東 海 道


赤坂宿から藤川宿 




{左}杉の森八幡宮
今日は赤坂宿から岡崎宿まで行く予定である。 赤坂宿から藤川宿へはかなりの部分、東海道が残っている。  赤坂宿の見附跡 を過ぎると、右側の鳥居前の石柱の正面に、郷社八幡宮とあり、脇には、 東京角力 錦戸春吉 と、刻まれていた。 こんもり としたところにあるのは、杉の森八幡宮で、大宝二年(702)、持統上皇が東国御巡幸の折、勧請したと、伝えられる古い神社で ある。 境内にある一つの根株から二本の幹が出ていることから、夫婦楠と呼ばれる
{左}夫婦楠
大クスは、推定樹齢千年を数える風格ある古木で、今も威勢よく枝を広げていた。 東海道に戻り、歩き始める。 道傍に、小 さな石仏が祀られていた。 また、左側に常夜燈も建っていた。 やがて、家並みも少なくなり、車もほとんど通らない静かな 道になった。 右側に、音羽中学校がある。 右側に、開運毘沙門天王尊の石柱が細い道の角に建っていた。 その先に医院が あり、その先には薬局もあった。 
{左}栄善寺
左側の道傍に、栄善寺の石碑が建っている。 道を入って行くと、崩れそうな石段の右側に、二つの石室があり、石仏が祀られ ていた。 また、その右には、燈籠と石柱が建っていた。 石段の左に、小さな祠もあった。 石段を上ると、質素なお堂の前 に出た。 栄善寺は、西暦1272年、円空上人の創立で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治したという伝説がある 寺である。 街道を歩くと、長沢(旧長沢村)に入る。 道の左側に、八王子神社の石柱が  
{左}八王子神社入口
建ち、左側の秋葉山常夜燈は寛政十二年の建立である。 八王子神社に寄るため、細い道を入 って行った。 道の突き当たりに、洞泉寺があったが、そのまま進むと、右側に村社八王子神社の石柱があり、常夜燈と鳥居が 建っていた。 湿気の多い参道の石段はかなりの傾斜だった。 石段を上り、社殿前で今日の旅の無事を祈った。 境内には、 庚申塔が建っていた。 帰りは、左側の車道を下る。 途中の石室に、石仏が祀られていた。 
{左}一里山庚申道道標
街道に戻ると、小川にかかる橋(八王子橋)の手前に、一里山庚申道是ヨリ・・・  と、書かれた道標がある。 八王子 橋を渡り、三河湾オレンジロードという有料道路の下をくぐる。 ここまでの道の両脇には、家が続いていたが、少し疎らにな った。 左側の道の脇に、長沢一里塚跡の道標が建っていた。 江戸時代の分間絵図には、両脇に一里塚が造られ、右の一里塚 の手前には、傍示杭が立っていることが描かれている。 このあたりは、昭和五十年頃までは、
{左}長沢御殿跡
松並木があったようであるが、右の一里塚跡には、最近建てられたと思える住宅が並んでいた。 右側の長沢小学校グラント脇 に、長沢城址の説明板があり、 「 ここから北西一帯にあった城で、長沢松平氏の初代親則が、長禄弐年(1548)頃より居城し た、といわれ、寛永十一年(1634)の家光上洛の際には、グランド付近に、長沢御殿が建てられ、休憩に利用された。 その 御殿も、延宝八年(1680)には廃止になった。 」 と、あった。 右手に高速道路が見え、        
{左}誓林寺
車が走るのが見えた。 道の東側に、児子神社の石柱が建っているが、神社は、ここより三百メートル先の高速道路を越えた山 麓にある。 少し先で、右にカーブするが、カーブした右側に誓林寺がある。 親鸞の弟子、誓海坊が建てた草庵が始まりで、 応仁年間(1467〜1469)に、信海が寺にした、と伝えられる寺である。 この道は、国道1号線に合流するまでの間、古い建物が 数多く残っている。 しばらく、音羽川の流れを左に見ながら歩く。
{左}漆喰壁に連子格子の家
右側に、安政十年(1798)の秋葉常夜燈と村社巓神社の石柱が建っていた。 巓神社は北方四百メートルの山の中にある。 常夜 燈も右側のはなくなっていた。 山口バス停のところまでくると、右手の山はかなり接近し、道幅もだいぶ狭くなった。 右側 に、漆喰壁に連子格子が嵌った家が沢山あった。 少し先の右側の石垣の上に、磯丸 みほとけ 歌碑と書かれた石柱と観世音 菩薩と刻まれた石碑、そして、三頭馬頭観音像が祀られていた。    
{左}一百萬遍供養塔と観世音菩薩像 
石段を上ると、磯丸歌碑 「  あふげ人 衆生さひどに たち給ふ このみほとけの かかるみかげを  」 、があり、裏 面には、一百萬遍供養塔とある。 また、観世音菩薩像が祀られていた。 磯丸とは、糟谷磯丸のことで、彼は伊良湖村に生ま れた漁師で、漁夫歌人と呼ばれた人物である。 この碑は、観音堂の庵主、妙香尼が、弘化三年(1846)、落馬して亡くなった旅 人の供養のために建てたものといわれる。   
{左}秋葉常夜燈と二つの祠
右にカーブするところに秋葉常夜燈と石仏が安置されている二つの祠がある。 千束川を大榎橋と千両橋で渡ると、上り坂にな り、関屋の交差点で、国道1号と合流し、東海道の道は終わってしまう。 ここから二キロほどは車の多い国道の左側を歩かな ければならない。 やがて、岡崎市に入る。 市境の本宿町深田の信号の手前に、自然と歴史を育む町 本宿(もとじゅく)  と、書かれた碑があり、近くに説明版がある。 「 本宿は、東、西の三河が接するところで、  
{左}法蔵寺
古は、駅家郷、山中郷に属し、奈良古道、鎌倉街道の要地として、中世以降は法蔵寺の門前町として発展したところである。  江戸時代には赤坂宿と藤川宿の間宿(あいのしゅく)になっていた 」 と、ある。 新箱根入口の信号交差点の先を左に入る と、東海道の道が残っていた。 少し歩くと、左側に、常夜燈があり、法蔵寺の奥にお堂が見える。 東海道名所図絵に、  「 本尊阿弥陀仏、門前に大木の古松あり、稿掛松(そうしかけまつ)という・・・ 」  、と  
{左}法蔵寺の鐘楼と石段
書かれている寺である。 松は今でも、門前にあったが、傍らの説明では、何代目かの松らしい。 法蔵寺だんごの説明もあり、 江戸時代、茶屋の名物で、押しつぶした形状の団子を串刺しにした、みたらしのようなものだったようである。 橋を渡り、か なり急な階段を上ると、鐘楼の間から本堂が見えた。 法蔵寺は、大宝元年(701)、行基上人が開き、時の天皇から出生寺の寺号 を賜って、勅願寺となった、という古刹で、松平氏の初代、松平親氏が、嘉慶元年
{左}新選組隊長、近藤勇の首塚
(1387)に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺と改めた。 初代の親氏以来、松平家の帰依を受け、家康も、子供のころ、ここで勉強したとい う徳川家と縁が深い寺である。 現在は、浄土宗西山深草派で、二村山法蔵寺といい、本尊は阿弥陀如来である。 左側にある 六角堂へ向かって歩くと、その先に、新選組隊長、近藤勇の首塚がある。 板橋で処刑された近藤の首級は、京三条大橋の西に さらされていたが、同志が三晩目に持ち出し、近藤が生前敬慕していた、この寺の住職、称空義天和尚に依頼し、埋葬された、というものである。  家康の祖先の松平家の墓が
{左}本宿 東照宮
その上の山腹にぐるーと輪になったように並んでいた。 中央の大きな法篋(きょう)印塔が松平親氏 のものか? 更に上ると、徳川家康を祭った東照宮があった。 境内には、伊奈備前守の一対の常夜燈があり、石段には、大番 (おおばん)組などの燈籠が並んでいた。 燈籠にある大番とは、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊 である。 大番の職務は、戦時にあっては、本陣備において攻撃を任務とした騎馬隊として働き、平時には、
{左}法蔵寺 本堂
江戸城下および要地の警護を担当した。 急な石段を降りると、本堂である。 徳川家の三つ葉葵が、瓦 や壁に刻まれ、建物の彫刻も、華やか図案であり、江戸時代には、幕府より知行地を戴く権勢を誇った寺院であったことが分かっ た。  街道に戻ると、法蔵寺の左手前に、 右国道1号 左東海道 と、刻まれた道標があった。 少し歩くと、右側に、不動院 とあり、左側に、石仏が祀られている。 法蔵寺橋から約百五十メートル歩くと、左側に、  
{左}冨田病院入口
冨田病院の看板があった。 本宿陣屋跡と代官屋敷の案内があり、「 元禄十一年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫) の所領になり、ここに陣屋が置かれ、柴田氏の子孫が明治まで治めた。 陣屋の代官職は富田家が世襲し、現在の居宅は文化十年 (1827)の建築である。 」  とあった。 入って行くと、正面に近代的な病院があるが、右側の駐車場の一角にある古く大きな 建物が代官屋敷なのだろう。 江戸時代の本宿は百軒程度の集落で、
{左}秋葉山常夜燈
立場茶屋が長沢村との境の四谷と本宿の法蔵寺の二ヶ所にあった、という。 百五十メートルほど歩くと、右側に、秋葉山常 夜燈が建っていた。 ここを右折すると、国道1号線を越えた先に、名鉄本宿駅がある。 本宿駅は、八角屋根、銅板葺きの塔楼 をのせた蒲郡ホテル(日本三大クラシックホテルの一つ)の建物を似せた建物だったが、平成四年の国道1号拡張の際、惜しまれな がら、壊された。 
{左}十王堂跡
その先の左側の建物前には、十王堂跡の標示があった。 本宿は古くから、麻縄の産地として知られていたようで、東海道中膝栗 毛にも、 「  ここは麻のあみ袋などあきなふれば、北八、みほとけの誓いとみえて、宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物  」  、という記述がある。 豊川信用金庫がある交差点の手前の右側に、工事中の家があり、一里塚跡の標柱があったが、工事用 の部材で見えなくなっていた。 
{左}宇都野龍碩邸跡
一本松の枝ぶりの良いのを見ながら歩くと、左側に、屋敷門がある家がある。 宇都野龍碩邸跡とあるが、宇都野龍碩は、シー ボルト門人の青木周弼に医学を学んだ蘭方医で、安政年間に植疱瘡(種痘)を施した人物である。 その先には、松の木が何本か 見えてきた。 この先の本宿町沢渡の信号交差点で、本宿は終わるが、ここにも、道標と本宿の説明板があった。 東海道は、 再び、国道1号と合流。 道路を渡り、国道の右側の歩道を歩く。 ここからは、
{左}旧舞木村
江戸時代山綱村だったところである。 東海中学を過ぎると、旧舞木村に入る。 本宿から一キロほど歩くと、名鉄の線路沿いに出る  (右写真) 少し歩くと、国道の右側に一段低くなった、線路に沿った細い道があるので降りていく。 そのまま歩いていくと、右側に名鉄山 中駅がある。 舞木の地名は、山中八幡神宮記の一節に、 「  文武天皇(697〜707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて 舞い降りる  」 とあり、このことから舞木となった、といわれる。     
{左}興円寺
名鉄の線路に沿って人家は並ぶが、古い家は少ない。 右手の愛宕社、興円寺、延命地蔵尊、永證寺を見ながら、舞木橋を越える とわずかながら、松並木が残っている。 大雄山興円寺の石柱に、興円寺は、旧山中村に、1710年に開創された寺であると、あっ たが、この先の舞木町の説明板には、「 舞木村は古くは山中郷に属していたが、江戸幕府の三河代官が、市場村の一部を藤川宿 に移転させた際、残りの市場村と舞木村を合併し、現在の舞木町になった。 」 
{左}山中八幡宮 常夜燈
と、あるので、山中村だったのは山中城があった戦国時代なのだろう。 舞木西交差点で、また、国道と合流すると、展望は良く 、四方八方が見渡せた。 国道の左手に、山中八幡宮の赤い鳥居とその手前に常夜燈が見える。 国道から離れ、畑の中の道を歩 き、常夜燈に向かうと、常夜燈は想像したより大きく、階段が付いていて、火屋があるものだった。 八幡宮の氏子達が天保四年 (1833)に建立したもので、山中御宮、常夜燈と刻まれていた。 
{左}山中八幡宮の赤い鳥居
これだけ大きなものが神社から離れたところにぽつんと建つのは大変目立つ。 歩いて、その先の赤い鳥居に近づいた。 鳥居の 右側に、樹齢六百五十年という、岡崎市指定天然記念物の大クスノキがあった。 二股に分かれ、今なお、元気な枝ぶりを空に向 かって、伸ばしていた。 この先は石段で、急な上にかなり長い。 石段は湿って、苔むしていて、大変歩きづらい。 
{左}山中八幡宮本社
塵取門をくぐると、正面に、山中八幡宮があった。 祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、八幡大神だが、徳川家康と縁が深 い神社である。 弘治四年(1558)、今川家から開放された家康が、初陣の三河寺部城攻めに際し、戦勝祈願をしたところであ る。 慶長弐年(1597)には、石川数正等に命じ、衡門を建てて、社殿を造営している。 また、三代将軍家光は、寛永十一年(163 4)、上洛の途中に、当社に参拝、東照 宮合祀、葵の紋の使用を許可された、とも
{左}家康の出世竹
伝えられる。 本社の左手前に、家康が、戦勝のお礼に参拝した際残した、とされる出世竹がある。  三河一向一揆で、門徒たちに追われた家康が身を隠し、その難を逃れた、と伝えられる鳩ヶ窟がある。  三河一向一揆は、永禄六年(1563)、家康の 家臣、菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した事件で、一揆方の追っ手が、家康がひそんでいた洞窟を探そうとすると、 中から二羽の鳩が飛び立ち、人のいる所に鳩がいるはずがないと、追っ手 
{左}鳩ヶ窟
は立ち去った、という逸話が残る。 鳩ヶ窟は、本社に入る手前で、左折すると、両脇は藪のようになっている道を行くと、注連縄 が張られていて、洞窟は、神聖な場となっていたが、人がひとり入れるかどうかという、大きさだった。 街道に戻る途中、国道 に近いところに入口があり、御開運御身隠山と書かれた石柱と常夜燈一対と鳥居が建っていた。 こちらは神社の裏から入って行く感じになる。 
{左}名鉄の列車基地
国道に戻ると、右手上方に、名鉄の列車基地があり、赤い電車が並んでいた。 やがて、道が右にカーブすると、市場町の交差点 に出る。 その先の左側に入る道が東海道で、藤川宿はすぐである。 藤川宿は、日本橋から三十七番目の宿場であるが、赤坂宿 より二里強(9km)キロしかなく、家数は三百二軒、宿内人口は千二百十三人と少ない。 慶長六年(1601)に伝馬朱印状が発給され て宿場になったものの、村の規模が小さいためやっていけなくなり、慶安元年
{左}藤川宿江戸方入口、東棒鼻
(1648)、藤川宿の東側に、五百メートル程道を伸ばし、隣村の市場村から六十八戸を移転させて、加宿市場村を作った、という歴史がある。  市場町の交差点で、道路の左側に渡り、五十メートルほど先の細い道に入ると、すぐのところに、「 是西藤川宿 」 と書かれた標柱があり、正面にモニュメントが見えてきた。 ここは、藤川宿の江戸方の入口の棒鼻があった所で、東棒鼻
{左}広重の東海道五十三次藤川宿
と呼ばれる。 棒鼻とは土塁に石垣、その上に竹矢来や木を植えたもので、そこに番人がいて、宿場の出入りを監視していた。  現在あるのは平成四年に復元されたものであるが、藤川宿は、安藤広重が描いた大名行列が棒鼻を通る風景で知られている。  棒鼻に入ると、曲がりくねった道になっていた。 当地では、曲手(かねんて)と呼んでいたが、一般的には、枡形とか鉤型といわ れるものである。 左側の細い道に入り、三叉路で右折すると、また、丁字路になる
{左}寛政七年建立の秋葉山常夜燈
ので、ここを左折する。 角に、道中記で 書かれて有名になった茶屋かどや佐七があった、と案内があった。 その先で、道は 三叉路になるが、寛政七年(1795)建立の秋葉山常夜燈が建っている。 東海道中膝栗毛には、『  かくて藤川にいたる。 棒鼻の 茶屋、軒毎に生肴をつるし、大平瓶、鉢、店先に並べたてて、旅人の足をとどむ。 』 とあり、弥次郎兵衛は、 「 ゆで蛸で  たこのむらさきいろは 軒毎に ぶらりと下がる 藤川の宿 」 と、ダジャレを詠んでいる。     
{左}連子格子の家
江戸時代には、道の両側に茶屋が並び、客引きが凄かったように思われる。 ここの三叉路の右側の道は江戸時代にはなかった 道で、東海道は、ここで左折していた。 ここは、加宿の市場村だったところで、通りに古い連子格子の家が何軒か残っていた 。 その先の右側に、一対の常夜燈と鳥居があり、傍らの石柱には、津島神社と書かれていて、奥の方に社殿が見えた。 
{左}法弘山明星院
左側に少し入ると、片目不動と書かれた赤い幟がひるがえっているのが、真言宗醍醐派の法弘山明星院という寺である。 建物も 敷地も小さくパッとしない寺に思えたが、寺の本尊の不動明王が、徳川家康の窮地を救った、ということで、有名なの寺であった。   「 徳川家康が、戦で追い詰められた時、見知らぬ武士に助けられたが、武士は敵の矢で、片目を潰され消えてしまった。 後 日、家康が明星院に参拝した折、堂内の不動尊の目が、潰れているのを見て、
{左}藤川宿 高札場跡
あの時の武士は、不動尊の化身だったのだと感謝した。 」 、という話が残っている、という。 本尊の不動明王立像は、秘仏 なので、お目にかかれなかった。 橋を渡ると、江戸時代の藤川村である。 道の右側にある駐車場の一角に、高札場跡の案内板 があった。 高札場は、高さ一丈、長さは二間半、横は一間の大きさで、八枚の高札が掲示されていた、という。 その内、三枚 は、この先の資料館に掲示されている。 道の反対にあるのは 称名寺という寺で、
{左}藤川宿 問屋場跡
代官だった烏山牛之助の位牌がある。 武田成信や雷電と争ったという力士の江戸さき の墓があった。 武田成信は、藤堂家の家臣で、武田信玄の弟の信実の八世にあたる人物である。  その先の米屋が問屋場跡で ある。 米屋の生垣前に、問屋場跡の石柱と案内板があった。 その斜め前にある民家が、昔の商家の銭屋の跡で、連子格子の建 物が、昔の賑わいや旅人姿を偲ばせる雰囲気があった。 藤川宿は、天保年間に編纂された東海道宿村大概帳には、
{左}藤川宿 脇本陣橘屋跡
本陣は一軒、脇本陣も一軒、旅籠は三十六軒あったとある。 銭屋のはす向かいにあったの が、本陣だった森川家で、現在は第二資料館になっていた。 藤川宿の本陣は、最初は二軒あったが、 その後、退転(おちぶれる こと)を繰り返し、江戸時代後期には、一軒になり、森川久左衛門が本陣を勤め、建坪は百九十四坪だった、という。 宇中町の 右側に、立派な門がある家がある。 脇本陣を務めた大西喜太夫の橘屋である。 
{左}関山神社の燈籠
当時は、現在の百三十坪ほどの敷地の四倍で、明治天皇御小休所の坐所があり、藤川村役場にもなっていたが、現在は、藤川宿資 料館になっている(入館無料、9時〜17時、月曜休) 門は当時のままで、庭には脇本陣跡の石碑もあり、館内には、宿場街道の 模型や古文書、古地図が展示されていて、江戸時代の藤川宿がどのようだったのか知ることができる。 街道に戻ると、その先の 右側には、関山神社の燈籠が建っていた。 その先の左側には、伝誓寺がある。 
{左}立場茶屋跡
その先に、麦が少し植えられていて、むらさき麦の表示があった。 藤川は、根元から穂先 まで紫色をしたむらさき麦が、名物だったのだが、長らく栽培されず、幻の麦となっていた。 平成六年に、栽培に成功し、現在 では、数箇所で栽培しているようである。 その先の右側の藤川小学校前に、松並木があり、その一角に、広重の師匠の浮世 絵師、歌川豊広の歌碑があった。  「  藤川の  宿の棒鼻  みわたせば  杉のうるしと  うで蛸のあし  」 
{左}十王堂
ここは藤川宿の西の棒鼻跡である。 交差点を挟んだはす向かいには十王堂がある。 十王が、座る台座の裏に、宝永七庚寅(171 0)七月と、記されているので、十王堂の創建は、この年と推定される。 その奥には、成就院があり、境内の右側に、芭蕉句碑が ある。 
   「   爰(ここ)も三河  むらさき麦の   かきつはた   はせを   」  
{左}芭蕉句碑
句碑の裏に、寛政五歳次発丑冬十月 と、あるので、寛政五年(1793)に建てられたもので、 「 当国雷門月亭其雄弁連中 」 「 以 高隆山川之石再建 」 と、あることから、西三河の俳人達が再建したものであることが分かる。 
西の棒鼻は、藤川宿の京方(西) の出口で、ここで、藤川宿は終わる。 藤川宿は、僅か、九町二十間(約1020m)の短い宿場町だった。 



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!