東 海 道


藤川宿から岡崎宿 




{左}藤川一里塚跡
今日は赤坂宿から、藤川宿を経由し、岡崎宿まで歩く予定である。 藤川宿の西の棒鼻を出て、三十メートルほど歩くと、左側の 民家の一角に藤川一里塚跡の表示があった。 東海道の開設と同時に作られた一里塚だったが、天保年間には右側(南側)はすでに なくなり、北側の榎は昭和初期に枯れてなくなった、という。 藤川宿は、天領の三河代官所の管理だったのに、この始末なのは この地が貧しかったことを示すような気がした。 道の右側に松の木が現われ、
{左}吉良道との追分
歩くに比例して増えていった。 少し先の三叉路は、藤川村の西の端で、左側の道は、南西の方向に分かれ、土呂、西尾、吉良 方面に行く、吉良道とか、吉良街道と呼ばれる道だった。 吉良街道は、吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として、重要な脇往還で、 藤川は東海道だけではなく、吉良街道も通る交通の要衡だったのである。 また、藤川宿は、二川宿、赤坂宿、御油宿と連名で、 荷車の使用を願い出て、東海道で最初に幕府の許可を得ている。 これらから見て
{左}石造常夜燈と吉良道道標
も、物資の運搬が激しかったことが分る。 東海道と吉良道との分岐点には、石造常夜燈と文化十一年(1814)甲戌五月建立の吉良道 道標が建っていた。 お茶壺道中が通ると、雨が降るというジンクスがあり、お茶壺のなみだ雨という話が残っている、という。  藤川宿の西端から松並木が始まる。  名鉄踏切から約四百メートルほどの間は特に立派で、一里山から宇北荒古にかけて、長さ約一キロの間に、樹囲約二メートル、樹高約三十メートル程のものを含めて、   
{左}藤川の松並木
約九十本のクロマツが残っている。  東海道は、藤川西の交差点で国道1号線と合流し、この後、約二キロの区間は、大型トラックを見ながら歩かなければならない。  東海道は、見合新町北の交差点の手前で、国道の左側にある、松並木が残る細い道に入る。 その先の信号がない交差点の 手前に、東海道の説明板があるが、風化して見えなくなっていた。 見合新町交差
{左}山綱川に架かる橋
点まで行くと、松並木は途絶え、道幅が細くなった。 美合町南屋敷の交差点を過ぎると、更に、狭くなった。  県道48号を越えると、道の両脇に、スクラップ工場の車がうず高く積まれている。  そこを通りぬけ、山綱川に架かる橋を渡 った。 橋の手前に、「 川を美しく、生田蛍保存会 」 の看板があった。 橋を渡ると、右側に東海道の道標があり、修理工場 があった。 
{左}大平東 東海道の道標
そのまま進むと、道は乙川に突き当るので、右折して大平橋を渡ると、大平町になった。 東海道は、大平東交差点で、右に入る。 道は少し上り坂であるが、東海道の道標が建っている。 道の右側に薬師寺があり、 その先の右側に、秋葉山常夜燈とその奥に、火の見櫓が建っていた。 少し先の三叉路には、つくて道と東海道と刻まれた道標が 建っていた。 そのまま進むと、大平郵便局の前に、西大平藩陣屋跡の案内がある。 西大平藩陣屋は、大岡越前守      
{左}西大平藩陣屋門
忠相が領地を治めるために設けたものである。 右奥に百メートル程入ると、陣屋の門構えが見える。  忠相は旗本だったが、七十二歳の時、将軍吉宗の口添えもあり、四千八十石の加 増を受け、一万石の大名になった。 藩主だったのは、わずか三年で、その後、子孫が継ぎ、七代に渡り、明治維新を迎えた。  忠相は大名といっても、江戸常駐の定府大名だったので、参勤
{左}西大平藩陣屋跡
交代をしたことはなく、ここにきたことはない。 西大平藩陣屋がここに置かれたのは、藩の領地が三河国が主で、西大平村が 東海道筋にあり、江戸との連絡の便利なことから、と思われる。 門の中に入ったが、内部はなにもない更地だった。  陣屋には、郡代一名、郡奉行一名、代官二名、手代三名、郷足 軽四〜五名程度の人が詰めていた。 又、額田組十二村、宝飯組五村、加茂、碧海組七村が領地で、それぞれの組に、割元と呼ば れる陣屋役人が置かれ、   
{左}大平一里塚
年貢の徴収と村々の取締りを行っていた。 街道に戻り、また、歩き始める。 郵便局から百五十メートルほど行った左側、大平 西町バス停そばに、大平一里塚があった。 高さ二メートル四十センチ、底部の縦七メートル三十センチ、横八メートル五十セン チの菱形で、植えられていた榎は、昭和二十八年の伊勢湾台風で倒れてしまったため、植え直したもの。 左側のみしか残ってい ないが、昭和十二年に国の史跡に指定されている都会に残る数少ない一里塚である。   
{左}小さな祠と大きな常夜燈
その先には、三頭馬頭観音や子育地蔵などが祀られている祠と昭和八年の建立の大きな秋葉山常夜燈が立っていた。 信号のない 交差点を越えると、道は左にカーブし、ファミリーマート岡崎総合センター前で、国道1号線と合流した。 右手には、安永六年 転座、とある村社八幡社があった。 この先、高速道路の建設で変わっているが、 岡崎インターチェンジ入口の手前にあるアオ ヤマダイソー脇の細い道に入り、インターチェンジ入口の下をくぐって向こう側に出る。   
{左}岡崎宿 冠木門
この先、左の道を行くと国道1号線に出る。 国道出たら、そのまま筋違橋東交差点の先、左に吉良屋というメシ屋があるところ で、国道と分かれ、右へカーブし、法光寺の前を通り直進する。 法光寺の前には、常夜燈があった。 道を直進すると、左に モニメントが現われてきた。 木を組んで造られた冠木門と岡崎二十七曲りの石碑があったが、江戸時代には、ここが岡崎宿の 江戸方の入口で、番人が、冠木門をくぐって入ってくる旅人を監視していたのである。   
{左}二十七曲りのスタート
岡崎宿は二十七曲がりといわれるほど、道が右折、左折を繰り返している。  宿場町であると同時に、岡崎藩五万石の城下町だったので、複雑になっていたのだろう。 いよいよ二十七曲りのスタート。  道の正面のヤンマーディーゼルの看板の前で、右に曲がる。 二つ目の若宮町交差点の角地に、 欠町より投町角岡崎城入口  と、書かれた、二十七曲り碑がある。  江戸時代には、このあたりが投町で、投町茶屋があり、淡雪豆腐が名物だった、という。 名勝志  
{左}根石観音堂
に、 「  三州岡崎の駅口に茶屋あり 戸々招牌をあげて豆腐を売る 其製潔清風味淡薄 にして趣あり 」 と、あるが、当時、 あわ雪茶屋で出されていたのは、葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた、あんかけ豆腐で、茶飯におしんことセットで 十八文だったと、天保十三年の記録にある。 ここを左折し、若宮1丁目東の交差点を直進すると、右側に曹洞宗根石寺、 根石観音堂がある。 「 和銅元年(708)、天下に悪病が流行した。 元明天皇の命により、  
{左}法円寺
行基が六体の観音像を彫り、二体を根石の森に勧請し、祈祷をしたところ、悪病は治まった。  又、岡崎三郎信康が元正元年(1573)、初陣に際し、観音像に祈願し、軍功をあげて、開運の守り本尊として、あがめられた。 」 と案内にあった。 左側に寺の 本堂、右側に小さな社があり、二つの地蔵様が祀られていた。 右手の奥には、真宗大谷派法円寺があった。  このあたりは、地面を掘ると投げるのに良い石が出てきたので、投町、根石町という名前がついた  
{左}両町公民館
とある。 両町3丁目交差点を過ぎると、両町2丁目になる。 右手の極楽寺は、永禄九年(1566)の開山といわれ、天正三年(15 75)に現在の場所に移った。 両町2丁目交差点から、百メートルほど先の交差点を右折するが、 角には、 両町より伝馬町角 の標石が建っている。 ここを右折し少し歩くと、右側に、両町公民館がある。 公民館の左側に、小さな社が置かれ、その中 に常夜燈が保管されている。 寛政弐年(1790)に建てられた、秋葉山常夜燈である  
{左}円頓寺
が、昭和二十年の戦災により、被害を受け、一部しか残っていない。 ガソリンスタンドで左折する。 ここに到る道は、曲手 (かねんて)と呼ばれるが、岡崎城を避けて通るためである。 ここから先が宿場の中心地である。 伝馬通5丁目の交差点で、 太陽緑道を横切り、直進する。 伝馬通4丁目の右奥にある随念寺は、永禄六年(1592)に、家康が創建した寺で、松平七代清康と その妹久子の墓がある。 伝馬通4丁目西交差点の右奥に、唐風の門がある円頓寺が  
{左}伝馬町 秋葉山常夜燈
ある。 岡崎宿は、総家数、千五百六十五軒、宿内人口、六千四百九十四人と、東海道の中でも、三番目に大きい宿場で、 本陣は三軒、脇本陣も三軒、旅籠は百十二軒もあった。  道を一本左に入ると、伝馬町公民館があり、その前に、 享保三年(1803)建立の秋葉山常夜燈が建っている。 もとは、東海道に面して立っていたが、ここに移された。  江戸時代には、伝馬町を中心に、本陣、脇本陣、旅籠があったとされ、旅籠は、文化九年(1812)の伝馬町家順間口書を   
{左}伝馬通交差点
見ると、伝馬通5丁目から籠田総門まで、軒を連ねている。  正保・慶安の頃(1644〜1651)からは、飯盛り女を置く旅籠があらわれ、岡 崎は、岡崎女郎衆で、有名になった。 伝馬通交差点の右側の角の花一生花屋あたりに、東本陣があった、といわれる。 最初に 本陣を勤めた浜嶋久右衛門が没落し、その後、磯貝久右衛門に代わったが、これもやめ、その後は服部專左衛門が勤め、本陣の大 きさは間口十三間、建坪二百九坪、畳二百四十五畳だった、とある。    
{左}菓子屋 備前屋
江戸時代には、東海道には、石橋が架かっていたようで、左に行く小道は、專福寺に通じていて、手前のバス停の前には、庄屋小 七郎の営む旅籠があり、そこから、右に三軒目が、桔梗屋脇本陣であった。 交差点を越えた左側に、備前屋藤右衛門と書かれた 暖簾の菓子屋、備前屋がある。 天明二年(1782)の創業で、八丁味噌煎餅のきさらぎは、寛政十二年(1800)から作っている、と いう老舗である。 店を代表する淡雪という菓子は、口に入れるとふわーととけ  
{左}永田屋
るが、江戸時代の名物、淡雪豆腐が消えたのは寂しいと考案された菓子である。 なお、備前屋は、江戸時代(文化九年)に、ここに あったのは、旅籠の木瓜屋吉三郎で、備前屋は、現在の市川メガネの右側あたりで、間口五間の店を出していた。 現在地に移っ たのは、昭和二十年の空襲後、という。 備前屋の数軒先に、商家の糸惣があるが、文化九年(1812)の伝馬町家順間口書(前述) に、小間物屋、糸屋惣兵衛として、名を連ねている。 その隣の永田屋も、天保十四年(1843)から商っていた、というから古い。 
{左}漢方薬の大黒屋
道の反対側にあるのが、漢方薬の大黒屋である。 元禄年間(1688〜1713)には居住し、庄屋を勤めた家柄で、世襲名を小野権右衛 門といった。 先程の伝馬町家順間口書にも、薬種・質商小野権右衛門と、書かれている。 家の前に置かれている石彫りには、 作法触れとあり、土下座をしている姿が描かれていた。 作法触れとは、勅使、朝鮮通信使や大名行列がきたとき、町奉行が、 町民に対して出した、街道や宿場での応対の仕方のことである。 
{左}大黒屋屋敷跡碑と一本松
大黒屋の店舗右側の駐車場に、屋敷跡の碑と一本松が残っている。  備前屋、糸惣、永田屋、大黒屋は、江戸時代から今日まで 、営々として商売を続けているのは凄い、と思った。 前述の伝馬町家順間口書では、この一軒おいた隣に備前屋があった、とある。 その隣が、鍵屋定七が営んだ脇本陣跡で、現在の市川メガネのところである。  また、交差点と大黒屋の間に、高札場と自身番があった。 東海道はこの先で、左折し、また、右折していた。 
{左}岡崎宿 西本陣跡
突き当たり左折する右側に、中根甚太郎が勤めた西本陣があった。 伝馬通1丁目交差点の右側にあるコンビニのあたりで、コン ビニ前に、西本陣跡の石碑が建っている。 この交差点を左折し、道を渡った角に、二十七曲りの 西本陣前角 の標石が建ってい る。 江戸時代、この角には旅籠があり、その手前に、大津本陣があったようである。 大津本陣は、文政五年(1822)に、新たに 本陣になったもので、以前は、脇本陣だった。  
{左}指矢印付き道標
五十メートル程南に歩き、次の交差点 で右折する。 角の向こう側に、明治二年十二月に建立された道標が立っている。 道標には、 きらみち 、 西京いせ道 、 東 京みち 、 明治二巳巳年十二月建之 と、刻まれていて、指矢印付きである。 この通りは籠田総門通りである。 少し歩くと、 右側に、赤いレンガ造り洋館、左側に伝馬公設市場と書かれた建物がある。  
{左}岡崎信用金庫資料館
右側の赤いレンガ造り洋館は、大正六年、旧岡崎銀行本店として建てられたもので、現在は岡崎信用金庫資料館になっている。  この建物は、ルネッサンス様式で建てられ、赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を使用している。 岡崎宿の問屋(人馬会所)は、 伝馬町と材木町にあったが、伝馬町の問屋は、岡崎信用金庫資料館のあたりにあったようである。  岡崎宿で常時に用意する馬の数は、始めは三十六匹、寛永十五年には、馬百匹、人百人になった。 
{左}伝馬町にあった籠田総門の石彫り
左側の旧伝馬公設市場が、 江戸時代の御馳走屋敷跡である。  御馳走屋敷は、間口十五間以上もある立派な建物だったようで、公用の役人などをもてなす 、いわば、岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。 江戸時代には、この先に、岡崎城の籠田総門があった。 天正十八年(1590) 、家康が江戸に移ると、田中吉政が岡崎城主になり、総堀を築き、城下町を構築した。 東海道東側の城内出入口として承久三年 (1654)につくったのが籠田総門である。       
{左}籠田総門跡碑
籠田総門は籠田公園前、西岸寺辺りにあった、とあるが、場所が特定できないため、これから先の道は、諸説あるようである。  欠町の東入口にあった二十七曲り碑では、籠田公園の西側を北上するルートになっていて、東海道さんさくマップでは公園を横切 るルートである。 東海道さんさくマップと同じ、中央緑道(西岸寺とNTTの間の道)を北上すると、中央緑道の真中に、籠田 総門跡の碑がある。 
{左}籠田常夜燈
公園の東側に、寛政十年(1798)造立の、石工七左衛門作の常夜燈があった。 籠田総門の近くに建立されたが、数回移動し、公園 完成後、現在地にきた、とあった。 公園の北西角には、 篭田町より連尺町角 の標石があった。 それにしても、宿場に入り、 これだけじぐざくと道を変えるところは、中山道でも東海道でも記憶にない。 ここで、左折し、連尺通りに入った。 連尺町を 進むと、本町1丁目交差点に出た。 交差点の先には、岡崎シビコなどのビルが見えた。    
{左}本町1丁目交差点
江戸時代にはここを右折すると岡崎城の信濃門があった。 東海道は、交差点を越えて、岡崎シビコの右側中央あたりまで歩く。  右折できる小さな道の角に、 岡崎城対面所前角 の標石がある。 道を挟んだ反対側のシビコ側に、岡崎藩校充文館跡碑があった。  また、道をまっすぐ進み、三叉路を左折すると、シビコの構内に、連尺町の常夜燈のミニチュアがある。  連尺町の常夜燈は、文政五年(1822)に建てられ、天保二年(1831)の大火後修復された
{左}連尺町常夜燈
が、昭和二十年の戦災に遭った。 シビコの西側にあるのは、それを縮小したものである。 
岡崎城の大手門は、シビコの南西あたりにあったらしい。 東海道に戻る。  岡崎城対面所前角 の標石にある、対面所とは、 外来使節応対や領民の公事、評定を行った場所である。 江戸時代には、先程の岡崎藩校充文 充立館跡碑のあたりに、対面所が あったのである。 東海道は、対面所の標石の先の細い道を通り、北へ向かう。 突き当たりにある市川内科の前に、
{左}能見町常夜燈
材木町口木戸前 の標石がある。 江戸時代には、この角から次の 材木町角 の標石のところ まで、北西の方向に斜めに歩いたようである。 しかし、道は失われているので、ここで左折し、材木町1丁目を右折する。  材木町角 の標石は、ファミリーマートの反対側の歩道の植え込みの中にある。 東海道は、ここを左折し、交差点を越えるのだ が、少し寄り道。 ファミリーマートを越え、右側に、マンションのある所を直進すると、左側に御旗公園がある。 ここにも、 寛政十年(1798)の能見町と刻まれた常夜燈がある。 
{左}唐弓弦製造販売していた家
街道に戻り、夕暮れが始まった道を歩く。 江戸時代には、材木町の問屋が、材木町3丁目の交差点を越えた右側にあり、伝馬町 と交代で、五日毎に伝馬継立を行っていた。 岡崎は三河木綿の特産地で、戦前には、木綿の職人や商店が多くあったのである。  それを象徴するような家が柿田橋手前の右側にあった。 唐弓弦という道具を製造販売していた家である。 唐弓弦とは綿を打 って柔らかくする道具である。 伊賀川に架かる柿田橋の手前で左折すると、
{左}白山神社
伊賀川の縁に、二十七曲りの標石があったので、川に沿って歩くと赤い幟がある。  左手の上る道をいくと、幟の間から常夜燈が見えた。  常夜燈は天保四年(1833)に建てられたものだが、最初は材木町から下肴町に入る角に立っていたのである。  白山神社の境内に入ると、拝殿前の石灯籠には大阪弦問屋と刻まれていた。 白山神社を出ると、右側に三清橋がある。  ガードレールで見づらいが、ここにも標石があり、下肴町から田町角 と書かれていた。 
{左手}帖交差点の横断歩道橋
橋を渡ったら、信号を越えて、二本目の道を左折し、最初の道を右へ。 突き当たったら左へ。  突き当たったら、 今度は右へ、次に、突き当ったら左へ進む。 すると、国道1号線に出る。 東海道は、道の向こう側にある対面の道を行くの だが、ここからは、残念ながら、渡れない。 左の写真にある、右手の八帖交差点の横断歩道橋を使い、反対側に出るしかない。  横断歩道橋を渡り、左折し最初の道の角に、 板屋町角 の標石があるので、ここを右折し、
{左}板屋町の古い家
板屋町へ入る 。 板屋町は、文化年間(1804〜1818)頃、茶屋女と称する下女を置いたところ大繁盛し、天保十三年(1842)には、茶屋が三十 四軒、百三十人を数える色街になった。 そのため、隣の藤川宿の茶屋が衰微した、という。 少し歩くと、道幅が狭くなる。  バーや飲食店などを営んでいた形跡は残るが、朽ちぬのに任す建物があった。 東海道は、次の三叉路で、右側に、床屋があると ころを右折する。 道の左側に、板屋町角の標石が建っているが、
{左}新田白山神社
江戸時代には、ここに常夜燈があったが、現在は、道を直進し、交叉点手前の右側にある板屋 稲荷神社の境内にあった。 板屋 町の人達が、寛政九年(1797)に建立した秋葉山常夜燈で、石柱に火袋と屋根をのせている簡略なものである。  ここを左折する と、新田白山神社があり、その先は岡崎城である。 新田白山神社は、徳川家康の氏神で、永禄六年(1566)、上野国(群馬県)の新 田(現太田市)より勧請したもので、岡崎城内の白山曲輪に祀られていた。 白山
{左}松葉総門跡碑
神社は、新田義重 (源義家の孫で、新田の祖) が、 祭神であり、家康はこの時期に、源氏の棟梁、征夷大将軍になる野望を持っ ていたことになる。 「 板屋町角 」 の標石を右折し、真直ぐ進むと中岡崎町交差点にでる。 国道248号を渡ると、交差点 の左側に、松葉総(惣)門跡の石碑がある。 松葉総門は、岡崎城への西の出入口で、東の籠田総門と一緒に、承応三年(1654)に 造られたものである。 東海道は、松葉総門のところで、右に曲がり、門をくぐって、 
{左}愛知環状鉄道高架
左に曲がり、松葉川に架かっていた松葉橋を渡っていた。 松葉川は埋め立てられ、松葉橋もない。 交差点を渡ると、愛知環状 鉄道の高架下をくぐる。 高架下には、岡崎城下二十七曲り最後の標石、「 岡崎城下二十七曲り 八帖村 」 がある。  ここからは、江戸時代の八帖村である。 これで、岡崎宿の二十七曲りは全部歩いたことになる。 藤川宿からの岡崎宿の旅は、 岡崎の二十七曲りのルートを探す旅になってしまった。 岡崎は、戦災でほとんどの家が焼けてしまったので、常夜燈にしか古き を求められなかった。     
{左}岡崎城
折角なので、岡崎城について触れる。 岡崎城は、徳川家康の祖父、松平清康が、享禄三年(1530)、現在の場所に城を移したもの である。 家康は、岡崎城生まれで、城内に、家康が産湯に使ったという井戸跡がある。 家康は、その後、織田信秀(信長の父) 、そして、今川義元の人質となり、ここを離れたが、十九歳の時、ここに戻って自立し、自領の拡大に努めた。 家康は、元亀元 年(1570)、本拠を遠江浜松城(静岡県浜松市)に移し、岡崎城は嫡男信康に与え
{左}城内にある銅像
たが、信康が自刃したので、重臣の石川数正、ついで、本多重次を城代とした。 家康の関東移封後は、秀吉の家臣、田中吉政が 城主となり、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)、城の東、北、西に、総延長4.7kmの総堀をつくった。 その 後、江戸幕府開設により、岡崎藩が誕生。 石高は五万石前後と高くはなかったが、本多、水野、松平などの家格の高い譜代大名 が城主となった。 ♪五万石でも 岡崎さまは…、と唄われたように、
{左}銘菓 二十七曲り
岡崎は徳川家康公の生誕地であるため、特別な扱いを受け、僅か五万石でも、お城の下まで、船が着くほどだった。 元和三年 (1617)、本多康紀が、三層三階地下一階建て、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ天守閣を建てたが、明治の城取り壊し令により、明治 六年〜七年に城郭の大部分が壊されてしまった。 現在の建物は、昭和三十四年(1659))に復元されたものである。 日が暮れて きたので、今日歩いた道と同名の菓子を買って、赤坂宿からの旅を終えた。 



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!