東 海 道


石薬師寺宿から庄野宿 




{左}蒲冠者範頼之社
石薬師寺宿から庄野宿までは2.7kmと短い。 石薬師寺の山門を出て、まっすぐ(東方面)行くと、左側に、蒲冠者範頼之社 と、書かれた石柱が建つ神社がある。 蒲冠者範頼は、源頼朝の弟であるが、武道、学問に優れていたので、それらの願望成就の 神様として祀られてきたもので、地元では、御曹子社と呼んでいる。 神社の南約六十メートルのところに、蒲桜と呼ばれる、ヤ マザクラがある。 伝聞によると、 「 寿永年間(1182〜1184)の頃、源範頼が、平家
{左}蒲桜
追討のため、西に向かう途中、石薬師寺で戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにさしたところ、芽を出して、この桜に なった。 」 、といわれ、東海道名所図会に、 「 名馬生食の出し所はここならむとめぐりたまひ 馬のむちを倒にさしたまふ 、後に枝葉栄へり 」 、とあるのが、これだ、という。 蒲桜は、範頼ゆかりの桜で、俗に、逆桜といわれるが、ヤマザクラの 一変種で、学術上珍しいもので、白色から淡紅色で見事だという。 街道に戻り、庄野宿に向かう
{左}石薬師一里塚跡
と、寺の前からなだらかな下りになっている。 坂が終わると、左に古い家があるところで、道が二股になっている。 左の道を そのまま行くと、川に突き当たるが、江戸時代にはここに土橋がかかっていたが、今はないので、道を戻り、右の坂道を登ると、 蒲郷橋がある。 橋を渡ると、左側に、大きな石標と常夜燈、そして、案内板がある。 ここは、石薬師の一里塚があったところ で、江戸時代には榎の木が植えられていた。 昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れたので、
{左}農道のような道
当時の面影はなかった。 東海道は、JR関西本線の線路を斜めに横切る形で、道ができていたが、その道はすでにない。  しかたがないので、JRの線路下のガードをくぐり、右に曲がり、左手に田圃が展開する農道のような道を行く。  道は左にカーブし、国道1号に沿って行くが、すぐに国道1号下のガードをくぐる。 左、右とカーブする道を歩き、JR関西線の踏切手前で、左へ曲がって川を渡る。  そのまま進み、伊勢国一之宮、椿大神社に行く道の陸橋下をくぐる
{左}加佐登交差点
と、国道1号線に合流する。 この道が東海道とはいえ、少し分かりづらい。  短い区間なので、一里塚から直接国道に出てしまった方がよいのかもしれない。 庄野宿の入口までは千二百メートルほどであるが、鈴鹿川を左手に見ながら国道を歩く。  加佐登交差点で、国道は左にカーブしながら上っていくが、右の道に入り、加佐登に入る。  JRの踏切を越えると、四差路にでる。 東海道は四差路を左折し、加佐登駅前を通り、保育園の先で左折して、踏み切りを
{左}加佐登神社
渡り、五百メートルほど歩くと、庄野宿の入口に出る。 小生は、ここで寄り道をして、加佐登神社へ向かう。 四差路をまっす ぐ進むと、七百〜八百メートル程先に加佐登神社がある。 この地は景行天皇が行在所を置いた所であり、高宮の里ともよばれて いる。 加佐登神社由来記によると、 「 ここはもとは御笠殿(みかさどの)社といい、ヤマトタケルが最期 まで持っていた笠と杖をご神体として祀った。 」 とある神社で、日本武尊と天照大御神を祭神としていたが、     
{左}白鳥塚ー日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓
明治に入り、他の神社が合祀され、現在の名前になった。  神社の裏には、日本武尊の墓を造り葬ったところ、タケルの魂は白鳥となって大和へ向かって飛び立って行った、という伝説のある白鳥塚がある。  白鳥塚古墳は、東西七十八メートル、南北五十九メートル、高さ十三メートルの三重県下最大の円墳で、墳丘には葺き石が一部残っている。  なお、日本武尊の墓は各地にあり、この先の亀山市の能褒野には御陵がある。 道を更に行くと、鈴鹿フラワーパーク
{左}荒神山観音寺
の先に、荒神山観音寺がある。 寛治元年(1087)に創建された寺で、真言宗御室派に属し、本尊は十一面観世音菩薩。  往古は、神事山といったが、のち、高野山の一寺の名をとって高神山に改めた。 春日局が、銘入りの吊り鐘と五体の仏像を寄進している。 奥の院の三宝荒神は、春日局と異母弟の順海上人が礼祭りしたものである。  慶応弐年(1866)四月八日、博徒の神戸の長吉と桑名の穴太徳の縄張り争いから、寺の裏山で死闘つくした事件が、  
{左}吉良の仁吉碑
後の世に、吉良の仁吉が神戸の長吉を助けて男を挙げたという、浪曲、荒神山の血煙り となり、この寺を 有名にした。 奥の院の隣に、吉良の仁吉碑があった。  境内には、右下久保、左深○道と刻まれた道標もあった。 ここまで の往復は、五キロほどで、約一時間半である。 なお、白鳥塚や荒神山に立ち寄る場合や加佐登駅を利用するのでなければ、加佐 登に入らず、国道そのまま進み、次の庄野北交差点で右折し、最初の信号を左折するコースをお勧めする。 ただし、庄野宿の入 口が分かりずらいので、右手に日本コンクリート工場が現れるのを   
{左}庄野宿入口
確認しながら歩くとよい。 やがて、庄野宿の石碑と案内板が見えてきた。  庄野宿は、江戸から四十五番目の宿場であるが、宿場ができたのは、寛永元年(1624)と、東海道では一番遅い。  宿場は南北八町(約1000m)の長さで、加茂町、 中町、上町からなっていたが、総家数二百十一軒、宿内人口八百五十五人、本陣は一軒、脇本陣が一軒、 旅籠は十五軒しかなかった。  天領(幕府直轄地)だったこの地に住む人と鈴鹿川東の古庄野から移住させられた  
{左}広重の庄野の白雨(にわかあめ)
人を合わせ、七十戸で宿場を立ち上げた、という。  草分け三十六戸、宿立て七十戸 、といわれる言葉に、宿場作りの難航振りがうかがえる。  庄野宿を浮世絵で描いたのが、安藤広重の庄野の白雨である。 五十三次中の傑作とされ、この宿を雨の中を急ぐ旅人と薮の中の数軒の人家という構図で描いている。 宿の入口の石柱から上り坂になっている。  道の両脇には古い家が残る。 広重の絵は、斜めに矢のように降り注ぐ夕立、あわてて先を急ぐ旅人だが、
{左}庄野宿資料館
この後、歩いてみても、このような急な坂道はなかった。 当時は急坂だったのか、創造したものか?  庄野は、今でも格子戸のある家が多く、古色蒼然とした町並が続いていた。  少し歩くと、左側に立派な連子格子の建物があったが、 江戸時代に、油問屋を営んだ小林家で、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成十年に庄野宿資料館として公開したものである。  資料館には、庄野宿に残る膨大な宿場関係資料を展示している。 その先の民家の壁に問屋
{左}問屋場跡の案内板
場跡を表示した案内板があった。  問屋場は御伝馬所ともいい、問屋二名、年寄四名、書記(帳付)、馬差各四十五名が半数で交替してつめていた、とある。  庄野宿は、四日市宿と亀山宿間が長かったので、新設された宿場であるが、 石薬師宿からわずか三キロと短い上に、伊勢詣の旅人達は手前の日永追分、あるいは、この先の関宿で、伊勢街道に入ってしまうため、通行量が少なく、 また、宿泊者は三分の一と、大変少なかった。 宿場の経営は難しかった
{左}庄野集会所
ようで、幕府は、宿場の不振を理由に、文化十二年(1815)、石薬師と庄野の二宿に対し、配備しなければならない人足百人、伝馬百疋の定めを半減させ、人足五十人、伝馬五十疋に削る処置を行っている。  右側の庄野集会所の前に、庄野宿本陣跡の標柱があり、   「 本陣は、寛永元年(1624)には沢田家が担当し、 間口十四間一尺,奥行二十一間一尺、二百二十九 坪の家であ った。 (以下略)  」  と書かれていた。 隣りには、距津市元標九里拾九町 と、
{左}郷会所跡
書かれた道路元標が建っていた。 これによると、亀山へは二里三町である。 交差点の右角に、高札場跡の表示があった。  交差点を越えて少し行った右側の床屋の壁に、郷会所跡の表示がある。 郷会所は助郷の割当を受けた各村の代表(庄屋や肝煎)が集会する場所だったが、 江戸後期になると、助郷人馬の割当が多くなり、減免陳情のための会合が繰り返された。  その先、右奥にお寺がちらりと見えたが、通り過ぎると、右側に、延喜式内川俣神社と、  
{左}延喜式内川俣神社
彫られた大きな石柱があり、常夜燈には、天保十五甲辰歳小春、と刻まれていた。 川俣神社の境内の右側にある巨大 なスダジイは、ブナ科の常緑樹で、樹齢三百年、高さ十一メートル、幹周りのの古木で、県の天然記念物に指定されている。  街道に戻り、少し歩くと、入口にあったのと同じ、庄野宿の石柱が現れた。 ここで庄野宿は終わりのようで、あっけない終了 であった。 今日は近鉄四日市駅から約十五キロ歩いてきた。 時間的にはまだゆとりがあるが、この先はかなりの距離があるの で、加佐登駅から関西本線を利用して、自宅に帰った。       



     

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