東 海 道


池鯉鮒宿から鳴海宿




{左}逢妻川
今日は、池鯉鮒宿から鳴海宿までの十一キロを歩く予定である。 名鉄知立駅から、池鯉鮒宿(知立宿)の境に流れる逢妻川まで歩 き、今日の旅が始まった。 知立宿から鳴海宿までに、二つの川を渡るが、一つ目の川は、この川で、もう一つは境川である。  逢妻川に架かる逢妻橋を渡り、逢妻町交差点で、国道1号線と合流した。 ここからしばらく、国道を歩く。 西丘町から刈谷市 になる。 右側の狭い道を入って行くのが東海道と思うが、途中でなくなっていて、 
{左}密蔵院
確かなことは分からない。 道の左手に密蔵院という寺がある。 三河三弘法の第参番で、敷地も広く、ゆったりとしたお寺だった。 一里山新屋敷交差点に 出て、また、国道を歩く。 この交差点のあたりに、一里塚跡の碑があると思ったが、確認できなかった。 一里山は一里塚の別 称で、静岡県や滋賀県でも、そう呼ばれている。 少し歩くと、右側に上州屋があり、その先の今岡町歩道橋のところで、左側の 細い道に入った。 これが東海道で、この先には、
{左}洞隣寺
連子格子の古い家が点在している。 国道から少し入っただけだが、昔の情緒を残していた。 交 差点の左側には、屋敷門がある家があった。  少し歩くと、道は左にカーブするが、その手前の道の左側に、子安観音尊霊場の 石碑と常夜燈が建っていて、その奥にお寺が見えた。 洞隣寺である。 天正八年(1680)の開山、刈谷城主、水野忠重の開基と伝 えられる曹洞宗の寺院である。 道の脇の常夜燈には、寛政八年(1796)と刻まれている。   
{左}中津藩士の墓とめったいくやしいの墓
本堂の隣には、地蔵堂、行者堂、秋葉堂が並んで建っていた。 お堂の裏にある墓地に入っていくと、奥の方に、豊前国、 中津 藩士の墓とめったいくやしいの墓が並んで立っている。 寛保弐年(1742)、帰国途中、今岡村付近で、渡辺友五郎は牟礼清五郎を 突然斬りつけ、二人とも亡くなった。  二人の遺体は、洞隣寺に埋葬されたが、二人の生前の恨みからか、いつの間にか、反対 に傾き、何度直しても傾いてしまうので、墓地を整理し、改めて葬ったところ傾むか 
{左}芋川うどん発祥の地
なくなった、という。 寺から少し行くと、右側に、小さな社と常夜灯が建っている。  そこに、芋川うどん発祥の地と、書かれた木札があった。 江戸時代の東海道名所記に、 「 いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也  」 と、 あったところで、ひもかわうどん(名古屋のきしめん)の源流といえるところだが、現在、そうした名物の店がここにある訳ではない。   傍らの説明板には、 「 江戸時代の紀行文に、 いもかわうどんの記事が多くでてくる。 名物
{左}乗願寺
のいもかわうどんは、平打うどんで、これが東に伝わり、ひもかわうどんとして現代に残り、今でも、東京ではひもかわと呼ぶ。 」 、と書かれていた。  信号のない交差点を過ぎ、左にカーブする手前には、古い家が多く残っている。 その先の左側に、乗願寺という寺がある。  天正十五年の創建で、当初は真宗を内に、外向きは浄土宗としていたが、後、真宗木辺派に改めた。  水野忠重の位牌を祀る。 なお、真宗木辺派の本山は、滋賀県野洲市にある 錦織寺。       
{左}連子格子の門付きの家
少し歩くと、右側に立派な家が現れた。 連子格子の凄く立派な家で、門付きの家だが、閉まっていて覗くことはできない。  江戸時代、ここ今岡町は立場茶屋があったところである。 この先にも、屋敷門があり、格子を黒く塗り、白い漆喰の壁の家があり、門から覗くと、二宮尊徳の像があった。  この先の交差点の手前に倉付きの屋敷門のある家があり、ここを越えると、今川町に入った。 次の交差点で左折すると、名鉄富士松駅で、駅前のロータリーの噴水には、 
{左}今川歩道橋
サッカーを興じるレリーフがあった。 刈谷市はサッカーが盛んな地区なのである。  その先で、県道と交差するが、 今川歩道橋を渡り、その先に続く道に入る。 道は右にカーブし、少し歩くと下り坂になり、前方に国道1号が見えてくる。  国道に出ると、今川交差点で、正面にシキシマパン刈谷工場が大きく見える。 そちらに渡りたいが、歩道橋や横断歩道がない。  道の左側を進むと、下に降りる道があり、国道の下を川と一緒にくぐる。 国道の右側の道に
{左}境橋
入り、シキシマパンの駐車場の前を通り、小さな橋を渡ると、左側にサウナやパチンコなどの店があった。  直進すると、二つ目の川に出た。 三河と尾張の国境に流れる境川で、水もほとんどなく、それ程大きな川ではない。  境橋は東海道の開設時に、三河と尾張の立会いのもとで作られた橋だが、当初は、三河側は土橋、尾張が木橋をほぼ中央でつなぐ継ぎ橋だった。  橋を渡ると、江戸から七番目の尾張国に入る。    
{左}藤原光広歌碑
橋を渡った右側の川岸に、その当時の橋を詠んだ歌碑が残っていた。 詠んだのは、烏丸殿と呼ばれた公家の藤原光広で、寛文六 年(1666)である。 
   「   うち渡す   尾張の国の   境橋   これやにかわの  継目なるらん  」 
その後、橋は洪水で度々流された。 やがて、継橋は一続きの土橋になった。 明治に入って欄干付きになった。 現在の橋は、 平成七年なので、新しいが、利用者はほとんどない。 
{左}名鉄豊明駅
少し先に、愛知万博開催時に開通した伊勢湾岸道路が見える。 ここは、国道1号、国道23号、県道などが交差する交通の要路 である。 東海道は、この道路が並ぶ反対側にある。  街道は下りになり、二百メートルほど先で、国道1号の下にあるトンネ ルをくぐり、左側の道に出て、国道1号に合流する。 ここから、国道を名鉄豊明駅を左に見ながら歩く。 国道1号には車が多 い。  やがて、県道が通る陸橋が見えてくるが、その手前で、道が二又になるので、
{左}阿野一里塚
東海道は左の道に入る。 ここには、 「 国指定史跡阿野一里塚200m 」 の表示板があった。 二百メートル歩くと、阿野一 里塚があった。 道の両側に、一里塚は残っていたが、塚の部分は崩されて、原形を留めているとはいいがたいが、木が植えられ 、小公園のようにして、保存されていた。 左側の一里塚の中に入ると、歌碑がある。 
   「   春風や   坂をのぼりに   馬の鈴   」 (市 雪)      
{左}生き残りの松
ここから、前後(地名)に向かって、上り坂になっているが、 「 春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅 人の心を慰めてくれる 」 と、いう意である。 愛知郡下之一色(現名古屋市)の森市雪の作で、嘉永元年(1848)の名区小景に、 載っている。 その下に、文化五年(1808)の折れた道標があった。 一里塚を出ると、その先の交差点からやや急な坂になり、左 側の豊明小学校の前に、大きな松の木が一本だけあるのは、東海道の松並木の生き残りである。
{左}明治天皇東阿野御小休所跡
その先の左側にある三田皮膚科クリニックの隣の建物は立派なので、足を止めた。 塀に囲まれ、門が閉まっているので、入れな いが、中を覗くと、文部省と書かれた高札、そして、隣に、明治天皇東阿野御小休所跡という石碑が見えた。 明治天皇は、明治 元年から弐年にかけて、東京と京都の間を行き来した。 明治維新で、京都から江戸に遷都するためと、京都に戻り、再度、東京 に戻るためであったが、その際、三田邸で休息をおとりになったようである。    
{左}前後駅前
少し歩くと、前後駅前交差点。 その先の坂部善光寺あたりで、上りは終わった。 左側は、スーパーが入る高層ビルが建ってい て、その一角に、名鉄前後駅がある。 前後という地名は珍しいが、桶狭間の戦いのあと、織田方の雑兵が、褒賞をもらうため、 自分が倒した敵方の首を切り取って、前と後に振り分け荷物のようにして、肩に担いだという、話から名が付いた、といわれる。  神明社の石柱と常夜燈を右に見て進むと、落合公会堂の前に、寂応庵跡の石碑が  
{左}サラブレッドの姿をしたレリーフ
あった。 このあたりは、古い家と新しい家が混在している。 それを見ながら進むと、左にカーブする正面に、マンションが建 つ。 ここで、再び、国道1号に合流した。 前後駅前から千五百メートル位か? 三叉路の交差点の右側に、馬蹄の上に疾駆す るサラブレッドの姿をしたレリーフが立つ。 名鉄の高架をくぐると、右手に中京競馬場駅がある。 中央競馬が開催される土曜 、日曜には、周囲が大混乱するが、平日は静かである。 左側の三番目の角に、香華山  
{左}桶狭間古戦場公園
高徳院の案内板が立ち、右側には桶狭間古戦場100mの表示がある。 東海道は直進だが、桶狭間古戦場に立ち寄る。  道を左折すると、左側に藤田学園本部の橙茶色の立派な建物があり、その隣に、史跡桶狭間古戦場の石柱が建つ、桶狭間古戦場公園があった。  傍らの説明板には、 「 永禄六年(1560)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ、戦死したところと伝えられ、 田楽狭間とか館狭間と呼ばれている。 今川義元、松井宗信、無名の人々の塚  
{左}七石表
があり、明和八年(1771)に七石表が建てられた。 文化六年(1809)には、桶狭間弔古碑が建てられた。 ここが有名な田楽桶狭間である。  」 と、記されていた。  園内に入ると左側に、細長い標石が立っている。 これが、七石表である。  七石表は、今川義元の戦死した場所を明示する最も古いもので、明和八年(1771)十二月、鳴海下郷家の出資により、 人見弥右衛門等により建てられたもので、この標石には、北面に、今川上総介義元戦死所、東面、樋峡七石
{左}今川上総介義元の墓
表之一、南面に、明和八年辛卯十二月十八日、と刻まれている。 その他の七石表も境内にあり、その前に、花が手向けられていた。  七石表の先の樹木に囲まれたところが、義元が亡くなったところと伝えられ、塚になっていたが、有松の人が主唱し、明治九年五月、墓を建てた、とある。  古戦場案内板の脇に、大きな石碑がある。 桶狭間弔古碑と呼ばれるもので、文化六年(1809)五月、津島神社社司、氷室杜豊長が建てた桶狭間合戦の戦記である。    
{左}今川義元の墓
「  あと問えば  昔のときのこゑたてて  松に答ふる   風のかなしさ  」 景 樹 
左側には、香川景樹の歌碑があった。   香川景樹は、桂園派の巨匠で、江戸で己の歌風を広めようと上府したが、迎えられず、失意のまま帰途の途中、ここを通り、今川義元の無念を思って、この歌を詠んだ、という。  義元の墓はもう一つある。 公園の隣の高徳院の斜面にある  
{左}敵味方の戦死者を弔う石仏群
もので、これは、万延元年(1860)、義元の三百忌に建てられたもので、これには、法名が刻まれている。 斜面の左側に、小さな 石仏が並んで立っていたが、その中に、徳本上人の名号碑があった。 寺の石段を上って行き、山門をくぐると、義元本陣の跡と 書かれた石柱が立っていた。  敷地には、敵味方の戦死者を弔う石仏群がある。   桶狭間合戦の跡に建つ高徳院は、昔からここにあると思っていたが、意外に歴史は浅い。   
{左}松井宗信の墓
「 もとは、高野山にあった寺で、空海が高野山を開創して頃、河内国高貴寺より、本尊の高貴徳王菩薩を勧請して建立された寺 だが、明治維新の神仏分離で、高野山にあった多くの院坊が廃寺され、この寺も、同じ運命を辿るところを東京本所吾妻橋の遍照 院の僧侶、諦念和尚が、この地に本尊、仏具、法具等を移転し、存続された。 」 と、いうのが、寺の由来である。 墓地に、 遠州二俣藩主で義元に従った松井宗信の墓があった。   
{左}田楽桶狭間合戦図
桶狭間古戦場といわれるのは二ヶ所、もう一つはここから二キロ程南の名古屋市緑区桶狭間北にある。  それぞれが古戦場と主張しているが、政府は、昭和十二年、これまでの伝承と江戸時代に建てられた七石表を基に、ここを桶狭間古戦場として、国史跡に指定した。  しかし、「 突然の攻撃により、義元の部隊は散り ばらばらになり、ここを抜けて、沓掛方面に逃げた  
{左}高徳院の裏山
部隊が多いが、反対の大高方面に逃げた部隊もある。 両地とも、桶狭間古戦場であり、ここが、義元の本陣とは特定できない。 」 と、異論を唱える学者もいる。  狭間(はざま)と名が付いていることから考えると、林や藪や湿地帯になっているところに、小道が通っていて、見通しが悪いというところだった訳で、特定するのは難しいだろう。  国道に戻り、歩き始める。 この先に、左へ入る細い道があるが、すぐに歩き終わり、国道に合流してしまった。   
{左}有松に入る
一キロ程歩き、大将ヶ根の交差点で、国道を別れて、右側に入る細い道が東海道である。  この道は鳴海宿まで続いている。 江戸時代、間の宿だった有松に入った。  旧有松町、現在は名古屋市緑区有松町である。   池鯉鮒宿から鳴海宿間は、二里三十町(約11km)であるが、江戸時代には、この間になにもなく、特に、このあたりは、樹木が生い茂り、追剥も出る物騒なところだった。   
{左}山車倉
尾張藩は、慶長十三年(1608)、桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から十一戸を移住させ、安永弐年(1125)に、間 (あい)の宿にしたのである。 有松は耕地も少なく、茶屋営業だけでは限界があったため、尾張藩は、副業として絞染を奨励し、 それが、新しい産業に育った。 このあたりは、最近の家が大部分だが、進むに連れて、漆喰で塗られた家が現れてくる。 少し 歩くと、右側に山車倉があった。 高山祭に登場する山車と同様、からくりを演じるすぐれもので、有料だが見学できる。   
{左}井桁屋服部家
その先の左側に、有松鳴海絞会館がある。 合併前の有松町役場跡であるが、絞り商品の展示や絞り技術 の実演を行っている。  有松絞りは、五代将軍綱吉への献上品、絹布に絞りを施した手綱が話題になり、全国津々浦々まで名声 を轟かせ、江戸時代から昭和初期にかけて、活況を呈した。 絞り産業で儲けた富を店先の装飾や家並みに充てることで、反映振 りを競ってきたので、いつの間にか、田舎に京の有松、といわれるようになった。   
{左}淡淡の句碑
その中でも、井桁屋服部家はすごい。 店舗兼住居部は、瓦葺に塗籠造りで、卯達を設け、蔵は土蔵造りで、腰になまこ壁を用い 、防火対策を行っている絞り問屋を代表する建築物である。  その他、井戸屋形、客室部、絞倉、藍倉、土倉、長屋数棟などが 連なっていて、県の有形文化財に指定されている。 街道に沿ったところに、 「  有松や  家の中なる  ふじのは那   淡 淡  」 という歌碑が建っている。 淡淡は、大阪の人で、東京に出て、晩年は、大阪で過ごしたとあるが、この句が、 いつ読まれたかは書いてなかった。   
{左}竹田家住宅
この先にも、昔から有松絞りを生産販売をして来た店が多い。 竹田家の主屋は江戸時代、茶室などは明治から大正時代にかけて 整備されたもので、これまた、絞り問屋の繁栄した様を感じることができた。 その他にも、岡家や小塚家住宅のほか、数多くの 古い建築が残っていて、文化庁の町並み保存地区に指定されている。 漆喰の壁が多いのは、天明四年(1784)の大火で、村の大半 が焼失してしまったが、その後、火災に備えて漆喰による塗籠造とし、萱葺き  
{左}井桁屋の土倉
屋根を瓦葺にしていったようである。 その典型が井桁屋の土倉というえよう。  しかし、絞り産業は、分業制で数多の工程を 経て完成するという、労働集約産業の最たるものなので、バブル期の人件費の高騰を期に、低価額品は、中国に技術移転された結 果、 かってのような活気はなくなった。 有松のはずれは、祇園寺である。 四本木は、右側の山裾に左京山住宅が拡がる。   
{左}平部常夜燈
平部あたりは名古屋のベットタウンで、マンションや団地が立ち並り、開発が進む。 それでも、一本道の旧東海道の両脇には、古い家も散見された。  ここから旧鳴海町、現在は名古屋市緑区鳴海町である。 平部北交差点の左側に常夜燈があり、表面に、秋葉大権現、左側に永代常夜燈、右側に宿名内為安全、裏面に文化三丙寅(1806)正月と、刻まれているが、 江戸時代には、ここが鳴海宿の江戸側入口だったようである。 続いて、下中地区に入る。    
{左}東海道五十三次の鳴海宿
途中の民家前には、飛脚と旅女のレリーフが置かれていたりして、都会に近いの に、昔の面影もかすかに残る道であった。 扇川に架かる中島橋を渡ると、鳴海宿の中心部に入った。 鳴海宿は、天保十四年の 東海道宿村大概帳によると、東西十五町十八間(約1.6km)に、家数八百四十七軒、人口三千六百四十三人、本陣は一軒、脇本陣 は二軒、旅籠の数は二百六十八軒と、かなりの規模の宿場町で、東海道五十三次の浮世絵には、旅籠の様子が描かれている
{左}瑞泉寺
が、平成の今日には、そうした古い家は残っていない。 鳴海は、有松と共に、絞りで知られたところであったが、有松の方が生 産や販売力が向上したので、鳴海と有松との間で、絞りの販売権をめぐって紛争が起こった、といわれる。 鳴海宿に入ると、す ぐ右手にあるのが瑞泉寺で、重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門は、宇治黄檗山万福寺を模したもので、県の指定文化財になってい る。 根古屋城主安原宗範が、応永十一年(1404)に、大徹禅師を開山として、
{左}下郷家
平部山に創建した曹洞宗のお寺である。 文亀元年(1501)に、現在の場所に移建したが、明暦弐年(1656)の火災で焼失。  寛保元年(1741)以降、呑舟和尚により再建され、宝暦五年、堂宇が完成した。  境内には、宝暦六年(1766)に建立した本堂、書院、僧堂や秋葉堂などの伽藍が並び、壮観だった。  その先を右に少し入ると、右側に立派な御屋敷があったので、角の店で聞いたところ、江戸時代から続く下郷家で、今でもこの一帯の土地を所有しているという。  前述の桶狭間の七石表の製作に金を出した家である。 
{左}万福寺
鳴海は、小さな寺を含め、寺院が多い。 正面に万福寺、そして、右側に淨泉寺があった。  万福寺は、永享年間、三井右近太夫高行の創建で、真宗高田派、永禄三年(1560)の兵火で焼失したが、再建され、江戸末期に再々建された。  明治六年(1873)、鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした、と寺の案内にあった。  山門をくぐり、中に入ったが、本堂は大きく立派だった。 街道に戻り、先に進むと、その先は鉤型のように右に曲がっていた。  このあたりからが宿場の中心で、左側の緑生涯学習センターは問屋跡である。 
{左}誓願寺
昭和三十八年に名古屋市と合併前は、鳴海町役場だった。 その先の両側に、商店や民家が建ち並ぶが、古い家はない。  本町交差点を右折すると、幾つかの寺があるが、曲がってすぐ左側にあるのは誓願寺である。  誓願寺は、天正元年(1573)の創建で、本尊は阿弥陀如来であるが、境内に、芭蕉供養塔と芭蕉堂があることで有名である。  芭蕉は、笈の小文の旅の途中、ここに休息している。 芭蕉門下の下里知足は、鳴海宿で千代倉という屋号の造り酒屋
{左}誓願寺 芭蕉堂
を営んでいたが、芭蕉との交流を示す芭蕉の手紙が数通残っている、という。  安政五年(1858)に、彼の菩提寺であるこの寺に、芭蕉堂が建てられた。  芭蕉供養塔は、芭蕉が没した一ヶ月後の元禄七年(1694)十一月十二日に、追悼句会が営まれた折、鳴海の門下達によって、如意寺に建てられた、日本最古の芭蕉碑である。  この供養塔は高さが六十センチくらいの青色の自然石で、表面に芭蕉翁、背面に元禄七年(1694)十月十二日とその没年月日      
{左}日本最古の芭蕉碑
が記されているもので、市の指定史跡となっている。  下里知足の菩提寺に芭蕉堂が建設されると、如意寺にあった芭蕉供養塔も、その脇に移された。  境内には、文政弐年の徳本上人の名号塔もあった。  誓願寺の隣に、聖観世音のお堂があり、その隣に赤い幟が並んでいるのは、曹洞宗の尼寺、庚申山円道寺で、 四百年以上前に創建された寺で、本尊は青面金剛尊(庚申様)である。 
{左}天神社 成海神社旧蹟
庚申坂を上って行くと、道が別れる右側に、天神社 成海神社旧蹟の石柱がある。  天神社は、鳴海城の鎮守として、この場所に祀られ、成海神社の御旅所、とあった。 日本武尊が東征の折、鳴海浦に立ち寄り、 対岸の火高(現在の大高)丘陵の尾張氏館を望見して、 「 鳴海浦を見れば 遠い火高地 この夕浦に 渡らへむかも 」 と、 叫んだと、熱田神宮寛平縁起にあり、成海神社は、これに由来するという尾張氏の神社で、延喜式神名帳にも、登録されて
{左}根古屋(鳴海)城祉
いる古社であるが、根古屋(鳴海)城が築城された時、敷地にかかることから、北方に移された。 神社の左側の道の左の小道に入ると、根古屋(鳴海)城祉があり、現在は、鳴海城址公園になっている。  応永年間(1394頃)に、安原宗範によって築かれた城であるが、その後、今川方の城になっていたが、桶狭間の戦いで、信長軍に攻められて落城し、 織田方の佐久間信盛、信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になった。 
{左}山車倉(鳴海宿本陣跡)
坂を下り、本町交差点まで戻り、ここを右折する。 この通りは、家の建て替えが進んでいて、古い家は壊されてしまっている。  右側の自転車屋辺りが二軒あった脇本陣跡のような気がするが、表示がないので、確認できない。  その先左側の山車倉の前に、本陣跡の表示があった。 鳴海本陣は間口39m、奥行51m、建坪235坪、159畳の規模だった、と案内板にあった。  右側の路地の奥にある如意寺は、康平弐年(1059)に鳴海町上の山で、地蔵尊を本尊
{左}作町交差点
として、青鬼山地蔵堂として開山したが、応永五年(1398)に、無住国師が如意輪観音を本堂に祀った際、当時に移転し、応永二十 年に、現在の寺名になった、とされる。 本堂の左側にある、蛤地蔵堂は尾張国六地蔵の第四番である。 街道に戻り進むと、道 は突き当たり、三差路になっている。 交差点には作町とあるが、地名は、桶狭間の戦い後、鳴海城主を務めた佐久間信盛、信栄 父子から付いた。 東海道はここで右折し、北に向うが、ここから二百メートル位
{左}白壁の大きな屋敷
の道の両脇には、古い家が残っていた。 町はずれ、右側の白壁に黒い板の塀を張り巡らした屋敷は大きかった。 作町交差点か ら五百メートルほど歩くと、三皿交差点で、左右に県道36号が通り、車の行き来が激しい。 東海道は交差点を越えて、北に向 かって進む。 作町まで西に向かっていたのに少し変に思ったが、江戸時代には、鳴海から熱田にかけて、南側は干潟か、海だった ためである。 左手の干潟だったところは埋め立てられて、その面影は残って
{左}成海神社の石柱
いなかった。 少し歩くと、右側に、村社式内成海神社の石柱が建っていた。 神社の創建は朱鳥元年(686年)で、草薙剣が熱田 に還座された時、日本武尊の縁により鎮座された、と伝えられ、根古屋城を築城の際、この東方にある二子山に転座した。  そのまま進むと、右側に丹下町常夜燈が建っていた。 傍らの案内板には、 「 鳴海宿の西の入口、丹下町に建てられた
{左}丹下町常夜燈
常夜燈で、表 秋葉大権現、右 寛政四年(1792)、左 新馬中、裏 願主重因 と刻まれている。 旅人の目印や宿場内の人々及び伝 馬の馬方衆の安全と火災厄除けなどを秋葉社に寄願した火防神として大切な存在だった。 平部の常夜燈と共に鳴海宿の両端に残 っているのは、旧宿場町として貴重である。 」 (名古屋市教育委員会) と、あった。 
鳴海宿はここで終わる。



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!