長久保宿は、下諏訪宿と岩村田宿とのほぼ中間点に位置し、笠取峠と和田峠の間にあったので、最盛期には四十三軒もの旅籠があったという。
寛永八年の依田川の氾濫により、真っ直ぐ伸びていた街道を付け替えたので、宿場の真ん中で丁字路になっていて、横町と竪町に分かれていた。
平成十六年は和田宿まで行った後、雪が降ったので、家人に旅に行くのを反対され、越年
そのままずるずると時間が流れ、気か付くと六月になっていた。 平成十七年六月三十日、
旅を再開。 今回は車できたが、途中、前回見落したところに寄ってからきたので、
出発は十二時を廻っていたので、とりあえず長久保宿へ向う。
和田宿は正徳三年(1713)に下町の先の迫川筋にある橋場と新田を宿場に組み入れている。
この時期になると、街道の往来が激しくなったので、加宿したわけである。
橋場集落に入ると、現在も古そうな家が数軒残っていた。 少し歩くと、左側に中学、そして
鳥居、その向こうが小学校である。 建っていた鳥居は和田神社である (右写真)
和田神社はもとは大宮社といい古い神社だが、ここから二百メートル程多くにあるので寄らず
に先を急ぐ。 すこし歩くと、「是より和田宿」と刻まれた大きな石碑と和田宿の歴史を紹介
した案内板があるが、和田宿はここで終りである。 旧中山道もここで途切れ、国道142号に
合流してしまった。 しかし、少し歩くと、左に入る道があったので、その道に入っていった。
以前歩いた人が国道を歩いたという記述があったが、バイパスができるまではこの道が国道
だったのだろう。 歩道区分もない道だが、通行する車は少ないので安心して歩けた。 両脇は田畑である。
やがて右側にうっそうとした森が見えてきた。 手前の右側に、一里塚跡の石柱が建っていた (右写真)
江戸より四十九里と書かれていて、芹沢一里塚の跡である。
森までくると、鳥居があり、社殿があった。 入って行くと、若宮八幡神社だった。
拝殿の奥に鞘堂があり、覗き込むと本殿があった (右写真)
説明によると、「 本殿は、一間流れ造で、間口1.5メートル、奥行1.7メートルの大きさで棟札には
享保六年(1721)建立とある。 正面と脇面に廻り縁をつけ、隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、
脇障子には、輪違文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。」と、傍らの説明にはあった。
祭神は、仁徳天皇である。
薄暗く少し不気味な感じである。
神社の左側に、大井信貞親子の供養塔があった (右写真)
「 天文二十三年(1555)、和田城主大井信定が武田信玄と矢ヶ崎で合戦し、信定父子と一族郎党全てが戦死し、父子の首級はここに埋葬された。
元禄六年(1693)、信定寺の六世来安察伝和尚が、その回向のため当境内に墓碑を建立した。 」 と、説明にある。
信定寺や八幡神社を見ると、大井信定の信濃の勢力が大きかったのだろうなあ、と思われた。
その先で再び国道に合流。 少し歩くと両脇に立派な家が並んで建っている集落が見えてきた。
下和田上組集落であるが、一軒の家の大きさがこれまで見てきた集落より大きい気がした。 右の写真の家は、かっては藁葺きか茅葺きだったのだろうが、現在はトタンか銅で覆せている。 家が大きい上に、庭木が大きい。 しかも、数メートルもある樹木を筒状などに見事に刈り込んでいた。
このような家が何軒もあった。 田畑の面積も狭く、どうして生活しているのかと疑問に思ったが、戦前までの山林の蓄えがあったのだろうか??
左側の広場(公園?)ではゲートボールに興じる老男女達が十名ほどいたので、いくつかの質問をしようかと声をかけたが、ゲームに気がとられて気もそぞろという感じだったので、あきらめた。
集落を離れると左右は田畑だが、道の脇に、青面金剛庚申塔や石仏群が建っていた。
右側の石碑群の中に三千僧接待碑があった (右写真)
三千僧接待碑とは、諸国遍歴の僧侶への接待碑で、信定寺別院の慈眼寺境内に建立されて
いたのを寛政七年(1795)にこの地に移したものである。
「 千人の僧侶への供養接待を発願したが結願できたので、二千人増し三千人への接待を
発願した。 碑には一の字を三に改刻した痕が歴然としている。 」 と、説明にあった。
米や粟や雑穀を混ぜた粥でも当時貴重なものであったのだが、それを三千人に提供する
には考えられないほどの苦労があっただろう。
神社風造りの下和田中組バス停待合所の脇に、馬頭観世音の石碑があった (右写真)
中組集落は先程の上組集落より小さいので、すぐに終わってしまった。
道は下っているがそれほど急ではない。 振り返ると、和田峠方面の峰が見えた。 昨年の
十一月には足を引きずって登ってきたのだった。 江戸の日本橋までは二百キロを切ったが、
この後、笠取峠と碓氷峠という難所を残している。 道端で、珍しい道祖神を見つけた。
男女双体道祖神にみたてたミミズの碑である。 ミミズに感謝して祀ったもので、ミミズは良質な
土壌を生成し、解熱剤にもなった(右写真)
その先には、天王夜灯と刻まれた石碑と宝暦二年(1752)建立の西国巡礼供養塔等が建っていた。
天王夜灯というのは始めて見た。 天王主の常夜燈という意味だろうか?!
その先の青原交差点で国道142号に合流するので、この道を歩く。
このあたりは青原という地名のようである。
右手に鉄橋が見えるところまでくると、最近作られたと思われる中山道の石碑があった。
この石碑の隣に馬頭観音などの石碑群があったが、これらは国道の改修工事によって、
ここに集められたものだろうか?? (右写真)
小生が訪れた時はなかったが、東屋や水場が設けられ「水明の里」という公園になっているようである。
中山道は国道に合流するとすぐ、右の細い道に入っていく。
このあたりは大門落合で、戦前は大門村だったが、戦後、長久保村と合併し、長門町に
なったが、今回の合併で長和町大門落合に変る。
民家の間を歩き、依田川を渡り、大門川を渡ると、国道152号に合流する。 (右写真)
国道152号は大門街道と呼ばれ、武田信玄が東信濃を攻略するため造ったという中の棒道
で、大門峠を越えて、蓼科や白樺湖を経由して現在は茅野に通じている。
大和橋の交差点から国道142号を歩く。 左側のオギノモーターの左の小道に入る。
三百メートル程であるが、中山道が残っている。 四泊集落を通り再び国道に出る。
小道と国道の間に「四泊落合 標高680m」の標識があり、国道に向いて四泊一里跡の案内板があった (右写真)
案内板には「昭和三十五年(1960)の道路改修まではここに榎の大木があり、里人からエノキとして親しまれていた。
」とある。
国道は走る車が多く、危険を感じる。 大型トラックの運転手も歩行者を見つけると、びっくりしたように避けながら
走り去っていく。
左手にドライブインや食堂を見ると長久保宿の入口である。
和田宿からここまで約二里の距離で、ぶらぶら歩いて二時間の行程であった。
安藤広重の木曽海道六拾九次長久保宿は、依田川、和田橋を遠景に和田宿に戻る帰り馬と犬と遊ぶ童を描いている (右写真)
町域の大半は霧ヶ峰北東麓の広大なすそ野で、千曲川の支流依田川の扇状地にわずかに水田が広がっているという土地であり、少し離れたところから見ると、長久保宿は傾斜地につくられていたことが分かる。
長久保宿の入口にあたる長久保交差点は、三叉路になっているが、やや変則で分かりづらい。 中山道は右折する国道142号で、笠取峠を越えて佐久に通じる道である。
真っ直ぐ行く道は国道152号で、丸子を経由して上田に通じている。
中山道は、三叉路を右折するとすぐに左側に入る道があり、平行して一段低いところに小
道がある。 このように道が複雑なのは、寛永八年(1631)の依田川の氾濫により、真っ直ぐ
伸びていた道を付け替えたことによる。 なお、国道をそのまま上っていくと、右手に
長安寺の大きな屋根が見える。
寺には江戸時代末期に建てられた二間半四方の土蔵造りの経蔵があり、中に八角形の輪蔵を収納している、とあるが、立ち寄らなかった。
左折した道のどちらがもとの中山道なのかわからないが、小道の方をあるいたが、すぐに右側の大きい方の道と合流した。 道改修で誕生したのが横町で、出梁造り連子格子の古ぼけた家が数軒残っていた (右写真)
江戸後期長久保宿には 四十三軒の旅籠があったとされるが、大多数が横町にあったというから、客引きなどで喧騒を極めたことだろう。
宿場の真ん中で丁字路になっていて、道を右折すれば竪町(たてまち)である。
丁字路には向き合って二軒の旅館が建っていたが、客がないのか休業しているのか、し〜んとした状態だった (右写真)
長久保宿は七町五十二間とほぼ和田宿と同じ長さであったが、宿内人口七百二十名、家数百八十七軒と下諏訪宿や岩村田宿に次ぐ大きな宿場町だった。
下諏訪宿までは約二十八キロ、追分宿へは三十二kキロの地点にあり、また、城下町の上田への街道が通じる交通の要所だったからである。
なお、道を真っ直ぐ行くと郵便局、そして上田に行ける。
右折すると竪町であるが、坂道に沿って両側に家が並んで建っていた。
釜成屋(かまなりや)という屋号をもつ竹内家は、もと造酒屋である (右写真)
竹内家は、江戸時代から昭和初期まで酒造業を営み、宿場の役職なども務めてきた。
母屋の屋根の端部には妻壁を高く突出させ、それに屋根を付けた 「 本うだつ 」 が見られる。
「 構築年代ははっきりしないが、祈祷札の古いのものが享保16年(1731)なので、それ以前に建てられたことは確かである。 」 とあり、県内最古の町屋のようである。
ここにはこの他、数軒の古い家が残っていた。
戦国末期、この地方は真田氏の支配下にあり、長久保の代官は石合氏と小林氏であった。 宿場ができると宿役人となり、石合氏が本陣と問屋場、小林氏は問屋場を務めた。
釜成屋の先にある立派な門構えの家が元本陣の石合家である (右写真)
「 石合家は江戸時代を通じて本陣をつとめた家柄で、四代目の石合十蔵道定は真田信繁(幸村)の娘と婚姻している。 現存する遺構としては御殿と表門。 御殿の構築年代は十七世紀後半の寛永年間とされ、中山道中の本陣では最古のものである。 嘉永三年(1850)の本陣絵図には上段の間、客間など二十二室の他、問屋場、代官詰所、高札場などが併置されていた。 」 と、案内板にあった。
非公開なので中には入れないが、戸が開いていたので覗くとかなり広い敷地であることが分かった。
右側には、長久保歴史資料館・一福処濱屋(いっぷくどころはまや)があった。
明治初期に旅籠として出梁造りの総二階の建物が建られたが、中山道の交通量が減ったために開業にはいたらなかったようである (右写真)
(午前9時から午後5時、無料、毎週月曜日休館)
坂がきつくなってきたが家並みは続いていた。
右に行く道はあるが、宿場特有の鉤型(かぎがた)は設けられなかったようである。
上っていくと、左側に松尾神社の鳥居があった (右写真)
京都の酒造神松尾神社を勧請したものだといわれている。
本殿は三代目立川和四郎常重の作で、万延元年(1860)に再々建されたもので、総檜造りで、欄間には見事な彫刻がしてある。
もとは小学校の敷地にあったが、校庭の拡張で昭和三十二年にここに移された、とあった。
宿場はここで終わりなので、別の道を下り、長門町役場へ行き、日帰り温泉について尋ねた。
ここから少し遠いが、上田に向かう国道沿いの道の駅の一角に日帰り温泉はあるというので行ってみた。
長門温泉までは想像していた以上に遠かったが、汗が流せて食事も済ますことができたのでよかった。
温泉の詳細は、温泉めぐり・長野県/
長門温泉やすらぎの湯をご覧ください。
この後、バスで和田まで戻り、駐車した車に乗り、諏訪市に行って泊まった。
今日は名古屋から車で来て、途中ところどころで寄ったので、和田宿に入るのが遅かった
こともあり、長久保宿で終わった。
平成17年6月