木曽路と別れ、信濃路に入ると、最初の宿場が本山宿である。
本山宿には鉄道の駅がなく、国道も脇を抜けて行くので、静かな佇まいであった。
そのせいもあってか、古い家並みが今でも残されていた。
木曽路に比べ道幅が広いこと。 また、ただよう雰囲気も明るく、ゆったりとしているように感じた。
私は木曾路、美濃路、近江路を歩き、京三條にはすでに到着してしまったので、(普通の人
と逆かも知れないが)江戸日本橋を目指して歩くことにした。 京三條へ到着してから、五ヶ月
経過した平成十六年十一月六日、再び中山道の旅の再開である。 木曾と信濃の国境が桜沢
で、
堺に昭和の初期に建てられた、「 是より南 木曽路」と刻まれた石碑がある (右写真)
奈良井川に架かる境橋を渡ると、信濃の国である。 中山道の信濃路は塩尻から下諏訪へ、
更に和田峠を越え、北東に進み、軽井沢(追分)に出て、碓氷峠。 それを下ると、上野国に
出るので、そこまでが信濃路である。 国道19号を北上し、二十分くらい歩くと、右に入る道
があったので、その道を行く。 左右二股になったので、道を左にとった。 右折すると、牛首
峠に至る道で、狭いが辰野町小野に通じる道である。 実はこの道、中山道が開設された当
時の中山道である。 初期の中山道は岡谷から小野峠を越し、小野宿に出て、牛首峠から木
曽谷の日出塩へ入り、桜沢から贄川宿に通じていた。 塩尻峠越えより距離が短いためで
あったが、大久保長安の死によりわずか十五年で、塩尻峠経由に変更されたのである。
左折した道は変更後の中山道で、途中少し山が迫り出し狭まっているところもあったが、木曽路のような閉塞感はない。
少し歩くと国道と交差し、日出塩集落に入っていった。
日出塩は、江戸時代に立場茶屋が置かれたところで、江戸時代の道中案内に、 「 道脇では”獣を売る店が多かった 」 と、書かれていたところだが、今や塩尻市の一角に組み込まれてしまい、当時の面影を偲ぶものは残されていない。
右側の奥まったところに、JRの日出塩駅があるが、無人駅でのぞいてみても誰もいなかった (右写真)
本山宿には鉄道が通っていないので、ここを利用しなければならないので、木曽路を歩く人はけっこうお世話になっているのではないかなと思った。
小生が木曾路の終りに歩いたときもここから車を置いた駅まで利用した。
参考までに申し挙げるとこの沿線の駅で自由に置ける駐車スペースを持つ駅は少ない。
その中では隣の贄川駅はおすすめできる。
この集落には、石碑群が多く残されていた。
右側の道路の脇に、道祖神の碑が建ち、更に行った右側のお寺(長泉院)の入口にも庚申と彫られた石碑の他に観音碑などが並べて置かれてあった (右写真)
何故石碑が多くそこにあるのか分からないが、道路の整備の際にで他所にあったものをまとめたようにも思われた。
寺から少し行ったところに木柱があり、一里塚の跡と表示されていた (右写真)
日出塩には古い家は見当たらなかった。
集落のはずれには大きな石の上に道祖神碑が建っていた。
道祖神は集落のはずれに建てられたので、ここが集落のはずれである。
日出塩集落を過ぎると、国道に合流し、しばらく歩く。。
関沢をすぎると、本山神社がある。 本山宿の入口である。
やがて本山集落に入った。
木曽路を別れると、最初の宿は本山宿である。
江戸時代初期に定められた旧道時代には存在しなかったが、新道の開通以後は木曽路への玄関口として栄え、
現在からは想像することができないほどの賑わいを見せていたというが、現在の本山は宿場時代の賑わいは嘘のような
静かな町だった。
地域バスが来るのを待つ老婆二人が、椅子に座り、のんびりとした口調で話し込んでいるのがその象徴に思えた(右写真)
本山宿は五町二十間(約600m)の町並みに百十七軒の家があり、五百九十二人が住んでいたとあり、本陣一、脇本陣一、
問屋場が二、そして旅籠が三十四軒であった。
宿に入った左側に、松本藩における木曽口の固めとして口留番所も置かれていたが、今はその表示だけである。
本山宿は宿場町でも昔の雰囲気がわりと残っているほうである。
明治の大火で被害に遭い焼失したというので、古い建物でもその後に建てられたものと思うが、けっこう特徴があり、見ていてもあきない (右写真はそのうちの一軒)
不思議なもので、古い建物は左側にある。 特に、数軒は出梁造りの立派なものだった。
各戸とも川口屋、池田屋、えび屋など屋号を記した看板を出していたが、これは、平成
五年、宿場として栄えた頃の面影を残そうと地元の人達で行った活動と聴いた。
その中には、勿論、もっと古い時代から看板を揚げていたところもあるのかも知れないが・・・・・
本陣や脇本陣は宿場の真ん中にあったのだが、跡形なく無くなってしまっている。
本陣だったところを求めて、道路の右側を入っていった。
現在は小林氏宅になっていて、その前に、明治天皇行在所跡の石碑があった (右写真)
皇女和宮が下向(文久元年・ 1861 )した時、本山宿で一夜を過ごされているので、ここに
泊まったのだろうか?
脇本陣兼問屋だった花村屋の跡地には公民館が建ち、その前に最近造ったと思われる石碑があった (右写真)
このように静かな本山であるが、日祭日に観光客が殺到する場所がある。
といっても、古い建物や史跡ではない。 実は、蕎麦が目当てなのである。
「そばきり発祥の地」は、本山宿だ!!といわれる。
そばきりとは、現在のざるそばのことであり、そば切りが誕生する以前のそばの食べ方は、お湯で練って食べる「そばがき」
か、お団子だったというから、当時では画期的な料理法の登場だったのである。
本山宿では、説の根拠に、彦根藩井伊候の家臣森川許六を揚げている。
(注)そばきり発祥の地については、山梨県だという説や木曽の須原宿という説などあってどれが正しいのか分からないようである。
一番古いかどうかは別として、本山宿のそばの歴史が古いことは間違いないだろう。
話が少しそれたが、店の名は「本山そばの里」( 0263-54-6371 )という (右写真)
今から十年くらい前、蕎麦打ちの昔の技術を伝えて保存しようと地元のソバ打ち名人が集まり、「本山そば振興会」を結成し、店を開いた。
そのような背景があるので、今ブームになっているお店に、客が殺到するのは分かる。
実際食べてみて美味かった。
関連情報: たべもの談義『ラーメンとソバ』
平成16年11月