東 海 道


亀山宿から関宿 




{左}東海道五十三次亀山宿
東海道五十三次亀山宿の絵は、京口坂を登っていく風景が描かれている。 大名行列が雪に覆われた急坂を上って行く様子が描か れているが、亀山宿の京口門を出たところにあるのが京口坂で、坂を下ると、深い谷が横たわり、達(竜)川が流れている。 今は その上に橋が架かっているので、対岸に難なく越えていけるが、江戸時代には、橋はなかったので、この下の照光寺まで下り、 川を渡り、対岸の坂を登っていったのである。 橋を渡った右側から下を見ると、
{左}照光寺
その照光寺があった。 寺に入っていくと、赤堀水之助(源五右衛門)の石碑があった。  赤堀水之助は、亀山城の濠の脇に、石川兄弟仇討ちの碑があったが、仇討ちの相手だった人物である。  京口門外で討たれたが、哀れに思った地元の人達が、この寺に墓を建てた。 石碑は、平成に入って造られたものである。  道の両脇には古い家が残っていた。 道は狭いが、歩道を示すスペースは橙色で塗られているので、はっきり分かってよい。  この先にも、古い建 
{左}慈恩寺
物が残っていた。 三百メートル程先の左側にある慈恩寺は、神亀五年(728)、聖武天皇の勅願により、行基が開山し、忍山神社の神宮寺として創建された、と伝えられる寺である。  慈恩寺は、天正三年(1575)には、法相宗から浄土宗に改宗し、江戸時代の中頃、長福寺から現在の名前に改称している。  寺の本尊は、九世紀初頭、弘仁年間(810〜824)頃の作とされる、約一メートル六十二センチのヒノキ一本彫りの阿弥陀如来立像で、平安時代初期の代表的な
{左}忍山(おしやま)神社山道の標柱
彫刻作品として国の重要文化財の指定をうけている。 その先の左側の小さな道角の民家前に、天照皇太神御鎮座跡 忍山神社山 道の標柱が建っていた。 忍山神社は、延喜式神名帳に載る古社で、垂仁天皇の時代、皇女倭姫が御杖代となって、天照皇大神の 鎮座の地を求めて、大和の国から忍山に御遷幸になり、神宮を造営し、御鎮座になること十年、なおも南へ遷り坐した、と伝えら れる神社である。 神社は、集落の南の外れ、鈴鹿川の北岸近く、関西本線
{左}野村一里塚
の北に位置するが、文明四年(1472)の戦火で焼け落ちるまでは、愛宕山と呼ばれる海抜九十メートルの丘陵の南麓に、神宮寺の神福寺と共にあった。  交差点を越えると、右前方に、野村一里塚の巨大な木が見えてきた。 椋(むく)の木を植えている一里塚は珍しく、国の史跡に指定されている。  現存するのは、野村一里塚の北塚だけで、その上に植えられた椋の木は、樹齢三百年を越し、幹周り五メートル、高さ二十メートルの大木に成長している。  南の塚は
{左}布気集落
大正十二年に壊された。 この先、車が1台しか通れない細い道となる。 道の脇の空地に、大庄屋 打田権四郎昌克宅跡、 と書かれた木柱が立っていた。  左にカーブして行き、一里塚から七百メートル程歩くと、右側に、寺がある三叉路に出た。  東海道の道案内があり、右が東海道で、布気皇舘太神社 能古茶屋跡、とあるので、右の道を行く。  このあたりには、古い家が一部残っている。 布気は、江戸時代、立場茶屋があったところで、元禄三年(1690)に開か     
{左}布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社
れた能古茶屋が有名だった。  道は左にカーブするが、入ってすぐの左側に布気皇舘太神社があり、能古茶屋は、この前にあったようである。  亭主の禅僧、道心坊能古(のんこ)は、奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆で旅人をもてなし、好評をえた。  松尾芭蕉も能古の友人で、      「    枯枝に    鳥とまりたるや     秋の暮      」 
という句を残している。 布気皇舘太神社は、延喜式に小布気神社とある式内社で、天照皇
{左}坂を下る
御神、豊受大神、猿田彦命などが祭神である。 皇舘とは、垂仁天皇の御代、天照大御神を忍山に還幸の折、大比古命が、神田、 神戸を献じたことに由来し、神戸七郷(野尻、落針、太岡寺、山下、水下、小野、鷲山)の総社である。 東海道名所図会に、 「  天照大神五十鈴川遷幸の際の行宮の古跡也 」 、とあるのは、ここにも還幸されたという説があるからだろう。 道を直進する と、下り坂がある。 東海道は直進の矢印があるので、坂を下ると東海道の道案内    
{左}大岡寺畷(なわて) 
があり、大岡寺畷と示されているのに従って進む。 真直ぐ進むと、国道1号線に出るが、その手前で左折し、歩道橋を渡って、 国道1号とJR関西本線を越え、鈴鹿川沿いに道なりに進む。 この辺りは、畑の中の一直線の道で、一人も歩いていない。  七百メートル程進むと、大岡寺畷と書いた木標があった。 畷とは、直線道路のことで、大岡寺畷は鈴鹿川の北堤で、千九百四十六間(約3.5q)にわたる東海道一の長い畷であった。  江戸時代には松並木があった   
{左}名阪高速道路の高架をくぐる
ので、里謡に、「 わしが思いは太岡寺 ほかにき(気)はない 松(待つ)ばかり 」 、と謡われたというところである。 芭 蕉は、ここでは珍しく、和歌を詠んでいる。 
  「  から風の 太岡寺縄手  ふき通し  連もちからも  みな坐頭なり  」 
小学校前を通り、名阪高速道路の高架をくぐる。 高架下の壁には広重の東海道の浮世絵が描かれていた。 畑の向こうには、関 西本線が走るが、現在、国道1号のバイパス工事が  
{左}関宿の大きな看板
行われていて、完成時には景色が変りそうな気がした。  鈴鹿川は水量少なく,歩いても渡れそうな浅さで、早春の日できらきらと輝いていた。  道は線路に近づき、やがて踏み切りを渡ると、国道1号線にでたので、歩道橋を使い、反対側に渡る。  国道をしばらく歩き、小野川橋を渡ったところに、関町の信号交差点がある。  そこから少し行ったところに右に入る細い道があり、関宿と書かれた大きな看板が立っている。  江戸時代の関宿の江戸側の入口は、もう  
{左}関の小萬のもたれ松
少し先であったが・・・ 左側に、関の小萬のもたれ松の説明板があり、最近植えたと思われる松がある。  関の小萬は、父の仇討を遂げた女性である。 久留米藩士、牧藤左衛門の妻は、良人の仇を討とうと志し、旅を続けて、関宿の山田屋に逗留、 一女の小萬を産んだ後、病没した。 成長した小萬は、三年程、亀山で修業し、天明三年(1783)、母の遺言通り、 仇敵の軍太夫を討つことができた。 この場所には、亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるため、
{左}東海道と伊勢別街道との追分
姿を隠したと伝えられる松があったと、伝えられる。 右側には、宿場を見学する人のための無料駐車場があった。  四百〜五百メートル位歩くと、左側に大きな鳥居が見えてきた。  ここが関宿の東(江戸側)の入口で、関宿は、ここから西の追分まで、東西に千八百メートルの帯状に伸びていた。  ここはまた、東海道と伊勢別街道との追分(分岐点)でもあった。 大鳥居は、伊勢神宮に立ち寄ることができない旅人が、神宮に向かって遙拝するためのもので、二十年
{左}伊勢神宮の二の鳥居
に一度の式年遷宮の際、伊勢神宮(内宮宇治橋南詰)の古い鳥居をここに移築するのがならわしになっている。  鳥居の左側の小高いところに、伊勢別街道との追分を示す道標や常夜燈が建っている。 道標には、是よりいせみち。  その他の二つの道標には、右さんくうみち、これより外宮十五り、とある。  この小高い丘は関一里塚の跡で、右側奥にそれを示す小さな石碑が建っている。  天保十四年の東海道宿村大概帳によると、戸数が六百三十二戸、人口は約
{左}岩間家住宅
二千人、とあり、本陣が二軒、脇本陣二軒、旅籠が四十二軒と、かなり大きな宿場である。  鳥居の前の石垣の上に建つ連子格子の家は、岩間家住宅で、建物は二百年以上経っていて、むくり屋根が特徴と書かれていた。  岩間家は、当時の屋号を白木屋といい、東追分で稼ぐ人足や人力車登場後は車夫の常宿だった、とある。  屋根の曲面形状には、そり(反り)とむくり(起り)に分類される。 そりは、下方に凸となったもの、むくりは上方に凸となったものである。 
{左}古い家が軒を連ねる
むくり屋根は使われることが少ないが、数奇屋建築にはむくり屋根が好んで使われ、桂離宮などはその好例である。  これから先は、道幅が狭くなり、車が1台だけ通れるだけの巾である。 その両脇に、古い家が残り、約三百八十軒の建物が軒を連ねている様は壮観である。  最も古い建物は十八世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約四十五パーセントも占める。  更に、昭和戦前までのものを加えると、実に、約七割を占める、という。 これらの貴重     
{左}浅原家住宅
な建物は、昭和五十九年に、旧東海道の宿場町の町並みを留める地区として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。  宿場は、木崎町、中町、新所町の、三つの町で構成されている。 岩間家の先にある浅原家は、屋号を江戸屋といい、 米屋や材木商などを営んでいた。 家の正面は塗籠の中二階、連子格子、二階の窓の部分が虫籠窓になっている。  明治以降につけたばったり(店棚)、馬つなぎの環などもあるが、江戸時代の面影を良く残している建物で、万延年間以前の建物らしい。 
{左}木崎町の建物
虫籠窓(むしこまど)とは、町屋の正面二階にある、漆喰(しっくい)で塗りこんだ堅格子窓のこと。  上の写真右側にある縁台のようなものをばったり(店棚)といい、店の前に取り付けられた上げ下げできる棚で、商品を並べたり、通りを通る人が座ったりすることができた。 
木崎町の建物の特徴としては、平屋や中二階の比較的建ちの低い建物が多いことである。  二階の壁面も真壁が普通で、中町に比べると、やや簡素である。   
{左}関神社
少し歩くと、御馳走場 と書かれたところにでた。 ここは、宿役人が、関宿に出入りする大名や高僧、公家などを出迎えたり、見送ったりしたところで、大名行列ではここから本陣まで行列を組んで進んだ、という。  御馳走場のまえには、開雲楼と松鶴楼という、関を代表する芸妓置屋の建物が残されている。  ここを入って行くと、関神社に出た。 関神社は、関氏の始祖が紀伊国の熊野坐神社の分霊を勧請し、江戸時代には、熊野三所権現と呼ばれていたが、   
{左}鶴屋脇本陣(西尾脇本陣)
明治時代に、笛吹大神社や大井神社などの小祠にあった神々を合祀して、関神社と名を改めた。  境内のナギの木は熊野に縁があるといわれている。 中町は、宿の中心で、宿場の中枢的施設が集中した地区である。  中町には、比較的建ちが高く、塗篭、虫篭窓を基調とした特色ある町屋が遺されている。  関まちなみ資料館は、江戸時代末期に建築された町家を公開したものである。  鶴屋脇本陣(波多野家)は、西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣  
{左}山車倉
ともいった。 二階避面の千鳥破風がその格式を示している。 川北本陣があった場所には石碑が立っているだけで、なにも残っていない。  隣には、問屋場があったことを示す石碑があり、奥は山車倉になっていた。 山車が曳き出される夏祭りは、関の名を有名にした。  関の山、という言葉は、互いに華美を誇り、狭い宿内を練ったことから生まれたのである。  最盛期には、十六台の山車があったらしいが、現在でも、四台が残り、四ヶ所に山車倉がある。 
{左}伊藤本陣跡
この宿のもう一つ本陣は、伊藤本陣で、現在は、松井家が住んでおられる。 本陣の間口は十一間、建坪は六十九坪だ ったといい、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きである。  現在残っている建物は、家族の居住に供された部分と大名宿泊時に 道具置き場になっていたスペースである。 旧旅篭・玉屋の建物に入ってみる。関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会 津屋か と、いわれた玉屋である。 旅籠の建物が一体になって残っているのは珍しく、
{左}旅籠玉屋資料館
江戸時代の様子を今に残す貴重な遺構として、関町が持ち主の村山家から有償で譲受け、旅籠玉屋として修復したもので、 旅籠玉屋資料館として公開されている。  玉屋は、いつ創業したかは分からないようだが、寛政十二年(1800)には、宿場絵図に記されているので、その頃には、現在地で営業していた、といえる。  道に面した主屋は、慶應元年(1865)建築の木造二階建で、外観は、漆喰で塗籠る形式であるが、江戸時代の建物としては軒が高く、 宝珠を形
{左}玉屋の間取り図
取った虫籠窓が印象的である。 玉屋の間取り図は、右写真の通りだが、家に入ると、土間(とおりどま)があり、左側に、板の間 の店の間と帳場がある。 右側の現在受付兼事務室になっている二室は、こみせで、右側の二階部分が家族や奉公人の部屋だっ た。  たたきには、竈などが置かれ、客に出す炊事が行われた。 主屋に続く離れは主屋より少し古いと考えられ、整然とした室 が六部屋が並び、部屋には、玉屋十二代主人作という欄間彫刻や池田雲樵に 
{左}旅籠玉屋の二階の部屋
よる襖絵があり、もっとも上等な間であった。 左側の二階の部屋は、客室として使われ、旅籠で使われた道具が展示されていた。   欄間の彫刻や通りに面した窓からの造形に印象深いものがあった。 土蔵は、元文四年(1739)の建物で、広重の浮世絵などが展示 されていた。 関宿には、大きな旅籠が十軒もあったというが、こうした大旅籠では、多いときには二百名近い旅人を泊めたと思 われ、玉屋に残っている宿帳に百名近い団体客の記録が残っている、と
{左}吉沢家住宅
あった。 当時は、一室に数組の客が泊まる相宿(あいやど)が普通だったのだが、客が多い日には、一室に 十名 近く泊めた計算になる。 吉沢家は、屋号を岩木屋といい、明治から大正にかけて、酒造業と味噌醤油醸造業を営んでいたが、現 在の建物は、明治十七年の建築である。 中町の建物は、二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多い。 二階壁面を真壁と した新所や木崎の町屋に比べ、意匠的により華やかである。 また、間口が大きく、主屋の横には庭を     
{左}菓子司 深川屋
設けて高塀を廻すのがみられる。 その先の関の戸の看板がある深川屋は、代々菓子司で、寛永年間に、初代によって考案された 餅菓子、関の戸は、関宿を代表する名菓として名高く、京都御所から陸奥大掾の名を賜った。 屋根の看板は、庵看板という、瓦 屋根の付いた立派なもので、看板の関の戸の文字は、京側が漢字、江戸側がひらがなになっていた。 先程の中町の町屋の意匠に 戻るが、漆喰細工や屋根瓦に見るべきものが多い。  漆喰彫刻には、鯉の
{左}清浄山福蔵寺
滝の昇り、虎、龍、亀、鶴など、縁起を担ぐものが多く、細工瓦には、職業に使う道具を意匠にしたものもあった。 関宿のほぼ 中心にある郵便局の前には、道路元標がある。 関郵便局は、天正二十年(1592)、徳川家康が休息したので、御茶屋御殿と呼ば れ、江戸幕府初期には、代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは、藩役人の詰所が置かれた。 古い建物群の中で、営 業している百五銀行や郵便局は、周りに調和した建物になっていた。 その先、右に入ったところにある福蔵寺は、正式名は清浄 山福蔵寺といい、織田信孝の菩提寺として、天正  
{左}関地蔵院
十一年に創建された寺で、境内に、織田信孝の墓がある。 また、前述した仇討ち烈女といわれた小萬の墓もある。 東海道は、 地蔵院のところで、ゆるくカーブしている。 地蔵院の東側が中町で、西側が新所町である。 地蔵院は、景観的にも歴史的にも 関の町並みを特色づけるものとして、重要な要素であるが、道路に面したところには、歴史の道という大きな石碑が建ち、大正三 年に建てられた停車場道の道標がある。 また、常夜燈は、享保十六年(1731)に   
{左}地蔵院本堂
建てられたもので、せきのちそう、と刻まれている。 地蔵院は、 「 関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう 」 、 という俗謡で名高い、関地蔵が祀られている寺である。 天平十三年(741)、行基が当時流行った天然痘から人々を救うため、こ の地に地蔵をきざんで安置したのが始まりで、地蔵院本堂に安置される地蔵菩薩は、我国最古のものといわれる。 本堂は、四代 目で、元禄十三年(1700)、将軍の綱吉が、母、桂昌院のため建立したものである。   
{左}旅籠だった会津屋(森元家)
隣の愛染堂は、室町初期の建立で、享徳元年(1452)、愛染堂の大修理の際、開眼法要したのが一休禅師である。 本堂、愛染堂と もに、国の重要文化財に指定されている。 境内には、一休禅師の石像があった。 鐘楼の鐘は、知行付の鐘と呼ばれ、寛文十一 年(1671)に建立された。 鐘楼の近くには、明治天皇御行在所の石碑が建っていた。 地蔵院の前に、江戸時代、鶴屋、玉屋とと もに、関宿の有数の旅籠だった会津屋(森元家)がある。 鈴鹿馬子唄に、
{左}新所町の建物
「 関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足 」 と、謡われた、仇討ちの烈女、小萬は、明和から天明にかけて、この旅籠、山 田屋(後の会津屋)で育った、といわれる。 現在は、街道そばなどの食事処になっている。 東海道は、地蔵院のところで、ゆる くカーブしている。 地蔵院の東側が中町で、西側が新所町である。 新所町の大半の建物が、仕舞屋(しもたや) 風の平屋であるため、全体としてやや地味ではあるが、落着きのある等質性の高い町並みとなっている。 また、出格子や庇 (ひさし)の幕板(まくいた)などの伝統的な細部意匠が、比較的よく残され
{左}火縄(ひなわ)屋を営んでいた田中家
ている。 なお、庇の下に取り付けられた幕板は、風雪から店先を守るもので、出窓格子は、明治時代以降に取り付けられ た。 右側の説明板のある家は、松葉屋という屋号で、火縄屋を営んでいた田中家である。 説明板には、 「 江戸時代の関宿の 名物、特産品に、火縄があったが、田中家は松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた家で、今でも、播州林田御用火縄所、という 看板が残っている。 」  、とあった。 火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため、大名の
{左}田中屋住宅
御用があったが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入された、という。 その先の間口十五間半の総格子の表構えの家は、 大正初期に建てられた田中屋の住宅で、代々庄太夫を名乗り、醤油醸造業を営んでいた家である。 三十尺の黷フ通し柱の母屋や 煉瓦作りの麹部屋や煙突など、七年がかりで建設されたという、関町でも最も広荘な町屋のひとつである。 連子格子は凄いと思 った。 その先にある観音院は、古くは関西山福聚寺といい、城山の西方に
{左}関西山観音院
あった。 嵯峨天皇(830)の開創といわれ、関氏の祈願寺として栄えたが、戦国末期の兵災で焼失し、寛文年間に現在地に移転し、 お堂を建て、関西山観音院 と号すようになったという寺で、東海道の関宿の守り佛として、後には西国三十三ヶ所の霊場となった 。 寺の奥の方にある観音山は、景勝地として知られていたといい、東海道に面したところに、大正十五年に建てられたという、 観音山公園道と刻まれた道標があった。 手前の井口家は、南禅寺の屋号で、 
{左}井口家住宅
豆腐料理を名物にする料亭だったといい、連子格子、塗りごめの中二階がある建物で、文久年間(1861〜1865)の頃に建てられた、 といわれる。 関宿の建物の説明で言い忘れたのが、馬繋ぎの環金具である。 玄関の柱に打ち付けられたもので、馬をつなぐのに使われたもの。 低い位置にあるのは、牛をつないだものである。  観音院から西の追分までは百五十メートル。  江戸時代には、民家や見附土居や御馳走場松並木が続いていて、西の追分にも常夜燈が置
{左}法悦供養塔道標
かれていた。  民家は続いているが、常夜燈と見附土居は残っていない。 当時の面影を残すのは、法悦供養塔道標といわれる高さ二メートル九十センチの石の道標である。  元禄十四年(1691)に、谷口長右衛門が、旅人の道中安全を祈願して建立したものである。  ここは、加太(かぶと)峠を越えて、伊賀上野、奈良に至る大和街道の追分であり、東海道の京側の入口でもあった。  道標には、南妙法蓮華経の下に、「 ひたりはいかやまとみち(伊賀大和道) 」 と、
{左}関宿の京側入口
ひげ文字で書かれている。  現在は、西追分と書かれた案内板があるところが、国道25号と国道1号の分かれ道になっている。  また、西追分の案内板の近くに、平成十八年に設置された、従是関宿の石柱が建っていた。 
関宿はここで終わりになるが、江戸時代には、この先に険しい鈴鹿の山越えが待っていたのである。 



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!