東 海 道


御油宿から赤坂宿 




{左}十王堂
御油宿を出ると、上五井である。 松並木に入る手前に公民館があり、その前には馬頭観音などの石仏が並んで祀られていた。  その先の左側に、十王堂がある。 十王とは、冥界に合わせて、死者の罪業を裁判する十人の王のことで、彼等の裁判を受けて、 次に生まれてくる場所が決まる、とされる。 この考えは、平安後期に日本に伝えられ、鎌倉時代に、全国に伝わったようである。  明治中期に火災に遭い、この建物は、再建されたものだが、江戸時代の絵図
{左}御油の松並木
に、描かれているので、十王堂は古くからあったようである。 少し歩くと、松並木に出た。 松並木は、慶長九年(1604)に、 東海道の開設と共に整備されたもので、国の天然記念物に指定されている。 天然記念物に指定されるだけのことがあり、背が高く、 太くなった松が多い。 そうした松が六百メートルも続いていた。 松並木を車が時々通るが、排気ガスでやられないのであろうか? 少し心配である。 
{左}弥次喜多茶屋食堂
松並木の中間あたりの左側に、弥次喜多茶屋食堂があった。 十辺舎一九の東海道中膝栗毛で、弥次さん、喜多さんが、留め女 に袖を引かれたり、この先の松並木には悪い狐がいて、旅人を化かすから、ここに泊また方がよい、と脅られる場面があるが、 そこから名前を付けたのだろう。 杉並木はあっという間に歩き終えたが、するともう赤坂宿であった。 御油宿と隣の赤坂宿 までは僅かに十六町、およそ千七百メートルの距離と、大変短いのである。 
{左}赤坂(あかさか)宿の見附(みつけ)跡
御油の杉並木を過ぎたあたりに、赤坂宿の見附跡の看板があった。 見附とは、宿場の入口に石垣を積み、松などを植えた土居 を築き、旅人の出人を監視したところである。 赤坂宿では、江戸方(東)は、関川地内の東海道を挟む両側にあり、京方(西)は、 八幡社入口の片側にあった。 東の見附は、寛政八年(1796)、代官辻甚太郎のとき、ここから関川神社前に移されたようだが、 その後、また、ここに戻されたようである。 なお、見附は、明治六年に一里塚などと
{左}関川神社
共に廃止されている。 少し歩くと、左側に関川神社がある。 関川神社は、三河国司、大江定基の命をうけた赤坂の長者、宮 道弥太次郎長富が、クスノキのそばに、市杵島媛命を祭ったのが始めと、伝えられているが、 社殿脇の大クスは、推定樹齢約 八百年である。 木の根元からえぐられている部分は、慶長十四年の十王堂付近の火災の火の粉が飛び、こげたものと、伝えら れてきた。
{左}関川神社 芭蕉句碑
境内には、 「  夏農月(夏の月) 御油よ季いてゝ(御油よりいでで) 赤坂や  」 という、
赤坂宿を詠んだ芭蕉の句碑があった。 この句は、夏の夜の短さをわずか十六丁で隣接する赤坂宿と御油宿の距離の短さにかけ て、詠ったものである。 この句の通り、御油宿から赤阪宿までは、松並木がなければ一つの宿場かと思ってしまうほどの近さ であった。 四百メートル程歩くと、赤坂紅里(べにさと)交差点に到着。 右折すると、名電赤坂駅である。      
{左}松平彦十郎本陣跡
このあたりが赤坂宿の中心だったところで、工事中の門の近くに、松平彦十郎本陣跡の案内板があった。  当初、松平彦十郎が、本陣と問屋を兼務していたが、文化年間より、問屋は、弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行なわれた。  本陣は四軒あったが、その内、二軒は道の反対側にあったようである。  四本陣のなかで、彦十郎家は特に立派で、門構玄関付きの間口十七間半、奥行二十八間、部屋の畳数四百二十二畳の屋 
{左}長福寺
敷だった、とある。 交差点の右側に、古い建物の尾崎屋、そして郵便局があり、左に入ると、長福寺という寺があった。  平安時代、三河の国司だった大江定基との別れを悲しんで、自害した、赤坂の長者の娘、力寿姫の菩提を弔うために建てられた寺で、 大江定基が寄進した、恵心僧都の手によると伝えられる聖観世音菩薩が祀られている。 境内には、樹齢約三百年、幹の周り約三メートル三十センチの山桜が、旺盛に葉を茂らせていた。   
{左}古い連子格子の家 
街道に戻ると、古い連子格子の家があった。 呉服屋の向かいの家に、小さな表示板がぶら下げられていて、問屋場(伝馬所)跡 と表示されていた。 「 問屋場は、間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)で、人足三十人、馬十頭をつないで、宿場間の 公用の荷物や旅人を次の宿場まで運んでいた。 その運営には、問屋、年寄、帳付、馬指といった宿役人があたっていた。 」  と、案内にあった。    
{左}大橋屋旅館(旅籠 伊右衛門鯉屋)
伊藤本陣跡の隣に、江戸時代、伊右衛門鯉屋という屋号で、旅籠を営んでいた、大橋屋旅館がある。 東海道で唯一、今もなお、 営業を続けている元旅籠である。 創業は、慶安二年(1649)、現在の建物は、正徳六年(1716)頃建てられたもので、間口九間、 奥行二十三間ほどの大きさであるが、赤坂の旅籠では大きい方であった、という。 入口の見世間や階段、二階の部屋は往時の 様子を留めていた。 赤坂宿は、享保十八年(1733)の家数は四百軒だったが、  
{左}浄泉寺本堂
その内、旅籠が八十三軒も占め、更に、隣の御油宿とは、僅かに、十六丁(1.7km)しか離れていないので、競争が激しくなるの は必定で、旅籠だけでは食べていけないため、飯盛り女を抱えるようになった。 「 御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんの よしみで江戸通い 」 、 「 御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ 」 と、俗謡で詠われたように、赤坂宿の 繁栄は飯盛女によるところが大きかったようである。 、大橋屋の裏に、浄泉寺がある。   
{左}大ソテツ(蘇鉄)
江戸時代には、伊藤本陣の裏に続いていた、といわれるが、本堂の左脇にある大きなソテツは、大橋屋(旅籠鯉屋)の庭に植えら れていたソテツ(蘇鉄)である。 安藤広重の東海道五十三次のなかに、赤坂 旅舎招婦図 と、題された旅籠風景があるが、描か れているのは、このソテツである。 明治二十年頃の道路拡張の際、ここに移植されたもので、推定樹齢は二百六十年と書かれ ていた。 本堂と離れて建っている薬師堂は、赤坂薬師といい、赤い幟が林立してい
{左}赤坂陣屋跡
た。 なお、大橋屋の隣の境には、高札場があったことを示す木柱が立っていた。 街道を歩くと、右側に、赤坂陣屋跡の表示 があった。  陣屋は、代官所ともいわれ、年貢の徴収や訴訟を取り扱ったところである。 赤坂陣屋は、三河国の天領を管理 するため、幕府が設けたもので、国領半兵衛が代官のときに、豊川市の牛久保から移ってきた。 幕末から明治にかけては、三 河県の成立にともない、三河県役所となり、明治二年六月、伊那県に編入されると、静岡藩赤坂郡代役所と改められたが、明治 四年の廃藩置県により、伊那県が額田県に合併されると、
{左}赤坂宿 京方見付跡
赤坂陣屋は廃止された。 反対側の奥に、旧音羽町役場、手前に休憩施設(よらまいかん)がある。 音羽町は今回の市町村合併 で、豊川市に編入になったため、町役場は図書館として使用されていた。  少し先の右側に、連子格子の古い家があるが、 左側の駐車場の一角には、十王堂跡の標柱が建っていた。 また、対面の民家の駐車場に、赤坂宿の京側入口を示す見付跡の 標柱が建っていた。 短い赤坂宿は、ここで終りである。        



     

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