東 海 道


草津宿から大津宿 




{左}立木神社
東海道も残すところ26kmとなった。 草津宿から大津宿までは14km程であるが途中に立ち寄るので、今日は大津止 りの予定である。 草津駅を出て左側の商店街を通り抜けると、ファミリーマートのところで以前歩いた中山道に合流。  そのまま歩いて、新東海道、そして、草津川のトンネルを抜けると、東海道に変り、前回終わった立木神社の前に出た。  少し歩くと、新草津川の橋が見えてきた。 旧草津川は、先程くぐったトンネルの上に原形のまま残されている
{左}新草津川
が、水は流れていない。 記録によると、 「 旧草津川は草津宿より高い天井川だった。 平素は水がなく、歩いてそ のまま歩けることから、砂川と呼ばれていたが、大雨が降ると一気に水嵩を増し、川止めになることもしばしば、堤が決壊して、 宿場町が飲み込まれ、復旧するのに大変苦労した。 」 、とある。 それを変えるため、2007年7月、新たに開削されて、 出来たのが新草津川である。 橋を渡り、交差点を横断した先の道は狭く、車がすれ違うにはかなり
{左}吉川商店
気を付けなければならない。 道の奥にある光伝寺は、承平年間(931〜938)の創建と伝わる寺で、応仁の乱により消失したが、明暦年間(1655〜1658)に再興された。  その先に小さな神社があったが、なにが祀られているのかは分からない。  矢倉公民館の前後には、古い家がかなり残っていた。  吉川商店の小さなショーケースには杉球が吊るされ、酒徳利が幾つか置かれていたが、壁に天井川と書かれた酒の看板がある造り酒屋だった。
{左}瓢泉堂
少し行くと、交差点の右側に、瓢箪(ひょうたん)を扱っている瓢泉堂がある。  矢倉の瓢箪は今から二百五十年ほど前から作られたといわれるが、現在はこの店だけである。  ここは東海道と矢橋(やばせ)街道の追分である。  江戸時代には、 「 瀬田へ廻ろか、矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち 」 と、 言い囃された姥ヶ餅屋(うばがもちや)があった跡である。  与謝蕪村は、「 東風吹くや 春萌え出でし 姥が里 」 と、いう句を残している。 
{左}矢橋道標
この店は、明治に姥ヶ餅屋が移転した後、同じ矢倉の地から移ってきたという。  店の角には、 「 右やはせ道、これより廿五丁 」 、と刻まれた矢橋道標が建っていた。  この道標は、姥が餅屋の軒下に、寛政十年(1798)に建てられたもので、東海道を往来する旅人を矢橋の渡しに導くためのものだった。  矢橋道は、ここから矢橋港まで通じ、矢橋港から大津行きの大丸子船(百石船)が出ていた。  矢橋港から大津の石場までの渡しは、湖上五十町(5.5キロほど)
{左}矢橋港を描いた浮世絵
の距離、陸路の瀬田の大橋経由は三里なので、急ぐ旅人は船便を利用したようである。  江戸時代の旅人は、東海道をひたすら歩いたと思っていたが、近江路では船便を利用し、時間短縮や疲労防止を図ったようである。  江戸初期頃は海難事故もあり、天候によっては欠航したので、 「 急がは回れ 」という言葉はここから誕生したとあった。  旅人はここで茶を飲みながら舟にするか、大津まで歩くかを思案したことだろう。 矢倉集落を過ぎると、矢倉南交差点で、      
{左}野路一里塚跡
国道1号線に出る。 対面の標識に、旧東海道の案内表示があるので、それに従って、国道を斜めに渡る。 これから先は野路 である。 野路は、東山道の宿駅の野路駅舎として、源頼朝など武将達が往来したところで、宇治への分岐点であったが、東海 道が開設され、草津宿ができたことで、野路の存在は低下していった。 道を渡った反対側の小さな上北池公園に、野路一里塚 の石碑がある。 傍らの説明文には、 「 野路の一里塚は、これより北西三十メートルと道を挟んだ北東二十メートルにあった が、明治十四年、国有地払い下げで消滅した。 」
{左}清宗塚
と、あった。 東海道は国道の1本東の狭い道で、国道を平行して進んでいる。 左側の教善寺の前には、草津歴史街道 東海道 の案内板があった。 少し先の右側の遠藤家という民家の中に清宗塚がある。 清宗とは、壇ノ浦で敗れた平家の総大将、平清 宗の長男である。 捕虜になっていた清宗は、父清宗が野洲の篠原で断首されたことを知り、西方浄土に手を合わせて祈った後、 堀弥太郎景光の一刀で首をはねられた。 清宗の亡骸を葬ったというのが、清宗塚で、錦鯉が泳いている池の奥の五輪塔が、そ れである。   
{左}野路の玉川
このあたりは、野路集落の中心であるが、道は狭い。 その先に、新宮神社と都久夫須麻神社の石柱と鳥居が建っていたが、本 殿は重要文化財である。 少し歩くと、信号のない交差点に出た。 東海道は、車に注意しながら、大きな道を渡る。 その先 の右手のフェンスに囲まれた中にあるのは野路の玉川である。 野路の玉川は十禅寺川の伏流水が湧き水になり、一面に咲く萩 と共に、近江の名水・名勝として有名だったところで、源俊朝が千載和歌集で、 
{左}野路の玉川
「  あさもこむ  野路の玉川  萩こえて 色なる波に 月やとりけり   」 
と詠まれた他、多くの歌人が詠んだ。 十六夜日記(阿仏尼作)では、
「 のきしぐれ  ふるさと思う  袖ぬれて 行きさき遠き  野路のしのはら  」 
  と詠んでいるが、野路宿駅の衰退とともに野路の玉川も運命をともにしたようである。 現在のものは、昭和五十一年に復元し たもの。 道はカーブし、南笠東に入るが、江戸時代には、松並木があったようだが、今はない。   
{左}古く立派な家
右手の弁天池は、マンションや住宅などが建ち、見えづらい。 狼川を渡ると、道は緩やかな上り下りをくり返しながら続く。  栗林から大津市になり、以前は畑か山林だったと思われるところに、工場や人家が増えてきた。 玉川から一キロ程歩くと、月 輪三丁目の信号のない交差点に出た。 左側に、古く立派な家があったが、それ以外に古いものはなく、道の狭さだけが当時の ものと思えた。 月輪は、江戸時代、立場茶屋があったところで、それを示す石碑が街道脇
{左}月輪寺
にあった。 月輪寺前の柵の中に、新田開発発祥之地、明治天皇駐輩之碑 などの石碑が建っていた。 月輪寺は、文久三年(186 3)の開基である。 ここから大津市一里山である。 東海道は、車道を横断しながら、くにゃくにゃ続いている。 車一台分位 しかない狭い道なのに、予想した以上の車が走っていたので、歩きづらかった。 やがて、洋服お直し工房の脇に出た。 一里 山一丁目の交差点で、瀬田駅へ行く広い市道と東海道が交差している。 
{左}月輪池一里塚跡
店の一角に一里塚碑が建っていた。 説明板には、 「 この地点に一里塚があり、松が植えられていたが、明治に取り除かれ た。 一里山という地名は、ここからでている。 」 、とあったが、江戸から百二十番目の月輪池一里塚である。 交差点を 横断すると、狭い下り坂になった。 この先、東海道は、大江三丁目と六丁目の境を行くが、国道に向かっていく道が多く、分 かりずらい。 東消防署前の道標、続いて、市立瀬田小学校前の道標に出た。  
{左}博受保育園前バス停先の交差点
瀬田小学校の近く(小学校南の忠魂碑付近)に、西行屋敷跡がある。 西行法師は、佐藤義清という北面の武士だったが、二十 三才で出家し、諸国行脚にでて、多くの歌を残した人物だが、この大江の地に、一時期、住んだ、と言い伝えられている。 東 海道は、ここで左折し、左に正善寺を見て進み、関電瀬田変電所を左に見て進むと、博受保育園前バス停の先に交差点がある。   東海道はここで右折するが、近江国府跡の道標があったので、寄り道する。 
{左}近江国衙跡
交差点を直進し、突き当たったところを右折し、次に左折し進むと、雇用瀬田宿舎の手前に、近江国衙跡があった。 近江国府 は、奈良中期(八世紀)に建設され、平安中期(十世紀末)まであった、近江国を治める役所で、東西二町(二百十八メートル)、 南北三町(三百二十七メートル)に、南北の前殿と後殿、東西の脇殿という建物を中心とし、門や築地垣があり、千名を越える官 吏と兵士が勤務していた。 ところどころに、島のように囲まれたところがあるが、これは建物の 
{左}国府の想像図
あったことを示すものである。 その外側に九町(九百七十二メートル)四方の規格化された街路が広がっていたようである。  中央の建物の中に、発掘状況などの資料とともに、国府の想像図がイラストになっていた。 近江国国府の建物が建っているわけでもないので、見学はあっという間に終わった。  街道を進むと旧国道1号線の広い道に出たので、左折し進み高橋川の橋を渡る。  このあたりの神領の地名は建部神社の門前に位置し、御料田(神領)となったことから名付けられた、という。  少し古い家が残る商店街を行くと、神領建部大社前のバス停が     
{左}建部神社の大きな石柱と鳥居
あり、三差路になるが、左折すると建部神社の大きな石柱と鳥居があったので、鳥居をくぐり参道を歩くと、神門に出た。  神門の奥に神木の三本杉と入母屋造の拝殿があったが、御神木の三本杉の一本は枯れてしまっているように思えた。  神社の案内には、「 神社の創祀時期は、定かでないが、昔から建部大社とか建部大明神などと称え、近江国一の宮として、 延喜式内名神大社に列する由緒正しい神社である。 社伝によると、景行天皇四十六年、稲依別王
{左}建部神社神門
(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳四年、勢田郷へ遷座した。  天平勝宝七年(755)、孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し、権殿に奉祭せられ、現在に至っている。 本殿に、主祭神の日本 武尊を、相殿に天明玉命、権殿に大己貴命を祀っている。 」 と、あった。  神社の創世に不明な点があるようだが、稲依別王の子孫である建部連安麿が天武天皇の頃(676)、創建したという説が有力。  承久の乱の時戦火にあい、社殿と多くの社宝を失った。 延慶弐年(1319)、  
{左}国の重要文化財の石燈籠
勢多の判官、中原章則が再建したといわれる。 歴代の朝廷の尊信が驚く、また、源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立 ち寄り、源氏再興を祈願、見事にその願が叶ったことから、武運来運の神として信仰を集めた。 拝殿の先には、中門を隔てて、 本殿と権殿が並んで建っていた。 中門の右手の柵内にある石燈籠は、文永七年(1270)の銘があり、国の重要文化財である。  その他、平安末期から鎌倉初期の作と推定される、木造女神像三体があり、重要文   
{左}唐橋東詰交差点
化財に指定されているが、これは宝物館に保管されている(拝観料200円)  街道に戻り、商店が立ち並ぶ道を歩くと、唐 橋東詰交差点に出た。 交差点の左手前角に、田上太神山(たなかみやま)不動寺の道標があり、是より二里 半、と刻まれていた。 寛政十二年(1800)に建立されたもので、田上不動道への起点を示すものであるが、もとは、瀬田三丁目 の瀬田商店街の角にあったものである 。 交差点を渡った先に、常夜塔と句碑があった。 河川敷の中には、
{左}常夜塔と句碑
勢多橋龍宮秀郷社があり、祭神は瀬田川の龍宮様と俵藤太秀郷である。 俵藤太が竜神の頼みにより大ムカデを平らげた、とい う伝説があり、大江匡房は、「 むかで射し 昔語りと 旅人の いいつき渡る 勢田の長橋  」 、と詠んでいる。  瀬田の唐橋は琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋で、奈良時代にはあった。 鎌倉時代に付け替えられた時に、唐風の デザインを取り入れたため、唐橋と呼ばれれるようになった。 現在の橋は、大正十三年(1924)
{左}瀬田の唐橋
に架けられたコンクリートの橋で、大小三十四本の擬宝珠があり、川中の島で、二つの橋になっている。 古代から、東 国から京に入る際の関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝だったため、 「 唐橋を制する者は天下を制す。 」 、とまで いわれた。 壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど、幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、その度に、橋は破壊と 再建を繰り返してきた。 橋を渡った唐橋西詰交差点の先には、石山商店街の表示がある。 
{左}明治天皇鳥居川御小休所碑
道の左に二軒古い家があり、その隣の建物は中国風である。 京阪唐橋前駅手前の小路の角に、地主之守大神、方位之守大神  逆縁之縁切地蔵大菩薩蓮如上人御影休息所と書かれた石碑が建っていた。 線路を越えると、鳥居川町の交差点に出る。 ここ を右折するのが、東海道だが、交差点の右側の家の一角に、明治天皇鳥居川御小休所の石碑がある。 以前はすぐに分かったが、 建物が建築され、目立たなくなっている。 左手にある御霊神社へ寄り道する。 
{左}御霊神社
交差点を左折し、車が一台しかと通れない狭い道に入ると、鎮守の森の案内板があり、道を直進すると、その先に御霊神社の石柱と鳥居があり、小高いところに御霊神社の本殿があった。  中の鳥居に大友宮とあるが、壬申の乱で亡くなった大友皇子が祭神なのである。  天智天皇の子の大友皇子は、父の死後の壬申の乱で、叔父の大海人皇子との戦いに敗れ、この先の長等で自刃した。  明治時代に天皇に列せられ、弘文天皇という諱がおくられた悲劇の皇子
{左}今井兼平(いまいかねひら)の墓の入口
で、御陵は三井寺の先の御陵町に造られている。 街道に戻り、大津宿に向かう。 京阪電車の線路を越えると、左手にJR石 山駅が見える。 JRのガードをくぐると、左側のNECの工場を一回りするように続く。 一キロほど歩くと、左側に朝日将軍、 木曾義仲と乳兄弟であった今井兼平の墓の標示があった。 兼平の正式名は、中原兼平、父 は中原兼遠兼平、兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。 墓はここ以外に長野市川中島にあり、彼を祀る今井神社は同所と松本 市
{左}膳所城 勢多口総門跡
にある。 このあたりは御前浜という地名だが、江戸時代以前には粟津野といったようで、古 戦場である。 近江八景の一つ、粟津の晴嵐もこのあたりだが、湖が埋め立てられて、水面を望むという風情は残っていない。  街道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家の前に、膳所城勢多口総門跡と書かれた石柱があった。 このあたりは、城 下町特有の鉤形になっていて、道は右、左、右というようにかなり曲がっている。 左側の格子の家には、珍しいばったん
{左}ばったん床几が付いた家
床几が付いていた。 ばったん床几は前に倒すと、縁台になるものである。 このあたりには、少ないが古い家 が残っていた。 京阪電車の踏み切りを渡ると、右手に若宮八幡神社がある。 「 神社の創建は、白鳳四年(675)、天武天皇 が、この地に社を建てることを決断し、四年後に完成した。 九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さである。 当初は粟津の森八幡宮と いっていたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になった。 」 、という。 表門は、明治三年に
{左}若宮八幡神社表門
廃城になった膳所城の犬走り門を移築したものである。 切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、軒丸瓦には本多氏の立葵 紋が見られる。 社殿は、幾多の戦火により焼失したので、それほど古くないが、江戸時代の東海道名所図会に、 「 粟杜膳 所の城にならざる已前、膳所明神の杜をいうなるべし。 」 、とあるのは、この神社のことだろうか? 道は鉤形になってい る。 京阪の瓦ヶ浜駅前の踏切を渡ると、古い家がかなり残っていて、それを大事にしながら
{左}篠津神社表門
生活しているような気がした。 左側のマンションの隣に篠津神社の鳥居があったので、奥に入る。 神社の表門は膳所城の北大手門を廃城時に移設したものである。  「 祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、古くは牛頭天王と称し、膳所中庄の土産神だった。  創建時期は明らかではないが、康正二年の棟札から室町時代にはあった、と考えられ、宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けた。 」 と、案内板にあった。  狭い道が続き、左にカーブして進むと、
{左}膳所神社の表門
本丸町に入る。 膳所神社の表門は明治三年(1870)に廃城になった膳所城から、二の丸から本丸へ入る城門を移築した薬医門 で、国の重要文化財に指定されている。  「 膳所神社は、天武天皇六年、大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して、大膳職の御厨神とされた、と伝えられる神社で、 中世には諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残る。  本殿、中門と拝殿の配置は、東正面の琵琶湖に向か
{左}膳所城址公園
って直線上に立っている。 」 と、ある。 境内には式内社膳所倭神所と書かれた石碑もあった。  少し歩くと、広い道と交差。 右折すると湖岸で、膳所城址がある。 城址公園として、本丸の天守閣跡に石碑が建っていた。  瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は、琵琶湖の中に石垣を築き、本丸、二の丸を配置し、本丸には四層四階の天守が建てられた城だったが、 破壊が著しく、北側に石垣がわずかに残っているだけである。 街道に戻り、その先を
{左}和田神社
歩く。 街道左側の梅香山縁心寺は、膳所城主、本多家の菩提寺。  その先の和田神社は、白鳳四年(675)に、祭神の高竈神が勧請され創建された神社で、古来から八大龍王社とか、正霊天王社とも称されたが、明治に和田神社となった。 透かし 塀に囲まれた本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財である。  桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたものだが、側面の蟇股は鎌倉時代の
{左}石坐(いわい)神社
遺構と伝えられる。 門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものである。  境内のイチョウの木は樹齢六百五十年といわれ、関が原合戦に敗れた石田三成が京都へ搬送されるとき、縛られていた、という話が残る。  二百メートル先で右折し、寺の周りを回って、道なりに行くと西の庄に入る。   小さな橋を渡ると、すぐあるのが石坐神社である。 祭神に、海津見神(わたつみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇などを祀っている。  八大龍王社とか、高木宮と称したこともあったようだが、延喜式にも近江国滋賀郡八社の一つと記されている古社
{左}膳所城北総門を過ぎる
である。 本殿は文永三年(1366)とあるので、鎌倉期のものらしい。 法応寺を過ぎると、膳所城北総門跡の石碑が建ってい る。 ここは膳所城の北のはずれなので、膳所藩と大津陣屋領との境である。 大津宿の江戸側の入口がどこなのか表示がない ので、分らないが、膳所城北総門を過ぎると、大津陣屋の所管なので、ここからは大津宿なのだろう? 馬場1丁目に入ると、 国の指定史跡の義仲寺がある。 名所記に、 「 番場村、小川二つあり。 西の方の川を、
{左}義仲寺(ぎちゅうじ)
もろこ川といふ。 川のまへ、左の家三間めのうらに、木曾殿の塚あり。 しるしに、柿の木あり 」 と、記されているとこ ろである。 寺の由来書によると、 「 寿永三年(1184)、源義仲は、源範頼、義経の軍勢と戦い、討ち死したが、しばらくし て、側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲の供養した。 尼の没後、庵は無名庵(むみょうあん) 、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、木曾寺、また、義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にある。 
{左} 木曽義仲の供養塔 木曾塚
戦国時代に入ると、寺は荒廃したが、室町時代末、近江守護佐々木氏の庇護により、寺は再建され、寺領を進めた。 その後、 安政の火災、明治二十九年の琵琶湖洪水などに遭ったが、改修された。 第二次大戦により、寺内の全建造物が崩壊したので、 現在の建物はその後のものである。 」、とあった。 左奥の土壇の上に宝きょう印塔を据えたものは、木曽義仲の供養塔で、 木曾塚ともいわれる。 武勇に優れ美女であった側室の巴御前は、尼になり、ここで庵を
{左}巴御前の巴塚
結び、義仲の供養に明け暮れていたが、ある日突如として旅に出たと、説明されていたので、ここで亡くなった訳ではないが、 その隣に、巴塚があった。 巴塚の近くに、JR大津駅前にあった山吹姫の山吹塚も移設されていた。 なお、山門の右にあ る巴地蔵堂は、巴御前を追福する石彫地蔵尊が祀っられていて、昔から遠近の人の信仰が深い。  この寺が有名になったのは、 芭蕉とのかかわりである。 芭蕉が、最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、その後、四回
{左}芭蕉の墓
滞在している。 元禄七年(1694)十月十二日、大阪で亡くなると、芭蕉の遺言により、去来、其角ら門人の手で、、この寺に運 ばれ、木曾塚の隣に、埋葬された。 今も当時のままで、墓が建っている。 墓の右側には、芭蕉の辞世の句 を刻んだ句碑 
     「    旅に病で    夢は枯野を     かけ廻る    」 
が建っていた。 その他にも、巴塚の近くに 
    「   古池や     蛙飛びこむ      水の音     」  
{左}朝日堂
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにあった。 
    「   行春を     あふミの人と     おしみける   」  (芭蕉桃青) 
その他に、門人達の句碑が無数に立ち並んでいて、俳句を嗜む人は一度は訪れるというところのようである。  電車の踏切を越えたところが石場というところで、打出浜があった。  江戸時代には、前述した矢橋港から湖を舟で渡ってきた旅人が下船したので、大変賑わい、立場茶屋
{左}平野神社入口
が並んでいた、という。  また、弘安弐年(1845)、船仲間の寄進で建てられた、高さ八メートル四十センチの花崗岩製の大きな常夜燈が港に建てられ、船の安全を守る灯台の役目も担っていた。  道を左にとると、平野神社の石碑が見えた。 神社は左の坂の上にあるのだが、蹴鞠の祖神という精大明神が祭神である。  古くから芸能の神として信仰を集めていた。 平野集落を過ぎると、大津宿に入る。  石山からここまでは古い建物が多く残っていたのに、大津宿
{左}京町通り
の中心部に入ると、古い町並や建物がほとんど残っていない。 東海道は左の道を行く。 東海道が通るのは、京町通りといい、 京都への道筋にあったので、名付けられた。 スーパーやデパートのある湖畔沿いの道からそれほど離れていないし、県庁など の官庁が近くにあるのにもかかわらず、喧騒を忘れたような静けさである。 道脇に、天保十二年造と書いた、北向地蔵尊が祀 られている小さな社があった。 寺院もけっこう多い。 
{左}滋賀県庁
道を左折して、通り一つ行くと、滋賀県庁である。 このあたりは、江戸時代には、四宮といわれたところである。 東海道名 所図会に、 「 四宮大明神社 − 大津四宮町にあり 祭神彦火火出見尊 」  、とあるが、この神社が町名になった。 四宮 の由来には幾つかの説がある。 祭神が彦火火出見尊、国常立尊、大己貴尊、帯中津日子尊の四神であることからというもの、 近江国には神徳の厚い神社が多くあり、昔の人々は、一宮から四宮と称した。 一宮が建部
{左}天孫神社
大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社、四宮が天孫神社である。 天孫神社は大津地方裁判所の近くにあったが、天孫神社で はこの説を採っているように感じた。 天孫神社は、延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同三年(806)、近江に行幸された 平城天皇が、当社を仮の御所として禊祓いをされた、という古い神社で、四宮大明神とか、天孫第四宮などとも呼ばれたが、明 治時代に天孫神社となった。 十月上旬に行われる大津祭の曳山巡幸は、豪華華麗で
{左}東本願寺 大津別院
あるが、大津祭曳山展示館で見ることができる。 京町三丁目交差点を越えると、大津別院がある。 本堂と書院は、国の重要 文化財で、山門前には、明治天皇大津別院行在所の石柱が建っていた。 また、天孫神社の近くにある華階寺の門前には、俵藤 太 矢板地蔵 月見石の石柱が建っている。 京町通りは、江戸時代と違い、住宅が多くなったが、それでも仏壇屋や料理屋など、 商店もあった。 すだれ老舗の看板を掲げた店があるので、 中を覗くと、装飾を施し
{左}露国皇太子遭難之地碑
たものなど、室内インテリアとなるモダンなものが飾られていた。 右側の御饅頭處 と書かれたお菓子屋で買ったかしわ餅は素 朴な味がした。 少し先の左側にある徳永洋品店の脇に、比付近露国皇太子遭難之地、と書かれた石柱が建っている。 ここは、 明治十三年(1880)五月、日露親善のため来日していたロシアの皇太子が、警備中の巡査に切りつけられる 、という事件が起き た。 歴史の教科書に、大津事件として掲載されている歴史的な事件である。 
{左}大津宿 札の辻跡
街道をそのまま進むと、国道161号が通る大通りに出た。  ここは札の辻といい、高札場が置かれたことから名付けられたところである。  交差点を越えた先に大津宿の人馬会所があったという案内板があり、大津市道路元標の石碑が立っていた。  道路の右上には旧東海道の標識があり、右折して国道161号を歩くように表示されている。  国道161号はこの先の国道1号と交わる逢坂1交差点が起点で、この交差点を越えて進み(直進し)、坂本や堅田など、琵琶湖     
{左}長等(ながら)神社
西岸を通り、敦賀へ抜ける道で、江戸時代には、北国西街道と呼ばれた。 この道を行くと、長等神社があるので、立ち寄ることにし た。 案内板に、 「 長等神社は、天智天皇が大津宮の鎮護のため、長等山岩倉に、須佐之男神を祭ったのが起源。  天安弐 年(858)、比叡山の僧、円珍が、大山咋命を合祀し、新たに建立。 天喜弐年(1054)、庶民参詣のため、山の上から現在地に移っ た。 現在の建物は、寛文四年と慶安二年にそれぞれ増改築されたもの。 」 
{左}京阪電車が路上を走る
、とあった。 隣に三井寺もあるが、 京町1丁目の交差点に戻る。 江戸時代には、札の辻一帯には旅籠が多くあった、という が、古い家は一軒も残っていない。 東海道を歩くと、京阪電車が道路上に出てきて、車道を走る光景に出逢った。 電車が別 れていくと、左手の労働基準局の近くに、本陣があったことを示す石碑が建っている。 これは、大塚嘉右衛門本陣跡である。  この先、国道1号線にぶつかると、大津宿は終わりである。  



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!