東 海 道


宮 宿から桑名宿 




{左}宮宿 七里の渡し場
宮宿から桑名宿までは約三十キロ、七里の渡しは国道1号か国道23号を歩くしかないが、どちらの道も東海道でないので、 この区間は電車を利用するのが一般的であろう。 宮宿のある名鉄神宮前駅から名古屋に出て、近鉄の急行に乗ると、一時間足ら ずで桑名駅に着ける。 その他の方法としては、旅行社の開催するツアーで、この区間をチャーターした船で渡るというものが 稀にある。 小生は電車で移動し、旅を続けたが、後日、体験できた。 
{左}尾張名所図会
尾張名所図会には、宮宿の七里の渡し場の様子が描かれていて、道沿いに並ぶ旅籠などの家や岸につながれた船、道を行く交う人 の多さから、当時の賑わいが分る。 尾張藩は、東西は浜御殿の他、浜鳥居の西に船番所、船会所を設け、船の出入りと旅人の氏 名を記録していた、とある。 江戸時代の名古屋港付近は、遠浅の海になっていて、小島に松が生える程度であった。 宮宿には、 七里の渡しの船番所が設けられ、行き交う船の管理を行っていた。 
{左}チャーター船
渡し船は七十五隻、小渡し船四十二隻程だったようで、熱田から桑名までは、風や潮の具合で三時間〜四時間かかっていた、 という。 小生が乗り込んだ船の船室には、二十数名しか座れないが、船室の上のデッキに、十名以上、船尾に五名程度はのれる もので、常日頃は長島の花火大会見物に使われるものである。 船の速さは七〜八ノット、自転車のスピードと同じ時速13キロ 〜15キロで、大変遅く、また、江戸時代と違い、埋め立てられたため、グルーと大回り 
{左}長島温泉遊園地
を余儀なくされ、二時間半かかった。 船から見える景色は名古屋港に出入りする船や岸壁で作業する大型クレーンやつり下げら れるコンテナーなどである。 沖合に停泊する船の近くを抜けて進むと、長島温泉遊園地が見え、やがて、揖斐川と長良川の合流 する地点に着き、川を遡った。 そこから大きな橋を幾つかくぐるが、船の速度は遅く、景色の変化に乏しいので飽きてしまう。 江戸時代には、松の生える小島を縫っての航海だったので、今よりましかもしれ
{左}一の鳥居
ない。 やがて、桑名城の復元された櫓が見え、七里の渡しの終点である、桑名宿の入口である一の鳥居が堤防が邪魔して一部だけ見えた 。 船はその前を通り過ぎ、住吉神社脇の船着き場に着いた。 貴重な体験だった。 桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用し た広域的な舟運の拠点港として、十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達した。 住吉浦 には、全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって、航海
{左}住吉神社
の安全を祈り、浪速の住吉神社から勧請して住吉神社を建立された。 神社前の二基の石塔は、材木商達が寄進したもので、天明八戌申 年十二月吉日と、刻まれている。 境内に山口誓子の句碑があった。 
    「    水神に    守られ冬も   大河なり   誓子   」
以上の話は桑名宿を歩き終えての話で、最初の訪問は近鉄桑名駅から始まった。      
{左}東本願寺桑名別院 本統寺
近鉄桑名駅から東へ真っすぐ歩いていくと、北寺町で、左側に海蔵寺があり、その先を右に入ると、桑名御坊と称せられる本統寺 という寺がある。 東本願寺桑名別院で、徳川家康や明治天皇も宿泊した由緒ある寺院である。 慶長元年(1596)、本願寺第十二 代世教上人により開創され、開基は同上人の長女(教証院)である。 延宝年間の火災で、堂宇が全て焼失したが、桑名の長者、山 田彦左衛門の寄進で再建された。 また、松尾芭蕉が、野ざらし紀行の初旅
{左}本統寺 芭蕉句碑
の折、この寺に宿泊している。 当時の住職は琢恵(たっけい)で、古益という俳号を持ち、北村季吟門下の俳人でもあった。  境内には芭蕉句碑が建っていた。 
   「    冬牡丹    千鳥よ     雪のほととぎす     」 
寺の前はアーケードになっていて、別院商店街である。 外に出ると堀があり、橋の名はいなりばし。 目の前に、赤い幟のお稲 荷さんがあった。 白蔵稲荷大明神といい、創建ははっきりしないが、江戸時代には町年寄三十六人衆を始め、多くの商人の信仰 厚く、火伏せや販売繁昌  
{左}春日神社の大鳥居
を祈った、という。 この南魚町のあたりは、江戸時代には市場になっていたようである。 先に進むと、桑名宗社ともいわ れる、春日神社がある。 旧桑名神社(祭神三崎大明神)と中臣神社(祭神春日大明神)を合祀したもので、神社の入口に立つ青銅の 大鳥居は、高さ七メートル六十センチの大きなものである。 寛文七年(1667)に、桑名城主、松平定重が造らせたもの。 境内に は、文化三年の常夜灯や明治天皇に供した御膳水の井戸が残る。   
{左}春日神社石取祭(いしとりまつり)の山車図
  「   山車総(す)べて   鎧(よろい)皇后   立ち給う    」 (山口誓子)
  「   山車の燈に   夜は紅顔の   皇后よ   」 (二川のぼる) 
という二つの句碑が建っていた。  上記の句は、毎年八月第一土曜日の午前零時から日曜日深夜まで行われる春日神社の石取祭 を詠んだもので、皇后とは、神功皇后で、春日神社の祭神と関係がある。   
{左}春日神社のしるべ石
鳥居の前の左側に大きな石柱がある。 これは、しるべ石というもので、江戸時代の迷子の捜索板である。 左右に、たづぬるかた と おしへるかたと彫られていて、それぞれの石面に、尋ね人の名前と特徴と見つけた場所を書いて貼り付ける、というしくみだ った。 鳥居の前の道は東海道なので、左折して、七里の渡しの船着き場へ向って歩く。 少し歩くと、右側に、史跡七里の渡し の石標があり、そこを右折すると、水門みたいなものがあり、手前の右側は舟溜まり
{左}七里の渡し船着場跡
になっていた。 その反対側に、下に降りるところがあり、それが、七里の渡し船着場跡である。  慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅制度が制定され、宮宿と桑名宿の間は、海上七里を船で渡る渡船と、定められた。  これを七里の渡しといい、この区間を三時間〜四時間で運んだ。 京や大阪に向かう人の他、お伊勢さん詣の人の利用が多かったので、 その賑わいは、いかばかりだっただろうか? しかし、コンクリートの堤防が出来て、渡しの船着き
{左}伊勢神宮の一の鳥居
場は囲まれ、外の風景は見渡せないので、昔の面影を偲ぶのは難しい。 七里の渡しの跡に立つ鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居である。  伊勢国の東入口にあたるため、天明年間(1781〜1789)に建てられ、以来伊勢神宮の遷宮ごとに、伊勢神宮の一の鳥居が移されて、建て替えられてきた。  船着場は、明治に東海道が廃止になってからも、揖斐川上流の大垣との間に、人や荷物の流通があり、客船や荷物船の発着場として利用されてきたが、鉄道の開通と
{左}七里の渡しの常夜燈
トラックの登場で、次第に利用されることがなくなった。  更に、昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事のため、渡船場と道路の間に防波堤が築かれて、旧観は著しく変化し、港としての機能は全く失われた。  昭和六十三年から平成元年にかけての整備修景工事により現在の姿になっている。 一の鳥居の脇に常夜燈(常燈明)がある。  常夜燈は、江戸や桑名の人達の寄進によって、天保四年(1833)建立され、以前は、鍛冶町の東海道筋にあったが、交通の邪魔になるので、ここへ移築された。  昭和三十七年の伊勢湾台風で倒壊した
{左}料亭船津屋
ので、台石は元のままだが、上部は多度大社から移したので、安政三年(1856)銘があると、市観光協会の説明にあった。  江戸時代の旅人は船を下りると、鳥居の前で伊勢神宮の方角を拝み、東海道にでたという。 いよいよ伊勢国に入った。  道を右折し、少し行くと、右側に料理旅館山月があるが、駿河屋脇本陣だったところで、家の前に小さな石標が建っている。  隣の料亭船津屋は、江戸時代に大塚本陣があったところである。 現在の建物は、当時のものでは 
{左}船津屋玄関口
ないが、船津屋は、泉鏡花の名作「歌行燈」のモデルになったことで、有名である。  泉鏡花は、明治四十二年(1709)十一月、講演の為、桑名に来て船津屋に泊まった時の印象を基に、小説「歌行燈」を書いた。  船津屋は格式の高い料理旅館だが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸からかわうそがはい上ってきて悪さをするという噂話が登場する。  桑名宿は、東海道で宮宿に次ぐ二番目に大きな宿場だった。 元禄十四年の東海道宿村大概帳によると、
{左}久保田万太郎句碑
宿内の総家数二千五百四十四軒、宿内人口は、男子四千三百九十人、女子四千四百六十人、計八千八百五十人で、本陣が二軒、脇 本陣が四軒、旅籠は百二十軒であった。 船津屋の建物を囲む塀の一角に、久保田万太郎の句碑があった。 昭和十四年(1939)、 久保田万太郎は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲、歌行燈を書き上げた。  船津屋主人の求めに応じて詠んだものといわれる 句である。 
   「    かはをそに    火をぬすまれて   あけやすき    万    」
{左}大河 揖斐川と長良川
船津屋の裏側に回った先に、前述した住吉神社がある。 そこから川を見ると、揖斐川と長良川が流れ、その先で一つになって流れていく様は巨大で竜を感じさせる。  快晴の今日は臥竜のように穏やかな風景を演出していた。 風景を見ていると、時が刻々と過ぎるので、これではいかんと思い、七里の渡しのところに戻り、東海道の旅を始める。  船着場から春日神社あたりまでは、船宿や旅籠があった所である。 少し歩くと丹羽本陣跡。 丹羽本陣は後藤商店、
{左}東海道五十三次の桑名宿
うどん屋川市などがあるあたりにあったようである。 道を進むと、その先には、泉鏡花の歌行燈と書いたうどん屋があり、その 先の交差点を横断して進むのが、東海道であるが、桑名城の跡に立ち寄ることにした。 安藤広重の東海道五十三次の桑名宿は、 桑名城を背景に七里の渡しの帆掛け舟が描かれている。 交差点を左折したところに、柿安の店があり、そこを越えると、多聞 橋である。 その橋を渡ると、その先には、舟入橋があり、それを渡ると、道の左側に
{左}本多忠勝像
鹿の飾りの兜を被った本多忠勝の大きな銅像があった。 本多忠勝は、徳川四天王の一人で、慶長六年(1601)に、桑名十万石に封 じられると、四層六重の天守をはじめ、多くの櫓や多聞が立ち並んだ近代城郭の桑名城を建て、また、葦が生えた湿地に城下町を 整備したといわれる、桑名の基礎を築いた人物である。 ここは、桑名城の三の丸跡で、右折し、狭い道を進み、左折すると、鎮 国守国神社がある。 本多氏は二代目に移封された後は、松平氏一族に変った。 
{左}鎮国守国神社
この神社は、寛政の改革の老中、松平定信の息子が城内に設けた神社で、桑名藩主になった先祖の松平定綱(鎮国公)と実父、松平 定信(守国公)を祀っている。 そこを右折して進むと、本丸である。 桑名城の天守閣は、元禄十四年、(1701)の桑名の大火で焼 失し、以後再建なされなかった。 その先の小高いところにあるのは、辰巳櫓の跡である。 辰巳櫓は三重櫓で、天守の代わりを していた。 大政奉還の後の慶応四年(1868)、明治政府軍により、松平氏の
{左}歴史ふれあい公園
桑名城は焼き払われ、辰巳櫓も灰燼に帰した。 桑名城の跡は九華公園になっているが、無数の堀の中に空地があるという感じで、 ここに桑名城があった姿は想像できなかった。 中橋を渡り、出たところは、先程の春日神社の前である。 左折し東海道を歩く。  少し歩くと、左側が掘割であるポケットパークがあり、歴史ふれあい公園と名付けられている。 この堀の石垣は、桑名城を囲 んでいた城壁の一部である。 正面の堀川東岸の城壁は、揖斐川に出る川口樋門
{左}石取会館にあった山車
から南大戸橋までの約五百メートルが残っている。 小公園を過ぎると、道は突き当りで、左側にあるのは、南大手橋。 以前は もう少し南にあったようだが、桑名城の出入口のなっていた。 東海道は右折する。 そのまま少し歩くと、右側に石取会館 がある。 中に入ると、石取祭のビデオの上映や祭に参加する山車が置かれていた(入場無料) 春日神社の石取祭は、江戸時代 初期に神社の祭場へ町屋川の石を奉納した神事といわれる。 町内毎に大太鼓一張と鉦を
{左}博物館の壁面にある京いせ道道標
四〜六個持つ山車があり、それが三十数台寄り集まって、東海道などを練り歩き、全車が桑名宗社へ渡祭(とさい)を行うまでの二 日間、おはやしを打ち鳴らし練り歩く。 その音のうるさいことから、日本一やかましい祭といわれる。 交差点の左側には、桑 名市博物館があり、二階に、歴史遺物を展示している(入場無料) 博物館の壁面に、右 京いせ道、左 江戸道と書かれた石の道 標がある。 下の方は欠けているように思えたが、東海道に置かれていたものを移設
{左}京町見附跡(京町公園)
した、とあった。 交差点を渡り、真直ぐ歩くと三叉路になり、右側に赤い建物の毘沙門堂がある。  少し先に京町公園という小公園があるが、そこが京町見附跡である。 見附とは番所のようなもので、ここで、桑名城と宿場に入る人を監視していていた。  東海道はここで左折、更に左折、そして右折するという、鉤型になっていたのであるが、残念ながら、その道はなくなっていた。  街道を戻り、赤い毘沙門堂のところを右に曲がり、よつや通りに入った。 
{左}吉津屋見附跡(桑名市勤労青少年ホーム)
吉津屋町には仏壇屋が多い。 この通りの先の東海道沿いには、寺院がずらーと並んで、建っている。  本多忠勝が桑名城の備えとして、寺院を配置したといわれるが、 人口に比し、寺や仏壇屋が多いのは、川を隔てた長島本願寺の門徒が織田信長に抵抗し、焼き討ちと全員惨殺されたという歴史が、今なお、伊勢門徒として、脈々として続いているように思えた。  横断歩道の信号を押し、しばらく待たされて向こう側へ渡る。 少し先の右側の桑名市勤労青少年
{左}桑名名物のしぐれ蛤
ホームが、江戸時代の吉津屋見附があったところである。 吉津屋門があり、桑名藩士が詰める番所が置かれていたので、 吉津屋見附と呼ばれたが、後に、鍛冶町として独立したので、鍛冶門に変わった、とある。  この先は、城下町や宿場町特有の鉤型になっている。  桑名市勤労青少年ホーム前を右折、その先で左折すると、右側に、桑名名物の佃煮のしぐれを販売している店があった。  その先の四差路を左へ曲がると、民家の前に 説明板があり、鍛冶町
{左}泡洲崎八幡社にある道標
常夜燈跡と、あった。 先程、七里の渡しで見た常夜燈は、ここにあったのである。 このあたりは、入江葭町で、三つ目の道 (大通りに出る手前の道)まで歩き、右折し、道を横断すると、新町に入る。 少し歩くと、右側に教宗寺があるが、その先の泡洲 崎八幡社に道標があった。 天保十三年(1842)に、新町北端に建立されたもので、右 きやういせみち、左 ふなばみち、と書かれ ているが、真中で折れていたので、壊された後、ここに移設保管したのだろう。
{左}十念寺
円光大師遺跡の石碑がある光明寺には、七里の渡しの海難事故で亡くなった旅人の供養塔がある。 光徳寺には、万古焼創始者の 沼山弄山やその後継者の加賀月華の墓がある。 十念寺前に、桑名藩義士森陣明翁墓所の大石柱が建っている。 彼は、桑名藩主、 松平定数の京都所司代在任中公用人として勤皇佐幕に心をくだき、戊辰戦争には松平定数に従い、函館に立て篭もった。 敗れて のち、朝廷より反逆の首謀者を出せと、藩へ命じられたので、彼は
{左}桑名藩義士森陣明翁墓
自ら進んで、全藩に代わって出頭し、東京江川の藩邸で死んだ、という人物である。 
寺の裏の道の反対にある墓地に彼の墓があり、市が建てた碑には、彼の辞世の句、
 「 うれしさよ つくすまことの あらわれて 君にかわれる 死出の旅立  」 
が、書かれていた。 大通りに出ると、右手に伝馬公園が見えるが、東海道は、道の反対側に、左斜めの道 として残っている。  寺の高い塀に沿って進むと、萓町交差点からきた道
{左}顕本寺
に合流。 道の反対にある、日進小学校、日進幼稚園は、七曲見附の跡で、江戸時代には、七曲門があり、番所があったのである。  なお、隣の顕本寺には、四日市代官、山田奉行などを務めた水谷九左衛門光勝の墓がある。 東海道は、このあたりで鉤型にな っていたのだが、道はないので、右に歩き、日進小学校前交差点に出たら、右折する。 東海道は、矢田の火の見
{左}天武天皇社
櫓まで直線である。 少し先の右側にあるのは天武天皇社で、壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が一時を過ごしたとされ る場所に、後年になって創建された神社である。 当初は、隣の旧本願寺村にあったが、天和年間(1681〜1684)に、この地に移さ れたもので、天武天皇、持統天皇と天武天皇の第一皇子の高市皇子が祀られている。 社殿は質素であるが、鬱蒼とした樹林に囲 まれて深閑としていた。 壬申の乱とは、西暦672年、天智天皇の弟の
{左}善光寺一分如来の石柱
大海人皇子が、近江朝を継いだ大友皇子に対し、反乱を起こした戦いである。 大海人皇子は、隠れていた吉野を出て、伊賀を通 って、この地に陣を置き、伊勢や尾張の兵を集め、美濃に進出し、不破で全戰線の指揮をとったが、同行した妻の鵜野皇女(うのの ひめみこ)、後の持統天皇はこの地に留まり、伊勢の勢力を固めたといわれる。 戦いに勝った大海人皇子は即位し、天武天皇とな った。 少し行くと、左側の広場に、善光寺一分如来、世話人万屋吉兵衛と刻まれた、寛政十二年(1800)に建てられた、ボルト締 めになった石碑が建っていた。  
{左}一目連神社
ここまで多くのお寺があったが、慶長の町割りの時、城下の外郭を固めるためだった、とある。 その先の右側に、明治二十年に 建立された道標があり、左 東海道渡船場道、右 西京伊勢道、と刻まれている。 向かいに、一目連神社がある。 珍しい名前で あるが、桑名から北方にある多度大社に同じ名前の神社がある。 多度の一目連神社は、多度大社の別宮で、祭神は天目一箇命 (あめのまひとつのみこと)である。 天目一箇命は、製鉄、鍛冶や金属加工の神 
{左}梵鐘を造る家
である。 天目一箇命の目一箇は、片目という意味のようで、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、 由来するようである。 このあたりは、鋳物に従事する人が多かったことから鍋屋町(現在は東鍋屋町)という名になったとい われるが、そうした人達が多度大社に勧請して、神社を建てたのであろう。 その先に、梵鐘を造る家があり、店のガラス越しに 大小の鐘が置かれていた。 道を越えると、西鍋屋町で、このあたりにも寺が多い。 
{左}立坂神社鳥居
明円寺、教覚寺、矢田町交差点で、国道1号線を渡って、直進すると、善西寺がある。  その先の右側の鳥居は、立坂神社のもので、奥に見える神社は、桑名藩初代藩主、本多忠勝により創建された矢田八幡宮が前身である。  このあたりは、戦災を受けなかったので、古い連子格子の家も残っている。 その先の右側に、火の見櫓があった。  江戸時代の矢田町は東海道の立場だったようである。 久波奈名所図会には、 「  比立場は食物自由のして、河海の
{左}火の見櫓
魚鱗、山野の蔬菜四時無きなし 」 と、ある。 桑名は、物資が四方から集まる商業都市であったことがこの文からも分かる。  このあたりは、八曲といわれる鉤型になっていたようで、その一つがこの角のようである。  その前に、当時あった火の見櫓を再現していた。 ここは桑名宿の西の入口に当るので、西国の大名が通行する際には、桑名藩の役人が出迎え案内をした。  また、旅人を引き止めるため、客引小屋があった、という。 以上で桑名宿は終わる。 



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!