東 海 道


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四日市宿から石薬師宿 




{左}浜田町
前回終えたスワマエ表参道のアーケード街の端から東海道を歩き始める。 駅前の大通りを横切ると、浜田町であるが、四日市は 戦災で中心街は焼失したので、古いものはない。 少し歩くと、小さな川があり、阿せちばしと刻まれた、円筒状の石碑が橋の脇 に建っていた。 少し歩くと、左側に郵便局があり、その隣に、アルミサッシで囲まれた保育園があり、その奥に寺院が見えた。  この寺は、崇顕寺(そうけんじ)で、アルミサッシの脇に、 仏法山崇顕精舎 丹羽文雄
{左}丹羽文雄生誕之地碑
生誕之地 と、書かれた石柱が建っていた。 丹羽文雄は、この寺の住職の長男として生まれた。 戦後、銀座を描いた風俗小説で一世を風 靡 (ふうび)し、親鸞や蓮如などの宗教小説で人間の深い業を描いた。 昭和五十二年(1977)には、第一回の文化 勲章を受章している文壇の重鎮である。 その先に東海道の道案内があり、右折すると、三百メートルで浜田城祉、鵜森神社、鵜 の森公園にいける。 しばらく進むと中浜田町。 古い家が立ち並ぶようになった。 この
{左}小さな祠の地蔵尊
あたりは戦災を免れたのだろうか? 道が右にカーブすると、近鉄線のガードが見えてきた。 諏訪神社から近鉄のガードまでは、約九百メー トルで、ガードをくぐると、南浜田町。  道は右にカーブし、その先で、近鉄内部(うつべ)線と平行する道に合 流した。 左折し、この道を線路に沿って歩くと、赤堀駅前である。 その先右側の連子格子の家の前に、小さな祠に納まった 地蔵様が祀られていた。 古い街並みは続くこのあたりは赤堀集落で、慶応年間(1865〜1868)頃
{左}鈴木薬局(旧鈴木製薬所)
には、居酒屋や 傘屋、種屋、畳屋など、多くの商家が立ち並んでいた、という。 右側に立派な古い建物があり、案内板に、鈴木薬局 (旧鈴木製薬所)とある。 鈴木家は三百年近く続く家柄で、第四代の勘三郎高春が、寛永三年(1750)、蘭学の盛んな長崎に赴き、 漢方を伝授され、 赤万能即治膏や 萬金丹 などの膏薬を製造、販売する旧家である。 この建物は、嘉永五年(1852)に建てられた もので、がっちりした建物には 歴史の重みが感じられた。  
{左}大宮神明社
落合川渡ると、前方が小高くなっているのが見える。 一段高いところにあるのが鹿化川で、川に架かる橋を渡る。  川が周りの土地より高いので、車が勢いをつけて上ってきた。 その先の右側の小さな社は、大宮神明社である。  垂仁天皇の時代に、倭姫命が天照大神を伊勢に遷す際、この社に一時留まったという伝えがあり、 名所記に、 「 松林のうちに、天照太神の社あり 」 と記されている神社である。 前身は五百メートルほど西の岡山の地にあった 
{左}真宗高田派 興正寺
舟付明神で、四百年ほど前に炎上した後、現在の地に移ってきた。 当時の岡山は海に面していた、という。  そこから、二百五 十メートル歩くと、交差点があり、右手に日永駅がある。 このあたりは、相変わらず古い街並みである。 更に、二百五十メー トル程歩くと、右側に、真宗高田派の興正寺がある。 貞観六年(864)の創建といわれる古い寺である。 天白川が寺を囲むように 曲がっているのは、滝川一益が堀の役目をするようにした、といわれ、昔の人は、滝川     
{左}日永神社
堤と呼んでいた。 その先の小高いところを流れているのが天白川で、橋を渡ると、両聖寺がある。 信号交差点を渡ると、右手 にあるのが日永神社で、名所記に 、 「 ひなの村。 この村にも太神宮の御やしろあり 」 と、記されている神社で、昔は南神明 社といった古い神社だが、創建の時期は分からない。 神戸藩主本多家の崇敬が厚かった神社であるが、明治四十年に周囲の神社 を合祀して、現在の名前になった。 境内の片隅にある石柱は、日永追分の神宮
{左}日永追分にあった道標
遥拝鳥居の傍らに立っていた道標である。  案内板には 「 嘉永弐年(1849)に現在の道標に替えられた時、この道標が不用になり、近くの追分神明社に移され、明治の神社統合により、追分神明社が合祀された際、道標もここに移されたと推定される。 」  とあった。  石柱の正面に、 大神宮いせおいわけ 、右側に、 京 、左側に、 山田 、裏面に、 明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 專心 、と刻まれていて、明暦弐年(1656)に、專心という僧侶により、建てら  
{左}日永一里塚跡碑 
れた。 隣にある長命山薬師堂の薬師如来像は、平安末期から鎌倉期のものといわれ、市の有形文化財である。 少し歩く と、左側のたばこ屋の向かいにある倉庫の横に、日永一里塚跡の碑が建っていた。 左側に、一本立っている松の木は、松並木の 生き残りである。 この道の車の行き来が多いのは、平行する国道を避けた車が流入するからである。 信号交差点を過ぎると、 右側に伊勢みそ、伊勢蔵しょうゆと書いた看板の店があった。 やがて、国道1号線   
{左}日永の追分
と合流したが、日永神社から千五百メートル位だろう。 国道を百五十メートル歩くと三差路になるが、そこが日永の追分である。  日永の追分は伊勢参宮道との分岐点であった。 ここは四日市宿と石薬師宿の間にあることから、間の宿とよばれ、周辺 には多くの旅籠や立場茶屋などが並んでいた、といわれるが、自動車が行き交う三差路の真中になってしまっていた。  車に注意して渡ると、伊勢神宮の大きな鳥居がある。  鳥居は、安永三年(1774)、久居の出身の  
{左}日永の大鳥居
渡辺六兵衛という商人が、江戸から京都に行く途中、ここから伊勢神宮を遥拝するのに、鳥居がないのは残念!!と、この土地 を購入し、江戸の伊勢出身者に募って建立したもので、桑名の一の鳥居に対し、二の鳥居といわれるもの。 伊勢神宮の遷宮に合 わせて、二十年ごとに建て替えられた二の鳥居が運ばれ、今後二十年間ここで祀られる。 鳥居の脇には、常夜燈や道標が建って いる。 嘉永弐年(1849)建立の道標には、右、京大坂道、 左、いせ参宮道、と  
{左}嘉永弐年建立の道標
書かれていた。 日永追分から右に分かれる道が東海道(京大坂道)で、現在は国道1号線になっている。 ここを左へ行くのがい せ参宮道(伊勢道)で、伊勢神宮に至る。 昔の伊勢街道は、鳥居の下を通っていたが、道路改修の際、現在のように道がずらされ、三角地は小公園になった。 鳥居の脇に湧き水がある ので、地元の人達がタンクを持って水汲みにきていた。 小生も下に降りて、手元のペットボトルに注ぎ、泉の水を飲んでみると なかなか美味しかった。 
{左}追分まんじゅう 岩嶋屋
ここは道標通りに右へ行くと、すぐに近鉄追分駅がある。 近鉄内部線の踏み切りを渡ったら、すぐ左の細い道に入る。 曲がって すぐの右側に、追分まんじゅう岩嶋屋がある。 この道が東海道で、このあたりが、小古曽集落である。 一本の静かな道が続く が、少し歩くと三叉路になる。 ここは右で、そのまま歩くと大蓮寺前に出る。 続いて、慈王山観音寺がある。 この寺は禅宗 の一派、黄檗宗の末寺で、山門は四脚門形式で、屋根の両端に異国風のマカラを上げて
{左}慈王山観音寺
いた。 隣の細道の奥に、小許(古)曽神社(おごそじんじゃ)がある。 延喜五年(905)の延喜式神名帳に記載されている古社である 。 その先、道が右へ直角に曲がるが、そのまま奥に進むと願聖寺がある。 道は左へ曲がる。 直角に曲がっているのは、昔大 きな寺の境内があったからといわれる。 その先で交差点に出る。 東海道は交差点を越え、正面に見える病院に向かって歩くと、 小古曽三丁目の交差点に出る。 病院の前の二本の松は、街道名残の松と
{左}内部川に出る
いわれ、昔は松並木であった、という。 道の左奥は、近鉄の内部駅で、東海道は、交差点を渡って、向こう側の道へ入る。 少 し歩くと、内部川岸に出た。 内部川は、古には、三重川と呼ばれたようで、万葉集の第九巻に、 「 わが畳 三重の河原の磯 うらに 斯くしもがもと 鳴くかはづかも 」(伊保麻呂) と、詠われている。 江戸時代には橋があったというが、道はここ で終わっていた。 しかたがないので、左側に見える国道の内部橋を渡り、対岸へ渡った。   
{左}采女町に入る(振りかえって写す) 
対岸は、四日市市采女町。 采女とは、宮廷で天皇に仕えていた、給仕など雑用をする女官のことで、地方豪族から未婚の美女がつかわされた。  地名の由来であるが、雄略天皇に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得て、この地の名前にした、といわれている。  橋を渡り終えたら、右側の階段で下に降りて、国道の下をくぐりぬけ、直ぐに右折すると、国道に平行する小道で、 青い橋で川を渡ると、左側にマックスバリューの駐車場が見える。 駐車場の      
{左}金比羅堂
先で左折すると東海道で、ここから杖衝坂を上り終えた先まで残っている。  マックスバリューを左に見ながら通り過ぎ、采女集落を歩く。  突き当ったところで右折し、そのまま、進むと国道に出るが、それでは行きすぎるので、その手前の左の道に入る。  少し行くと、正面の小高いところに、金比羅堂が建っている。 金比羅堂の境内には、日本武尊(やまとたてるのみこと)の墓と、伝えられるものがあった。  ここから杖衝坂の登りが始まるが、坂には日本武尊にちなむ伝説がある。 古事記によると、日本武尊は幾多の苦難の末に東国を平定し、帰途についた
{左}杖衝(つえつき)
が、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、深手を負った。 大和に帰るため、伊勢国に入り、このあたりまで来たとき、 急坂で登れなくなり、持っていた剣を杖してようやく登ることができたことから、この坂を杖衝坂と、名付けたとある。  伊勢名勝志にも、 「  杖突坂 采女村ニアリ官道ニ属ス、伝へ云フ倭武尊東征ノ時、桑名郡尾津村ヨリ能褒野ニ到ルノ時、 剣ヲ杖ツキ此坂ヲ踰エ玉フ故ニ名ヅク・・・・ 」  と、記されている。 金比羅様の前を過ぎると、坂は左右にカーブし、 勾配が急に険しくなる。 杖衝坂の長さは、二百メートル程であるが、高低差が五十〜六十  
{左}杖衝坂の石柱と芭蕉句碑
メートルと、かなりの急坂である。 一般車両は国道を通るが、地元民の車が坂にかかると、ゆっくりゆっくり登っていくので、かなりの傾斜であることが分かる。  坂の中腹には、昭和四年(1929)に、県が建てた杖衝坂の石柱があり、その先に芭蕉句碑があった。  芭蕉の笈の小文に、 「 貞亨四年(1687)、 美濃より十里の川舟に乗りて むかしも桑名よりくはでと詠る 日長の里に馬かりて 杖つき坂をのぼるほどに 荷駄打ちかへりて 馬上がり落ちぬ  」 、とあり、   
{左}村田鵤州(かくしゅう)が建てた芭蕉句碑
「 歩行(かち)ならば  杖つき坂を  落馬かな  」 という、季語がない 句を詠んでいる。  芭蕉の句意は 、「 歩いて登ればこんなしくじりをしなかったのに、庶民(芭蕉を指す)の身ながら、おこがましくも馬に乗ったばっかりに、急な坂で、荷鞍が打ち返り、落馬してしまった。  この坂は遠い昔、景行天皇の皇子、日本武尊が重い病をおして、都に帰りたい一心から、腰の剣を杖にして、吾が足三重に曲がる程疲れたとおっしゃりながらも、あえぎあえぎ越えられたのだった。  歩いてのぼればよかったのに、もったいないことをした、という意。   
{左}二つの井戸
句碑を建てたのは、村田鵤州で、宝暦六年(1756)のことである。  その先の二つの井戸にはふたがかけられているが、江戸時代には、四季を通じて湧き出る井戸だったという。  東海道の旅人は渇きをいやし、近隣の家々では朝夕この井戸の水を求めてやってきた、とあった。  日本武尊は、さらに、少し進んだとき、 「 吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり 」  と言い、その地を 「 三重 」 というようになった、と伝えられる。 
{左}血塚社
これが三重郡(県)の由来である。 急坂を登りつめると、血塚社がある。   日本武尊が坂をようやくの思えで登り終え、血止めをしたところといわれ、前述の伊勢名勝志にも、 「 側ニ血塚アリ尊ノ足 ヨリ出デシ血ヲ封ゼシ処ナリト云フ 」  と、書かれている。 杖衝坂は、自動車をはじめ、歩行者にも難所であったので、昭和 の初期、丘陵の北側中腹にゆるやかな坂道を新設し、これが現在の国道1号線となった。 
{左}采女一里塚跡
坂を上りきる手前から、右側に自動車が行き来するのが見え始め、上りきった所で、国道1号線と合流した。 その先には、飲食 店が二軒とコンビニがある。 旧東海道にはないが、国道となると、お店もあった。 采女一里塚は、国道1号線と合流した地点 の国道の右側の出光のガソリンスタンドとマルエイ設備の間にあるが、そこに行く横断歩道はない。 車のこないのを確認して、 右側に渡った。 その先の左側に、豊冨稲荷神社が見える。 寛治弐年(1088)の創建で、 
{左}豊冨稲荷神社
参勤交代の大名が通行する時は、庶民や旅人はここで迎えたという土下座場があった、という。 道の右側を六百メートル程歩いた ところで、采女の信号交差点に出たので、 国道を横断し、道の左側に出て、国道を歩く。 なお、この交差点を左折し、同じく らい歩くと、国分の集落があり、西の畑の中に伊勢国分寺跡があるはずである。 ここから先は自動車販売店やガソリンスタンド が並ぶが、すぐに鈴鹿市になる。 
{左}国分町交差点
国分町交差点で、左の道に入るが、これが東海道である。 右側に二つのお堂がある前を通り、少し歩くと下り坂になり、また、 国道1号線とぶつかる。  そのまま進むと、大谷の交差点で、信号手前の右手にある地下道を使って、国道の反対側に出る。  国道の反対側に出たら、国道右側の歩道に沿って進む。 右側に自由が丘という団地が続く。 団地が終わるあたりから、道は左 にカーブを始める。 川を渡ると、国道は上りながら大きく左にカーブするが、中山道
{左}広重の東海道五十三次石薬師宿
は右の細い道である。 団地の端から百メートルくらいだが、ここが石薬師宿の入口である。安藤広重の石薬師宿の絵には、石薬 師寺とその後ろの山を背景にした数軒の藁屋根の家が描かれている。 カーブする国道の手前で、右側の細い道に入ると、東海道 石薬師宿の石碑が建っていて、その傍らに、信綱かるた道と称して、佐々木信綱の歌の色紙が掲げてあった。 「 四日市の 時 雨(しぐれ)蛤 日永の 長餅の 家土産(いえずと)まつと 父は待ちにき 」      
{左}北町地蔵堂
その先の左側には、延命地蔵が祀られている北町地蔵堂がある。 祀られた経緯は分からないようだが、江戸時代からのもののようである。  石薬師宿は、元和弐年(1616)に、四日市宿と亀山宿の間が長いため作られた新宿である。 幕府領(天領)であり、 宿場ができるまでは高宮村と呼ばれていたが、宿場ができてからも、家数は二百四十一軒、宿内人口は九百九十人と、宿場の規模は小さかった。  本陣は三軒で、脇本陣はなく、旅籠は時代により数は変わるが、十五軒だった。 旅籠に比べ、百姓が百三十 軒と、広重の絵の通り、農村的な性格を有して
{左}大木神社
いたのである。  ここから少しの間、上り坂である。 上りきったあたりから石薬師宿である。 右手に入って行くと、大木神社 がある。 大木神社は、延喜式に記されている古い神社で、東京遷都の時には明治天皇の使者が訪れ、玉串代を納めている。  また、蒲冠者といわれた頼朝の弟、源範頼とゆかりのある神社である。 ここで小休止。 四日市駅で買ってきた弁当を食べ、 日永追分でペットボトルに汲んできた水を飲んだ。 なかなか美味しい水なので、わざわざ
{左}佐々木信綱の歌碑
汲みにくる人の気持が分かった。 境内にある石碑には、 「 大木神社に詣で侍りて 文学博士源信綱 」 とあるが、佐々木 信綱のことである。 
「 月ごとの 朔日(ついたち)の朝 父と共に もうでまつりし 産土(うぶつち)のもり   冬をおへる 森木木のかけらみて あしきまつらふ神の恵を  」 という歌が刻まれていた。 
街道に戻って、また歩き始める。 
{左}石薬師宿本陣跡 小澤家
右側に立派な建物が見えてきたが、本陣であった小澤家である。 昔はもっと広い屋敷だった、というが、国学者、萱生由章はこ の家の出で、元禄の宿帳には赤穂藩浅野内匠頭の名も見える、と案内にあった。 旅籠は、本陣を取り囲むように建っていたよう で、斜め前には、問屋の園田家があった。 あと二軒の本陣は、小学校のあたりにあったようである。 天野記念館は、タイム レコーダーで、有名なアマノ(株)の創業者が、ふるさとのために建てて贈ったもので、
{左}石薬師文庫
その隣にある建物は、石薬師文庫で、その前にある四角な石碑には、佐佐木信綱と佐佐木幸綱の歌が刻まれている。 佐佐木信綱 は、明治から大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として、万葉集の研究にあたった人物で、佐佐木幸綱は孫である。 その脇に、 道路元標を記念した石碑がある。  この建物は佐佐木信綱が寄贈したもので、文庫を贈るにあたり、
{左}佐佐木信綱資料館
「 これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために  」 、という歌を詠んだが、建物の右側に、地元の人達 は、昭和四十年、信綱死後二年祭に上記の歌を刻んだ記念碑を建てた。 碑その前には、別の道路元標があった。 文庫の左側の 連子格子の二階家が、信綱の生家である。 信綱は、一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごした。 家の前には、 信綱の歌碑があった。 生家の向こうには、佐佐木信綱資料館がある。 
{左}浄福寺
その先の左側にある浄福寺は、室町時代の開創、真宗高田派で、ご本尊は阿弥陀如来で、佐佐木家の菩提寺であった。 山門入口 の左側には、佐佐木信綱の父、佐佐木弘綱の記念碑があり、彼の歌が刻まれている。 道はその先、左にカーブし、その向こうに は国道を跨ぐ瑠璃光橋がある。 橋を渡ると、右手に石薬師寺がある。 東海道名所図会に、 「 高宮山瑠璃光院石薬師寺・・  」 、とある寺で、石薬師宿という名は、この寺から付けられた、という。      
{左}石薬師寺
「 石薬師寺は、奈良時代の神亀三年(726)、修験道の僧、泰澄がこの地を訪れ、堂を建てたのが始めで、弘仁三年(812)、弘法大 師が、自ら薬師如来像を刻んで、開眼供養をされた。 このことが時の帝、嵯峨天皇の耳に達し、天皇は直ちにこの寺を勅願寺と したので、堂坊も整い、塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達した。 」 、と伝えられる、古い寺である。 本尊は、石仏薬 師如来で、菊面石に彫刻してある、という。 天正三年(1575)、織田氏の兵火で、
{左}佐佐木信綱歌碑
諸堂坊舎は悉く灰燼に帰したが、御本尊は難を免れた。  慶長六年(1601)、伊勢神戸城主の一柳監物により建てられた本堂は、桁行三間、梁行四間の寄棟造り、本瓦葺きで、一間の向拝がつくものである。  佐佐木信綱は、昭和七年八月、この寺を詠んでいる。  
  「 峰時雨 石薬師寺は広重の 画に見るがごと みどり深にし 」 
境内には西行法師、一休禅師、松尾芭蕉の歌碑が建っていた。 
これで石薬師宿は終わりである。  



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!