東 海 道


水口宿から石部宿 




{左}近江鉄道水口駅
関宿から坂下宿、鈴鹿峠を越えて土山宿で、1日の行程が無難であろうが、小生の場合、関駅に車を駐車してきたこともあり、 関宿から水口宿まで2日の行程であったが、お陰でいろいろな所が訪問できた。  今日は、名古屋から東海道で彦根駅、近江鉄道で水口駅に来たが、彦根駅での接続が悪く、かなり損をした。  前回終わった水口宿の西見付跡の角のヒマワリ薬局を左折すると、東海道は真っ直ぐ。  左側の美冨久酒造の黒い板壁と白漆喰との取り合わせが
{左}広重の東海道五十三次 水口宿
美しかった。 少し歩くと、左側の麦畑の向こうに、丸い小さな山が連なり、松並木があるところに出た。  安藤広重の東海道五十三次の水口宿の浮世絵には、山が遠くに連なり、街道の脇で、干瓢を剥く女と干す女が描かれている。  水口藩の三代目藩主が、下野国壬生藩から転封になった時、名物の干瓢を持参したので、水口の名物になった、という。  ここから横田
{左}北脇畷(縄手)
の渡しまでは、一直線の道が続く。 この辺りは、江戸時代、北脇畷(縄手)と呼ばれた。 畷とは、田んぼの中を貫く一本道のことである。  古代の道(伊勢大路)が曲がりくねっていたのを、東海道開設時に整備し、見通しの良い道にし、道の両脇の土手に松並木を植えたのである。  現在の松は、大きさから見ると、当時のものには思えないが、やや黄緑に変色し始めている麦の葉と松の緑がバランス良く、大変心地よい気持にさせた。  ここから二キロ位は自然が残る
{左}地元の人に花が供されていた
道を歩く。 道端に、小さな石仏が祀られていて、花が供されていた。  一ヶ所だけと思っていたら、更に二人並んだ石像ともう一体の石仏。 その先には、長屋のように長い社に沢山の石仏が祀られていた。  交差点の先の左側に北脇公民館があり、このあたりは一つの集落を形成していた。 柏木小学校の前には松並木が残っている。  柏木公民館前に、消防士が梯子を上る姿を造形した箱状のものがあったので、近づくと浮世絵師が絵を描くからくり人形の入っ 
{左}柏木公民館前のからくり櫓
た櫓であった。 窓から中をのぞくと、人形が動き出す仕組みである。  ここまで歩いてくる間に、歩いている人には出会わなかった。 家の数が増えてきた。 先程の集落より多そうである。  左側に小川が流れている。 交差点の右側に、 従是山村天神道 と刻まれた道標があった。  泉公民館の前には、日吉神社御旅所の石柱がある。  道の右側に国宝延命地蔵尊泉福寺の石柱が建っているので、入っていった。 泉福寺は最澄の開基と伝えられる天台宗の
{左}泉集落
寺院で、本尊の木造地蔵菩薩坐像は国の重要文化財に指定されている。  境内に年老いた大樹が茂っていた。 泉集落は古い家も多いが、家が皆大きかった。 東海道は松並木が続く。  歩いて行くと、松並木の先に橋が見えてきた。  橋の手前に東海道の案内標木があるので、ここで左折し、泉川に架かる舞込橋を渡ると、右側に日吉神社御旅所の石柱が、また、あった。  道は、その先で右にカーブする。 曲がったところに築山があるが、これは再現された泉の     
{左}泉一里塚跡
一里塚で、榎が一本植えられている。 泉一里塚は、江戸より百十四番目の一里塚で、実際は今より野洲川寄りにあったようである。  その先で、小さな川を渡り、左にカーブをすると、冠木門のようなものが見えてきた。  車道を横断し、門に近づくと、その先に巨大な常夜燈があり、その先には大きな川が流れている。  この川は野洲川で、このあたりでは横田川と呼ばれていたが、伊勢や東国に向かう旅人は、この川を渡らなければならなかった。 
{左}東海道 横田の渡し跡
室町時代には、横田河橋が架けられていたが、江戸時代に入ると、防衛上の見地から、通年の架橋を認めず、舟渡しだった。  ここは、江戸時代の横田の渡しの跡である。 幕府は、東海道の十三渡しの一つとして直接管理し、泉村に命じて賃銭を徴収させて、渡しの維持に当らせた。  三月から九月までは、四隻の船による舟渡し、寒さが厳しくなる十月から二月は、  
{左}横田の渡しの常夜燈
流れ部分に土橋を架けて通行させた。 江戸参勤交代をはじめ、夜中に及ぶ往来が頻繁で、川を渡る途中での事故もあった。  文政五年(1822)、村民達の寄付で、建立されたのが、夜に灯がともる巨大な常夜燈である。  燈籠は、高さ十メートル五十センチ、笠石は二メートル七十センチ四方、囲いは七メートル三十センチの玉垣で築かれている。  江戸幕府がなくなると、明治二十四年(1891)、常夜燈の右側河岸に、石垣を組み、木橋が架けられた。      
{左}横田橋
昭和四年に下流に橋は移された、とあるが、当時の石組の一部が残っていた。  ここからは、川を渡れないので、一キロ下流の横田橋に向かう。  泉西交差点に入ると、ここから湖南市である。 国道1号線は左から来て右に上って行くが、東海道は直進し、左折し、横田橋を渡る。  横田橋は前述したように昭和四年に横田の渡しの下流に移されたが、この橋は昭和二十七年、国道1号敷設の際架けられたものである。  歩行者用の橋を渡ると、旧甲西町三雲、今回  
{左}横田の渡しの常夜燈
の合併で、湖南市になった。 左側の側道を下り、左折して、三雲駅前に出ると、東海道の対岸跡は、道を左折する。  数百メートル歩くと、道の左側、先程の渡し場跡の対面に、常夜燈が建っていた。  常夜燈と書かれた下には、屋号のような図案があり、その下に東講中と刻まれていた。 そこからは川越しに、国道の横断歩道橋が見えた。  野洲川は、上流から名前を変えながら流れていき、最後に、野洲川になるようである。 水の量は多くないが、川巾は広い。  世の無常を書いた方丈記の作者、鴨長明は、
{左}草津線の踏切
   「  横田川  石部川原の  蓬生に  秋風さむみ  みやこ恋しも   」 
と、詠んでいる。 突然、右側の踏切の遮断機が降り、電車が通り過ぎていった。 踏切の先の左側の小山の上に、天保義民 の碑があるのだが、ここで三雲駅前まで戻る。 右側に、微妙大師萬里小路藤房卿御墓所、左側に、妙感寺従是二十二丁、と書 かれた石柱がある。 萬里小路(藤原)藤房は、鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱 出に従ったが、その後、出家し、臨済宗妙心寺派大本山、妙心寺の二代目住職に 
{左}明治天皇聖蹟碑
なった人物である。 微妙大師の諡号は、昭和天皇によるものである。 ここから西南にある妙感寺は、藤房が晩年に過ごした ところである。  東海道は直進で、道は線路沿いに続いている。 このあたりは、旧田川村で、江戸時代は、立場であった。  駐在所前の民家に、明治天皇聖蹟の碑が建っていた。 ここを過ぎると、道は右へ左へと曲がり出す。 荒川という小さな川を 渡ると、ここからは湖南市吉永である。 荒川橋を渡った左側の道に、雲照山妙感寺 従是十四丁 と、書かれた、 妙感寺、 立志神社、田川ふどう道 の道標が建っていた。 
{左} 妙感寺、立志神社、田川ふどう道 の道標
立志神社は、江戸時代の東海道名所図会に、「 垂仁天皇の頃、大和国より 天照大神が伊勢へ遷坐の時 この地に四年間鎭座 し、瑞雲緋の如くたなびきしより、 緋雲宮と称し、 のち日雲とし、また 後世三雲 と訛れるなるべし。 」  、と書かれて いる神社である。 倭姫命(やまとひめのみこと)が、伊勢へ落ち着くまで、天照大神を奉斎して、大和から 近江、美濃、伊賀などの各地を廻った際、仮宮になった社の一つだろう。 妙感寺は、前述の萬里小路藤房が開山した寺で、 元亀元年(1570)、織田信長による焼き討ちに遭い、焼失したが、万治年間(1660年頃)
{左}三雲集落
に再興された。 青少年自然道場の先には、三雲城の城石が残っている、という。 そのまま進むと、道は左にカーブする。  短い時間だったが、三上山が見えた。 JRの踏切を渡り、すぐに右折すると、道の右側に、東海道の木標があった。 さっき まで、車一台分の狭い道だったが、対向二車線の道である。 と、思ったのも束の間。 車一台分のスペースの道に変った。  しかし、そんなことお構いなく、どんどん車が入ってくる。 両側に、緑で塗られた歩道帯があるのだ
{左}交通マナーのない滋賀県
が、これを利用して、すれ違って行く車がいる。  小生が歩いて行く前で、スピードを出したまますれ違う交通マナーのなさは他県では見られない、厚かましさである。  道の両脇には家が続くが、古そうな家はない。 左に、吉見神社の石柱、その先には小さな社に二体の石仏が祀られていた。  その先に、トンネルがある。 近づくと、大沙と書かれたタイルがはられている。  トンネルの上にあるのは川、川が道路より上にあり、人も車も川の下のトンネルをくぐって、     
{左}大沙トンネル
向こう側に行くのである。 これを天井川といい、滋賀県東部に多い。 運ばれた土砂が堆積して、川底が上がり、川が、家や 田畑よりも高くなったのだが、川の氾濫を防ぐため、土手を高く築き直して行った結果、川の方が、このように高いところを流 れるようになったのである。 江戸時代までは、土手を登って、川を渡り、向こう岸の土手を下って行ったが、明治以後は、ト ンネルを造り、その下をくぐるようになった。 大沙(砂)川トンネルはその一つである。 
{左}弘法杉
トンネルをくぐると、左側に、弘法大師錫杖跡の碑がある。 その左上の大杉が、トンネル上の土手に立っている。 地元では 弘法杉と呼んでいるようで、樹高二十六メートル、周囲六メートル、樹齢七百 五十年という堂々とした杉の古木である。 弘法 大師が、当地を通過したとき、植えたとも、食事をした後、杉箸を挿しておいたのが、芽を出した、ともいわれる。 最初は、 二本並立していたが、安永弐年(1773)の地震で、一樹は倒れた、と伝えられる。 左にカーブする右側の家は古いのかは分からな いが、漆喰の白が印象的だった。 やがて、三叉路になり、
{左}由良谷川トンネル
右折する車を優先させるような表示がある。 道は右にカーブする。 夏見地区は古そうな家が多い。  盛福寺を過ぎ、天満宮、覚蓮寺の石柱を右に見て通り過ぎる。 すると、また、トンネルが現れた。  天井川の由良谷川トンネルである。 トンネルをくぐると、針地区に入る。  左側の山には、タケイ種苗会社の研究農場が広がっているのが見える。 このあたりは街道情緒を感じさせる家並みになっている。  左側に創業文化二年という北島酒造があった。 店内
{左}文化二年創業の北島酒造
で湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれている、という。  この先で家棟川を渡るが、家棟川橋の先に両宮常夜燈が建っていた。 この近くに飯道神社と松尾神社があるので、立ち寄ることにした。  道を左折して、川に沿って歩き、ゴルフ練習場の脇を通り抜けていくと、数分で飯道神社に着いた。  入口に、式内 飯道神社 と、刻まれた石柱と鳥居があり、脇に明治十二年再建 と書かれている。  飯道神社と言えば、これより南方(甲賀市信楽町宮)の飯道山頂
{左}式内 飯道神社の石柱と鳥居
にある飯道神社(いいみちじんじゃ、通称ははんどうじんじゃ)を思い浮かべる。 飯道山は、海抜六百六十四メートルの山で、 古来より、山岳信仰の霊山で、修験道の道場であった。 飯道神社は、元明天皇の和銅四年(711)、熊野信仰の熊野本宮大社よ り勧請して、社殿が創始された、と伝えられる神社で、延喜式神名帳に、甲賀郡八座の一つとして記されている延喜式内社であ る。   中に入ると、左側に針地区の公民館があり、奥に社殿があった。 傍らの案内に
{左}飯道神社
よると、 飯道神社は 「 大同弐年(807)に、大字針の飯道の森 (現在の湖南市役所東庁舎の敷地)で創建。  明治六年(1873)、家棟川の改修工事が行われた際、現在地に遷座した。 飯道神社の祭神は、素盞鳴尊、菅原道真 である。 」、 とある。  この地は、飯道山から阿星山に連なる山塊の麓にあるので、針村の人達が飯道山上に鎮座する飯道神社の里宮として、信仰してきたものだろう。  境内には、鎌倉期の造とされる、塔身を失った宝しょう印塔があった。 
{左}松尾神社
ゴルフ練習場の前まで戻り、練習場の向こう側の道を上っていくと、常夜燈や石仏群がある南照寺の前に出た。  山門に入ると、右側に南照寺のお堂があり、真っ直ぐ進むと松尾神社である。  松尾神社は、針の隣の旧平松村(平松集落)の鎮守である。 実はこの神社は神仏混合のなごりで、南照寺が松尾神社も管理しているのである。  松尾神社は、文徳天皇の仁寿三年(853)、領主の藤原頼平が山城国松尾神社から美松山に勧請、至徳三年(1386)に現在地に
{左}美し松(ウツクシマツ)
遷座した、とある。 本社は文政四年(1821)の建立である。 南照寺の隣に、天文(1537)開基の西照寺があった。  近くの家で、美し松自生地に行く道を教わり、西照寺の右側の道を上って行く。 やがて、分譲住宅地が現れ、更に上って行くと、右側に美し松があった。  美し松は、一つの根から曲がりくねった幹がいくつにも枝分かれしており、傘を逆さにしたような樹形をしている。  大小二百本以上が自生し、見事な風貌を見せていて、国の天然記念物に指定さ
{左}柑子袋(こうじぶくろ)集落
れている。 日本でここしか無い松だといわれ、他に移すと枯れてしまうようである。 しばし眺めた後、街道に戻る。  街道の入口に美し松自生地0.9kmとあったが、美松山の山腹で登りだったせいか、それ以上の距離に感じられた。  街道に戻ると、柑子袋という珍しい名の集落に入った。 狭い道に車がどんどん入りこんでくる。 街道から奥まったところに、 寺が幾つかあり、それを横目で見ながら進むと、西柑子袋の光林寺に来た。 それにしても、寺が多いところ 
{左}上葦穂神社の石柱と常夜燈
である。 左に入る道の入口に、上葦穂神社の石柱と常夜燈と鳥居が建っていた。  上葦穂神社は、この奥の落合川の左岸にあり、江戸時代には白知大明神と呼ばれ、天智三年(664)の創建と伝えられる神社である。  手前には南無妙法蓮華経の石柱が建っていた。 落合川の橋を渡る。  江戸時代には、落合川から三百メートルほど行ったところに東の木戸があり、そこからが石部宿だった、という。 石部東交差点のあたりと思うが、何の痕跡も残っていなかった。 
{左}宮の森古墳
街燈には東海道の表示され、股旅姿の旅人がいた。 道の傍に、小さな石仏が祀られているトタン屋根の社があった。  その先、吉姫の里あけぼの公園の表示のところを入り、上って行くと、右側に古墳公園があった。  宮の森古墳につくられた公園である。 宮の森古墳は、古墳時代の中期、五世紀に築かれた前方後円墳で、円の直径は五十五メートル、高さ十メートルという。  公園は高台にあるので、下が見下ろせた。 古墳の反対側を降りると、吉姫神社の境
{左}吉姫神社
内に出た。 案内には、「 吉姫神社の創建時期は、はっきりしないが、御旅所の上田の地に祀られていた明応年間に、兵火に遭い燃失し、天文三年(1534)に現在地に移った。  江戸時代には上田大明神という名で呼ばれていたが、明治元年、現在名に変えた。 本殿は天文三年の建立で、一間社流造、間口一間三尺、奥行一間一尺の大きさ。  拝殿は、入母屋造りで、間口三間、奥行三間である。 」 、とある。 江州石部上田宮 と刻まれた常夜燈は、江戸時代 
{左}広重の東海道五十三次 石部宿
以前のもの、ということになる。 祭神は、上鹿葦津姫大神、吉比女大神、配祀神は木花咲耶姫 と、女の神様ばかりなのは珍しい。  参道には神木と思われる大きな木があった。 鳥居をくぐって、街道に戻る。  安藤広重の東海道五十三次 石部宿は、草津宿に向かう山を背景に描いている。 宿場の長さは千六百メートルで、四百五十八軒の家と千六百十六人が住んでいた。  本陣が二軒、脇本陣はなく、旅籠が三十二軒だった。 吉姫神社からしばらくは、ごちゃ
{左}漆喰壁の家
ごちゃした家並みが続いていたが、そのうち、漆喰壁、むしこ窓、格子戸のある古い家がだんだん増えてきて、宿場の雰囲気が出てきた。  京から下る場合、京発ち石部泊まり、といわれたようで、京を発った旅人は、東海道なら石部宿、中山道なら守山宿に泊まるものが多かった。  宿場として大変繁栄していたことから、事件もいろいろ起きたようで、歌舞伎や浄瑠璃にもそれを題材にしたものがある。  桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ )は浄瑠璃で、三十八歳
{左}清酒香の泉を造る竹内酒造
の長右衛門が、伊勢参りの下向の途中、石部宿で、十四歳のお半と一夜を共にしてばかりに、追い詰められて、京の桂川で心中するという話である。  石部中央交差点の手前の右側には、大きな倉と立派な屋敷があり、その先に事務所があるのは、清酒香の泉を造る竹内酒造である。  交差点の南側は東海道のポケットパークになっていた。 交差点を渡ると、左側に、石部宿夢街道という家があったが、少し歩くと、左側に大きな明治天皇聖蹟碑があった。  ここは
{左}石部宿 小島本陣跡
小島本陣跡で、案内板には、 「 小島本陣は、吉川代官所の跡地に建てられ、永応元年(1652)、本陣となり、明治維新で、本 陣制が廃止するまで続いた。 敷地二千八百四十五坪に、間口四十五間、奥行三十一間、建坪七百七十五坪、部屋数二十六室、 玄関や門の付いた家だったが、老朽化で、昭和四十三年に取り壊された。 幕末には、征夷大将軍、徳川家茂が、文久三年(1863 )、上洛の際宿泊、最後の征夷大将軍、一橋慶喜も、同年、上洛の際、ここで小休止している。 新撰組局長、近藤勇も、文久四 年(1864)江戸下向の際、宿泊して 
{左}真明寺
いる。 」、とあった。 今も小島さんの末裔が住んでおられるようだった。 この先、淨現寺、明清寺、続いて、真明寺があ った。 真明寺は、慶長弐年(1197)、蓮華の開基とあり、青木検校の持院で、青木氏の屋敷跡に建てられた、という寺である。  寺の狭い境内には芭蕉の句碑がある。 句碑には、「  つつじいけて  その蔭に  干鱈さく女  はせを  」、と 書かれているが、右書きでなく、左書きになっている。 また、季語がなく、自由句になっているのは、
{左}いしべと書かれた暖簾が下がる建物
芭蕉では珍しい。 芭蕉が野ざらし紀行で、石部宿を訪れた時、詠んだ句である。  街道に戻り、少し歩くと三叉路に出たが、正面にいしべと書かれた暖簾が下がる建物がある。  街道400年の時に作られた施設のようである。 駕篭のようなものが置かれていたので、当時の茶屋を模したものだろう。  建物の左側の道を少し入ると、吉御子神社の鳥居があったので、立寄ることにした。  「 吉御子神社は、崇神天皇六十八年、石部山に御神降があり、 吉比古、     
{左}吉御子(よしみこ)神社
吉比女神を黒の御前で祀っていたが、弘仁三年(812)、現在地に移し、承平五年(935)、吉比古、吉比女神を末社から本社に遷座 した。 現在の社殿は、慶応三年(1867)、京都の上加茂神社の旧社殿を移築したもので、重要文化財に指定されている。 」  、と案内にあった。 近江国甲賀郡の延喜式の式内社に、鹿塩上神社というのがあるが、先程の吉姫神社とこの神社が共に、そ の後裔の社とされている。 一番奥の石段を登ると、その先に見えるのが本殿で、
{左}吉御子神社本殿
三間の向拝をつけた流造建築の代表的なものである。  本殿は東に面し、内陣と外陣に分かれている。 内陣には、藤原時代に作られた重要文化財の吉彦命立像と随神坐像二体が祀られている、という。  先程の三叉路に戻ると、最近作られた常夜燈の下に、京へ右東海道 と、書いてあるので、東海道は右側の道を行く。  江戸時代には、ここは枡形になっていたようであるが、少し歩くと左折、右側の家の前に、一里塚跡と書かれた木標があった。 江戸から  
{左}石部宿 西の木戸跡
百十六番目の一里塚跡である。  更に、二百メートル位歩くと、く形に曲がるところの左側に、広場があり、その片隅に、見付と書かれた木標があった。  ここが、石部宿の京側の入口である西の木戸があったところだが、今は何も残っていなかった。  ここで、石部宿は終わり。 
残るは草津宿と大津宿、逢坂山を越えるとあこがれの京都である。  江戸時代の旅人は、石部宿でどのような夢を見たのだろうか?
  


     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!