東 海 道


庄野宿から亀山宿 




{左}汲川原町の立体交差
今日は加佐登駅から亀山宿を経由して、関宿まで歩く。 庄野宿はすでに訪問済なので、朝の光を浴びた家並みが美しいと思いながら、通り過ぎた。  庄野宿の石柱を過ぎると、庄野宿が終わり、そのまま進むと汲川原町で国道と交差する。 立体交差になっているので、そのままでは進めない。  国道1号を歩き、交差点を越え、ガードをくぐり、反対側に出て、右折し、左側の道に入る。  次いで、国道1号をガードでくぐり、反対側にでる。 この先は、東海道が国道
{左}平野道道標
1号と平行しているが、亀山まで残っている。 田畑の道を道なりに行くとすぐに集落に出た。 江戸時代の汲川原村で、左側の民 家の角に、平野道の道標があった。 道の反対に高札場があったようであるが、その面影もない。 また、見たところでは古い家 はなかった。 道は多少カーブしているが、バス停に沿って歩いて行く。 左側に、本願寺派の真福寺があり、少し行くと、道の 左前方に大きな椿の木があり、椿の横に女人堤防碑があった。   
{左}女人堤防碑
鈴鹿川の洪水に悩まされていた村民が、神戸藩に堤防の補強を願い出たが、対岸の神戸藩の城下町を守るため、堤防の補強は許可されず、 打ち首覚悟で六年の歳月をかけ、約四百メートルの堤防を造った。 今から百七十年前の文政十二年(1829)のことである。  男性が作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造った、と言われる。  現在は所どころで、道路により分断されているようすだった。 女人堤防碑の近くに、従是東神戸領と刻まれている
{左}従是東神戸領を示す領界石
領界石と燈籠が建っていた。 領界石は亀山藩中富田との境界からここに移設したものらしい。 右側には、山神碑と常夜燈があ ったが、山神碑は江戸時代からここにあった、という。 手洗石は、文化十年(1813) のもので、その他、常夜燈もあり、道の裏に は古墓群があった。 中富田町(旧中富田村)に入り、少し行くと、三叉路になったが、ここは右に行く。 百メートルほど歩く と、左側に、先程と同じ、式内川俣神社があり、街道に背を向けて、社殿が建っている。 
{左}式内川俣神社
鳥居の左に、大正十五年の常夜燈があり、右側の石柵の中には、中富田一里塚跡碑と従是西亀山領 と書かれた領界石が建っていた。 享和三年(1803)発行の東海道亀山宿分間絵図によると、汲川原村との堺に、領界石が置かれ、 その右(西)に、中富田一里塚、高札場、そして、川俣神社の順にあったことや、高札場の前には、大名や公家を接待する御馳走場 があったことが、描かれている。  境内には、山神碑や安政三年の手洗石がある。 
{左}常念寺
樹齢六百年の楠の大木もあった。 西富田町(旧西富田村)に入ると、両脇に住宅地が続く。  右側の常念寺は天台真盛宗の寺院で、かって、ここには、延命地蔵尊を祀る平建寺があったが、安政地震後、常念寺が移転してきた。  三叉路に、ひろせ道と書かれた道標があった。 上り加減の道を鈴鹿川に沿って進み、前方に見える堤防が近づくと、登り坂の左側に、川俣神社が、また、あった。  川俣神社が多いのは、各村が水害の害から逃れようと建てたことが     
{左}川俣神社
これだけの数になったのだろう。 鳥居の脇にある常夜燈は、慶応弐年(1866)のものだが、元は、大筒川辺にあったものらしい。  近くの道標には、右 ひろせ 、左 はたけ と、刻まれている。 境内に入ると、神戸城主だった織田信孝(信長の子)が愛した、無上冷水井は既になく、その跡の石碑が建っていた。  その他、庚申塚、献燈(1803年)、座標の石柱、和泉橋の柱、などがあった。  堤防に上ると安楽川が見え、対岸に東海道が続いている。 江戸時代には、真っ
{左}右のぼり道の道標
直ぐ行ける土橋があり、出水の時は渡しとなった。 左手の川の下流に和泉橋があるので、そちらに向かう。  河川敷では子供が野球に興じていた。 橋を渡るとすぐ右へ折れ、堤防の上の道を川に沿って百メートルほど進み、川と別れ、左へカーブする道に入ると、和泉町。  古い家はほとんどない。 右にカーブする手前の右側の狭い道の両側に、道標があった。 左は江戸時代のもの、右は大正三年のもので、両方とも、右のぼり道と刻まれている。   
{左}明治天皇御小休所碑
その先の左側には、地蔵堂があるが、先程の道標を含めて、江戸時代から現在地にあった、という。 その先は小田町だが、集落 が続いているので、区別はできないが、ここにも、古い建物は残っていなかった。 右側の小高いところに、極楽山地福寺があ り、寺の右手の空地に、明治天皇御小休所の碑が建っていた。 その近くに、和泉橋旧橋の主柱が残されていた。 道を下り、交 差する道を横断すると、右側に踏切が見える。 道を直進し、線路沿いに進み、踏切   
{左}井田川駅口交差点
の前を通ったら、右、そして、左、また、右とカーブを繰り返し、井田川駅の手前で右折して線路を渡り、三叉路に出たら、そこ を左折する。 道の右側に、小さな祠があり、石仏が祀られていた。 少し歩くと、左手に、井田川駅があるが、そこを右折し、 直進すると、井田川駅口交差点で国道1号線に出た。 東海道は、直進なので、歩道橋を渡り、反対側に出ると、右手にコンビニ があり、その先にすき家がある。   
{左}茶臼山古墳
坂道を上り、最初の交差点を右折し、百五十メートル程行くと、茶臼山古墳があった。 標高六十一メートルの山頂に、六世紀初 期造られたこの地方最大の墳墓で、長径二十メートル、高さ四メートル以上の大きさで、西側に入口がある横穴式石室には、石棺 が二つ安置されていた、とあった。 交差点を左折するのが、東海道なのだが、茶臼山古墳に寄り道をしたのである。 街道に戻 り、坂道を登り、交差点で左折し、住宅地を歩き、坂道を下り、真宗高田派西信寺
{左}川合椋川橋
の前を通り、そのまま進むと、椋川に架かる川合椋川橋に出る。 昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、 安永年間(1624〜1644)頃、亀山藩士、生田現左衛門が私財を投げうって、水流を南に変え、橋を架け替えたので、 現左衛門橋と呼ばれた、とある。 橋から百メートルほどのところに、国道1号の陸橋があり、下をくぐると二百メートルほど先に、谷口法悦題目塔と呼ばれる大きな石碑が建っていた。  傍らの説明によると、 「 この供養塔は、
{左}谷口法悦題目塔
東海道の川合と和田の境にあり、昔から、川合の焼け地蔵さん、法界坊さんと呼ばれ、親しまれてきた。 」 、とある。  南無妙法蓮華経と書かれた二メートル五十九センチの大きな石碑は、江戸時代中期の貞享から元禄年間の頃、京都の日蓮宗信者の 谷口一族によって、各地の刑場跡や主要街道の分岐点などに建立された題目塔の一つである。 その先の信号交差点を越えて、細 い道を行くと、左の歩道上に、和田道標が建っていた。 道標は折れて、鉄枠で
{左}和田道標
固められていて、痛々しかった。 道標は、東海道と神戸道の分岐点(追分)に立っているもので、市内最古の道標である。  正面に、従是神戸白子若松道、脇に、元禄三庚午正月吉辰とあり、元禄三年(1690)に建てられたことが分かる。  神戸白子若松道とあるが、神戸道は、亀山城下から亀山藩若松港への重要道路だった。  このすぐ先で、ちょっとだけ県道28号と合流する。 歩道橋手前を右に曲がる、すぐに東海道の看板がある。  なお、交差点を左折していくと、鈴国橋があり、その先の国府町は伊勢国府のあったところで、国衙跡や惣社の他、王塚
{左}井尻道の道標
を始め幾つかの古墳群、住居跡や縄文時代の遺跡がある。 東海道は緩い登り坂となる。 坂が始まってすぐの左側に、井尻道の道標があった。 右側の福善寺の先 から、坂道は少し急になった。 右手に石垣があり、見上げると幟がひらめく寺がある。 この寺は、石上寺といい、延暦十五年 (796)、熊野那智社の夢告をうけた紀真龍によって、新熊野三社が勧請され、この鎮護のため開基された神宮寺である。  
{左}石上寺
その後、朱雀天皇の勧請寺になったと伝えられ、建久三年、源頼朝から寺領社殿の寄進を 受け、同五年には将軍家祈願所となるなど、鎌倉幕府の手厚い保護を受け、壮大な伽藍を有したが、 織田信長の伊勢進攻による兵火により、伽藍を失い、衰退した、と伝えられる。  現在の建物は、明和三年(1766)に再建されたものである。 境内には、仁王護国般若経石塚の石碑があり、古文書も多く残っているようである。 和泉式部が参籠したという言い伝えもあり、     
{左}和田一里塚跡
付近には式部の梅や式部の井戸がある。 街道に戻ると、かなり急な坂であるが、それほど長くは続かなかった。  坂が終わると、右側に和田一里塚があった。 といっても、平成五年に一里塚があった東側の近接する所に再現されたものである。  県道41号は、このあたりは広くのびのびする道だった。 そのまま進むと、国道306号と交差する信号交差点の先から、再び狭くなった。  左側に、仏壇やXマスケーキでお世話になる亀山ロウソクがある。 
{左}能褒野(のぼの)神社の鳥居
右側に、小さな祠があるのは地蔵堂で、もとは左側にあった、という。 少し歩くと、右側に大きな鳥居がある。  能褒野神社の鳥居だが、神社はここから北へ約四キロも先である。 能褒野神社は、日本武尊を主祭神とし、 建見児王および弟橘姫命を配祀とするが、明治時代に、日本武尊墓陵とされる字塚の傍らに建てられた創建された、比較的新しい神社である。  従って、この鳥居は江戸時代にはなかった。 鳥居の下に、地元の人が書いた木札には、従是西亀山  
{左}本町2丁目 
宿がある。 本町4丁目からは、商店が続き、古い家も所々に残っている。  交差点を渡ると、右側に亀山本町郵便局がある。 本町3丁目の交差点の左側に、小公園があり、説明板には、 「 巡見道は、ここから北に向かい、菰野を経て、 濃州道と合流した後、美濃に入り、中山道と繋がる道で、寛永十年(1631)に始まった巡見使が使った道で、そう呼ばれた。 」   、とあった。 本町2丁目に入ると、古い家も所々に残っている。 右手に城のようなものが見えたが、    
{左}亀山宿 江戸口門跡
近づいてみると、城を看板にした呉服屋だった。 このあたりから、道は、左へ弧を描いてカーブする。  各家には、当時の屋号を書いてあった。 しばらく歩くと、東町バス停のある三叉路に突き当たる。  ここは亀山宿の東入口の江戸口門があったところである。 説明によると、 「 江戸口門は、延宝元年(1673)、亀山藩主、板倉重常によって築かれたもので、 東西百二十メートル、南東七十メートルを土塁と土壁で囲み、北側と東側には、堀を巡らせる曲輪を形成し、東端に、平櫓が一基築かれた。  西側の区画に、番所が置かれ、通行人の監視と警護に  
{左}東町商店街
あたっていた。 」 、とあるが、その面影はどこにも残っていない。  ここから亀山宿であるが、亀山藩の城下町でもあったので、こうした城下町の堅苦しさを嫌って、大名も旅人も亀山宿に泊まるのを敬遠したようである。  東町は亀山宿の中心で、旅籠や本陣、脇本陣、東問屋場があったらしいが、宿場だった面影はすっかり姿を消してしまった。  右手に黒い板塀で囲まれた福泉寺と法因寺が見えた。  百五銀行の辺りが、樋口太郎兵衛が務めた本陣や椿屋弥次郎の脇本陣などがあったところ、と聞いていたので探したが、百五銀行は移転してしまい、それら  
{左}古そうな屋敷
の跡は確認できなかった。 東海道は交番前の交差点を左折し、狭い道に入る。 道はカラーモール化されているが、亀山 城を迂回するため、何度も鉤の手に曲がるようになっている。 道は左右にカーブしながら、坂を下る。 坂の途中の左側には、 遍照寺と誓昌寺があった。 少し歩くと、なだらかな下り坂になった。 道が大きく左にカーブするところに、大きな古い家が残 っていた。 天保十四年の東海道宿村大概帳によると、亀山宿は、家数五百六十七軒、
{左}右手に亀山城が見える
宿内人口は千五百四十九人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠二十一軒である。 右にカーブすると、 右側に濠があり、亀山城の石垣 と櫓が見えるところに出た。 江戸時代には、堀の脇に、松が植えられていたようである。 信号のない交差点に出ると、正面に、 亀山宿分間地図が描かれたモニュメントがあった。 ここで、亀山城址に寄り道をすることにした。 右折すると、亀山城址に行 けるので、そちらに向かって歩く。 上り坂になっていて、右側には、お濠がある。 
{左}半蔵兄弟仇討ちの碑
その脇に、亀山城石坂門跡の木柱があった。 石坂門は西の丸から二の丸に通じる枡形の楼門で、三間十間の長さで、高さは四間 あった、と説明があった。 木柱の脇に階段があり、下に降りると、石井兄弟仇討ちの碑があった。 江戸時代初期の延宝(1673- 1680)年間に、石井源蔵、半蔵兄弟が大坂城代青山家の家臣だった、父石井宗春の仇討ちで、亀山城外で本懐を遂げた。 江戸三大 仇討ちの一つである。 道に戻ると、道の反対に一本の松があるが、
{左}亀山城址の石碑
石坂門から外濠に沿って植えられた松並木の生き残りである。 亀山城の濠から左は城壁で囲まれ、西の丸が建っていたという が、今は、学校や住宅地に変っている。 坂を上って行くと、道の左側に、亀山城址の石碑があった。 その先を左折すると、 右側に、案内板と亀山城楠門跡の木柱が建っていた。 楠門は、本丸に入口にあった門である。 亀山城は、文永二年(1265)、 関実忠により、若山(現亀山市若山町)に築城されたが、その後、現在地に移された。 
{左}亀山城多聞櫓
江戸時代には、亀山藩六万石の居城となったが、江戸時代の初め、堀尾忠晴が、丹波亀山城と間違えて、三層の天守閣は壊されて しまった。 寛永十三年(1636)、藩主、本多俊次が、城の大改修を行い、天守台に多聞櫓を築いた。 粉蝶城(こちょうじょう)と も呼ばれ、その優美さで知られた名城であるが、明治時代に、城は壊されたが、黒板張りの多聞櫓は、士族授産の木綿緞通工場と して使用されたため、破壊されずに今日まで残った。 三重県で唯一現存する
{左}東海道
城郭建造物として県史跡に指定されている。 上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用していることから、 歴代の藩主は二の丸で居住し、本丸は空けていた、という逸話も残っている。  石段を降りると、明治天皇亀山行在所遺構と書かれた石柱があった。 明治天皇も立ち寄っていたのである。  坂道を下り、さっき右折したところまで戻り、東海道の旅を再開する。  坂を上るのが東海道で、道は右にカーブし、西町になる。 坂を上ったあたりに江戸
{左}倉のある古い家
時代には、若林又右衛門が務めた西問屋があったようである。  このあたりの家も、江戸時代の屋号が掲示されていた。  右側の家の前に、沼慾斉生家跡の木柱があった。 飯沼慾斉は、江戸時代末期の本草学者(植物学者)である。  百五十メートル歩くと、道の両脇に、右郡役所、左、東海道、右東海道、左停車場と書かれた小さな道標がある。  この右奥に、二の丸に入る青木門があったようである。 その先の左側には、倉のある古い家があった。 
{左}梅厳寺入口
そのまま歩くと、T字路に突き当たる。 ここは右折し、その先のT字路でまた、左折する。  ここは鉤型になっているのである。 左カーブからは下り坂となり、右折、左折を繰り返して行くと、梅厳寺の前に出た。  梅厳寺の入口には、十一面千手千眼観世音菩薩の石柱があり、京口門跡の説明板があった。 「 京口門は、亀山宿の西端の竜川左岸の崖の上にあった。  亀山藩主、板倉重常が、寛文十二年(1692)、亀山宿の西入口として造らせたもので、石垣に冠木
{左}明治初期の京口御門
門を設け、亀山城の一部としての機能を備え、棟門と白壁の番所が付いていた。  坂道の両側には、カラタチが植えられ、下から見上げると、門や番所が聳え立つ姿は壮麗を極め、亀山に過ぎたものの二つあり、伊勢屋の蘇鉄と京口御門と詠われた。 」、 とある。  写真は、明治初期の京口御門であるが、威風堂々としていて、立派なものだっただろうというのは頷けた。 
亀山宿はここで終わりである。 



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!