡のプレートがある。 江戸時代、豊橋名物として知られたのは、 菜めし田楽である。 この先の左側のなまこ壁の建物で営業している若松園や、信号を越えた本町のきく宗で食べられる。  きく宗は文政年間の創業とある老舗で、菜めし田楽定食が1785円。 菜めし田楽を食べたことのない方は賞味あれ!!  右側の産婦人科の前に、馬の水飲み桶のような物が置いてあった。 
{左}吉田宿西総門
松葉公園前の交差点を右折し、直進すると、上伝馬交差点になるが、交差点を越えた右側に、西総門のミニチュアが置かれてい る。 吉田城の西総門があったところである。 西総門は、吉田城の西門であると同時に、吉田宿の京方の入口なので、吉田宿 はここで終わる。 吉田城の表示をしばしば見てきたので、折角の機会なので、立ち寄ることにした。 上伝馬交差点から関屋 交差点を過ぎ、右側に入ったところに、吉田神社があった。    
{左}吉田神社
吉田神社は、元々は、吉田城内にあった神社で、牛頭天王社、又は、吉田天王社と呼ばれていたが、明治二年に、吉田神社とな った。 祭神は素戔嗚尊で、その創建は定かでないが、源頼朝の家臣、安達九郎盛長が造営したと、言い伝えられている。 神 社が移転したとは書かれてないので、ここは、城の敷地の一部だったのだろう。 この神社を有名にしたのが、手筒花火である 。     
{左}手筒花火発祥の地碑
吉田神社略記には、「 天王社の祭礼煙火ということで始まる。 花火の創始は羽田吉田総録に 永禄元年(1558) 今川義元公 吉田城代、大原備前守知尚が花火を始めた。 」  と、あり、境内に、手筒花火発祥の地の碑があった。 火薬の使用は、戦国 時代より武器として厳重に管理されてきたが、この地域では、怨霊退散の為に花火を放揚する(打揚げる)場合に限り、庶民に火 薬の使用と製造を許可したことが始まりで、江戸時代から今日に至るまで続けられてきた
{左}手筒花火
のである。 江戸時代、吉田神社の三河吉田祇園祭は、吉田の花火として、常陸水戸、甲斐市川と共に、日本の三大花火として 知られていた、という。 吉田祇園祭は、七月下旬に行われる吉田神社の例祭で、手筒花火の奉納が行われる。 小生は五年程 前に、手筒花火の凄さを体験しているが、凄い迫力だった、という思い出がある。  なお、手筒花火の奉納は、この地区男子の 成人式のような行事で、一種の肝試しを兼ねたものでも、吉田神社以外でも行なわれる。   
{左}船寄せ場跡
吉田神社の西方の湊町の民家の前に、 「 関屋は吉田城の西総堀の内にあって、豊川に面していたところで、吉田藩の御船蔵 が置かれ、藩主専用の波止場があった。 」 、という案内板があったので、ここに、吉田藩の船寄せ場があったことがわかっ た。 また、酒井忠次が、初めて豊川に架橋したのも、この場所である。 三州吉田記に、「  元亀元年関屋之渡口始めて土橋 を架す。 天正十九年(1591)この土橋を船町へ移す。 」 、とある。   
{左}広重の東海道吉田宿
池田輝政は、今橋を吉田と改めると 共に、城の拡張に乗り出し、今橋が城の領域に入ることから、橋を南に移し、現在の豊橋の下流に、木橋を架け、吉田大橋と呼んだ。  その様子は、安藤広重の東海道五十三次吉田宿で、確認できる。 吉田大橋は、明治十一年(1878)、現在の位置に移され、大正五年(1916)に、鉄橋の橋に変り、名を豊橋に変えた。  昭和三十四年、国道一号線の整備に伴い、吉田神社脇に、新たな橋が架けられた際、この橋に昔を偲ぶ
{左}吉田城 鉄櫓
吉田大橋の名が付けられた。 吉田城は、明治六年(1873)の失火により、多くの建物が焼失し、その後、陸軍の連隊が置かれたが、現在は、市役所と公園になっている。  吉田城の遺跡といえるのは、城壁のみで、現在、城址にある櫓は、昭和二十九年(1954)の豊橋産業文化大博覧会を記念して、再建されたものである。 この後、上伝馬町交差点まで引き返し、御油宿へ向かった。     



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!